【森田和郎】

Last-modified: 2022-04-20 (水) 07:04:48

概要

ゲームクリエイター。名前は「かずろう」と読む。
【エニックス】が優秀なゲーム作家を集めるために昭和57年に開催した「第1回ゲームホビープログラムコンテスト」においては、そのゲーム制作スキルにおいて、当時は同じ応募者であったDQスタッフたちよりも高い評価を得た。

  • 最優秀プログラム賞「森田のバトルフィールド」(森田和郎)
  • 優秀プログラム賞「ドアドア」(【中村光一】
  • 入選プログラム賞「ラブマッチテニス」(【堀井雄二】

【ドラゴンクエストへの道】にも描かれたこのコンテストの表彰式では、トロフィを抱えた森田の姿とともに次のように紹介されている。

パソコンゲームファンならその名をよく、知っていることだろう
その後「森田和郎の将棋」等たくさんのゲームを世に出し
『思考ゲームの森田』として独自のゲームを開発している森田和郎その人である。

堀井・中村・そして【千田幸信】の初顔合わせとなる記念すべきこの表彰式では、中村が「実は最優秀賞を狙っていた」と少しガッカリするシーンも印象深い。
 
さらに、【すぎやまこういち】がDQスタッフに加入するきっかけになったのは、すぎやまがパソコン版『森田和郎の将棋』の指し手に疑問を持ち、アンケート葉書をエニックスに送ったことからだった(より正確には、すぎやまは投函せずにそのままにしていたのを、夫人が代わりに投函したためにエニックスに無事届いた)。
DQシリーズに直接関わってはいないものの、上述のように何かとDQスタッフに縁の深い人物である。
 
森田は賞金と、『森田のバトルフィールド』で手にした売上の印税500万を元手に、ランダムハウスを設立した。そしてエニックスの注文を受け、ナムコのシューティングゲーム『ゼビウス』を模倣した『アルフォス』をPC-8801(日本電気の8ビットパソコン)向けに開発。ハードウェアスクロールやスプライト機能の無い同機種で、シューティングゲームの激しい動きを再現したことは、当時としては驚異的な技術だった(なお『アルフォス』はナムコの許諾を得ている)。
 
ファミコンでも1987年、セタより『森田将棋』が発売された。
当時のコンピュータ将棋としては群を抜いた強さで知られたこのソフトは、DQ3や初代『ファイナルファンタジー』に先駆け、ファミコン初のバッテリーバックアップを搭載している。
エニックスとも縁が切れたわけではなく、『ダンジョンランド』や『ジャストブリード』などを開発した。『森田将棋』シリーズも、PC-9801版は引き続きエニックスから発売された。
『ダンジョンランド』はエニックスのGB初参入作品(1992年12月15日発売)であり、主人公が勇者・「まおうをたおそう」「ひめをすくえ」というクエストが用意されているなど、DQを意識した内容になっている。キャラクターデザインは桜玉吉。なお、姫を救うとライバルに寝取られるという、ある意味時代を先取りしたオチが付いている。
鶏料理が苦手だったようで、『ジャストブリード』においてキャラクターの1人・ハンスが「鶏料理が苦手だったおかげで、敵の罠(しびれ薬入りの鶏料理を食べさせられる)を逃れる」というシーンの元になった。
晩年はランダムハウスを解散し、版権を継承した悠紀エンタープライズに自らも転籍した。
 
森田は2012年7月27日死去。享年57。
なお、コンピュータが将棋で人間のプロに勝つことは夢のまた夢といわれていたが、この翌年3~4月に行われた「電王戦」というプロ棋士とコンピュータの団体戦において、それが現実の物となるのであった。
しかし、森田の訃報の第一報は『週刊将棋』2013年6月5日号の、6月1日にTwitterで行われた速報(発売日基準では、『将棋世界』2013年7月号の6月3日が第一報)であり、死後1年近く放置されたことになる。
恐らく「電王戦」の結果を承けて『週刊将棋』が取材が入ったことで、初めて亡くなったことが判明したのであり、当時の悠紀エンタープライズの状況をうかがい知ることができる。また『将棋世界』では、将棋ソフト関係者による追悼座談会が掲載された。それによると、晩年は体調を崩して歩行困難になり、腕を骨折するなど満身創痍だったが、片手でプログラム制作を続けていたという。
その後、悠紀エンタープライズは2016年11月24日に解散した。