初霜

Last-modified: 2023-08-14 (月) 09:57:10
No.078
初春型四番艦、初霜です。皆さん、よろしくお願いします!初霜(はつしも)初春型 4番艦 駆逐艦
艦船ステータス(初期値/最大値)
耐久16火力10 / 29
装甲6 / 19雷装27 / 69
回避43 / 79対空9 / 39
搭載0対潜21 / 49
速力高速索敵5 / 19
射程10 / 49
最大消費量
燃料15弾薬20
装備
12.7cm連装砲
未装備
装備不可
装備不可
改造チャート
初霜初霜改(Lv20) → 初霜改二(Lv70)
図鑑説明
初春型駆逐艦の4番艦、初霜です。
アリューシャン作戦、アッツ島沖海戦、キスカ島撤退作戦、マリアナ沖海戦、
北号作戦、坊ノ岬沖海戦など、様々な激戦に参加しました!
ほんと、頑張ったんです!

※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。

CV:小林元子、イラストレーター:やどかり (クリックするとセリフ一覧が開きます)

CV:小林元子、イラストレーター:やどかり

定型ボイス一覧

イベントセリフ改装段階備考追加


 
 



 



追加
入手/ログイン初春型四番艦、初霜です。皆さん、よろしくお願いします!×編集
初春型四番艦、初霜です。気力、振り絞って参りましょう!××編集
母港*1編集
母港1詳細準備万端ですよ。編集
母港2はい!いつでもご質問どうぞ。×編集
そうですね、できるだけ助けたいわ、提督だってそうでしょう?××編集
母港3て、提督? ……ああ、魚雷管の角度を直してくれてるんですね。いつも、すみません。×編集
て、提督? あぁ、電探の調整してくれてるんですね。私ったら、いつもすみません。××編集
ケッコンカッコカリキスカ……って、ごめんなさい! 今の私は、恋愛には興味が無いの。それでも、待ってて……くれるの?編集
ケッコン後母港やっちゃいます!×編集
え?少し……悲しいですね……。いえ、大丈夫。提督は判ってくれますよね? それで充分です、私は。ありがとう、提督。××編集
放置時浜風さん……矢矧さんも大丈夫かしら……。あっ! 提督! 私は大丈夫。提督も、お救いします!×編集
編成出撃編集
編成初霜、出撃します!編集
出撃初霜、出撃します!編集
戦艦の護衛なら、任せてね。×編集
出撃、ですね。気を引き締めて、頑張ります!××編集
開戦・攻撃*2編集
戦闘1昼戦開始敵艦発見です!昼戦攻撃と共用編集
戦闘2昼戦攻撃見てなさい。編集
戦闘3夜戦開始ほんっと、ツメが甘いのね。×編集
水雷戦隊本来の力、今こそ発揮です!××編集
戦闘4夜戦攻撃私が、守ります!対空CI/支援攻撃/先制対潜と共用編集
戦闘時ステータス*3編集
小破きゃっ!?編集
信じられません……。編集
中破/大破ま、まだ…沈んだり……しないわ。編集
轟沈提督……みんな……ご無事ですか……? なら……いいの。編集
戦闘終了*4編集
勝利MVP一隻でも一人でも、救えるならば私は、それで満足なの。編集
旗艦大破信じられません……。編集
装備・改修*5編集
装備1改修/改造うん!ちょうどいいわ。編集
装備2これはすごいわ!ありがとう。編集
装備3改修/改造/開発/バケツ/遠征/発見やっちゃいます!編集
その他編集
帰投艦隊が帰投したみたい。お疲れさま!編集
補給うん!ちょうどいいわ。××編集
補給、ありがとうございます。可燃物、降ろしておきましょうか?×編集
入渠(小破以下)ちょっとだけ、休憩ね。編集
入渠(中破以上)これでまた、みんなを守れるわ。編集
建造完了新しい仲間が誕生したようです!編集
戦績表示提督にご連絡があるみたい。×編集
そうですね、戦況分析は大事です。無謀な作戦はダメ! ですからね?××編集


時報ボイス一覧

時刻セリフ改装段階備考追加


 
 



 



追加
00提督、本日は、この初霜がおそばでお役に立ちたいと思います。お助けできることがあれば、なんでも、おっしゃってくださいね!私、できるだけ頑張ります!!×編集
01マルヒトマルマルです。提督、お手伝いできることがあれば、お知らせくださいね。×編集
02マルフタマルマルです。あれっこんな時間に...?私、見てきますね。何でしょう...?×編集
03マルサンマルマルです。提督、なんでも、ありませんでした。でも、扉が開いていて…あっ、なに…?×編集
04マルヨンマルマルです。あっ、お茶ですね。了解しました!すぐに!×編集
05マルゴーマルマルです。提督、お茶のおかわりはいかがですか?はいっ!了解です!×編集
06マルロクマルマルです。提督、そろそろ艦隊のみなさんに総員起こし、かけますね。…大丈夫、優しくします!(大きく息を吸う)×編集
07マルナナマルマルです。提督、朝食の用意は、こちらに!今朝のお味噌汁は、大根と菜っ葉にしました。×編集
08マルハチマルマルです。お昼用に、おむすびを握っておきますね。姉さん達の分も!…よしっ、できた♡×編集
09マルキュウマルマルです。提督、今朝の艦隊運用は、何からお始めになりますか?…艦隊演習?了解です!×編集
10ヒトマルマルマルです。あら、朝霜さん!おはようございます!今戻りですか?お疲れ様です!×編集
11ヒトヒトマルマ…あっ、大淀さん、お疲れ様です!…はい、大丈夫です!初霜、元気にやっております!×編集
12ヒトフタマルマルです。提督、お昼にしましょう。はいっ、おむすびです。どうぞ召し上がれ!お茶も、どうぞ。…あっ、はい!熱いですよ。気を付けて!×編集
13ヒトサンマルマルです。……えっ、姉さんが探してたんですか?あっ、いけない!提督、ごめんなさい!少しだけお待ちくださいね。×編集
14ヒトヨンマルマルです。は、はい、大丈夫です!姉さん達、みんな、今日も元気です!よかった……×編集
15ヒトゴマルマルです。…え、北号作戦ですか。はい。上手く行ってよかった!伊勢さん、日向さん、さすがです!×編集
16ヒトロクマル…矢矧さん!お疲れ様です。はいっ!初霜、問題ありません。いつでも!はいっ!×編集
17ヒトナナマルマルです。提督…そうですね。あの戦いは、大変なものでした。私は…私は…!×編集
18ヒトハチマルマルです。ごめんなさい、提督。今、お夕食の用意をしますね。お待ちください。×編集
19ヒトキュウマルマルです。今日は、いわしのつみれ汁と麦飯と…あっはい!おかわりもあります。召し上がれ!×編集
20フタマルマルマルです。提督、艦隊の皆さん。本当にお疲れ様。今日も、お疲れ様でした。×編集
21フタヒトマルマルです。提督、今という時間、本当に大切な、大切な時間ですね。初霜…そう思います。×編集
22フタフタマルマルです。提督、そろそろ本日は、おやすみになってください。たまにはゆっくり、ねっ?×編集
23フタサンマルマルです。提督、本日一日、大変お疲れさまでした。明日も…きっと明日も……お休みなさい。×編集


季節ボイス一覧


イベントセリフ改装段階備考追加


 
 



 



追加
桃の節句編集
春の訪れ編集
ホワイトデー提督、これを…私に? はぁ~、ありがとうございます! 大事に、初霜、大事にいただきます! うれしい。編集
編集
春本番編集
梅雨梅雨の季節、少しお手入れしいないと、艤装が心配です。……提督、それは? …てるてる坊主? やだ、かわいい!編集
初夏編集
大和さん、水着、素敵……え、提督? 私ですか? いえ、私は、私はそういうのは…はい!編集
盛夏編集
夏祭り編集
秋ですね。食べ物の美味しい季節。食べ過ぎで排水量が増えないように、気をつけないと。……ふう。編集
秋刀魚提督、秋刀魚漁支援、ですか? 了解しました。二一駆、秋刀魚漁支援に抜錨します。準備、かかれ!編集
晩秋編集
ハロウィン編集
秋のワイン編集
編集
師走編集
クリスマス編集
年末編集
新年謹賀新年、明けましておめでとうございますっ。初霜、今年も頑張ります! はいっ!編集
節分鬼は外ー、福は内ー、えいっ! …あっ提督に!? ごめんなさい、片付けますね。編集
バレンタイン提督、あの、これを……もしよかったら…初霜がお作りしました。甘く、甘くなっています。はい。母港・詳細1編集
提督? いかがでしたか? お口に…あっ、そうですか?よかった! ありがとうございます! …よかった。母港・詳細2編集

二周年記念今日は大切な日ですね、なんか輪形陣でお祝いしたくなりますね。えっ? ならない?編集
三周年記念編集
四周年記念編集
五周年記念提督、艦隊は五周年を迎えました! これは輪形陣でお祝いしたくなりますね。…えっ、ならない…ですか?編集
六周年記念提督、艦隊は六周年を迎えました! これ是非、輪形陣でお祝いですよね! …えっ、違いますか? そ、そう?編集
七周年記念提督、艦隊はついに七周年なんです! これ絶対、輪形陣でお祝いしないと!…えっ、違いますか? そんなぁ~!編集



2018決戦前夜いよいよレイテ決戦。二一駆は輸送作戦を遂行、その後、艦隊決戦に合流ですか? 初霜、了解です!編集



ゲームにおいて

キャラクター設定について

  • 赤茶の瞳と先端を縛った長い黒髪、赤ネクタイのブレザーが特徴的な駆逐艦娘。姉の若葉がブレザーを着崩しているのに対して、初霜はきっちりと整えている。
    容姿的に三日月と似ているが、あちらは黒セーラー服・瞳が黄色・アホ毛と、割と違いがある。なお、割と豪快に脱げてしまう。特に前が初霜ちゃんマジイケメン。
  • 見た目の割に老成した声をしており、穏やかな性格で口調も丁寧なものが多い。艦や人を守ることに大きな自負を持っており、戦闘時は勿論、最後の時も提督や仲間の安否を第一に考えるほど*9
    • 提督のセクハラに対しては「魚雷管の角度を直してくれている」と勘違いしたり、二周年記念での「輪形陣でお祝い」発言等若干天然な一面もみられる。また、節分でははしゃぎながら豆まきを楽しむ等見た目相応に子供らしい所もある他、史実では下記のやらかしからドジっ子な面も・・・。
  • 輪形陣が好きなのか、毎年の艦これ周年記念はいつも輪形陣でお祝いしようとする。
    • 坊ノ岬沖海戦で第三警戒航行序列(=輪形陣)を組んだのが元ネタ・・・?
  • 初霜に関わりがある艦は下記史実を踏まえると多岐にわたるが、実際に名指しで初霜に言及する艦娘は21駆司令駆逐艦を長く務めた若葉のみであった。
    • 最期の21駆司令駆逐艦である朝霜に改二が実装された際にボイスが更新され、改二限定で共々呼びかけられるようになった。なお、レイテ・多号作戦で若葉・初春を失い初春型最後の生き残りとなった時点で石井汞21駆司令は初霜に座乗し、北号作戦完遂後の人事異動で着任した小瀧司令は朝霜を司令駆逐艦に指定した。
    • 終焉の地舞鶴(正確には西隣の宮津)に共に疎開していた潜水母艦長鯨(宮津の北である伊根に疎開)が、当時の僚艦である雪風共々彼女の放置ボイスで言及している。
    • 直接の言及ではないが、1944年初頭に高雄らと共に大破した雲鷹を護衛し横須賀まで連れ戻ったが、その雲鷹が瑞鳳からの差し入れ(卵焼き)が大量すぎて助けを求めた駆逐艦として「7駆」と「21駆」を招聘している。経歴を踏まえればこの21駆は初霜らを指しているものと解されよう。

小ネタ

艦歴

略歴

略歴

19331.31浦賀船渠で起工
11.4進水
19349.27竣工、そのまま第21駆逐隊へ編入
1942ケンダリー攻略作戦、マカッサル攻略作戦、バリ島攻略作戦、アリューシャン作戦などに参加
19433.26アッツ島沖海戦に参加
4.1第1水雷戦隊ごと第5艦隊所属となる
7.26キスカ島撤退作戦において、航行中に濃霧のため若葉と衝突。幌筵で応急修理後、千島方面の船団護衛に従事
19441.~空母(千歳瑞鳳龍鳳など)の護衛に従事
6.19マリアナ沖海戦に参加
10.24戦没した若葉の乗員を救助
10.26ブスアンガ島コロン泊地に入港
10.31第2次多号作戦参加のためマニラ湾を出港
11.1オルモック到着、物資揚陸
11.4マニラ湾に帰投
11.13マニラ湾空襲により初春を失う
11.20第1水雷戦隊解散、第2艦隊第2水雷戦隊所属となる
19452.10解散した第2駆逐隊より朝霜が第21駆逐隊に編入される。
伊勢日向らとともに北号作戦に参加。損害なしで完全成功
3.10第7駆逐隊よりが第21駆逐隊に編入される
4.7坊ノ岬沖海戦。2水戦司令官・古村啓蔵少将を含む矢矧浜風の乗員救助および2水戦将旗の収容を行う。古村司令官は初霜を2水戦旗艦に指定
4.8佐世保に帰投
4.20第2水雷戦隊解隊、解隊式が初霜艦上にて行われる。同日附で第17駆逐隊に編入される
5.10第21駆逐隊解散。
6.15宮津湾に回航される
7.30米軍機の空襲を受け、対空戦闘中に触雷。沈没を免れるため海岸に擱座
8.15第17駆逐隊解散。初霜は第31戦隊付第4予備艦となる
9.30除籍
19489.~舞鶴へ曳航ののち解体処分(~1951?)
艦長

艦長

艦長氏名(期・本籍)
配属期間
他の経歴・小ネタ
第1代松原博 少佐→中佐(45・長崎)
1934.2.1~1934.9.27(艤装員長)
1934.9.27~1934.11.15(艦長)
大戦中は阿賀野翔鶴の艦長を歴任。翔鶴最後の艦長として、マリアナ沖海戦に臨む。自身は乗組員と共に矢矧浦風秋月らに救助される。その他蓬、皐月(水無月兼務)、朝霧(天霧兼務)の艦長、27駆逐隊24駆逐の司令等を歴任。
第2代宮坂義登 少佐(47・長野)
1934.11.15~1935.10.15
開戦時は18駆逐司令。北方海域でのグロウラー襲撃の責任追及を受け切腹自殺を図るが、一命を取留め1977年まで存命。その他樫、嵯峨、の艦長や30駆逐司令等を歴任。
第3代山田雄二 少佐→中佐(46・福岡)
1935.10.15~1936.12.1
開戦時は第20駆逐隊司令。江風初代艦長かつ、あの幸運艦宗谷初代特務艦長。第20駆逐隊司令としてガダルカナルに向かう途中爆撃機に急襲され戦死。その他芙蓉、文月(長月兼務)、の艦長、23駆逐隊司令等を歴任。
第4代鈴木正金 少佐(50・愛知)
1936.12.1~1937.12.1
蓮艦長を務めた後初霜艦長、第1艦隊参謀、7第11戦隊の先任参謀に。ルンガ沖で死亡。
第5代塚本守太郎 少佐(50・福岡)
1937.12.1~1939.10.15
開戦時は夏雲艦長。若葉澤村艦長が夕暮艦長に転任したため、一時的に初霜兼若葉艦長となる。夏雲艦長としてサボ島沖海戦で航行不能の叢雲朝雲と共に救援に駆け付けた際、複数発の至近弾を受け艦と共に戦死。その他蓮、長月艦長等を歴任。夏雲艦長時に大潮の艦長も兼任している。
第6代本倉正義 少佐(51・岡山)
1939.10.15~1940.8.20
開戦時は夕霧艦長。あのビスマルク海海戦時津風の艦長だった他、第3次多号作戦浜波艦長として参加。二つの「地獄」を経験し生き延びた。その他文月(長月兼務)艦長等を歴任。
第7代濱中脩一 少佐(51・香川)
1940.8.20~1941.9.10
開戦時は山風艦長。スラバヤ沖海戦で残燃料が乏しい中、同様敵艦生存者の救助に当たった。山風が米潜ノーチラスに撃沈された際に艦長以下乗組員全員が戦死。その他菊月初春艦長等を歴任。
第8代古濱智 少佐(55・鳥取)
1941.9.10~1942.11.28
開戦時の初霜艦長。北方輸送任務中に大破した初春の救援に向かう。春月艦長として終戦を迎える。春月は復員輸送任務後ソ連艦ヴネザープヌイ*10となり1969年まで存命。その他鳥羽艦長等を歴任。
第9代入戸野篶生 少佐(55・山梨)
1942.11.28~1943.11.11
開戦時は旗風艦長。アッツ沖海戦で魚雷を大暴投したりキスカ島撤退作戦で若葉とごっつんこした人。秋雲艦長として聖川丸護衛中に米潜レッドフィンの雷撃を受け戦死。
第10代瀧川孝司 少佐(59・千葉)
1943.11.11~1944.8.25
松風艦長を務めた後初霜艦長に。雲鷹始め改装空母の護衛に従事し、全艦無事で任務を全うする。終戦時は大本営参謀で、戦後海上自衛隊に入隊し、第2護衛隊群司令、第一術科学校校長、練習艦隊司令官等を経て海将補にて退官した。
第11代酒匂雅三 少佐(62・鹿児島)
1944.8.25~1945.9.22
開戦時は海風水雷長。初霜艦長としては最も有名な最後の艦長。末期の作戦は大体この人の下で乗り切っている。宮津湾で重傷を負うが生存し終戦後は艦長となる。その他隼、鴻艇長、沢風艦長*11等を歴任。
  • 駆逐艦建造の名門である浦賀船渠出身の初春型の4番艦。*12自身の言葉通り数々の激戦をくぐり抜け、終戦の半月前まで生き残っていた数少ない駆逐艦。
    初霜の概要

    初霜の概要

    • ケンダリー攻略戦を皮切りに、南方攻略の諸作戦に参加。その後北方部隊に編入され、アッツ島沖海戦やキスカ撤退作戦を経て再び南方へ。マリアナ沖海戦、多号作戦、北号作戦、坊ノ岬沖海戦など、末期の困難な作戦、海戦にも多く参加し生き延びてきた。キスカ撤退作戦と北号作戦両方に参加したのは彼女一隻だけである。
    • キスカ撤退作戦以降は、前述した作戦に参加する以外にも多くの護衛任務に従事した。改装空母や輸送船など多数の艦の護衛にあたっており、艦これに実装されているだけでも日向伊勢大淀愛宕飛鷹龍鳳千歳高雄瑞鳳榛名妙高が初霜の世話になっている。
      • 同じ作戦に参加した僚艦や護衛対象となった艦は、その戦闘や作戦を生き残る確率が高かったとか。これも幸運艦と呼ばれる所以だろうか。
        護衛されて沈んだ戦闘艦は大和くらいで、輸送艦等合わせても未帰還となった艦船は片手で足りる。僚艦となると流石にもう少し増えるけど。
    • 損傷らしい損傷を殆ど負わなかった艦である。最後に機雷で大破したのを除くと、まともに負傷したのはキスカ撤退作戦における衝突の時と、若葉乗員救出中の空襲による砲塔被弾ぐらい。稀有の幸運艦だった。
      そのため多くの作戦や護衛任務に参加しながらも乗員の欠員がほとんど無く、錬度の高い艦であったという。
      • 対空射撃、回避行動において相当のレベルであったと雪風乗組員が記している。雪風同様、歴戦を生き抜いた熟練の乗組員を擁していたためだろう。
        最後の最後で雪風と初霜の運命を分けたのは紙一重の運としかいいようがない。*13戦後解体処分。
    • 激戦を生き残ってきた艦であるため時雨や初春ほどでは無いが戦時中に対空兵装の増強を行っている。
      大戦末期の1945年の時点で、主砲(12.7cm単装砲)1基を撤去し、25mm三連装3基・連装1基・単装10基・13mm単装4基、さらには13号22号電探とかなりの重装備を施した艦となっている。
    • 余談となるが、彼女が誕生した浦賀船渠は、初霜も含め時雨浜風など多くの幸運艦を輩出している*14
  • 一見しっかり者の初霜であるが、実は彼女、進水式で急減速して停止、おまけに支柱を折るという失敗をしている。
    折しも大勢の来賓が見守る中、軍楽隊が軍艦行進曲を演奏し、くす玉が割れて鳩と五色の紙吹雪が飛び出すという華やかな式典の真っ最中。関係者は真っ青になった。(当時の新聞記事にもなっている珍事である→読売新聞(昭和8年11月1日)※12月2日に見えるのは、ホチキス等の綴じ痕。
    • 結局進水式は中止され、翌月改めて行われた。*15いきなりのつまずきに関係者たちは初霜の前途を案じたが、*16それが杞憂であったことはその足跡が物語っている。
      むしろ彼女の場合「ただでは水に漬かない=ただでは意地でも沈まない」という戦歴の前触れだったのかもしれない。
    • これ以外にも乗員が海に投げ出されたり、アッツ島沖海戦も微妙な結果だったり、さらに若葉長波と衝突するなどキスカ撤退以前の戦歴は微妙だったりする。

太平洋戦争

  • 開戦時は初春子日若葉と共に第二十一駆逐隊を組み、阿武隈率いる第一水雷戦隊に所属していた。
    だが初春型の航続距離の問題で二十一駆は機動部隊及び戦艦部隊と共に真珠湾に行くことは無く内海に留められた。
    • 第二十一駆逐隊は戦争末期の1945年6月に解散するまで存在し、日本が一番取り組むべきだった資源の輸送任務など地味ではあるが重要な任務に従事し続けた。坊ノ岬沖海戦に参加した数少ない駆逐隊のうちの一つである。
      • 初春型4隻以外にも、1944年末~1945年1月*17までは時雨が(時局ゆえに共に行動することは無かった)、北号作戦直後~坊ノ岬沖海戦までは朝霜*18が、坊ノ岬沖海戦直前~坊ノ岬沖海戦の間には*19が第二十一駆逐隊に所属していた。45年1月に戦没した時雨を除く3隻は北号作戦でともに内地に帰還し、朝霜を司令駆逐艦とした朝霜・霞・初霜による21駆は坊ノ岬沖海戦に参戦した。
      • 坊ノ岬沖海戦で第二十一駆逐隊でたった1隻となり朝霜とともに21駆司令部を失った初霜は同じく雪風1隻の第十七駆逐隊*20に編入された。

南方攻略支援時代

  • そんな第二十一駆逐隊が最前線に行くことになるきっかけが1942年1月、フィリピンのダバオまでの輸送船団の護衛任務である。
    • 当時蘭印部隊は攻勢を活発化させ輸送船団の護衛艦不足に悩んでいた。そこへちょうどダバオまでやってきた第二十一駆逐隊をそのまま部隊に編入することにしたのだ。
  • そして初霜達はさっそく24日にスラウェシ島ケンダリーの攻略に参加することになる。
    • しかし25日早朝、攻略部隊の指揮下に入るためケンダリーに急行していたところ、遭遇した攻略部隊の旗艦長良初春が突っ込み、初春は大破、長良は小破してしまう。
      長良はダバオへ単独回航、初春若葉子日に護衛されてダバオへ向かい、長良が修理を終えて復帰するまでの間、初霜に将旗が掲げられることになった。
    • このため一時的とはいえ、初霜は初参加の作戦で第一根拠地隊旗艦*21を務めることとなった。
  • その後マカッサル攻略作戦、続いてバリ島攻略作戦に参加する。
    バリ島攻略作戦での初霜

    バリ島攻略作戦での初霜

    • バリ島攻略作戦では長良率いる支援隊の一員として参加。
      バリ島沖海戦にて連合国軍が撤退した後にその戦場へ到着し、長良と初霜は満潮救援の間ロンボック海峡北口を警戒することに。
    • しかし荒潮満潮を曳航して退避を開始したものの連合国軍による空襲を受けてしまい、満潮は曳索が切れた上至近弾で浸水、大潮も至近弾により浸水してしまう。
      そこで各艦は第1グループ(朝潮荒潮満潮子日)、第2グループ(若葉大潮)、第3グループ(長良、初霜)にわかれ北上を開始。
      その後のべ26機の空襲を受けたが特に被害なく無事スラウェシ島マカッサルへ帰投した。
    • その翌日第二十一駆逐隊は長良、第八駆逐隊らと共に輸送作戦部隊としてマカッサルを出撃。
      連合国軍によるバリ島飛行場への砲撃が予想され特に接敵せず、無事に揚陸を成功させることができた。
  • バリ島攻略後の3月1日、初霜達第二十一駆逐隊は測量艦筑紫と共にバリ島とジャワ島間のバリ海峡を哨戒していた。
    • そこへスラバヤ沖海戦で生き残った米軍駆逐艦4隻がオーストラリアへの脱出をはかってバリ海峡へ到達。
      二十一駆は距離4,500mで火蓋を切ったものの、敵は戦闘するつもりが毛頭無かった。
      会敵した場合に備えて十分に缶圧を上げてあった米駆逐艦隊は直ちに最大戦速に速度を上げると猛スピードで振り切りバリ海峡を突破、二十一駆は敵艦の脱出を許してしまった。
    • もっともここで何も活躍していなかった訳でもなく、若葉と協力して発見した武装商船に砲撃、撃沈する戦果を上げていたりする。

北方海域時代

  • 1942年5月以降、初霜の姿は主に北方海域にあった。アリューシャン攻略のため北方部隊に組み込まれ、そのまま警戒任務に当てられたのである。空母や戦艦が激突した南方と比べると地味な印象がぬぐえない北方だが、マメにちょっかいを出してくる米軍に対し少ない戦力と資材で備えなければならず、加えて北方特有の天象もあり、こちらはこちらで苦労の絶えない海域であった。
    北方海域アッツ、キスカの初霜

    北方海域アッツ、キスカの初霜

    • 1942年5月29日。初霜は大湊を発った。アリューシャン作戦が開始されたのだ。
      途中ミッドウェー海戦の余波を受け、二転三転する命令に振り回されはしたものの、初霜の周辺では戦闘も起こらず、事態はおおむね順調に推移し作戦は終了した。一見、特にすることがなかったかに見えるAL作戦。しかしこの間、初霜は休みなく走り回っていた。
      • 初霜属する第一水雷戦隊はアッツ島攻略を担当した。さらに攻略に先立ち、米軍の動きを掣肘するべくキスカ島の東にあるアダック島で破壊工作を行う計画であった。初霜は特務砲艦まがね丸を指揮し、別動して機雷を敷設するよう命じられた。荒れる海と濃霧に悩まされつつ、艦隊は静かに東へと進撃した。
        • 悪天候下での給油は困難であった。6月4日の補給も一部の艦は不十分であり燃料に不安があったが、任務遂行を決意し一水戦が腹を括った6月5日、連合艦隊から指令が入った。
          「ミッドウェー、アリューシャンの攻撃を一時延期す」
        • 数時間後、再度指令が入りAL作戦は続行となった。ここで初霜はまがね丸を連れて分離。機雷の敷設について入念な指示を受け、今度こそ作戦行動開始と緊張したその夜、北方部隊指揮官から指令が入った。
          「アッツ攻略、破壊を一時延期す。西航しつつ命を待て」
        • 連合艦隊がMI作戦を中止したのを受けての待機命令であった。やむなく西に進路を向け、まがね丸とともにトボトボと北太平洋を航行する初霜であったが、翌6日の昼過ぎ、北方部隊にAL作戦決行の命令が発せられた。士気は大いにあがった。だが、大人の事情でアダック島攻撃は中止となり、まがね丸にも幌延回航が命じられたためここでお別れとなった。初霜は単艦、アッツ島近海の会合点に向かった。
      • 阿武隈と合流後、アッツ島ホルツ湾で上陸を支援する。湾内に漂泊し諸作業に当たる阿武隈の警戒に付いた。上陸と進軍には難儀したものの、アッツ島はほぼ無防備だったため制圧はあっさり終わった。しかし、目まぐるしく変化する気象のなか警戒に当たる初霜にとっては、緊張する時間だったに違いない。
        • アッツ島制圧後、慌ただしく給油を受けた初霜だが、すぐに次の任務が待っていた。阿武隈に率いられ、アッツ島隣のセミチ諸島へ赴き掃海と偵察に当たった。初霜は西島(アレイド島)の担当となり、3時間ほど実地調査を行った。
      • 6月10日をもって攻略部隊は編成を解かれ、ひとまず作戦は終了した。味方にはたいした損害もなく、皆互いの労をねぎらいあった。しかし、米軍の反応は早かった。12日には早くも飛行艇が姿を見せ、その後キスカへの空襲が開始されることとなる。潜水艦も迫りつつあった。一水戦にもキスカの東にあるアムトチカ島の偵察が命じられており、初霜の北方での苦闘はなおも続くのである。
    • 昭和18年3月27日、アッツ島への第二次集団輸送部隊を襲撃すべく、軽巡リッチモンドを旗艦とする米艦隊が接近してきた。護衛に当たっていた北方部隊(旗艦那智)は敵艦隊撃滅の好機と見て全力で反撃に移る。アッツ島沖海戦である。初霜もこの海戦に参加した。
      • 戦いは米艦隊を発見した日本艦隊の反転により反航戦から始まり、日本艦隊が米艦隊の退路を絶ちつつ有利な風上に占位したこともあって追撃戦となった。あくまで輸送船団を狙う米艦隊と、それを追う日本艦隊。戦力的には日本艦隊優勢だったのだが、消極的な指揮と米艦隊の果敢な反撃に距離を詰められず、遠距離での撃ち合いに終始した。そのため初霜含め駆逐艦にはほとんど出番がなかった。
        • 海戦終盤、距離13,000m程度にて第1水雷戦隊は砲撃を開始、初霜は12,7cm砲6発を発射するも命中弾は無かった。また、左舷130°距離19,000mで魚雷5本を発射したが、これは大暴投となってしまった。発射に手間取っている間に相手は変針しており、しかも煙幕で初霜からはそれがわからなかったのだ。海戦後、一水戦司令部からも「魚雷は命令出たらすぐ撃てるよう、ちゃんと準備しときなさい」と注文を付けられている。
      • 結局米艦隊は取り逃がし、輸送も中止となった。初霜にとっても苦い経験となった。
        その後、燃料の枯渇により北方部隊は身動きが取れなくなり、取り逃がした米艦隊に制海権を奪われる。アッツ島への船団輸送はほぼ不可能となり、後のアッツ玉砕キスカ撤退へとつながっていくのである。
    • キスカ島撤退作戦では濃霧の中若葉に突っ込み、さらに余勢でお尻を振って長波と接触するという大事故を起こした。
      長波は軽傷で行動に支障はなかったが、初霜と若葉は速力が12ktまで低下し、若葉は幌筵へ単独帰投。初霜は海防艦国後指揮の下、給油艦日本丸の護衛に付き本隊から離脱した。
      • もっとも、急減速した阿武隈に濃霧の中で一時行方不明になっていた国後が衝突した混乱下の事故なので、彼女の責任とは言えないのだが。
        ともあれここで全艦の不運を使い切ったのか、それとも本当に英霊の加護でもあったのか、撤退作戦自体は成功裡に終わった。
      • 有志によるキスカ撤退戦図

改装空母護衛時代

  • キスカ撤退作戦も終わり、初霜は艦載機を運ぶ改装空母の護衛に従事することになった。
    1944年1月19日に能代旗艦のもと初春若葉早波と共に瑞鳳雲鷹*22を横須賀まで護衛していたところ、雲鷹が米潜水艦ハダックの雷撃を受けてしまう。
    雲鷹護衛時の初霜

    雲鷹護衛時の初霜

    • 初春若葉瑞鳳の護衛を任せて、初霜は能代早波と共にハダックの追撃を警戒しながらサイパンに退避する雲鷹を護衛。
      雲鷹修理中、各艦は対潜哨戒をサイパン港外で続けた。20日には救援として明石の作業員を乗せた海風がサイパンに到着。能代早波は入れ替わりで横須賀に帰投する。その後も22日に皐月、26日には第七駆逐隊のが合流。港内に侵入しようとする潜水艦への警戒にあたった。
      • 24日、雲鷹護衛隊が正式に編成されたが、当初初霜はこの中におらず、出航後は分かれてトラックへ向かう予定だった。しかし、戦闘準備中で被服等を陸揚げしている海風に内地回航は不向きとする第二十四駆逐隊からの要請で命令は変更され、海風と交代し改めて護衛の任に就くこととなった。*23
    • 27日、応急処置を済ませた雲鷹の指揮のもと、初霜たちは横須賀へ向け出港した。途中、横須賀からトラックへ回航中に救援命令を受けた高雄玉波が初霜達と合流。7ノットしか出せない雲鷹を皆で囲んだ。
      • しかし横須賀への道程はやはりすんなりとはいかなかった。敵潜水艦(ガジョン、ソーリー)が付きまとい、悪天候で海が荒れれば雲鷹は漂流した。初霜も何度か潜水艦の制圧に向かったが、爆雷投射中に至近距離から4本の魚雷を浴びせられ、冷や汗をかく場面もあった。
        さらに、遅々として進まぬ歩みの中、護衛する艦達の燃料が不足し始めた。補給のため皐月が、が次々と横須賀へと回航して行き、5日には初霜も離れざるをえなくなった。*24
      • 横須賀で補給を済ませた初霜は、同じく燃料不足で戻ってきていた高雄に率いられ、2月7日早朝に雲鷹達と再び合流。その夜高雄・雲鷹以下11隻の大所帯で横須賀に帰投、その任を果たした。
    • 一度燃料不足で離れたものの、初霜は最初から最後まで雲鷹の傍で彼女を守り続け、無事横須賀まで送り届けたのである。

マリアナ、レイテ沖海戦

  • マリアナ沖海戦(あ号作戦)の際は補給部隊として参加。雪風卯月、夕凪*25と共に給油艦6隻を護衛する。
    小沢機動部隊への補給は無事に終えたもののギマラスへの帰路で米機動部隊の攻撃を受け、足の遅い給油艦2隻が航行不能となる。
    補給部隊は仕方なく2隻を処分。その後ギマラスへ落ちのびることとなった。
    • 補給部隊の大部分は6月14日にダバオを出航したのだが、初霜は給油艦速吸と遅れて16日に出航している。
      そしてその速吸は、被弾こそしたものの航行不能となること無くギマラスへ帰投することに成功している。
      船団に被害こそ出たものの、彼女が寄り添った船はここでも生還した。
    • 以後レイテ沖海戦まで初霜はマモ01船団やモタ23船団、マモ02船団などの輸送船団の護衛が主な任務となる。
  • レイテ沖海戦の際、初霜属する第二十一駆逐隊は那智を旗艦とする志摩艦隊の指揮下にあった。
    他部署の要請により分派された二十一駆は、マニラへの輸送任務を行った後、本隊を追ってレイテを目指した。
    レイテ沖海戦での初霜

    レイテ沖海戦での初霜

    • 合流地点に向け南下を続けていた若葉初春、初霜だったが、その途上で空襲を受け若葉が沈没してしまう。初霜は初春とともに救助艇を下ろして若葉生存者を救出した。
      救助艇が作業をする間、初霜は周辺をぐるぐる回って爆雷を投射、潜水艦を威嚇しながら救助を支援した。
    • ところが無事救助を終えて前進しようとした途端再び敵機が出現し爆弾を投下。これが初霜の2番砲塔横に命中、砲塔が誘爆して火を噴いた。
      幸い大事に至らなかったものの、*26二十一駆は若葉を失い、その生存者を満載したため戦闘もままならず、しかも初霜も負傷したとあってレイテ突入は絶望的であった。
      止むを得ずマニラへ引き返し、若葉生存者を下ろして再度南下。本隊を追ってコロン湾に入港したところ、最上との衝突で艦首が折れ曲がった那智不知火に付き添われて入港するのに出会った。
      旗艦のこの無残な姿を見て、初霜艦長はレイテ沖海戦の敗北を悟ったという。

多号作戦、マニラ沖空襲、北号作戦

  • レイテ沖海戦での傷が癒えた初霜は第二次多号作戦に参加、輸送船を護衛して無事オルモック突入に成功した。
    彼女たちは来襲する敵機に対し輸送船の周りをぐるぐる回りながら煙幕を焚いて護衛。この戦術は功を奏した。
    • しかしそのうち端にいて煙幕のバリアから外れてしまった輸送船能登丸が被弾し、沈没。
      この時木村昌福司令官が乗る第一水雷戦隊旗艦は「お前らは船団を護衛し先にマニラへ帰れ、本職は後始末をしてから帰る」との旨の命令を下し、その場に残った。
      後始末とは能登丸生存者救出にほかならない。極めて危険な状況下での救助に司令官自ら当たるというこの命令に初霜艦長(酒匂雅三少佐)は感服し、木村司令官を尊敬したという。
    • その帰り道、空襲を受け行方不明になっていた第131号輸送艦を探すよう命じられ、初春、第9号輸送艦とともに捜索。
      航行不能になっている第131号輸送艦を発見し、第9号輸送艦に曳航させることにして初春と初霜はその護衛に従事。マニラへ無事に帰還させた。
  • そうこうするうち、マニラを米機動部隊の大空襲が襲うようになった。11月5日の空襲では那智が沈み、続行したが大破。
    霞はただちに救助命令を発し、初霜も初春、とともに彼女たちの救助に当たった。
    しかし13日にまたもや大空襲を受け、木曾や先の空襲で辛くも生き残った曙、そして姉の初春も被弾、沈没していった。
    • このフィリピンにおける一連の戦闘で生き残ったのは、初霜、朝霜*27のみだった。
    • この時図らずも、爆発炎上する初春の吹き上げた黒煙がすぐそばにいた初霜を覆い隠して守ったという。
      こうして初春型姉妹は初霜1隻を残し全艦戦没、初霜は一人ぼっちになってしまった。
    • マニラから脱出する際、初霜はマニラで戦没した那智の第五艦隊司令部を乗せ、ブルネイまで送り届けている。
      ブルネイで艦隊司令部は足柄に移乗して将旗を掲げた。
  • マニラ湾を脱出した後、初霜は霞と組んで榛名の護衛などを務めるが、タンカー日栄丸の護衛の際、レイテ沖海戦で損傷し応急修理後内地に向かおうとした妙高の再度被雷の報に接し分離、救援に向かった。
    • 妙高は大破した挙句、波で艦尾を引きちぎられ航行不能になっていた。初霜の援護のもと排水量や馬力に勝る霞が曳航しようとしたが、やはり重巡を曳航するのは物理的に無理であった。
      仕方なく羽黒に救援を要請、曳航してもらうことにしたのだが、途中、霞は礼号作戦参加要請を受け分離。初霜は妙高を守ることを優先とされ、礼号作戦に参加できなかった。
  • 北号作戦で奇跡と言われる完全成功を収めた6隻のうちの1隻でもある。日向伊勢らを護衛して制海権のない危険海域を突破、呉に帰還を果たした。(有志による地図)
    • この時伊勢は敵潜水艦の放った魚雷へ高角砲を乱射し爆破するという離れ業をやってのけているが、
      すぐ近くの海面へ撃ち込むため初霜めがけて跳弾が飛び、危なくて仕方なかったとのこと。
      そして初霜自身も潜水艦から打たれた魚雷8本をすべて回避している。
    • 尚、同時期に硫黄島上陸作戦があり、レイテ沖海戦からここまで伊勢・日向の四航戦を執拗に付け狙っていた米機動部隊は、上陸支援のため南シナ海にいなかった。潜水艦及び陸上機による攻撃はあったものの、空母群が待ち構えていなかったのは救いであった。

坊ノ岬沖海戦

  • 坊ノ岬沖海戦では、敵機動部隊の艦載機の猛攻により僚艦が被弾し、撃沈されたり、航行不能に陥る中、唯一被弾なし・戦死なし・戦傷2名という正真正銘の奇跡を成し遂げ、最終的に多くの生存者を救助して帰還した。*28
    坊ノ岬沖海戦での初霜

    坊ノ岬沖海戦での初霜

    • 当初は大和斜め後方に配置されていたが、浜風の轟沈と矢矧の落伍を見るや艦長の独断で前進し大和の側方に占位。
      しかも途中からは通信設備を損傷した大和から「通信ヲ代行セヨ」との手旗信号を受け、大和の手旗信号や発光信号を読み取り転送しつつ、雷爆撃の暴風雨の中心で戦い抜いた。
      • 初霜艦長の酒匂雅三中佐(海兵62期)の談によれば「護衛艦が沈んだら意味をなさない。護衛の目的を達するため全力を尽くした」との事。
        初霜の「戦艦の護衛なら、任せてね♪」という台詞は大和を守れなかったものの最後まで沈まずに護衛艦として奮戦した事から来ているのかもしれない。
    • 激闘2時間。ついに大和は爆沈した。
      初霜の機銃指揮官らは指揮棒でデッキを叩き「大和がやられた!」と絶叫、地団駄踏んで悔しがり、機銃員たちもみな声を震わせて男泣きに泣いたという。
      初霜はなお健在であったが、護衛に当たっていた二水戦には大きな被害が出ていた。
      • 大和が沈んでも雪風の寺内艦長は闘志満々で、初霜に接近するや「沖縄に突っ込もう」と手旗信号で誘いをかけてきた。だがその時にはすでに連合艦隊司令部より反転命令が下っており、結局生存者救助ののち佐世保に帰投することとなった。初霜は矢矧浜風乗員を救助。その後、矢矧に乗艦していた第二水雷戦隊の古村啓蔵司令官を救助、並びに二水戦将旗を収容。最終的には乗員430名を含め、総勢約740名が乗っていたという。*29
      • 矢矧の乗組員の救助に向かう際、後進で佐世保へ帰投しようとする涼月と遭遇している。前進すると沈んでしまう程大破し、ジャイロコンパスが壊れ海図も焼失してしまった彼女のため方角の照合を手伝っている。
        涼月はその後いったん行方不明となるが、8日の14時過ぎに満身創痍になりながらも(帰投直前には漁船に「護衛」されながら)佐世保へ帰投することが出来た。
      • 既に沈没したと思われていた涼月が姿を現した際、佐世保は大歓声に包まれた。
        工廠はサイレンを鳴らし、初霜、雪風、冬月をはじめとした港内全艦艇も一斉に汽笛を吹鳴して涼月生還を祝ったという。*30
  • 海戦後、初霜は二水戦の最期に立ち会った。
    佐世保へ帰投後の1945年4月20日13時、第二水雷戦隊の解隊に際する訓示、延いては解隊式が初霜にて行われたのである。
    華と謳われ、数々の仲間たちが散って逝った二水戦。初霜の「お疲れ様」という言葉は、きっと皆に届いたはずである
    • また余談ではあるが、初霜が付けている髪留めは乗員救助を行った矢矧のものではないかと言われている。
      卯月加古等の例があるが、矢矧の方が後から実装されているので真相は運営と絵師のみぞ知る所である。*31
    • 第二水雷戦隊司令部1945年4月10日付、天一号作戦海上特攻隊戦闘詳報には次の戦訓が記されている。
      “作戦は飽く迄冷静にして打算的なるを要す徒に特攻隊の美名を冠して強引なる突入戦を行ふは失ふ処大にして得る処甚だ少なし”
      初霜改二における戦績表示台詞こそ、実に水雷戦隊最後の願いだったのではないだろうか。

本土決戦

  • 最後は本土決戦に備え、ついに雪風と第十七駆逐隊を組む。もはや両艦とも隊を成すべき姉妹は無く、生き残ったもの同士で編成されたのである。
    7月30日、停泊していた宮津港が米機動部隊による空襲を受けた。これが初霜最後の戦いとなった。
    宮津港空襲での初霜

    宮津港空襲での初霜

    • 両艦共に奮戦し、酒匂艦長も艦橋天蓋のハッチを開けて指揮を執った。蛇行運動により投弾を回避するも、一弾が至近弾となり、第三兵員室に破孔が生じ浸水発生。応急修理されるも蛇行運動の継続もあり、浸水の度は増していった。
      対空戦闘は30分余り続き、艦長自身負傷するも辛くも第一波の攻撃から難を逃れたのである。
      • だが雪風とともに陸岸で難を逃れようとした*32*33ところ触雷。触雷時の衝撃により機関室の前部で切断された状態となり、更に浸水が増し、右舷に大きく傾斜し始めた。そこで沈没を免れるために強引に獅子崎付近に擱座させ、そして傾斜が三十度に達したとき総員退艦がなされた。離艦した直後に第三兵員室付近で再度大爆発を起こし、後部マストが後方艦影の水面下に没するのが視認された。このとき艦の上空にはまた米艦載機が飛来するのがみられ、そのうち1機が艦の沈没を確認するように超低空で旋回を繰り返していた。
      • 終戦僅か2週間前のことであった。戦死者15名、負傷者約60名。彼女は戦時中に駆逐艦以上の艦艇で一番最後に行動不能となった艦艇となった(なお雪風は幸いにもこの日の攻撃を耐え、晩に近くの伊根港に入港している)。
        • ただし、終戦をポツダム宣言を受諾した8月15日ではなく正式に降伏文章に調印した9月2日とするなら、戦時中に駆逐艦以上の艦艇で一番最後に行動不能となった艦艇は8月22日に触雷着底した駆逐艦朝顔となる。
          また、日本海軍(当時は第二復員省)最後の駆逐艦喪失は、昭和21年6月7日に座礁して放棄された駆逐艦神風である。
      • 問題のものは回数機雷で、まず雪風が接触、その後彼女が触れたとき爆発カウントに達してしまったのだ……。
        ただ戦闘詳報に回数機雷の記述はなく、初霜艦長の沈没時の証言にも雪風に続いて回数機雷に触れた経緯はなかったりする。
        • 回数機雷説は当時の海軍記者(新聞記者)と*34、終戦の年に生まれた作家が、それぞれ戦後に執筆した戦記で発表した話だが、公式記録とも言えないので、下記「戦艦大和ノ最期」の一件と同様、取り扱いには注意すべし。
          駆逐艦、水雷艇と哨戒艇、および海防艦全隻の履歴を記録した「護衛部隊の艦艇」の(二)P41において、"艦は1000、湾内において、米軍の磁気機雷に触れ、後部砲塔付近で爆発、キール折損"と、爆発した機雷が回数機雷では無く磁気機雷である事が記述されている。
        • 大戦末期に米軍が港湾封鎖に用いた機雷はMk.25機雷及びその派生型。磁気・音響・水圧で感応し、回数起爆設定が可能なもの。高性能すぎてアメリカ軍自身が戦後に処理できず、現在でも海上自衛隊が捜索・処理を続行中である。
        • このように回数機雷・磁気機雷のどちらだったのかは様々な記述があり、上記のような両方の特徴を持った機雷も使用されていた為、今となっては判断が難しいものになっている。

戦後

  • 尚、戦後もしばらく放置されていたこともあり、いくつかの航空写真でもその姿を見ることができる。(国土変遷アーカイブ内の地図・空中写真閲覧サービス参照。有志作成の比較写真→)
    初霜の戦後

    初霜の戦後

    • 戦後長く放置されたのは、呉空襲によって行動不能となった艦達は動かす燃料も無く対空戦闘後「大破着底」したのに対し、初霜は機雷で損傷後酒匂艦長の指示によりそのまま獅子崎付近(Google Map )に突っ込み「擱座」させられたためである。
      • 損傷していたとはいえ、勢いよく突っ込んだためか船体が岸にめり込んでおり、水中爆破を行ってようやく曳航できた。
        しかしめり込んだ船体部分は残ったままで、現在でも初霜が擱座した海岸付近では網が曳けないという。
        初霜より戦後処理が遅くなった艦艇は、現在艦これに実装されている中でも雪風木曾明石ぐらいである。
    • 1948~51年に浮揚され、舞鶴にて解体。波乱の生涯に幕を下ろした。
      • 墨田区の山田記念病院に錨が現存する。幅約2メートル、重さ2トン。全体が黒いペンキで塗られている。これは昭和15年から一年間 彼女に軍医中尉として乗り組んだ病院創設者山田正明元軍医少佐(昭和14年任官)が54年に戦後直後から開設していた当院の改築をした際に、記念となる海軍の遺品を展示しようと、大阪の船具屋でスクラップとなっていたものを捜し出し引き取り、当院の玄関に置いたものである。当初は「海軍の思い出を宣伝には利用したくない」ということで出所の説明を添えていなかった。しかし昭和60年7月31日に大和が海底から発見されたとのニュースに接し、「これも何かの縁」と思い、錨を改めて紹介することを決意し、説明板を設置した。山田院長はこれに際して「大和はあのまま静かに眠らせてやってほしいが、かわりに初霜の錨を展示することで、人々の記憶に海軍の栄光と悲劇をとどめたい」と述べた。それに因んでか、病院のシンボルマークも錨。
        • ちなみに坊ノ岬沖海戦を共に生き残り最後の駆逐隊を組み、初霜の最期を見届けた雪風も錨が現存している。
      • Googleストリートビューでも見ることができる。
  • 有名な「戦艦大和ノ最期」での記述を元に、いわれなき汚名を着せられることがある。
    初霜のいわれなき汚名

    初霜のいわれなき汚名

    • 上記「戦艦大和ノ最期」では、初霜救命艇で乗員が軍刀を振るい、群がる救助者の手首を斬り落として転覆を防いだという話が記されている。
    • だがこれは完全に事実無根であり、初霜乗員(批判の的にされた救助艇の指揮者本人も含む)はもとより雪風大和の乗員たちも口々に否定している。
      そもそも彼女が救助したのは矢矧浜風の乗員であり、大和の乗員は救助していない。
      • しかし著者の吉田満氏は猛抗議を受けても訂正をせぬまま死去し、今でも初霜乗員の蛮行として語られてしまうことがある。
        「一隻でも一人でも、救えるならば私は、それで満足なの!」、MVPでそう語る初霜の背景には、当然この拭い切れない風評被害があるのだろう。
      • 手首斬りの記述は、昭和21年にGHQによって発禁処分となった原文(初稿)には含まれていない事が既に確認されている。
        可能性としては、救助時に使う竹の棒(縄を投げても沈んでしまう)を見間違えたことが考えられる。
  • 初霜の慰霊碑は佐世保東山海軍墓地に建立されている。
    また最後に第十七駆逐隊に編入されていた縁から、呉海軍墓地の長迫公園にある「第十七駆逐隊之碑」にも初霜の名が刻まれ、合祀されている。
  • 初霜最後の艦長酒匂雅三少佐は、太平洋を縦横に走り、激務をこなしてきた叩き上げの駆逐艦長である。
    • 彼は初霜に坊ノ岬沖海戦を無傷で切り抜けさせ、宮津湾で触雷し行動不能となる7月30日まで艦長を務めた。最後の戦闘の際に負傷し大怪我を負ったが命は取り留め、終戦後にの艦長を務めた後、昭和21年に京浜産業を創業させている。
    • ちなみに、先述の十七駆逐隊之碑に初霜の名前が刻まれたのは彼の働きかけのお陰もある。
    • ネット上には終戦後の酒匂艦長の談話が存在する(リンク先ページ下部『宮本作成資料 駆逐艦「初霜」』項内)。初霜という艦について、終戦末期の当時の厳しい状況について知りたい提督には是非読んでいただきたい。
  • 2014年3月現在、初霜の名前は海上自衛隊には受け継がれていない。坊ノ岬沖海戦で共に生存した「雪風」は戦後すぐに、「涼月」「冬月」も2014年に同時就役を果たした新鋭艦が継承したので、残る彼女の復活も心待ちにしたいものである*35
    • なお彼女は二代目で、初代は神風型(初代)の2番艦。国産駆逐艦としては最古参の艦であった。他の第二十一駆逐隊もこの頃からの姉妹である。
  • ただし、海上保安庁の巡視艇にはその名が存在した。
    • しらうめ型巡視艇(旧・海軍25トン内火艇(砲艇型))「はつしも(CL-61)」がそれである。
    • なお、姉妹艦は「きよしも」であった。

その他

  • 現段階の実装済み艦娘でブレザーなのは初霜と一つ上の姉鈴谷熊野の4隻だけである。
    • 艦娘の制服としてはセーラー服勢が多い。セーラー服は水兵の制服としても女学生の制服としてもなじみ深いからだろうかちなみにブレザーの語源はイギリス海軍という説もあるらしい。ブレザーは全く海軍と関係ない訳ではない。
    • 初霜を含む上記4艦はマル1計画で建造され、いずれも建造中に艦型変更を受けた経緯を持つ艦同士である。
  • ハツシモという米がある。岐阜で作られ、大粒で歯ごたえがありサッパリ味。粘り気が控えめで寿司飯にも向く米でJAぎふのイチオシだとか。同じくイチオシである相方はコシヒカリ。
    ユキカゼとかヤハギという米は残念ながら存在しない。ヤマトライスというブランドを持つ企業はある。
    • この米を使って造られた初霜という酒もある。また雪の風大和川といった酒は存在する。ちなみに艦これ実装済み初春には全員同じ名前の酒が存在しているようだ。提督業のお供に是非。呑み過ぎは駄目、ですからね?
  • DMM-NEWSの記事で、初霜がピックアップされた。第二次世界大戦当時における駆逐艦という艦種の役割を簡潔に解説した上で初霜の艦歴を投影し、それが最も顕著に表れているセリフで締められている。提督なら一度目を通して損は無い記事であろう。
    参考文献

    参考文献
    『駆逐艦「初霜」』(初霜戦友会)―元乗組員よる戦友会誌。
    「オール駆逐艦便り」(オール駆逐艦刊行会)―曙の通信士だった人物が発起人となった、戦時中に活躍した全ての駆逐艦を通した情報誌。各艦の乗組員の投稿文や戦友会情報などが載っており、特定の駆逐艦のことを調べたかったら機会があれば是非活用されたい(ただしあまり情報が載っていない艦もある)。初霜に関してはかなりの文章量があり、かなり資料価値がある。また刊行していた時期と慰霊碑建立の時期と重なっており、当時の建立の意気込みやかかった費用などまでわかり、面白い。
    『無二の航跡』―(海軍兵学校62期私史刊行委員会)海軍兵学校62期生の記録である。62期生である酒匂雅三艦長が自身の海軍人生を振り返った回顧文も載っている。北号作戦時に於ける同期生とのエピソードは興味深い。
    『続・艦長達の太平洋戦争-17人の艦長が語った勝者の条件』(佐藤和正 光人社)―酒匂艦長に対するインタビューが載っている。
    『艦長達の太平洋戦争-51人の艦長が語った勝者の条件』(佐藤和正 光人社)―上の図書の正・続巻が一冊にまとめられたもの。
    『語り伝える京都の戦争 2 京都空襲』(久津間保治 かもがわ出版 1996)―宮津空襲についての場面で初霜の奮闘振りと最期の様子が記されている。他に長鯨のことも述べられている。

  • 公式4コマ第117話は初霜改二回だった。
    扉から最後のコマまで初霜と若葉のコンビが出ずっぱりで、全国の初霜提督が歓喜した。

この艦娘についてのコメント

  • 思うところあって終戦の日に指輪を渡しました。宮津も行きたいね。手始めに、ちびランボー怒りの欧州戦線のはじまりだ。 -- 2021-08-15 (日) 01:22:44
    • 宮津で動けぬまま初霜が見上げていた終戦の日の空は、どんなだったのかねぇ…。 -- 2021-08-15 (日) 09:30:05
  • 長鯨の放置ボイスで雪風と初霜に言及するみたいね -- 2021-08-26 (木) 07:45:38
  • ふらりと立ち寄らせていただいたのですがwikiを一通り読む中で坊ノ岬沖海戦後に総勢740名になったと記載している。ところがリンク先の宮本作成資料 駆逐艦「初霜」では酒匂艦長いわく2,800名になったとある。大敗北後の恐慌状態の話で有り、火気満載の駆逐艦に2,800人も乗るのか?という疑問もあるが人数が乖離し過ぎていてモヤりました。この辺の整合性は詳しい方はいらっしゃるのでしょうか? 話変わって去年の舞鶴砲雷撃戦の後、丹後由良駅から天橋立まで足を延ばしたのですがそこが初霜終焉の地とは思いもよらず・・・次回行く事があれば手を合わせたく。 -- 2021-08-28 (土) 22:00:21
    • 多分、【正】「救助したので800名位になった」→【誤】「救助したので2800名位になった」の誤植ではないかと。復員輸送任務で重そうな武装を外した雪風でも一度に送り届けた人数は1000名+乗員120名ほどなので、駆逐艦に2800名はとても無理(汗 -- 2021-09-01 (水) 00:16:31
    • 3000人と言ったら大和型やアイオワ級のような巨大戦艦の搭乗者数だ。その大和の戦死者が約2800人だから執筆した時その数字が紛れ込んだのでは? -- 2021-09-01 (水) 17:43:36
    • 木主ですがやっぱですよねー。 負傷者もあふれるなかで740名でもえらい事になったであろう事は推察されます。 2,800名くらい助けたかった・・・と言う事で解釈します。返信ありがとうございました。 -- 2021-09-05 (日) 17:17:40
  • 初霜、弄るぞw -- 2021-10-03 (日) 01:25:44
  • 初霜ちゃんが超強化されてしまった・・・もふろう -- 2021-10-15 (金) 19:53:38
  • 今年も北の方から徐々にもふが出現する時期になってきたなぁ…… -- 2021-10-24 (日) 09:16:26
  • 今日は88回目の進水日……生きてりゃ米寿か。せめて艦これの中では、これからも明るく元気に過ごしてもらいたい。 -- 2021-11-04 (木) 23:26:34
  • 44年初頭に被雷し初霜らが護衛した雲鷹が艦隊に合流するとのこと(今日のメンテで -- 2021-12-28 (火) 02:51:01
    • 雲鷹から助けを要請され雲鷹が瑞鳳からもらった大量の卵焼きの消費を手伝ってる模様 -- 2021-12-31 (金) 04:45:08
    • 初霜たちは直接瑞鳳を護衛してコレステロールいっぱいの日々で難航してたのに背後から増援を呼ばれたよ! -- 2022-01-08 (土) 09:35:52
  • 夏の季節ボイス、夏真っ盛りボイスなのでは? -- 2022-01-06 (木) 21:50:55
  • 人任せで申し訳ないのですが、「雲鷹護衛時の初霜」のところにある玉波は今回のイベントで実装されたのでどなたか訂正お願いします -- 2022-03-16 (水) 17:45:24
  • 初霜→はつしもふもふ→ハツシモフモフ→ハツシモフ→ソ連ぽい→同志誕生 -- 2022-05-03 (火) 10:48:33
  • 初霜の夜のバーカウンターはビール。うーん渋い! -- 2022-06-15 (水) 20:11:05
  • 「いつかあの海で」の現代パートで初霜の後ろにあった病院って…。 -- アーケード提督? 2023-04-02 (日) 17:18:31
    • 本所のあの病院よ。錨のマークの -- 2023-04-02 (日) 17:42:52
  • 小ネタの初霜のいわれなき汚名は完全に事実無根はさすがに断定しすぎ。大和乗員の江本大尉と匿名の証言者(乗艦不明)は別人(「戦艦大和ノ最後」 p133 10行目 江本大尉の記述 p134 5行目 証言者の記述)可能性としては、定員オーバーで転覆するはずの救助艇が謎の浮力を得た。もしくは「救助艇の乗員が外聞が悪いのでうそをついている」 -- 2023-04-08 (土) 17:11:59
    • フィクション混じりの文章で可能性があったとするのは横暴だしリテラシー無さすぎ。現代のSNSか? そういうところまで「いわれなき汚名」なんだぞ。可能性とやらの甘えずに証拠を示すべきは、それが行われていたとする方だ。証拠があるなら耳を傾けられる。それがないから「事実無根」なわけで。火のないところに煙は立たない論は通用しないぞ。 これを断定しすぎというなら、戦争始まりから終戦までのありとあらゆる艦艇及び事象を全て検証し直さなければならないな。例えば、初霜がs最後に被爆した機雷の起爆要因とかもね -- 2023-06-07 (水) 03:13:42
    • というか調べればいくらでも否定材料は出てきますよ。 -- 2023-06-07 (水) 03:32:25
    • 反論はいくらでも出てくるが、印象論以外の肯定意見が見当たらないからなぁ。そもそも、まず著者が「ノンフィクションだと言った覚えはない」とかゲロったのがおもろい -- 2023-07-07 (金) 11:19:10
  • 乗りものニュースにて「進水式の“縁起悪さ”を一挙挽回! 旧海軍艦艇で屈指の武勲艦「初霜」形見は今も東京に」8月14日、初霜特集にて掲載されております。各自記事を見てください。初春型のごっつい写真もいくつか掲載。 -- 2023-08-14 (月) 09:57:07

*1 母港ボイスは各艦娘につき3つ割り当てられています。「詳細」ボイスは編成画面の「詳細」ボタンをクリックすることで聞くことが出来るボイスです。母港画面でも聞くことが出来ます。「母港3」ボイスは「母港画面でのクリック」もしくは「母港画面への遷移」でのみ聞くことが出来る、いわゆる「提督お触りボイス」です。編成画面での「詳細」ボタンでは聞くことが出来ません
*2 4つの基本ボイス(昼戦開始・昼戦攻撃・夜戦開始・夜戦攻撃)がありますが、各ボイスはその他の色々な場面でも使われます。各ボイスをどのフェーズ(航空戦/開幕雷撃/先制対潜/昼戦攻撃/各種CI...など)に割り当てるかは艦娘によって異なり、例えば開戦ボイスを攻撃でも使ったり、夜戦攻撃ボイスを昼戦でも使ったりします)
*3 「小破」ボイスの2つ目と戦闘撤退時の「旗艦大破」ボイスは共用化されています
*4 「小破」ボイスの2つ目と戦闘撤退時の「旗艦大破」ボイスは共用化されています
*5 装備ボイスは3ボイスありますが、改修/改造ボイスと共用化されています。また、ボイス3は「改修/改造」「開発」「バケツによる即時修復」「遠征出撃」「アイテム発見」ボイスと共用化されています
*6 共に行動した艦としては初春若葉子日雪風卯月長波浜風阿武隈長良能代矢矧等々。護衛した艦は大和千歳日向伊勢瑞鳳龍鳳妙高等々。
*7 サービス開始から1年半近く追加要素はゼロでゲーム以外でもメディアミックスや公式絵師の書き下ろしでの登場はほぼ皆無、一時期はファンによるイラスト数も深海棲鬼含む全キャラクター中最下位クラスである有り様だった。
*8 子日改を組み込まないでも達成できるが、その場合、子日の任務達成ボイスはオミットされる
*9 コンセプトは「新任教師(のような)」とのこと。
*10 Внезапный。
*11 沢風艦長職を引き継いだ相手が若葉最後の艦長となる二ノ方艦長。同じ鹿児島出身の先輩後輩の間柄でもある。戦後、初霜戦友会が発行した本にも寄稿している。
*12 姉である若葉と比べると起工したのは遅いが、先に竣工したのは初霜である。設計に起因する問題で建造中から色々と手を加えられるはめになったのだが、その辺の事情は初春を参照。
*13 出典:「駆逐艦神風電探戦記」光人社NF文庫。
*14 一方、姉妹最初の戦没艦深雪狭霧子日山風や建造されて僅かな期間しか活躍できなかった高波涼波らも浦賀船渠出身である。
*15 一般に進水式を行う日は「大潮」であり、なおかつ六曜が「大安または友引」である方が縁起が良いとされるがそれが絶対条件と言う訳ではなく、あくまでも「その方が望ましい」という程度だった。(参考) また駆逐艦の進水式に関しては明治35年5月以降、鎮守府長官が随時執行しうるように制度が改正されている。(『世界の艦船』2013年9月増刊号より) ただし進水式失敗という事自体が極めて稀なことであり、参考にできる資料が少ないことからより確実な検証が待たれる。
*16 進水式で失敗したりトラブルに見舞われるのは大変縁起が悪いこととされる。実際、進水失敗した巡洋戦艦筑波(弾薬庫爆発事故で轟沈)や艦首のくす玉が割れなかった戦艦土佐(軍縮条約のため未成、標的艦処分)、ドック内壁に激突損傷した空母信濃(生まれて10日で撃沈される)や悪天候に見舞われた空母翔鶴(言わずもがな…しかも、翔鶴最後の艦長が初霜艤装員長・初代艦長の松原中佐(大佐)。)など、散々な生涯を送った艦は多い。
*17 時雨戦没の1月24日まで。除籍は霞編入と同時の3月10日。
*18 2月10日編入、5月25日除籍。
*19 3月10日編入、5月25日除籍。
*20 坊ノ岬沖海戦時の17駆司令艦は磯風だったが、雪風が磯風に横付けし司令部を含む生存者を救助していた。
*21 根拠地隊の任務は、占領地に設けられた海軍基地の防衛と管理。代打とはいえ、初霜は警備隊長として指揮を執ったのである。
*22 大鷹型の二番艦。元は客船だった船が戦争がきっかけに空母に改装された。ちなみに戦前まだ客船だった頃、姉妹艦の大鷹、沖鷹と共に女性に擬人化されたことがある。
*23 そして海風はトラックへ向かう途中で潜水艦に撃沈されてしまう。幸不幸は紙一重である。
*24 これらの艦が横須賀で補給している間、雲鷹の護衛は沖波岸波が引き継いでいる。
*25 艦これ未実装の神風型9番艦。夕凪2代目。
*26 運良く小型爆弾で、それも瞬発信管を付けていたため。敵機も突然初霜たちに出会って、地上攻撃用か何かの爆弾をとっさに投下したものらしい。これが大型爆弾だったり対艦用遅発信管を付けていたら、まず前部弾薬庫爆発は免れない。
*27 竹は第七次多号作戦で僚艦「桑」と2隻で行動中、優勢な米駆逐艦3隻に捕捉され、桑を失いつつも雷撃で米駆逐艦1隻を撃沈して生還した武勲艦である。2020年12月10日実装
*28 この海戦の結果、大和、矢矧、朝霜、浜風が沈没。磯風、霞は航行不能にて処分され冬月、涼月は生還したがそれぞれ中破、大破。雪風は不発弾の直撃を受け死傷者を出した。このような大激戦の中、一際旧式でかつて失敗作の烙印を押された初春型の初霜が下記を含めた偉業を成し遂げたのである。
*29 新たに追加された放置ボイスで、初めて他艦に言及する相手が矢矧と浜風なのはやはりこのエピソード故であろう。なお軽巡の矢矧のみならず、同じ駆逐艦で後輩の浜風にも初霜はさん付けで呼びかけている。
*30 しかし既に係留する余裕もないほどに浸水が進行していた。佐世保到着時でさえ艦の中央部の乾舷が50cmを切り、艦首を引き摺ってバックで航行している有り様であったのだ。並のドックでは艦首が引っかかりトドメを刺してしまう恐れもあったため、曳船が無理やり本来の主を失った第七船渠へ引きずり入れたが、入港時に前進で入港したことがさらなる浸水を引き起こし、ドック内で排水を待ちきれずに着底。力尽き果てギリギリの生還であった。涼月は2017年秋イベ捷号決戦!邀撃、レイテ沖海戦(前篇)最深部、E-4のクリア報酬として実装、この極限状況からの生還劇は個別ページに詳しい記述有り。そして2022/03/06、令和4年冬イベント『発令!「捷三号作戦警戒」』E-5突破報酬として冬月もついに実装された。
*31 さらに初霜改二では濃紺でボロボロの鉢巻を身に着けるようになり、これも矢矧のネクタイ型スカーフではないかという説が浮上している。
*32 空中から投下する機雷はどうしても岸に投下するのは難しいため。第十七駆逐隊の司令から陸側に寄せて難を逃れるように地上から指示が飛んでいたが間に合わなかった。
*33 因みに南方の戦いで機雷に散々悩まされてきた雪風は言われるまでもなく陸側を移動・回避していた。
*34 伊藤正徳著「連合艦隊の栄光」。同著では初霜が宮津湾空襲を耐え抜き、舞鶴に移動中被雷している記述である事から創作であると判明している。実際は雪風と共に舞鶴に移動したのは潜水母艦「長鯨」で、両艦の中間付近で機雷が爆発したため被害は出ていない。
*35 駆逐艦級護衛艦はあさひ型2隻で当面打ち止めとなり、現在は多用途フリゲート級のもがみ型の建造にシフトしている。このもがみ型は沿岸警備艦の命名規則、つまり帝国海軍の軽巡洋艦の命名規則である河川名から名付けられているため、当面...