いつ?
1935年(昭和10年)8月12日
どんな事件?
皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が陸軍省において、統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した事件
詳しく!
そんな時、皇道派皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭問題が起きていて、、林銑十郎陸軍大臣から辞職勧告を通告されてしまいます
それに怒った相沢三郎が台湾転任を前に陸軍省内軍務局長室で永田鉄山を刺殺してしまったのです
事件後相沢三郎の公判は二・二六事件により一時中断されましたが
翌年の1936年の5月に第1師団軍法会議による公開裁判が行われ、その年の7月に相沢三郎は死刑になります
ちなみに事件が発生する時、永田鉄山は陸軍内部がちょっと過激になりすぎてる!どうにかしなくては!
という会議を行ってました
そこには兵務課長・山田長三郎大佐と東京憲兵隊長・新見英夫大佐が一緒にいたんですが、
相沢三郎の襲撃に気づいた新見大佐は、永田鉄山をかばって相沢に斬りつけられ、重傷を負います
山田大佐はなぜかその場からいなくなってました
山田大佐の釈明は・・・
「自分の軍刀を取りに兵務課長室へ走って戻り、軍刀を持って局長室にとって返した時には局長は殺害され、相沢三郎相沢は立ち去った後だった」と言いました
が、軍内部及び世間からは「上官を見捨てて逃げ去った軍人にあるまじき卑怯な振る舞い!!」と批判され、さらには相沢三郎の仲間だったんじゃないか??噂までささやかれるように
どうやら、疾病による視野狭窄のために周りがほとんど見えない病状にあったからじゃないか?
という説があります
結局、山田大佐は事件から約2ヶ月後の10月5日に「不徳の致すところ」という遺書を残し、自宅で自決してしまいました
そしてこの事件は、半年後に起きる二・二六事件の導火線となるのです
ちょっと感想
祐筆ハガクレ・・・個人的に一番お気の毒なのは山田大佐。上司をかばわなかっただけで自殺しちゃうほど非難されちゃうなんてさー。この時代はホントすごいなぁ