SSR武田信玄

Last-modified: 2017-11-15 (水) 19:58:11

SSR武田信玄(たけだ しんげん)詳細データ

nolink言語English日本語
初期データ副将0(初期値/~100Lv極)副1234
コスト6066(SSR,cost60,3500,+0.1(+0.15)の副将時)
兵卒数350038504000
攻撃/~2330
防御/~2070
知力/~2500
機動力+0.10+0.12+0.14+0.16+0.18
(+0.13)(+0.16)(+0.19)(+0.22)
適正槍A,馬S,弓A,工A
所持スキルLv.1
Lv.
運用方法
プロフィール織田とは信長の娘が勝頼の妻になるなど同盟関係ができていたが、15代将軍・足利義昭の上洛要請に応じて徳川領の遠江・三河に侵攻を始めたので、織田との関係も手切れになった。しかし間もなく信玄は病死してしまう。信玄は勝頼を当主にしたかったが、親戚等の反対にあって当主代行という中途半端な立場にしか後継者を擁立できなかった。信玄は自分の死を隠すように遺言するが、同じ年に最前線の長篠城城主の奥平信昌が、信長の提案により徳川が婚姻関係を持ちかけて徳川方に寝返ったため、激怒した勝頼は高天神城を落とし、長篠に攻め入るがまさかの大敗してしまい、山県昌景など重臣の多くを失う。その後静岡県の海岸沿いの田中城では徳川を足止めできたものの、織田によって恵那市の美濃岩村城が落とされ、木曽谷で信玄の娘婿で勝頼の妹の夫だった木曾氏に離反され、勝頼はそれに対して木曾征伐を行ったが、信州側の交通要衝が攻略されたことで人質処刑の見せしめはしたが離反者が後を立たなくなり、一年も経たないうちに一気に武田は衰退して滅亡した。しかし江戸時代の5代将軍・徳川綱吉の側用人の柳沢吉保は武田家の旧臣の子孫だったため、武田家を復興させた。結局信玄の長男義信の(僧侶になった)同母弟の子孫が武田宗家と認められることになった。