応仁の乱

Last-modified: 2009-11-18 (水) 10:16:30

応仁の乱
時代は室町時代八代将軍足利義政の時代となります
この義政がまたどーしょーもない将軍だったために世の中は戦国へと突入することになります

そしてこの応仁の乱が日本を大きく変える戦いとなっちゃうのです

そもそもの発端は義政が将軍をさっさかやめてわびさびワールドに入りたかったコトが原因
正妻は日野富子という女性ですが、産んだ男児が死んでしまいました
生まれた息子にさっさと将軍職を譲りたかった義政はがっかり

早く風流三昧の生活がしたくて仕方なかった義政

まだ30歳だというのに「いつまでたっても男児が生まれないし、この際、弟の義視に将軍譲っちゃおうかな・・・」と考え始めていました

この時、富子はまだ25才

これからでも男児を産むチャンスはいくらでもあるっていうのに、義政は「もし生まれたとしても、その子が成人するにはまだまだ時間がかかるよなぁ。ワシ、そんなに政治やりたくないよ」と思っていたのです

弟の義視は母親が違う2才年下の弟で、4歳の時にお寺に入れられていました
義政は富子に内緒で、弟の義視のもとに「将軍にならない?」と使者を出したのです

話しを聞いた義視はビックリ

「だって義政はまだ30歳じゃん!これは何かの罠か?」と疑いまくりでした

義視は「将軍職など、私には縁遠いものでございます。ご遠慮させていただきます」と返事をしました
ですが義政は諦めず、義視が驚くくらいしつこくお誘い

義視の方が面食らってしまい「だって義政殿には富子殿もおられるであろう?そのうち男児が産まれるであろうから、それまでお待ち下さい」と言ったんだけど義政は「大丈夫じゃ!ワシに男児が生まれても絶対将軍にしないから!寺に入れるから!」と言ったのです

ここまで言われた義視

義視が調べると、どうやら義政のバックには細川勝元がついてることがわかりました。
細川勝元は日野勝光が富子の力をバックに偉そうにしているのが気にいらなかったのです

「あの義政が気まぐれでやってることなら危ないけど、細川勝元がついてるなら大丈夫かな。それじゃあ・・・」ということで、義政の誘いにOKしたのです

「義政が将軍職を弟の義視に譲った」というニュースを事後報告された富子

「はぁ!?なんですってぇー!何の相談もせずにあのバカ!」状態でした

さらに万が一富子に男児が生まれたら、その子供を仏門に入れると約束した・・・ということまで聞いて、富子は大激怒!

そんな中、富子が妊娠したということがわかったのです。

富子は義政に「こんな大事な事を勝手に決めるなんて!何考えてんのよ!もし、今おなかの中にいる子が男だったら、悪いけどアンタの弟を将軍にさせないからねっ!」と義政にブーブー文句を言ったのでした

が、将軍を譲るって話はどんどん進み、次期将軍となるべく弟の義視が27歳にして元服式を行いました

そして義視の後見人として細川勝元が選ばれました。

その3日後、富子がとうとう男児を出産したのです!!

それを聞いた義政は大喜び♪
「やっと男の子が産まれたぁ!」と喜びの色を隠せませんでした
将軍と御台所(正室)との間に生まれた、由緒正しき血筋の男児である義尚(よしひさ)
ですが次期将軍は弟の義視に決まってしまっている

さらに産まれた由緒正しいその男児は、寺に入れると約束してしまっている・・・・
将軍家に怪しい空気が流れ出すのです

義視の後見人となった細川勝元ですが、もう一人の実力者・山名宗全とめちゃくちゃ仲が悪かった

ってことで富子が考えたのが「義視の後見人が細川勝元であれば、勝元に対抗できるほどの実力のある人は、山名宗全しかいないだろう!」と、宗全に義尚の後見人になってくれるよう頼んだのです

勝元が大嫌いな宗全は二つ返事でOKしました

こうして次期将軍義視には管領 細川勝元がなり、義尚には実力者 山名宗全が後見人となったのです

そして将軍家では、二大派閥は対立しまくることとなったのです

そこに頼りない将軍義政が適当で無責任な裁決をするもんだから、争いの種はますます広がっていくのでした

さらに義政は「やっぱ自分の子が一番可愛いよな」と、絶対息子を将軍にさせない!と誓って、義視を迎え入れたというのに、その約束をどうにか撤回できないもんか?と考え出したのです

そこに側近の伊勢貞親が「義視が早く将軍になりたいからって義政殿をどーにかしてやろうと考えてるそうですヨ」と諫言してきました。

これはラッキーとばかり、義政は義視を捕らえようとしました
危険を察知した義視は、後見人である細川勝元の所に逃げ込みました

が、勝元は「義政はすでに義視を将軍にさせるつもりはないのだなぁ。義視の味方をしてるとワシは損なんじゃないか?」と思うように
そう読んだ勝元は、後見人でありながら義視を追放させるべく動き出したのです

勝元が自分を追放しようとしている!と、感じた義視は、仕方なく伊勢へ逃げ込みました

無理やり寺から「将軍にしてやるから来い」と引っ張り出された義視は、義政と勝元に見捨てられてしまったのです

ところが!ここでまたもや飛び出してきたのが山名宗全

敵であったはずなのに、勝元憎さから義視に救いの手をさしのべたのです

「せっかく憎い勝元と将軍が不穏な感じになってたっつーのに、モトサヤに収まっちまったぜ!こうなったら何が何でも勝元に対抗したる!ワシの意地じゃ!」

と、宗全は義尚の後見人でありながら、義視を助け出したのです
もはや信じられない状況となっていました

かつての敵と味方が入れ替わってしまうという、とんでもない事態に発展していったのです

幕府内はあわただしくなってきました。

富子は「何か起こるんじゃないか」と義政に相談したんだけど、義政はノンキに「ダイジョブだろ?」くらいの感覚でした

が、なんと突然京都へ大量の軍が入ってきたのです
市民はビックリ!

そして勝元チームである赤松政則が、かつて自分の領地であり、現在は山名氏の領地である播磨を攻撃!

播磨の山名氏はビックリして負けてしまいました
すると今度は山名チームの大内政弘が「こしゃくなぁ!」と、京都へ軍を向かわせたのです
こうして京都は続々と兵が集まりだしたのです

宗全チームには斯波義廉・畠山義就・土岐成頼・六角高頼ら20カ国。兵の人数は9万人
勝元チームには斯波義敏・畠山政長・赤松政則・京極持清ら24カ国。兵は16万人

さらに将軍義政の弟義視も宗全チームに加わりました

宗全は西軍・勝元は東軍として京都を舞台に戦乱が始まろうとしていたのです
ちなみに、西軍の宗全が陣を構えた場所が、今の京都の西陣です

将軍義政は京都に兵が続々と集まるという異常な状況にドッキドキでした。

「先に戦を仕掛けた方を将軍の敵とするからな!」と掛け声を上げましたが、もはや宗全も勝元も将軍のことなど眼中にありませんでした

将軍や富子のいる御所は一応勝元の手に押さえられていました
宗全は将軍・富子・息子の義尚を自分側に取り込もうと、室町御所乗っ取り計画をたて始めたのです
その役として一色義直が選ばれました。
が、これは勝元に見破られ逆に一色義直は攻められてしまいました
一色義直は屋敷を焼かれ、逃げちゃいました

ここに戦国時代突入のきっかけとなった応仁の乱が幕を開けたのです

京都ではいたるところで戦乱が繰り広げられ、市内は焼き払われまくり

さらにどさくさに紛れて地方から一旗挙げようと続々と軍勢がやってきました
これらの地方武士は田舎っぷりを発揮し、強奪などをしまくったり、意味もなく火事を起こしたりと、京都はますます大変なことになっていったのです

戦はいつ終わるのかわからない状況になってきていました

この頃の京都は焼け野原となり、大事な文化財などもことごとく燃えまくってしまいました(もったいない~)

将軍義政はそんな状況がイヤになっちゃって、お酒ばっかり飲むように
世の中に起こっている事を忘れようと、酒・女にますます溺れるようになってきたのです

そんな義政にほとほと呆れた富子

「世の中は大変なことになっているっていうのに、将軍のくせに何やってるのかしら!もともとはアンタが適当な政治をやってたからこんなことになったんじゃないの!」と、2人の間は冷えまくってきたのです

この戦いはおよそ11年続きました。

いつまでたっても勝敗がつかず、田舎から出てきた守護達もだんだん自分の家が心配になってきました

というのも、戦乱は都から地方へも飛び火し、だらしない政治っぷりに農民らが立ち上がり一揆が起こるようになってきたのです

さらに守護達の家臣らが「主君がいない間に・・・」と、家を乗っ取ろうとしたりと、国元も騒がしくなってきたりしました

そのため、守護達は徐所に国へ帰りはじめたのです

また宗全&勝元もはっきりいって戦いをやめたくなってきていました

だけど、周りの人たちが納得いかーん!と休戦を反対していたため、この戦いはいつまでもダラダラと続いていくこととなったのです

そうこうしているうちに、なんと西軍総大将の山名宗全が70才の高齢だったため死んでしまいました

こうなれば細川勝元の時代じゃー!と思いきや、なんと2ヵ月後の5月11日に、勝元も44歳の若さで死んでしまったのです

世の中は蒼然としました

両軍大将が立て続けに死んでしまったのです

こうして2人の死をきっかけに、乱はうやむやとなり、地方で守護たちが着々と力を伸ばし始め、戦国時代へ突入していくこととなったのでした