蒲生氏郷

Last-modified: 2010-04-17 (土) 10:25:04

浅井家先陣。侍武将。
工場長

武将列伝

蒲生 氏郷(がもう うじさと、 弘治2年(1556年) - 文禄4年2月7日(1595年3月17日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。

蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(ますひで)または教秀(のりひで)。またキリシタン大名で洗礼名はレオン(或いはレオ)。子に蒲生秀行。このほか長男蒲生氏俊がいるが、廃嫡したとされる。

幼少時

蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。近江蒲生郡日野に六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれる。幼名は鶴千代と名付けられた。

永禄11年(1568年)、主家の六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、父・賢秀は織田氏に臣従した。このとき、人質として岐阜の信長のもとに送られた。

織田家臣時代

信長は氏郷の才を見抜いたとされ、娘の冬姫と結婚させた。信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀と名乗り(信長の官職である「弾正忠(だんじょうちゅう)」から1字を与えられたとの説がある。なお、本項では一部を除いて氏郷に統一する)、織田氏の一門として手厚く迎えられた。

武勇にも優れ、永禄11年(1568年)の北畠具教・具房との戦いにて初陣を飾ると、永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻めや元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正元年(1573年)の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦いなどに従軍して、武功を挙げている。天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により横死すると、安土城にいた信長の妻子を保護し、父とともに居城・日野城(中野城)へ走って明智光秀に対して対抗姿勢を示した。光秀は明智光春、武田元明、京極高次らに近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈だったが、直前に敗死した。

豊臣家臣時代

その後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えた。清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ秀吉に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀州征伐(第二次太田城の戦い)、天正15年(1587年)の九州征伐や1590年の小田原征伐などに従軍する。また天正13年(1586年)には従四位下侍従に任じられる。その間、天正16年(1588年)には飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城。松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。同年4月15日、正四位下左近衛少将に任じられる。

一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。なお、松ヶ島時代(天正13年(1585年)頃)に賦秀から氏郷と名乗りを改めているが、これは当時の実力者だった羽柴“秀”吉の名乗りの一字を下に置く「賦秀」という名が不遜であろうという気配りからであった。一方、天正15年(1587年)7月には、秀吉から「羽柴」の姓を賜っている。

会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。7層の天守閣(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ鶴ヶ城と名付けられた。また、築城と同時に城下町の開発も実施した。具体的には、旧領の日野・松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。

以降は、会津の旧領主である伊達政宗と度々対立しながらも、天正19年(1591年)の大崎・葛西一揆(なお、この際秀吉に対し「政宗が一揆を扇動している」との告発を行っている)、九戸政実の乱を制圧。同年12月、従三位参議に任じられた。

翌文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋へと出陣している。この陣中にて体調を崩し、文禄4年(1595年)2月7日、京都の伏見蒲生屋敷において死去。享年40。

蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された(会津には上杉景勝が入った)。

人物・逸話

家臣を大切にし、また茶湯にも興味を示して利休七哲の一人(筆頭)にまで数えられており(千利休の死後、その子息少庵は氏郷の許で蟄居している)、諸大名からの人望が厚く、風流の利発人と評される。


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