雑賀孫市

Last-modified: 2007-01-24 (水) 17:42:46

雑賀衆武将

構成

名前Lv初期付与使用技
雑賀 孫市70飛翔八咫烏、飛鳥三連、N段撃ち、一喝・参、破鎧撃ち・弐、武運長久、陽動、仕掛け鎧・弐
蓮上院弁仙65
雑賀流精鋭65
雑賀陰陽精鋭65
熊野軍楽長65
熊野海賊頭65
高野山大山伏65

戦闘メモ

倒すのは現状ではほぼ不可能といわれている。(飛龍前の情報より)

ドロップアイテム

  • 八咫烏三連銃?

列伝

鈴木重秀が本名。なお、孫市は鈴木重兼(重秀の兄)の通称であり、こちらは本来は孫一が正しいという説もある(逆説もあり、このあたりは非常にあいまいである。同社からでている蒼天録武将ファイルでは孫一が正しいと言い切っている)。言継卿記?に雑賀の孫一として登場する。出生は1546年ごろのようであるがはっきりとはしない。

鈴木重意(左太夫)の末子とされているが、鈴木重意自体が存在していない人物であるという説もあり、実際のところはっきりとはしない。

紀伊国はもともと畠山氏の領国であるが、?のように自治を敷き、大名家に従わない地域が各所に存在していた。雑賀もそのひとつであり、ルイスフロイスは「大いなる共和国」と記している。

雑賀に存在する5つの共同体のうち、2つは種子島を通して明と通商をしていたといわれており、そのため水軍の特徴を持っていた。そのうちのひとつの頭目であったようである。

その5つの自治体はいずれも大量の鉄砲を保有していたといわれ、傭兵集団としての色ももっていた。信長と敵対した本願寺家は雑賀に救援を幾度も要請、これに対し1000単位の鉄砲隊で応えていた。長篠?の戦で織田徳川連合がそろえた鉄砲が3000挺といわれているので、相当な量である。彼はその指揮官であった。

1576年の毛利水軍の大阪湾突入には雑賀水軍を率いて織田水軍を壊滅に追い込む戦果を挙げる。

信長は雑賀征伐に2度の大軍を送るも、鉄砲隊の前に敗北。ついに雑賀を陥落させることはできなかった。雑賀鉄砲隊の強さの秘密は鉄砲を2陣に分けた交互射撃であり、これは長篠の戦で有名な鉄砲3段とほぼ同じ戦法である。なお、雑賀衆が初めて織田と対峙したのは1570年とされており、長篠の戦よりも前である。

このように傭兵として多大な戦果をあげていた雑賀衆も、1580年の本願寺の実質的な降伏によって立場が変わっていく。このころから彼は信長に接近、その後ろ盾を得る。敵対していた土橋平次を暗殺するなど、雑賀全域を支配しようとするも、その折に信長が本能寺で亡くなってしまう。そして彼は反対勢力から追われて雑賀を去ることになる。

その後は秀吉に仕えたようであるが、1585年を最後に記録は途絶え、いつ、どこで、どのように死んだかもわかっていない。

彼の名前は、雑賀の孫一という鉄砲名人として伝わっており、人気も高い。しかしその著名さとは裏腹に、出生なども不明であり、鈴木という姓すらも実際は平井という説すら存在する。なぞの多い人物であり、実像はまだ霧の中である。