細川藤孝

Last-modified: 2010-04-17 (土) 10:37:45

完璧超人

構成

名前種類レベル初期付与使用技
細川藤孝刀陰陽師65名家の誇り?蘇生・壱?将軍の威光?狂風?迅雷?狂風・弐?迅雷・弐?術法剣?全体麻痺?
有吉立言鉄砲鍛冶屋60蘇生・壱?
鞍馬山伏薬師60再生蘇生・壱?
将軍家兵法者懐剣侍60蘇生・壱?、n連撃・改
八坂巫女精鋭懐剣巫女60反射詠唱の韻・極?
水破中忍懐剣忍者60
等持院僧兵60結界

ドロップアイテム

  • 歌仙兼定?
  • 剣総覆輪阿古陀兜?

特徴

  • 名家の誇り? 自身に結界+詠唱付与・極
  • 将軍の威光? 敵全体にレジスト可能な痺れ。

武将列伝

細川 幽斎 / 細川 藤孝(ほそかわ ゆうさい / - ふじたか、天文3年4月22日(1534年6月3日)- 慶長15年8月20日(1610年10月6日))は、戦国武将、歌人である。幽斎玄旨と号す。足利将軍家の連枝三淵氏の生まれ。奉公衆三淵晴員の次男で、母は著名な儒学・国学者清原宣賢の娘・智慶院。晴員の兄の和泉守護細川元常の養子となったとされる。

初め13代将軍足利義輝に仕え、その死後は15代将軍足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い丹後宮津11万石の大名となる。後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世細川氏の祖となった。

また、藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け近世歌学を大成させた文化人でもあった。後に、正統伝承者である三条西公国(実枝の子)、その子三条西実条に返し伝授をする。

幕臣時代

天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員の次男として京都東山に生まれる。天文9年(1540年)、7歳で伯父である和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄)の養子となったとされる[1]。しかし、近江佐々木氏の一門出身で将軍近臣であった細川高久や、淡路守護家細川晴広が養父であった可能性も指摘されている。

天文15年(1546年)、将軍足利義藤(後の義輝)から「藤」字の偏諱を受け、藤孝を名乗る。天文21年(1552年)、従五位下兵部大輔に叙任され、天文23年(1554年)、養父元常の死去により家督を相続した。

幕臣として将軍義輝に仕えるが、永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆や松永久秀に暗殺されると、幽閉された義輝の弟である一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)を兄三淵藤英らとともに救出し、近江の六角義賢、若狭の武田義統、越前の朝倉義景らを頼って義昭の将軍任官に奔走した。その後、朝倉氏に仕えていた明智光秀を通じて尾張の織田信長に助力を求めることとなる。

織田信長時代

永禄11年(1568年)9月、藤孝は義昭を奉じて織田信長が入京するのに従い、さらに山城国勝竜寺城(青竜寺城)を三好三人衆の岩成友通から奪還し、以後大和(筒井城の戦い)や摂津を転戦した。

義昭と信長の対立が表面化すると、元亀4年(1573年)3月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。このとき、兄藤英は義昭側についた。義昭が追放された後の7月に山城国桂川の西、長岡一帯(現長岡京市、向日市付近)を与えられ、以後、長岡姓を称する。8月には池田勝正とともに岩成友通を山城国淀城(第二次淀古城の戦い)の戦いで滅ぼすという功績を挙げ、以後信長の武将として畿内各地を転戦した。石山合戦(高屋城の戦い)、紀伊紀州征伐のほか、山陰方面軍総大将の明智光秀の与力として活躍した(黒井城の戦い)。天正5年(1577年)、信長に反旗を翻した松永久秀の籠る大和国信貴山城を光秀とともに落として(信貴山城の戦い)功績を挙げた。

天正6年(1578年)、信長のすすめによって嫡男忠興と光秀の娘・玉(細川ガラシャ)の婚儀がなる。山陰道進攻軍総大将の明智光秀の与力として天正8年(1580年)に細川家単独で丹後に進攻するも守護一色氏に反撃され失敗。のちに光秀の加勢によってようやく丹後南半国を平定し、信長から丹後南半国の領有を認められ宮津城を居城とした(北半国は旧丹後守護の一色満信の領国)。

本能寺の変以後

天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は織田の山陰道平定軍の上司であり、親戚でもある光秀の再三の要請を断り、剃髪し幽斎玄旨と号して田辺城に隠居し、忠興に家督を譲った。

この後も、光秀を討った羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用され、天正14年(1586年)に在京料として山城西ヶ岡に3000石を与えられた。天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)の九州征伐にも武将として参加した。また、梅北一揆の際には上使として薩摩に赴き、島津家蔵入地の改革を行っている(薩摩御仕置)。この功により、文禄4年(1595年)には大隅に3000石を加増された(のち越前府中に移封)。

幽斎は千利休らとともに秀吉側近の文化人として寵遇された。忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。一方、徳川家康とも親交があり、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると家康に接近した。

幽斎が籠った丹後田辺城(舞鶴城)慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津(上杉景勝)征伐に軍勢を引きつれて参加し、幽斎は500に満たない手勢で丹後田辺城を守る。7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興夫人・ガラシャは包囲された屋敷に火を放って自殺した。田辺城は小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されたが、幽斎が指揮する籠城軍の抵抗は激しく、また攻囲軍の中に幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲が乏しかったこともあり長期戦となった(田辺城の戦い)。幽斎の歌道の弟子である八条宮智仁親王は7月、8月の二度にわたって講和を働きかけたが、幽斎はこれを謝絶して籠城戦を継続。使者を通じて古今集証明状を八条宮に贈り、源氏抄と二十一代和歌集を朝廷に献上した。ついに八条宮が兄・後陽成天皇に奏請したことにより三条西実条、中院通勝、烏丸光広が勅使として田辺城に下され、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入った。

忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前小倉藩39万9000石の大封を得たが、幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれている。慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。 

幽斎の所領6000石やそのほかの資産は死後に整理され、次男の細川興元の茂木藩一万石立藩の足しとして、あるいは慶長9年(1604年)に父忠興から廃嫡された幽斎孫の長岡休無(細川忠隆)への細川家からの京都隠居料(三千石)として、受け継がれた。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』