ここはもと後鳥羽上皇御造営の水無瀬離宮のあった所で、淀川右岸にあり、上皇は京の都から舟で下られ、
たびたびお越しになったことは『増鏡』などの書物にくわしく記されています。
この離宮では管弦の催し、歌の会、狩りや刀剣の鍛作なども行われ、
奥山の おどろが下も ふみわけて 道ある世ぞと 人に知らせむ
との御歌にみられるように、早くから上皇は鎌倉幕府執権北条氏の専横を憤り、
遂に承久三年(一二二一)五月、倒幕の兵を挙げられましたが、関東の大軍に敗れ、
その結果、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳天皇は佐渡に、土御門上皇は土佐(後に阿波)に遷御になり、
遂に都に御帰還ならす、いずれも遠隔の地で崩御になりました。
後鳥羽上皇は崩御の十四日前に御手掌を押した御置文を、水無瀬離宮を管理していた水無瀬信成、
親成父子に下し賜い、後生を弔うよう仰せ下されましたので、上皇崩御の後、
隠岐へご出発直前に藤原信実を召して描かしめられた上皇の御影を拝領して、
離宮の地に御堂を建ててその御菩提を弔ったのが水無瀬御影堂であり、その後八百年、
朝廷や武将の尊崇を受けつつ御慰霊の行事が続けられてきましたが、明治六年神社に御制定、
官幣中社に列せられ水無瀬宮と称し、同時に土御門、順徳両天皇の御霊も共に祀られることになりました。
明治十四年、後鳥羽天皇七百年式年に当り官幣大社に昇格、神宮号を賜わりました。
戦後は社格が廃されましたが、大阪府に於いては唯一の神宮であります。
後鳥羽上皇は御生前、多芸多能であらせられ、文武両道にすぐれた御才能を発揮されましたが、
特に和歌では歌聖と仰がれ、新古今集時代の中心であられた。
ために、文学、学問、スポーツの神として、
また後世御神威によって安産、盗難除の神として崇められています。
また、菊花を好まれ、御調度品のほか刀剣にも菊花を刻まれたほどで、
その御霊に捧げられた供花の流れを汲んで、華道洗心流が興され、
現在、神宮に廿の華元どして各地に社中があり、毎年献花展が催されます。
近くに水無瀬川、水無瀬の滝などがあり、地下水に恵まれ、
境内の「離宮の水」は名水百選の一つに指定されています。
大阪と京都の府境までそう遠くない島本町北東部に鎮座します。
離宮八幡宮から西国街道経由で向かったので、途中は隘路を通ることになりました。
上述の離宮八幡宮のほか、桜井駅跡や妙喜庵、大山崎山荘美術館、山崎蒸留所など
見所が付近に点在しているので、歩いてじっくり散歩すると楽しそうです。
後鳥羽天皇の水無瀬離宮の跡地に建てられた神社です。水無瀬離宮と小倉百人一首と深い関係があります。
藤原定家が選定した小倉百人一首を縦十種・横十種の正方形の枡目に並べると、
隣り合う歌同士が「合わせ言葉」になっています。例えるなら、シグソーパズルのピースでしょうか。
それを並べると、水無瀬絵図が浮かび上がります。こんな秘密が隠されていたなんて知りませんでした。
定家は引き立ててもらった恩人の後鳥羽院を思い、密かに選定したのでないかと云われています。
上皇は承久の乱で隠岐に流され崩御し、離宮は荒廃しますが、
1240年(仁治元年)に藤原信成・親成親子が上皇の遺徳を偲び、御影堂を建立したのが当社の始まりです。
現在は桃山時代の神門や客殿、京都御所から寛永年間に移築した本殿など貴重な建築物が多く遺ります。
「離宮の水」が環境省選定の「日本名水百選」に選定されています。大阪府では唯一です。
ポリタンク片手に次々と水汲みに参拝者が訪れていました。たまに順番待ちになっていました。