宇太水分神社

Last-modified: 2013-09-08 (日) 11:51:17
 

宇太水分神社
うだみくまりじんじゃ
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(参拝日:平成25年4月28日)
住所:奈良県宇陀市菟田野古市場244-3mapionlogo.gif
主祭神:天水分神、速秋津比古神、国水分神
社格:式内大社、郷社
主な祭礼:10月第3日曜日(例大祭)
webサイト:宇太水分神社

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↑鳥居↑
(由緒:パンフレットより)
宇太水分神社は、昔から近隣の人々より「水分さん」と親しみをもって呼ばれ、崇敬されてきました。

御祭神は『古事記』に見える速秋津彦命様を首座として、その御子神であられる天水分神様、国水分神様を
お祀り申し上げております。この三柱の神様は、ともに美しい水を分配される御神徳を、お持ちになられております。

もとより、水は命の源であり、また万物の形成に無くてはならないものであります。
湿潤な日本においても水は生死を分けるものであった時代があり、農林漁業や産業などあらゆることに、
欠かせないものであることは、今も昔も変わりません。

また今日ほど水に対しての関心が高まっている時代は無く、水環境問題から水の利権問題にまで及んで、
フォーラムなどで活発な議論がなされております。それもそのはず、人体の大部分が水なのですから。

さて、当社は第十代崇仁天皇の七年二月に、勅命によりお祀りされました。
また、大和朝廷が飛鳥に置かれた頃に、東西南北にお祀りされた水分神の東に当たるのが当社であります。

さらに、我が国最初の女帝、第三十三代推古天皇が薬狩を遊ばした時に心身を清められた、との伝説がある
「薬の井」(御神水)が第一殿裏にあり、古代史ロマンをかきたてくれます。瑞垣前に導水しております。

人々は悠久の昔より水に精霊を認めてまいりました。
前方を芳野川が流れていて、当社の付近で四郷川と合流しています。
このような地勢に、我々の祖先は、神様のお力の集りを感得したのでしょう。

それは、平安朝前期の聖上、第六十代醍醐天皇の御代には、大和四水分は大社に列せられ、祈年祭、新嘗祭、月次祭の
案上の官幣に預かり、『延喜式』において祈念雨神祭の八十五座の一座に列せられたことを似て、
ピークに達したと思われます。

この一件に限らず、平安時代には当社に対する朝廷の崇敬が篤かったことが記録から解ります。
それは旱天で京中の水が枯渇するなど、旱魃が相次いだ世であったことを知れば、納得できます。
ところが、武士の世に入った中世以降は、神位についての事柄は見られなくなります。

しかし、源頼朝公が幼少時に当社に詣で、大将軍になれるかを占うために、植えさせたと伝えられる、
頼朝杉が参道右側にあります。

「水分の神の誓を植えおきつ 後に栄えの老杉を見む」と詠じたと伝えられていおり、
建久三年(一一九二)征夷大将軍となり鎌倉幕府を開き、報賽のため社殿を造営、遥かに年を経て焼失し、
基壇のみ当時の姿を残し、往古の昔を偲ばせてくれます。なお、今の杉は二代目と伝えられております。

また、当地はかつて「宇太の西殿の荘」と呼ばれ、春日社と興福寺の荘園でありました。
摂社春日神社は、その縁で室町時代に春日社より勧請されたお社です。
その頃は市が立ち、大変な賑わいを見せたとされております。
しかし、市が移ったことにより、いつのほどにか西殿荘が古市場と呼ばれるようになりました。

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↑本殿↑
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↑春日神社↑
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↑夫婦杉↑
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↑湧水↑

(以下、余談)
大和から伊勢へ抜ける街道が続く山間いの盆地に鎮座します。
周辺は菟田野町の中心部で集落が並んでいますが、少し離れると民家が数少ない山道になります。

大和の東西南北に配された大和四水分神の一社で、他の三社は、葛木水分神社、吉野水分神社、都祁水分神社です。
大和の宇陀に東西の社殿を構え、当社を本社として、下井足(下社)と芳野(上社)を摂社としたとされています。

三棟の本殿は棟木に元応2年(1320年)の墨書があり国宝に指定されています。
左右の春日社と宗像社本殿はそれぞれ重要文化財指定です。
2003年の社殿の塗り替えの時に、往時の色彩を復元しました。朱塗りの春日造の本殿は春日大社?のようです。

700年前の木造の建物が残るという貴重な風景を後世まで残していきたいものですね。