大和新国の放送局(沿革)

Last-modified: 2021-09-29 (水) 19:16:13

通信業の技能からラジオ局開局へ

北都市内は5局あるのに対し、各都市には1局・2局程度である。
通信業の技能が取り込まれたことにより、警備所間の無線通信機器の開発が始まる。その後、大和国ラジオ(現:テレメディア大和)の日本からの移転を機に真空管ラジオの開発が進んでいく。

ラジオの大量生産からラジオ開局ラッシュへ

その後、大量に生産され、電気屋で大量に売られていき、1940年代には一家に一台を持つようになる。その後、次々と各地にラジオ局が開局していく(ラジオ開局ラッシュ)。その勢いはさらに増し、特許申請から認定を受けるまで1年かかるくらい多くの申請があったようである。

テレビ局の普及

その後、第二次世界大戦が終わるとテレビが普及し始めていった。それに目を付けたラジオ局がテレビ局の免許取得の申請をし、テレビ局開局までいきつけた。それを真似ようと次々とテレビ局に転換するラジオ局が増えていった。これにより、ラジオ局が減少し、大和国内に大和国ラジオ1局だけしかないという事態にに陥る。

放送局の縮小へ

これに危機を感じた三光興産(現:SANKO)が新日本連盟関係者と急遽会合を開き、メディア対策について話し合うこととなった。
その後、テレビ局に関しての法案が議決され、北都圏内に5局、それ以外は1~2局のみとした。ところが肝心のラジオ局についての討論がなされず、後のメディア改変までラジオ1局体制となってしまった。
この法案により、国内の放送局が次々統合されていった。中には外国(主に日本)からの放送の電波が入るのに良好な地域や、話し合いの際に出た「テレビ局のコンパクト化・低コスト推奨」の理由から、廃局を余儀なくされる放送局もあった。

FM局開局とテレビネットワーク形成へ

その後、ラジオ局に関する法案が議決され、国内に超短波ラジオ放送局の「HEIWA FM」が開局したが、テレビの需要が高まったことに伴い、ラジオ局新設には消極的になっていった。
一方、テレビ局はニュース、ドラマ、バラエティーなど人気番組が次々と出始め、人々の人気を博していく。その後テレビネットワークが形成されていくが、どのネットワークに加盟するかは、地方のテレビ局が決めていった。また、大和国際放送以外の北都圏内の4つのキー局と複数にわたってのネットワーク締結が可能であった。そのため、一地域のテレビ局に4つすべてのネットワークに加盟している局もあれば、どこにも属さずに独立局になるテレビ局もあった。

メディア改変へ

そして、当国最大の改革とも言えるメディア改変が行われた。テレビネットワーク形成の見直し、テレビ局の名称及び愛称の必要性、それにメディア対策以降話されてこなかったラジオ局の新設・見直しがなされ、現在に至っている。
また、災害時における緊急放送局の設置することも盛り込まれている。