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艦隊これくしょん -艦これ- 攻略 Wiki*
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|CENTER:218|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|c
|>|>|>|>|~No.239|
|&attachref(./239_2nd.jpg,nolink,Fleet information? 了解、待ってて。);|>|Warspite&br;(ウォースパイト)|>|Queen Elizabeth級&br;2番艦 戦艦|
|~|>|>|>|~艦船ステータス(初期値/最大値)|
|~|~耐久|72|~火力|72 / 92|
|~|~装甲|72 / 91|~雷装|0|
|~|~回避|26 / 54|~対空|38 / 88|
|~|~搭載|12|~対潜|0|
|~|~速力|低速|~索敵|14 / 48|
|~|~射程|長|~運|55 / 89|
|~|>|>|>|~最大消費量|
|~|~燃料|90|~弾薬|110|
|~|~搭載|>|>|~装備|
|~|3|>|>|[[38.1cm Mk.I連装砲]]|
|~|3|>|>|未装備|
|~|3|>|>|未装備|
|~|3|>|>|未装備|
|>|>|>|>|~改造チャート|
|>|>|>|>|''Warspite'' → [[Warspite改]](Lv75)|
|>|>|>|>|~図鑑説明|
|>|>|>|>|LEFT:&ruby(クイーン エリザベス クラス){Queen Elizabeth Class};((クイーンエリザベス級)) &ruby(バトルシップ){Battleship};((戦艦)) 二番艦、Warspiteです。&ruby(アドミラル){Admiral};((提督)).よろしくお願いしますね。&br;生粋の英国生まれ
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。
#fold(CV:内田秀、イラストレーター:コニシ (クリックするとセリフ一覧が開きます)){{
CV:内田秀、イラストレーター:コニシ
#shadowheader(2,[[定型ボイス一覧>Warspite/定型ボイス]])
#table_edit(Warspite/定型ボイス)
~
#shadowheader(2,[[時報ボイス一覧>Warspite/時報ボイス]])
#table_edit(Warspite/時報ボイス)
~
#shadowheader(2,[[季節ボイス一覧>Warspite/季節ボイス]])
#table_edit(Warspite/季節ボイス)
~
}}
*ゲームにおいて [#about]
-2016年夏イベント『[[迎撃!第二次マレー沖海戦]]』の最深部[[E-4>迎撃!第二次マレー沖海戦#area4]]クリア報酬。初のイギリス艦娘。
--改造にLv75も必要。ついに[[大和]]の最高改造レベルが陥落し、またこのレベルは大半の改二改造もできるレベルである。((改造可能レベルに必要な経験値はなんと319000。演習で旗艦にして1500の経験点をコンスタントに獲得できると仮定しても212戦の演習が必
--[[大型艦建造]]で、指定の秘書艦[[金剛改二]]/[[改二丙>金剛改二丙]]で建造可能。
---Warspiteを秘書艦にすると、同時に追加された[[Ark Royal]]を建造可能になる。
**基本性能について [#spec]
-戦歴を反映してか、運の初期値が何と55と改装前の雪風を上回っている。&color(Silver){不運ネタはかなり多いんだが……。};&color(Silver){どんな目に遭っても沈むことだけはない、という、ある意味無慈悲な一点評価なのかもしれない。};
--惜しむらくはその高い運を活かす局面が、水雷戦隊系の艦種に比べて少ないことである。
---ただ運による命中補正も馬鹿にできないため、そういう面では他艦に比べ頭一つ抜けている。
-旧式艦という位置づけらしく、低燃費かつ改造しても燃費が変わらない。
--改造レベルが遠いので未改造で運用する期間が必然的に長くなるが、[[金剛型の改>金剛改]]と同等のスペックを持つので特段不利は感じにくいだろう。
--それでいて[[改造後>Warspite改]]は[[金剛型改二>金剛改二]]に迫る性能を持っており、普段遣いに、イベント時には支援艦隊にとワークホースとして使いやすい艦。
しかし金剛型と同じ感覚で使うなら低速戦艦である事には留意したい。回避が低いのも気になる。&color(Silver){史実で脚回りに爆弾持ちなので仕方ない所ではあるが…};
-ちなみに''速力が低速の戦艦''の新規実装は2013年の[[武蔵]]から数えて2年半ぶりである。
実装当初は既存の低速戦艦と仕様・任務対象が異なることから若干の混乱も巻き起こしたとか。
**アップデート履歴 [#update]
-2016年 08月12日:実装。
-2020年 10月16日:[[大型艦建造]]に追加された。
**その他 [#other]
-艦船図鑑ではWarspite(No.239)の隣に[[Iowa]](No.240)が位置している。&color(Silver){海外艦娘のゲスト枠なのかもしれない};
-これまでに実装された海外の戦艦は、[[独>Bismarck]][[伊>Littorio]][[米>Iowa]]のいずれも「最新鋭かつ最後に建造された型式」が実装第一号だったが、英国に関してはその法則が崩れている。
&color(Silver){提督たちに根強く信じられていたジンクスや法則の類が新実装にあっさり破られるのは、艦これではよくあること。};
--実際の艦の戦歴や古くからの知名度からみたら英戦艦実装の一番手に選ばれるのは妥当ではあるのだが……。
-マンスリー任務『[[「水上打撃部隊」南方へ!>任務#id-Bm4]]』では自由枠扱いとなるので注意。
--この任務の前提任務である「戦艦を主力とした水上打撃部隊を編成せよ!」で大和型・長門型・伊勢型・扶桑型が指定されているため。仕様です。
-提督たちからの愛称は「スパ子」「ウォー様」など。
**キャラクター設定について [#character]
-発音がとにかく流暢。彼女を秘書艦にすると執務室が語学研修の場に早変わり。この機会に英語を本格的に学んでみるのも良いかもしれない。%%バロシッ%%
--声を担当した内田秀さんは、なんとこれが声優デビュー初仕事。((加えて20歳デビューに対しオーストラリア在住18年の帰国子女である。日本の英語教育で聞き慣れない一部の発音は、オーストラリア英語の性質であるようだ。))今後に期待大である。
--英語の特技を活かし、「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」ではミア・テイラー役に抜擢された。異例と言える全英語歌詞の曲も披露している。
-イラストで身につけているのはイギリス王室伝統の王冠・王笏・宝珠の3点セット。ロイヤルなネイビーのロイヤルなクイーンここにあり。
--''レガリア【regalia】''(英語発音では“リゲィリア”)と呼ばれる王権象徴のための器物で、日本でいうところの「三種の神器」に相当する。
--これらの装飾にはマストやブリッジをイメージしたデザインが取り入れられている。
--強く人目を惹く「玉座型艤装」((腰掛けるタイプの椅子型艤装は[[伊58]]が初である。))は、舵を始めとした足回りの不具合に艦歴の最後まで苦しんだ実艦の史実にからめられて車椅子のイメージが付与され、「'''''足が不自由'''''」という解釈が二次創作のあち
---ちなみに艤装を接続したまま立ち上がり玉座の背を畳むことで、見た目オーソドックスな「戦闘展開mode」となる模様。
---艦これアーケードでは遂に2019年9月下旬にWarspiteが実装され振る舞いが注目されたが、航行・砲撃シーンは座りっぱなしで行っておりなんともシュールな光景である。
なお、カットイン砲撃は[[SEGA公式紹介動画>https://youtu.be/q7h4HBeAD4I?t=107]]のように玉座から立ち上がって砲撃を行っている。ちなみにMVP時や秘書艦にした際も母港では立っている。
--イラストは第二次近代化改装後、迷彩と機銃の強化を施した第二次世界大戦中の姿を再現している。
---ロイヤルでクイーンな姿は一見すると1番艦クイーン・エリザベスを連想する向きもあるが、イラストではメインマスト型王笏の太い柱(QEは三脚楼なので単脚楼のウォースパイトより細い)、38.1cm砲塔上の円筒形のエリコン機銃座(QEでは支柱が入っている)、
-午後9時の時報で[[Zara]]・[[Pola]]に逃げられているのは、史実のマタパン岬沖海戦において両艦が交戦し、姉妹艦とともに彼女たちを撃沈しているため。
-午後10時の時報で言いかけているのはドイツの誘導爆弾[[フリッツX>Do 217 K-2+Fritz-X]]のことと思われる。[[Italia]]・[[Roma]]同様にフリッツXによる空襲を受け、ボイラー室大破・航行不能などの被害を受けた。
-梅雨限定ボイスにて「雨の時期は古傷が痛むので苦手」と言及する。史実を察するに、体中古傷だらけだろう…。
--晩秋ボイスでも言及しており、特に「フリッツX」のことを思い出すと不意に痛み出す様子。
**[[限定グラフィック>艦娘カード一覧(期間限定グラフィック)]] [#graphic]
-2018年1月1日のアップデートにて、晴れ着modeが実装された。
--これまでは立ち姿はラフ絵のみだったが、ようやく公式絵でも立った姿を見せてくれた。はしゃぎ様が大変かわいい。&color(Silver){そして中破絵でしょげた姿も大変かわいい};
-
#fold(限定グラフィック:晴れ着mode){{
限定グラフィック:晴れ着mode
&attachref(./239_Nensi_2018.jpg,nolink,Best wishes for the happy new year Admiral!);
}}
-2023年11月28日のアップデートにて、【Xmas】modeが実装された。
--暖かそうな紅白のワンピースの上から、紅白のケープを羽織った姿。楽しげに笑う姿が大変可愛らしい。
--いつものレガリア三点セットは装備しているものの艤装は簡易的ものになっており、武装は腰から伸びた主砲塔一基だけとなっている。
-
#fold(限定グラフィック:Xmasmode){{
限定グラフィック:Xmasmode
&attachref(./239_Xmas.png,nolink,Admiral!Happy Christmas!今日は飲みましょう、乾杯!いいわね、こんな日も。);
//中破絵は無しで
}}
*小ネタ [#trivia]
&size(16){''「戦いのあるところ必ず'''Warspite'''あり、と海軍では言われている」'' };((1944年6月7日 英タブロイド誌「デイリー・ミラー」より))
-イギリス海軍のクイーン・エリザベス級戦艦2番艦。デヴォンポート海軍工廠にて1913年11月26日進水、1915年3月8日就役。艦番号は「03」。
第一次・第二次両大戦を戦い抜き、その戦歴から「''&color(Red){傷だらけの不沈艦};''」「''&color(Red){オールド・レディ};''」の異名を持つイギリスきっての、いや世界随一の殊勲艦である。
//
//通常文字サイズに戻したときに「大文字でよかった」というコメントが散見されたこともあり元に戻します。文字サイズは差分『2 (2016-08-13 (土) 00:10:19)』を参考にしています。
//
//無断で小文字に戻した誰かが居るようですが、復帰させます。
//
//wikiでは過度の装飾や拡大文字の使用は極力控えて下さい。強調したい内容は閲覧の見やすさを考慮して強調文字や色つき文字程度で
//
//「wikiでは過度の装飾や拡大文字の使用は極力控えて下さい」とありますが、当Wikiにおいてそのようなガイドライン等は存在するのでしょうか? 普通文字サイズでなければならない等の前例があればご教授願います。なければそれはあなたの単なる主観の問題で
//また「//」で非表示にされていた文章を無断無言で削除するのは混乱と反感を招くだけですので避けた方が無難です。評価が分かれている問題でもありますので、これ以上の議論とするのであれば「提案意見掲示板」への提言を行い、しかる後に新たなるガイドライ
//
//上で無断編集合戦のやりとりをしている当事者たちとは別人ですが、コメント欄にて編集提案・意見募集を行ってから、無断ではない編集をさせて頂きました。
//これにより、文の表示位置は「左寄せ」に決定しています。変更の際は、事前にコメント欄での提案と意見募集を行って下さい。今回は位置だけの変更であり、文字サイズ等についてはノータッチです。
//無断編集合戦を行った方は反省し、すべてのページで二度と無断編集を行わないで下さい。
//
**艦名について [#name]
-Warspite(ウォースパイト)の艦名を持つ艦としては7代目。
--最初に命名されたのが''1596''年のことであり、Warspiteという艦名の正確な由来は今となっては不詳である。
spite(またはdespite)は古い英語で「悪意」「軽蔑的な無視」の意味であり、一般には「戦争を軽蔑する者」の意味と解されている。
また、キツツキ科のアオゲラの一種をspiteと呼ぶことから、「敵の艦体に穴を開ける」という意味合いもあると思われる。ウォースパイトの正式なシップ・クレスト(各艦毎に定められている紋章)は、[[緑地に大砲を描いたもの>https://upload.wikimedia.org/wik
---初代のガレオン船ウォースパイトが建造された16世紀末当時は、スペインと英西戦争の最中であった。「Warspight(Warspite)」という名前は後世一般的になった反戦的な意味合いよりも、敵国スペインに対する軽蔑を込めた命名であったというのが有力な説とさ
---1802年に英国で刊行された艦名辞典では "warlike fury(好戦的な怒り)" の意とされている。(([[William LOSACK. '''The Nautical Nomenclator; Or, Dictionary of the British Navy. In which is Explained the Meaning of the Name of Every Ship ... Belo
---ウォースパイトのモットーは「Belli dura despicio」、ラテン語で直訳すると「戦争の辛苦を軽蔑する」であり、意味合い的には「戦いの苦しみなんてものともしない」という感じになる。だがウォースパイト乗組員は専ら「やれるもんならやってみろ!」という
--アンドリュー・カニンガム中将((Sir Andrew Browne Cunningham(1883~1963)英国海軍提督・地中海艦隊司令長官。英海軍内ではイニシャルからABCとして知られていた。))が語ったコメントから、「グランド・オールド・レディ」(偉大なる老嬢)とも呼ばれる。&
アンドリュー・カニンガムは1943年に地中海艦隊司令長官から第一海軍卿、すなわち英国海軍武官の最高位のポスト((帝国海軍の軍令部総長、海上自衛隊の海上幕僚長、アメリカ海軍の作戦本部長に相当する。帝国海軍は海軍大臣も現役武官制だったり、自衛隊やアメ
--当艦の後は、8代目として1967年就役のヴァリアント級原子力潜水艦2番艦(HMS Warspite, S103)にその名が使われたものの、こちらも色々あって衝突と損傷と修理の連続で1991年に退役。しかし放射能の問題があって現在でも解体されずに静かに余生を過ごしている
--その名を継ぐもの9代目として、4隻が建造・計画中のドレッドノート級原子力弾道ミサイル潜水艦の3番艦がウォースパイトとして2022年9月に起工され、戦艦三笠の建造でも知られるバロー・イン・ファーネス造船所にて現在建造中である。ド級戦略原潜である。&c
#fold(そもそもクイーン・エリザベス級戦艦とは?){{
そもそもクイーン・エリザベス級戦艦とは?
**構想について [#wc1b165d]
-産業革命に先んじたイギリスに対し、ドイツは国力に遅れをとっており、海軍軍備でも歴然たる差が生じていた。しかし、日本海海戦の戦訓を元にイギリスが生み出したドレッドノート級(弩級)戦艦は、これまでの戦艦とは「別次元の強さ」であり、従来型を一気に
-こうして英独の間で弩級戦艦、超弩級戦艦の建艦競争が始まるのである。従来、伝統的政策として「二国標準主義((大陸の有力海軍国フランス=世界二位とロシア=世界三位を合計したのと同等以上の海軍力を整備するマジキチ政策。広大な植民地を持っていた大英帝
--ドイツが毎年4隻の戦艦を建造する「艦隊法」を施行したため、「We want eight, We won't wait(八隻欲しい、今すぐ欲しい)」というトンデモないスローガンをひっさげて建艦予算をもぎ取ったエピソードさえ存在する。戦艦一隻の建造費が国家予算の数%にも
-このような中、13.5インチ(34.3㎝)砲を連装5基搭載する超弩級戦艦「オライオン」級を建造し列強、特にドイツに差をつけたイギリスであったが、早くもドイツ、日本、アメリカが計画中の新戦艦は14インチ(35.6cm)砲を備えるという情報が得られた。更なる差を広
--15インチ砲はこの時点では未完成であり、完成には2年から3年かかるとされていた。しかし失敗するリスクはあるものの増大した口径は砲塔を前後2つずつにまとめても十分な火力を期待でき、船体中央に余裕を持った動力系統を配置できることを意味した。石油専
--こうして弩級戦艦時代では前例のない『主砲が未完成状態で砲塔や船体の設計を始める』という方法を用いて、第一次大戦型の高速戦艦としてクイーン・エリザベス級は開発されるのである。
--そして日英同盟もあってQE級の図面は日本にも提供され、[[長門]]の計画において大いに参考となっている。&color(Silver){拡大強化された従姉妹のような関係といえなくもないかも。};
-ネームシップのクイーン・エリザベス((1558年 - 1603年にかけて在位していた女王エリザベス1世にちなむ))に続き、ウォースパイト、ヴァリアント((意味は「勇敢な」))((2021年現在艦これ未実装ではあるが、[[アブルッツィ>L.d.S.D.d.Abruzzi]]が女優である事
--ちなみに、チャーチルは1912年10月に本級の1隻に「HMS オリヴァー・クロムウェル」と命名する提案をしている。彼は前級のアイアン・デューク級で同様の提案をしていたが、国王ジョージ五世の反対で断念していた。(ピューリタン革命で、当時の国王チャール
結局、今度もジョージ五世や海軍高官の反対によって断念されている((チャーチルの提案では「クイーン・エリザベス」「リチャード1世(後にウォ―スパイト)」「ヘンリー5世(同ヴァリアント)」「オリヴァー・クロムウェル(同バーラム)」であった))。最終的にネー
---さらに、6隻目のクイーン・エリザベス級戦艦として、エジンコート((アジャンクールの戦い-百年戦争中の1415年にイングランド軍がフランス軍に圧勝した戦い-))の建造が計画され、実際にポーツマス海軍工廠に発注が行われたが、第一次世界大戦勃発に伴い1914
-英領マレーと同じく、カナダ政府も1913年度予算で3隻のクイーン・エリザベス級戦艦を建造する計画を立てた。建造後、イギリス海軍とカナダ海軍のどちらで使用する予定だったのかは定かではないが、肝心の予算案が議会で否決されたため計画は立ち消えとなった
**性能について [#ye32b15f]
-元祖・高速戦艦と呼べるクィーン・エリザベス級だけあり、走・攻・防全てにおいて高い次元でバランスされた優秀艦。
-主砲は当時世界最強の[[15インチ砲>38.1cm Mk.I連装砲]]。後に「奇跡の大砲」と呼ばれたほどの優秀な砲で、単なるカタログ値だけでなく集弾性や整備性、故障の少なさなどあらゆる点で優れた素養を発揮した。&color(silver){なのに、どうして四連装砲という変
--副砲は6インチMk.12単装砲([[これ>15.2cm単装砲]]と同じヴィッカース社製だが異なる砲)をケースメイト(砲郭)式で14基(クイーン・エリザベスのみ16基)装備した。
--クイーン・エリザベスだけ門数が多いのは、三番砲塔付近舷側に片舷2門ずつを真後ろに向けられるケースメイトで装備したため。これが位置が低すぎて波を被りまくりで使い物にならず(見れば納得するはず)、竣工後早々に撤去されその埋め合わせに上甲板煙突近
-防御は330mm装甲を中心に、就役当時のドイツ戦艦に十分対応できる強固な防御を持つ。ただしプレ・ユトランド戦艦であることには変わりなく、水平防御はやや薄弱だったが後に改装で補強された。
-速力はジョン・アーバスノート・フィッシャー第一海軍卿((戦艦ドレッドノート建造を指揮し、巡洋戦艦や駆逐艦というジャンルを創りだした、英国海軍艦政面における偉大な人物。しかし一方で所謂「英国面」の極北のような艦も多数建造指揮しているお方。なに
---また重油専焼ボイラーのみにしたことにより、面倒この上ない補給時の石炭積み込み作業を不必要としたことや、煤煙の低減による視認性の向上などのメリットも産まれている。
--同時代の列強の戦艦の速力を比較すると
|艦名|建造国|速力(ノット)|
|扶桑|日本|22.5|
|アイアン・デューク|英国|21.3|
|ケーニヒ|独国|21|
|クールベ|仏国|21|
|ニューヨーク|米国|21|
|カイオ・ドゥイリオ|伊国|21|
|インペラトリッツァ・マリーヤ|露国|21|
|テゲトフ|墺国|20.3|
と大きく圧倒している(アイアン・デューク級はクイーン・エリザベス級の前級)。
&color(Silver){扶桑型が意外と同期では2位の速さであることは内緒?};
--しかしそれは竣役当初の話で、第二次世界大戦の時点では二度にわたる近代化改装で速力を1ノット落として23ノットとなっている。同じく近代化改装を受けながら、速力(&color(Silver){だけ?};)は22.5ノットから25ノット弱まで大きく向上した扶桑型や、原型を
-まあ完成時のドイツ巡洋戦艦が26~27ノット程度だったことを考えれば十分に高速で、ユトランド海戦で巡洋戦艦に伍して参戦できた大きな要因となった。
--だが次のリヴェンジ級(R級)では量産のためのコストカットや戦時燃料事情を考慮した結果から、重油石炭混焼ボイラーの搭載を再開し、速度も21ノットと従来の戦艦並みに抑えられた。
就役直後に第一海軍卿に復帰したフィッシャー提督の命令でボイラーをすべて重油専焼ボイラーに置き換えられたが、もともとボイラースペースが狭いので1~2ノット優速になった程度に終わる。
結果的にR級はQE級より新しいにも関わらず終始QE級より低い扱いを受けることとなったのであった。&color(Silver){[[不幸だわ……>山城]]};((ただ、基本設計は優秀だったので後のレナウン級巡洋戦艦やライオン級戦艦(未完成)、ヴァンガードの設計はリヴェンジ
-戦間期には全艦で近代化改装が施行されているのだが、[[某>金剛]][[高速>比叡]][[戦艦>榛名]][[姉妹>霧島]]同様に、艦ごとに内容が見事にバラバラになっている。
結果、同級は4種の全く外見が異なる艦が混在するという結果となった。
**クイーン・エリザベス級の改装 [#wc1b165d]
--全艦に共通する1920年代に行われた第一次大規模改装は煙突の集合煙突化、[[バルジ>増設バルジ(大型艦)]]の装着、対空火器の増設など。
--1931年頃からトップを切って第二次改装されたマレーヤは本格的な航空艤装(煙突脇に格納庫とデリック、煙突後方に横向き固定式カタパルト)が追加されたが、その他の上部構造などには特に手は加えられず、三脚檣艦橋を備えたままだった。
--1934年から第二次改装を施されたウォースパイトはマレーヤのメニューに加えて上部構造物の一新が図られ、「アン女王の邸宅」の異名を持つ箱型艦橋を有した。
また新型のQF4インチMk.16連装高角砲4基も装備されたが、一方で砲郭式の副砲も半減されたとは言え残ったままとなった。
--1936年と1937年にそれぞれ第二次近代化改装に着手されたヴァリアントとクイーン・エリザベスはウォースパイトの改修メニューに加えて副砲の完全撤去が行われ、高角砲もQF4.5インチMk.2連装両用砲10基の装備が実施され、同時期に建造されたキング・ジョージ5
--続いてバーラムも第二次改装に入る予定だったがここで第二次大戦が勃発。ヴァリアントとクイーン・エリザベスが改装中で戦列を離れている時にさらに稼働戦艦を減らす訳には行かなくなり、改装はお流れとなった。結果、同艦は第一次改装状態のまま(対空兵装
--バーラムの他、巡戦レパルス・フッドにも改装計画があったが同様に全て中止されている。フッドなどは防御構造の全面改良で相当凶悪な艦になるはずだったのだが…
--第二次世界大戦時の姉妹たちの様子はこんな感じだった。
''[[クイーン・エリザベス(1941年2月、第二次近代化改装後)>https://commons.wikimedia.org/wiki/File:A_009255.jpg]]''
''[[ウォースパイト(1942年7月、第二次近代化改装後)>https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/HMS_Warspite%2C_Indian_Ocean_1942.jpg]]''
''[[ヴァリアント(1939年後半、第二次近代化改装後)>https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/28/HMS_Valiant-2.jpg]]''
''[[バーラム(1940年代、第一次近代化改装後)>https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/HMS_Barham.JPG]]''
''[[マレーヤ(1941年7月、第二次近代化改装後)>https://commons.wikimedia.org/wiki/File:HMS_Malaya_Leaving_New_York_Harbour_After_Repairs,_9_July_1941_A5440.jpg]]''
}}
**艦歴について [#z5cfa8b8]
-第一次大戦・第二次大戦ともに数々の戦場で戦った歴戦の軍艦であった。
非常に長いので一行で纏めるならば「&size(15){[[''戦艦が簡単に沈むか!!''>http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%88%A6%E8%89%A6%E3%81%8C%E7%B0%A1%E5%8D%98%E3%81%AB%E6%B2%88%E3%82%80%E3%81%8B%21%21]]};」である。
***就役から第一次大戦終結まで [#ce3872c6]
-1913年11月26日午後3時15分、デヴォンポート海軍工廠にてチャーチル海軍大臣や3万人もの観衆が見守る中、ウォースパイトはオースティン・チェンバレン((第二次世界大戦前の英首相で、ナチス・ドイツへの融和政策からヒトラーを増長させ第二次世界大戦勃発を
彼女が就役したのは、それから1年4ヶ月後の1915年3月8日である。就役した際にはすでに第一次世界大戦が始まっていた。
-この頃のウォースパイトは[[ドジっ子>五月雨]]属性がついていたのか、やたら事故に見舞われている。
#fold(リトル・レディのドジッ子エピソード集){{
リトル・レディのドジッ子エピソード集
--就役から6ヶ月後の9月にフォース湾((スコットランド東岸にある湾。沿岸にはスコットランド首都エディンバラやロサイス海軍工廠が点在する。))にて濃霧の中で座礁事故を起こして燃料タンクを損傷。2ヶ月も入渠修理の憂き目にあう。
---ウォースパイトのエドワード・フィルポッツ艦長はこの事故の原因を「護衛の駆逐艦がないためにUボートを警戒し、わざと高速で航行していたら、濃霧の中から陸地が現れた」と査問会で証言している
(当時乗り組んでいた主計士官候補生は「ロサイスの巡洋戦艦艦隊所属の駆逐艦に掃海済みの水道へと案内されたところ、それが小型艦用の浅い水深の水道で、結果ウォースパイトは腹を擦った」という別説を提示している)。
--11月20日にドックから出て戦線に復帰するも、直後の12月3日には今度は演習中に姉妹艦バーラムの右舷中央部に衝突する羽目となる。
---原因は旗艦であったバーラムが回頭中に掲げた「速度8ノットに変更せよ(G・8)」という旗旒信号をウォースパイトの信号員が「速度18ノットに変更せよ(G・1・8)」と勘違いして報告し、18ノットに急増速してバーラムめがけて突っ込んだことであった。結果
--後述のユトランド沖海戦の損傷修理から1ヶ月後の1916年8月24日深夜、今度はスカパ・フローでの夜間砲撃演習の帰路についていたウォースパイトは、不幸にも停泊地から移動中の姉妹艦ヴァリアントの横腹に衝突してしまう。
---この事故で三度フィルポッツ艦長は戒告処分を受け(後に法的にはヴァリアント艦長に非があったとして戒告は取り下げられたが)、これが止めとなってウォースパイト艦長の職を辞すこととなった。
そして再び艦首に傷を負ったウォースパイトは9月29日までドック送りとなり、衝突されたヴァリアントも9月18日まで入渠している。
--この他1917年の6月にも駆逐艦(艦名不明)と衝突しているようだが、損傷は軽く修理が必要な程ではなかったらしい。
}}
-この頃のウォースパイトは根拠地であるスカパ・フローに停泊していたが、乗員達は上陸してスポーツやピクニックを楽しんだり、音楽隊の演奏のもとダンスパーティーをしたりして楽しい時を過ごしていた。また、スカパ・フローにはポラック(鱈の仲間)の群れ
-ウォースパイトの初陣に待ち受けていたのは生涯で最初の危機であった。
#fold(ユトランド沖海戦){{
ユトランド沖海戦
1916年5月31日のイギリス大艦隊(グランド・フリート)とドイツ外洋艦隊(ホーホゼーフロッテ)が激突したことで知られるユトランド沖海戦では、姉妹艦3隻((ネームシップのクイーン・エリザベスは当時入渠中。))とともにエヴァン・トーマス提督の第5戦艦部隊に所
-開戦以来、イギリス海軍はジョン・ジェリコー大将指揮の大艦隊は「現存艦隊主義」を採り拠点のスコットランド北方のオークニー諸島スカパ・フローに籠り、活発的には動かなかった。代わりにデヴィッド・ビーティー提督率いる巡洋戦艦部隊が半ば大艦隊から独
-対するドイツもフランツ・ヒッパー((この戦いでバイエルン王より騎士位を授与され「フランツ・リッター(騎士)・フォン・ヒッパー」となる。[[アドミラル・ヒッパー級>Prinz Eugen]]1番艦「アドミラル・ヒッパー」や戦後西ドイツ海軍の138型教育フリゲート「
-1916年になるとドイツ海軍は再び活発的になる。主力である大洋艦隊の司令長官がラインハルト・シェーア((こちらも後にドイッチュラント級装甲艦の「アドミラル・シェーア」に名前が使われている。))中将に代わり積極的に活動しだしたのだ。これに危機感を覚
-5月30日、暗号解読によりドイツ艦隊の出撃を知ったイギリス大艦隊は直ちに出撃、前衛を務める巡洋戦艦部隊は翌31日に同じく前衛として航行するドイツ偵察部隊を発見。ここにユトランド沖海戦の幕が切って落とされる。
--つい2週間前に配属されたばかりの第5戦艦部隊は旗艦「ライオン」の旗旒信号を見落とすというミスを初手から犯してしまう。そのためイギリスとドイツの巡洋戦艦艦隊の砲戦は6対5とほぼ同数で始まってしまう。この時風は西風で、西に陣取るイギリス艦隊は自艦
--この窮地を救ったのがようやく追い付いた第5戦艦戦隊だった。彼女らは南進するドイツ巡洋艦隊を同航戦で迎え撃ち、ウォースパイトはドイツ巡洋戦艦部隊の後方に居た軽巡ピラウ、続いて殿艦フォン・デア・タンに砲撃を加えている。[[ユトランド沖におけるウ
---が、イギリス側の砲撃精度はドイツ側に比べて甘く、また主砲徹甲弾の不発率の高さもあってドイツ側に有効打を与えることは出来ず、逆にイギリス側は巡洋戦艦「クイーン・メリー」を失ってしまった。
--16時30分には巡洋戦艦部隊の前方に展開していた巡洋艦部隊がラインハルト・シェーア提督率いるドイツ海軍の戦艦部隊を発見し、巡洋戦艦部隊は14時46分に、敵艦隊を本隊の方へおびき寄せようと北へ引き返す。
が、またしても第5戦艦部隊は伝達ミスで転針することなく、巡洋戦艦艦隊とすれ違いかけた際にようやくビーティー提督から逐次回頭((旗艦に続いて、その時の陣形を維持したまま回頭すること。))での北上を命じられた。
第5戦艦部隊は命令の通り16時58分になってやっと逐次回頭を行うが、北上してくるドイツ主力艦隊を前にして所要時間の長い縦列での逐次回頭を行ってしまったため、回頭中の第5戦艦部隊はドイツ主力艦隊のいい的となってしまい、戦隊の二番艦にいたウォースパイ
--それからの北上中にもドイツ主力艦隊との撃ち合いは続き、18時にやっとジョン・ジェリコー提督の英国海軍の主力艦隊と合流するまで、ウォースパイトには戦艦の主砲弾5発が命中していた。
--艦隊合流後、巡洋戦艦部隊の後方へ位置するよう命じられた第5戦艦戦隊は再び回頭するのだが、18時18分、回頭点手前にあったウォースパイトの操舵装置が原因不明の故障を発生し、ウォースパイトは突如左に転舵。後続の姉妹艦ヴァリアントに異常接近する。
なんとかヴァリアントと衝突は免れたが、舵は面舵のまま壊れて動かず、フィルポッツ艦長は機関出力を調整してウォースパイトを戦隊に戻そうとした。
が、結果としてウォースパイトは速度を落としながらドイツ主力艦隊の眼前で旋回を行うこととなる。
---フィルポッツ艦長は艦隊へ戻るのを諦め増速。ウォースパイトは故障した舵の力で右に旋回し続けた。
ドイツ主力艦隊も単艦で旋回を続けるウォースパイトをカモとして見ないはずがなく、計20発もの主砲弾・副砲弾を叩きこまれている。
---しかしウォースパイトのおかげで救われた艦もあった。
先立つ戦闘で撃破されていたドイツ軽巡ヴィースバーデンを撃沈しようと近づいたイギリス装甲巡洋艦ウォーリアとディフェンスは、直後に霧の中から現れたドイツの主力艦隊に捕捉された。
18時20分には先行していたディフェンスに砲撃が命中し、ディフェンスは轟沈。後続のウォーリアも砲火に晒されて戦闘能力を喪失し、撃沈されるのも時間の問題となっていた。
だが時同じくしてウォースパイトの旋回がはじまり、ドイツ艦隊は死にかけの装甲巡洋艦から戦列から落伍し異常挙動を行う戦艦に狙いを変える。
ウォースパイトが狙い撃ちにされている間にウォーリアは辛くも戦線を脱出。ウォーリアは損傷が激しく結果的に放棄されたが、生存者743名は水上機母艦エンガーディンに移乗し事なきを得た。
--15分間の間に数多くの命中弾を受けながら一回半円旋回を続けたウォースパイトは機関出力の調整でようやっと前進を保つことに成功し、ドイツ艦隊の射程外に離脱。英独両艦隊も砲戦をつづけながら東に向かっていき、ウォースパイトは完全に戦場から遠ざかった
被害は大きかったが人的損害は非常に少なくこれほどの危機的状況立ったのに戦死者は14名と損害に比べて非常に少なかった&color(silver){運がいいのか悪いのか・・・。};
安全圏に離脱したことを確認するとフィルポッツ艦長は一度艦を停止させて、応急修理を行うこととする。
--結果的にウォーリア脱出の時間稼ぎとなったウォースパイトのこの旋回は『''&color(blue){ウィンディ・コーナー};''』として知られる事になる。
--修理を完了したウォースパイトは現状を第5戦艦戦隊に知らせると、トーマス提督はウォースパイトにロサイスへの帰還を命じ、ウォースパイトは命に従って姉妹より一足早くロサイスに帰投する。
---その後、ジェリコーの艦隊から先行していた第3巡洋戦艦戦隊が海域に到着し、ビーティの巡洋戦艦部隊を支援する。戦力差が開いたドイツ艦隊は集中砲撃を受け多くの艦が損害を受け、まともに戦っているのはモルトケだけとなる。それでもドイツ艦隊の砲撃は衰
---フッド提督は代々海軍提督を輩出するフッド子爵家の一門で、夫を失った未亡人は後に夫の名(正確にはフッド家の初代サミュエル・フッドだが)を冠した1隻の艦の進水式に参加する。後にドイツ最強の戦艦ビスマルクと死闘を演じ北海に沈んだ『''&color(black)
---こうして巡洋戦艦同士の死闘を経て、イギリス大艦隊は日没頃の19時頃にはドイツ艦隊をT字体制に捉えることに成功する。絶対絶命の状態となったドイツ外洋艦隊司令長官シェーアは非情な指示を出す。
『全艦、180度一斉回頭、巡洋戦艦部隊は敵に肉薄せよ』
既に深手の巡洋戦艦部隊を突入させて時間を稼ぎ、その間に主力は反転して脱出する。非情ではあるが絶対絶命なこの状況で主力を脱出させるには他に手はなく、シェーアのこの決断は吉と出る。
---この後10分間にわたる交戦は、後に『''&color(red){死の騎行};''』と呼ばれるようになる。それでもシェアの外洋艦隊は困難な反転脱出に成功し、ヒッパーの巡洋戦艦部隊も残骸同然になりながらも一隻の沈没艦を出さずに脱出に成功する。
---その後は退却するドイツ艦隊と、それを追撃するイギリス艦隊との間で一晩中交戦が続き、数隻の駆逐艦や旧式戦艦が沈んだが双方の主力に損害はなくドイツ艦隊は1日午後にヤーデ湾に帰還する。
---但しドイツ巡洋戦艦リュッツオウは損傷による浸水に耐えきれず、乗員退去後に雷撃処分された。
--戦線を離脱したウォースパイトは翌6月1日朝ロサイスへの帰投の途上、フォース湾の沖で出入港するイギリス艦船を狙っていたドイツ海軍のUボートU-51とU-63に遭遇。
---U-51はウォースパイトを雷撃したが、いざ魚雷を発射中の段階でU-51の艦首がうねりで沈んだために魚雷は外れ、雷跡に気づいたウォースパイトは転舵し全速でU-51の潜む海域から離脱。
2時間後にウォースパイトの見張りがU-63の潜望鏡を発見すると、フィルポッツ艦長は全速力で体当たりして撃沈させようと試みたが、操舵手への伝達が上手く行かずに失敗し、結局ウォースパイトは手ぶらで帰還することとなった。
---ロサイスの港に帰って来た時、ウォースパイトは艦の艤装を大きく破壊され、艦内には大量の浸水があった。しかしボロボロになりながらも士気高く戦ったその戦艦を、多くの群衆が歓声でもって迎えたのであった。
---帰投したウォースパイトはすぐにロサイス海軍工廠のドックに入渠し、同年7月まで修理を施されることとなった。ただし、彼女の傷は一刻も早く戦列に復帰させるため不十分な修復しかされなかった。1934年からの第二次近代化改装の際、下部構造物の損傷の多く
--ウォースパイトはユトランド沖海戦で合計29発の命中弾を受けた。
外舷側の機関室や操舵区画は浸水し、居住区画が大きく破壊されたものの、死傷者は死者14名・負傷者17名とわずかで済んだのだった。
[[敵の砲弾により開いた大穴の写真。>https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1f/HMSWarspitesidedamage1916.jpg/1280px-HMSWarspitesidedamage1916.jpg]]
---なお、この時顔面に重傷を負ったウォルター・ヨー砲手に対して、後に世界初となる顔面皮膚移植手術が行われたことが知られている。
-ユトランド沖から帰還した翌朝、フィルポッツ艦長はドックで傷を癒すウォースパイトを見に行った。彼はその時の気持ちをこう記している。
「''感情的と思われるかもしれないが、ウォースパイトに愛着を抱いていると感じた。そして今も世界中を探しても、ウォースパイトのような船はないと思う。その名前はいつも讃えられるだろう''」
}}
-1917年7月9日の夜、スカパ・フローに停泊中の戦艦ヴァンガードが爆発事故によって轟沈した。同じく停泊中だったウォースパイトは仲間を救うべく真っ先にボートを下ろし救助活動にあたった。警備艇や他艦のボートと共に捜索が行われたが、多くが就寝中の事故
-1918年の3月初日にウォースパイトの機関室の石油供給管から火災が発生し、消火にあたった乗員一人が火傷の重症を負った。幸い大事故には至らなかったが、リード線融解によってまた1ヶ月の修理を施されることになったのであった。
-1918年11月11日、ウォースパイトはドイツとの休戦の知らせをフォース湾で聞いた。全艦の全乗員にラム酒が特配され、乗員は踊りや歌で喜びを爆発させた。ウォースパイトや他の艦艇達は、3時間に渡って霧笛やサイレンを鳴らし凱歌を上げたのであった。そして19
***戦間期 [#y79208df]
-第一次世界大戦が終わりを告げ、世界が束の間の平和を取り戻した後、ウォースパイトは大戦の戦訓と発達する新技術を盛り込むために二度の改装を受けることとなった。
#fold(二度の改装){{
二度の改装
-1924年から1926年にかけて、ウォースパイトはポーツマス海軍工廠にて最初の近代化改装を受けることとなった。工事内容は、バルジの装着による水線下の防御力強化や安定性の向上、艦橋への煤煙流入を防ぐために煙突を一本にまとめるなどであった。無事に改装
-1928年7月12日、エーゲ海を航行中に海図に未記載の暗礁に触れ損傷してしてしまう。そのため本国に帰還して修理を受けた。
--修理完了後の1929年7月、今度はタービンのトラブルによって地中海艦隊対抗の砲術競争への参加を見送る事態となった。
--同年7月29日には地中海で荒天下で遭難しかけていたギリシア帆船セント・ヘレナ号の乗員を救助してマルタ島まで移送した記録もある。
---救助したセント・ヘレナ号の乗員に対して、ウォースパイトの乗員達は手厚い保護を行うだけでなく、当面の生活費をカンパまでしたという。セント・ヘレナ号乗員の深い感謝の言葉は、当時の新聞記事によって今日に伝わっている。
-二度目の近代化改装は1934年から1937年まで施された。
--今回の改装は非常に大規模なものであり、上部構造物を完全に撤去した上で機関とボイラーをより強力なもの(7万5千馬力→8万馬力)に置き換えた。また上部構造物そのものも一新され、垂直に切り立った城のような外観の艦橋が設けられた。主砲塔も[[仰角の向上
--この改装で戦闘能力や機関能力は大幅に改善され、ウォースパイトは生まれ変わったのであった。
だがユトラント沖で「ウィンディ・コーナー」を引き起こし、それ以降も度々ウォースパイトを危機に陥れ続けた操舵機の故障だけは残り続けた。操舵機を新規に交換したにもかかわらず、改装完了後の1937年3月8日、英仏海峡で全力操舵試験中にいきなり舵が故障し
--それでも3月11日の全力航行試験は無事に完了し、8万250馬力・23.84ノットを出す快調な走りを見せたが、3月18日の砲術試験で大惨事一歩手前の事態を引き起こしてしまう。主砲を最大仰角で二度斉射したところ、現場は視界が悪かったため、ちょうど落下点付近
--上記第二次改修は姉妹で最初の事例であったため、不調のせいか機密保持目的かは不明だが、出られないことは無いにも関わらず、ジョージ6世戴冠記念観艦式に出してもらえなかった。
---招待を受けた[[足柄]]には牧野造船少佐はじめ各国の最新鋭艦の諜報目的で多数の随員が同乗、ポーツマス軍港内でもそこそこの行動の便宜が図られていたにも関わらず、改装を終えて間もないウォースパイトの動静をつかんだ様子は無い。
どうにもヴァリアント共々、非公開の船渠に引っ込んでいたようである。&color(Silver){そんな足柄の最大の諜報戦果は「チャタレイ夫人の恋人」であったと云う…。};
なお、秩父宮両殿下はじめとする日本代表員団は英国側の特別の計らいで[[クィーン・エリザベスに乗艦して参列>http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200903/04.pdf]]することとなった。
}}
-1937年6月30日のこと、3月から続く試験や改修による過重な負担が原因で水兵達の間に不満が溜まっていたのだが、休暇と帰艦時間との兼ね合いからとうとうトラブルになりかけた。報告を受けたクラッチリー艦長は、直ちに乗員を後甲板に集めて彼らの不満に耳を
-1938年1月14日、マルタ島で対空射撃訓練中に命令の伝達ミスが原因で陸に向ってポンポン砲を誤射する事故を起こしてしまった。市街地に着弾する最悪の事態は避けられたものの、陸軍の射撃場にいた歩兵達が危うく掃射されかけた。陸軍の抗議に対して、艦長と砲
-艦に問題を抱えているとはいえ、その基本性能と乗員の技量は非常に高かった。同年8月下旬、国際情勢の緊迫化を受けて行われた地中海艦隊の演習に巡洋戦艦フッドなどと共に参加したウォースパイトは、15インチ主砲をきわめて正確に目標へ命中させ、地中海艦隊
***第二次世界大戦 [#vcb28e52]
-第二次世界大戦勃発当初は地中海艦隊旗艦を務めていたが、本国艦隊の根拠地スカパ・フローに潜入したUボート(U-47)により戦艦ロイヤル・オークが撃沈されるとその戦力補充のため本国艦隊へ合流。
以後、数ヶ月にわたって北海や北大西洋で輸送船団の護衛や哨戒任務に当たることとなった。そして、ようやく地中海へ戻れると思われた矢先に下されたのはノルウェーへの出撃命令だった。
-雪と氷の北の海で、ウォースパイトは大勝利を収めることとなる。
#fold(第二次ナルヴィク海戦){{
第二次ナルヴィク海戦
-彼女の数多い武勲の中でも際立つのが、1940年のドイツ軍のノルウェー侵攻時に、駆逐艦隊と共にフィヨルドに突入した第二次ナルヴィク海戦である。%%舵の故障癖あるのにフィヨルド突入とかマジか?%%
--ウォースパイトは駆逐艦と共同でドイツ駆逐艦2隻を撃沈し、他の6隻を自沈に追い込んだ。先の第1次ナルヴィク海戦で2隻を失っていたドイツ海軍は、保有駆逐艦の半数近く((1939年時点でドイツが保有していた駆逐艦はZ1~Z22までの22隻))を損失する痛手を被っ
---この戦い以前に[[Z1]]や[[Z3]]も誤爆や触雷で失われており、ただでさえ駆逐艦が不足していたドイツ海軍は深刻な駆逐艦不足に悩まされることになった。このため、ナルヴィクでの勝利は戦略的に見ても少なからぬ影響を与えたことが指摘されている。((例えば
--またドイツ駆逐艦隊との戦闘に先立って、ウォースパイトは搭載していた[[水上機型>Swordfish(水上機型)]][[ソードフィッシュ>Swordfish Mk.II改(水偵型)]]でUボート1隻(U-64)を撃沈するという、戦艦としては異例の戦果も挙げている。
しかもこれは、''第二次大戦において航空機による初の潜水艦撃沈''でもあった。
---ドイツ駆逐艦隊は先立つナルヴィクの戦いで燃料・弾薬を消耗していたため、正面からの対決を避け、各艦とも最低限の要員以外は陸に退避させた上、入り組んだフィヨルド内でイギリス艦隊を待ち伏せしていた。ただでさえ切り立った斜面が入り組んでいるフィ
--海戦後、ウォースパイトは英軍の負傷者と共に8名のドイツ海軍捕虜を移送することになった。初めて敵兵の顔を見ることになった乗員の一人は次のような感想を残している。
「''彼らは(悪魔のように)頭が二つあるわけでも、角や二つに分かれた蹄があるわけでもなかった。彼らは我々と同じように、命令に従い自らの務めを果たした単なる水兵に過ぎなかった''」
---2名の士官は士官用キャビンに、6名の水兵は船室に収容された。彼らを監視した海兵隊員は、捕虜達は全員素直に指示に従う普通の水兵であったと証言している一方、何人かはその余裕は最終的なドイツの勝利を確信している傲慢に基づくものだったと語っている
-4月19日、ウォースパイトはロイヤル・オークを沈めた相手であるU-47の魚雷攻撃を受けたが、幸い回避に成功しロイヤル・オークの二の舞は避けられた。U-47はその後駆逐艦からの爆雷攻撃で撃退された。
}}
-1940年5月に地中海艦隊へ戻った後も様々な戦果を挙げることとなるのだが、それらに関しては[[Zara]]や[[Pola]]のページも参考にしていただきたい。
#fold(地中海での奮闘){{
地中海での奮闘
-1940年7月9日、カラブリア沖にてイタリア艦隊と交戦。戦艦ジュリオ・チェザーレに対して21,000メートルの距離で命中弾を与えた。((これは「艦砲射撃による移動目標への砲撃命中」においてドイツ戦艦シャルンホルストに次ぐ長距離記録である。))
この戦いによりイタリア艦隊の行動は消極的なものとなり、その間ウォースパイトは各地で輸送作戦と対地砲撃を行った。
--1940年8月17日、ウォースパイトは重巡洋艦ケントと共にイタリア軍の拠点であるリビアのカプッツオ砦を砲撃、同時に戦艦マレーヤとラミリーズがバルディア港を砲撃した。
--1940年11月11~12日に行われたジャッジメント作戦では、タラントのイタリア艦隊を空襲した空母イラストリアスの護衛に付いた。
--1941年1月3日にはウォースパイトは戦艦ヴァリアント、バーラム、モニター艦テラー、防空巡洋艦カルカッタ、砲艦3隻および駆逐艦4隻と共に出撃、再びバルディア港を攻撃した。猛烈な砲撃によって英陸軍のバルディア攻略に大きな貢献を果たした。[[戦況を伝え
--1941年1月10日、マルタ島への輸送作戦(エクセス作戦)に護衛として参加したウォースパイトは、地中海方面で初めてのドイツ空軍の空襲を受けた。だがここでもウォースパイトは幸運を発揮する。ウォースパイトを狙った爆弾は彼女の錨の先端に当たって爆発し
--1941年3月27~29日にはギリシャのマタパン岬沖でイタリア艦隊と交戦。
---当初は速度に優る前衛部隊が交戦、続いて空母とクレタ島からの空襲でイタリア艦隊は損傷を受ける。戦艦ヴィットリオ・ヴェネトは撤退したが、重巡ポーラは航行不能となってしまう。
---ポーラの援護に向かったイタリア艦隊に対しウォースパイトら戦艦を含むイギリス艦隊が夜戦を敢行。戦艦ヴァリアントに搭載されたレーダーが無警戒なイタリア艦隊を捕捉し、至近距離から猛攻撃を加えた。
---イタリア艦隊を夜戦で追撃するかどうかについて、イギリス艦隊では反対意見が大多数を占めたが((主に同士討ちの危険を恐れたことによる。実際夜戦中にウォースパイトは危うく空母フォーミダブルを主砲で吹っ飛ばしそうになった。))、カニンガム提督は幕僚
---そして絶好の状況でザラ達を捉えた時の気持ちを、カニンガム提督は後にこう記している。
「''私は次の数分間を決して忘れない。(中略)私の全人生の中で、射撃管制塔からの"照準監督士官が標的を確認"という静かな声を聞いた時ほどスリリングな瞬間は経験したことがない。確かに主砲は発射準備ができていて、指が引き金を引きたくてたまらなかった
---イギリス艦隊各艦の奮戦で重巡ザラ、ポーラ、フィウメ、他に駆逐艦二隻が沈没。この海戦の結果、イタリア海軍は地中海における制海権を著しく失う事になった。[[当時のニュース映画。>https://www.youtube.com/watch?v=LSvsn9iz3K8]]
-1941年4月20日、ロンメル将軍率いるドイツ・アフリカ軍団の猛攻で苦境に陥った英陸軍を支援するため、ウォースパイトは戦艦ヴァリアント、バーラム、空母フォーミダブルらを引き連れ、リビアのトリポリ港を砲撃した。
--チャーチル首相の強い要望で、枢軸軍の重要な補給港であるトリポリを砲撃することになったが、カニンガム提督は空襲や沿岸砲台の攻撃を危惧し乗り気ではなかった。しかし海軍省が提示した代案は、戦艦バーラムやセンチュリオン((初代キング・ジョージ5世級
--フォーミダブル搭載機が投下した照明弾のもとで行われた夜明け前の攻撃は完全な奇襲となった。ウォースパイト以下各艦は損害なく、ウォースパイトは15インチ砲弾135発と6インチ砲弾106発を撃ち込み撤収した。
---ただし、ほとんどの弾は海面に落ちたため、輸送船1隻を撃沈、2隻を損傷させたにとどまり、港湾機能もわずか24時間で復旧した。市街地に落ちた砲弾が原因で、トリポリ市民に約400人の死傷者を出してしまっている。
}}
-イタリア空軍の空襲に対してはさしたる損傷も受けずにいたウォースパイトだったが、ドイツ空軍に対しては度々苦しめられる事となった。
--1941年5月、ウォースパイトはクレタ島を巡る戦いに参加する。この戦いでイギリス海軍は、空襲や爆装艇によって巡洋艦3隻・駆逐艦6隻を失う手痛い敗北を喫した。ウォースパイトの姉妹艦ヴァリアントは爆弾2発が命中し損傷、そしてウォースパイト自身も[[メッ
---ちなみにウォースパイトに痛打を与えたこの爆撃は、最終撃墜機数110機のエースパイロット[[クルト・ウッベン少佐>https://en.wikipedia.org/wiki/Kurt_Ubben]]によるものとされている。
---アレキサンドリアに後退して検査したところ、限られた現地の施設では修理が不能のため、スエズ運河を通って紅海、インド洋、ハワイ経由で太平洋を横断し、米本土西海岸のシアトルで修理と改装を行う事になった。アレキサンドリアで停泊中に再び空襲に遭い
-損傷の修理に加え、新型レーダーの搭載や消耗した主砲砲身の交換などを行っていたが、この間に状況は激変した。
--まず1941年11月25日、地中海を航行していた姉妹艦バーラムが[[U-331の雷撃で轟沈>https://www.youtube.com/watch?v=YdrISbwy_zI]]。
--1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。直後に行われたマレー沖海戦で東洋艦隊は壊滅的な打撃を被る。
--更に1941年12月19日には、イタリアの人間魚雷((日本のアレのような特攻兵器ではなく、二人乗りの小型潜水艇で港内に停泊している艦艇に時限爆弾を仕掛けて爆破する。))マイアーレ部隊がアレキサンドリア港に侵入し、停泊していたクイーン・エリザベスとヴァ
-そのような戦況の中でウォースパイトは防備を固めるべく、新たな戦場 - インド洋へと赴くのであった。
#fold(東洋艦隊旗艦として){{
東洋艦隊旗艦として
-イギリス海軍が威信をかけて派遣した戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスがマレー沖で日本軍航空隊にあっけなく沈められた事実は、ウォースパイトの乗員たちにも大きな衝撃を与えた。
乗員の一人は次のように述べている。
「''マレー沖で2隻が沈められたというニュースを、アメリカの新聞やラジオがひっきりなしに報じていた。君が若ければ、血気盛んに『よし行こうぜ、奴らを捕まえてとっちめてやるさ』と意気込むだろう。だが彼女たち2隻の損失は、この戦争が敵を容易に倒すこと
--ウォースパイトはシアトルから出航して太平洋を再び横断、日本軍の目から逃れるためオーストラリアの南を回ってセイロンへと無事に到着。1942年3月、東洋艦隊司令長官サマーヴィル提督((Sir James Fownes Somerville(1882-1949) 英海軍の著名な提督の一人。
当時の東洋艦隊はウォースパイト以下戦艦、空母等それなりの戦力を有していたが、最も危険な敵との対峙を余儀なくされることになった。当時飛ぶ鳥を落とす勢いの南雲機動部隊である。
--4月5日、日本の機動部隊がセイロン島のコロンボとトリンコマリーを爆撃した時、幸運にもウォースパイトは多くの艦艇と共に南西約960kmの地点にあるアッドゥ環礁((現在のモルディブにある環礁。当時イギリス海軍が泊地として整備していたが日本軍はそのこと
---すでにイギリス側は、暗号解読によって日本軍がインド洋方面に進出しようとしていることを掴んでいた。そのため主力艦艇を防御上難のあるセイロン島の根拠地からアッドゥ環礁へ移していたのである。
--5月には、ヴィシー・フランスが保持していたフランス領マダガスカル島への上陸作戦「アイアンクラッド作戦」に参加する。一緒に参加していた戦艦ラミリーズが日本海軍の[[特殊潜航艇>甲標的 甲型]]の雷撃で損傷したものの、ウォースパイトは特に損害を受け
--6月初めには、インド洋で通商破壊を行っていた日本海軍の特設巡洋艦愛国丸と報国丸の捜索にあたったが空振りに終わった。
--1942年6月のミッドウェー海戦で日本の機動部隊は壊滅したため、&color(Silver){%%慢心ダメ、絶対%%}; インド洋での危機は去った。そのため、1943年3月にウォースパイトは本国に帰還を命じられた。帰路の途中、喜望峰沖でイギリスへ向かう輸送船団と合流し護
}}
-再び地中海へ戻って来たウォースパイト。そこで待ち受けていたのは激闘に次ぐ激闘であった。
#fold(「オールド・レディ」 ){{
「オールド・レディ」
-1943年6月、ウォースパイトは連合軍の本格的な反攻作戦の第一歩であるシチリア島への上陸作戦「ハスキー作戦」に参加するために再び地中海へと移動した。上陸支援と、イタリアの戦艦が出撃してきた時に備えてである。
7月7日戦艦ヴァリアント、空母フォーミダブルと共にエジプトのアレキサンドリアから出撃したウォースパイトは、途中でアルジェリアのオランから来た戦艦ネルソンとロドニーの姉妹、空母インドミタブルらと会合、一路シチリア島を目指した。
--ところが、7月16日に空襲でインドミタブルが損傷したため、ウォースパイトとヴァリアントは彼女をマルタ島まで護衛するよう指示された。マルタ島到着後、ウォースパイトのハーバート・パッカー艦長はカニンガム提督に作戦への参加を求めた。
---だがカニンガム提督は、「それはどうかな、ウォースパイトは平時では地中海でいつも砲撃が最悪だったからな」とからかうように言った。
それに対してパッカー艦長が「戦時ではどうです?」とすかさず切り返すと、カニンガム提督は答えた。
「''絶対失敗しなかったな。マタパン岬沖の夜戦での功労艦の一隻だからな''」
---かつての旗艦であり、全幅の信頼を寄せるウォースパイトに対してカニンガム提督も直ちに出撃許可を与えた。出撃が認められたウォースパイトとヴァリアントだったが、翌7月17日、仮泊地へ向かう途中でヴァリアントのスクリューが防潜網に絡まるトラブルが起
-老朽化した機関のために速度が出ず、さらに例によって舵が故障し駆逐艦と衝突しかけるトラブルのために遅刻しながらも、ウォースパイトは目標に指定されたシチリア島カタニアの沖合へ到着し、同日18時43分初弾を発射した。[[ドイツ軍陣地へ火を吹く15インチ
--ウォースパイトは艦砲射撃を続けた後、19時02分に全速力で撤収を開始。ドイツ空軍はウォースパイトに対して一晩中断続的な空襲を仕掛けてきたが、ウォースパイトは対空射撃を続け大過なく切り抜けた。そして7月18日の朝無事にマルタ島マーサックスロック港
&size(20){''「作戦は成功した。オールド・レディもスカートを上げれば走ることができる」''};
&size(20){''(Operation well carried out. There is no doubt that when the old lady lifts her skirts she can run.)''}; ((「 WARSPITE - FROM JUTLAND HERO TO COLD WAR WARRIOR 」に依る。文献により「Operation well executed」「There is no questi
-シチリア島占領後、9月8日には連合国によるイタリア本土サレルノへの上陸作戦「アヴァランチ作戦」が始まった事で、イタリア海軍の残存戦力は次々と投降し始める。これを警戒していたドイツ軍はイタリア艦艇の投降を阻止すべく行動に出た。9月9日、14時20分
--その投降してきたイタリア艦隊を出迎えて、マルタ島へ護送したのがヴァリアント、そして他ならぬウォースパイトであった。その様子は、古参の乗員達に四半世紀前のドイツ艦隊投降を思い起こさせた。[[実際の映像。>https://www.youtube.com/watch?v=fZp28mZ
--艦隊がチュニジアのビゼルト沖を過ぎていた頃、カニンガム提督がアイゼンハワー連合国軍司令官と共に駆逐艦ハンブルドンに乗り視察に訪れた。イタリア艦隊を先導するウォースパイトを見ていたカニンガム提督は信号を送った。
「かつての旗艦が列の先頭という名誉であり、また当然の位置にいるのを見て嬉しい」
それに対してウォースパイトのパッカー艦長は答えた。
「''オールド・レディは立派にイタリア艦隊の世話をするつもりです''」
}}
-栄光ある異名を受けたウォースパイト。しかし彼女を危機が襲う。
#fold(アヴァランチ作戦){{
アヴァランチ作戦
-投降するイタリア艦隊主力に大打撃を与えたフリッツXの脅威を、ウォースパイトのある士官候補生は日記にこう記している。
「''我々は午後を通して、"バッグの中の物"を貯えた(=捕らえたイタリア艦隊をマルタ島に確保した)が、戦艦ローマはドイツ空軍に爆撃されて沈んだことが分かった。35,000tもの新鋭戦艦は艦体中央部に爆弾を受け、わずか20分で沈んだ。イタリア艦隊の司令長官
そしてフリッツXは、今度は「アヴァランチ作戦」に参加した連合軍艦艇へ矛先を向けたのであった。
--元々ウォースパイトはイギリス本国で改装の予定であったが、9月14日の出港直後、サレルノに上陸しているアメリカ軍が艦砲射撃による支援を要請してきたため、急遽予定を変更してサレルノ沖へ展開した。上陸させたウォースパイトの海兵隊員による着弾観測の
--9月16日、支援任務中のウォースパイトにドイツ空軍が空襲、フリッツX3発が投下され、内2発が命中する。ちょうど乗員が昼食のため警戒を解いたタイミングと重なり、対処が遅れてしまった。
1発は水上機格納庫を貫いて機関区で爆発。船体中央の甲板に巨大な穴をあけた。もう1発は右舷バルジを貫通してボイラー室で爆発。残り1発も至近弾となり、6基あるボイラーのうち5基を破壊や浸水で使用不可能、浸水した量は5,000tにも達するほどの損害を出した
--9日に新鋭戦艦のローマを轟沈させたフリッツX。それをローマと同じ2発、それも船体中央部という重要区画で受けてしまったウォースパイト。本来なら轟沈(下手をすれば竜骨が折れて真っ二つである)もありえる損害だったが、彼女は沈まなかった。戦死者もこれ
これまでの不運ネタをひっくり返すような幸運っぷり。それが改になることで艦娘一の運の初期値70となる理由かもしれない。
--しかしながら、危機的状況であることには変わりがなかった。大量の浸水によって艦は4度に傾斜(最終的に傾斜は4.5度まで増大し喫水は1.5mも沈下した)、主砲も使用不能となった。ウォースパイトはそのまま航行不能となり、円を描いて漂流しながら機雷原に突
---幸いにして、乗員の懸命のダメコンと救援に駆け付けたタグボートの援助によって復旧し、曳航されつつ4ノットで撤退を始めた。
---危機的状況を脱したとはいえ、艦の損傷は大きかった。換気扇が停止したため熱気と悪臭が充満。乗員は照明が破損し暗闇となった艦内をバッテリーランプで照らしながら排水作業を続けた。飲み水にも事欠く有様で、もちろん風呂や調理も不可能であった。それ
--大破したウォースパイトは、潮流に難儀しながらも修理をすべくマルタ島へ曳航された。大破したウォースパイトを何度もドイツ軍機が狙ってきたが、その度に共に戦火を潜り抜けてきた相棒ヴァリアントや護衛の駆逐艦達が全力で対空砲を撃ち上げ追い払った。何
[[大歓迎の中マルタへたどり着いたウォースパイト。バルジが見えなくなる程沈下していることが分かる。>http://www.shipsnostalgia.com/guides/images/7/74/Warspite1943_after_salerno_bomb.jpg]]
パッカー艦長はその時の喜びを日記に記している。
「''我々が通過する全ての船の乗員達がウォースパイトに(敬意を表して)向き直り、多くの(祝福の)通信を受け取った。もう二度と帰ってくることができないのではないか、という大変な不安を我々が抱いていたことは間違いない。ああ、そうだとも。そして我々
--マルタ島のドックではウォースパイトの修理は不可能であったため、応急修理を済ませた後、4隻のタグボートに曳航されて乾ドックがあるジブラルタルへ向かうことになった。ここでパッカー艦長がカニンガム提督の幕僚に栄転したため、艦は副長エドワーズ中佐
---到着の4日後にドック入りして修理が始まったが、艦底に開いた大穴を見たある下士官のコメントがその被害の大きさを物語っている。
「''どうしてウォースパイトが浮いていられたのか決して分からないだろう。誇張ではなく、艦底の穴は二階建てバスが易々と通り抜けられる程だったのだ''」
---ジブラルタルにいた時、ウォースパイト艦内で通称「''ニシン事件''」といわれる騒動が起きた。元々、ウォースパイトには「どんな尺度で見ても不味くて嫌われる料理」と言われた、ニシンを熱いトマトソースに漬けた激マズ料理(以下トマトニシン)があった
---ちなみに、このトマトニシンはイギリス軍全体でも評判は最悪のようで、海洋戦記小説の大傑作「女王陛下のユリシーズ号」の作中でジョークのネタになっている((ユリシーズ号のクルーの会話で「オレ達はこき使われて、あの戦艦はどうして出撃しないんだ」と
-ジブラルタルで修理中、ウォースパイト大破の知らせを聞いたカニンガム提督が、多忙な職務の合間を縫いパッカー前艦長らを連れて乗員とウォースパイトを見舞いに来てくれた。
}}
-傷ついたオールド・レディ。しかし彼女は休むことなく史上最大の作戦に参加する。
#fold(ネプチューン作戦(ノルマンディー上陸作戦) ){{
ネプチューン作戦(ノルマンディー上陸作戦)
-その後イギリス本国に戻った彼女は翌年にかけて本格的な修理を受けるが、「ネプチューン作戦」(いわゆるノルマンディー上陸作戦)((上陸作戦単体の名称。侵攻作戦全体は「オーバーロード作戦」といった。))が近づき、作戦にはウォースパイトの参加が決まっ
--1944年6月2日、ウォースパイトは東方任務部隊を構成する戦艦ラミリーズ、モニター艦ロバーツ、重巡洋艦フロビッシャー、軽巡洋艦モーリシャス、アレシューザ、ダナエー、ドラゴン、そして15隻の駆逐艦と共にグリーノックを出発、ノルマンディーの海岸へと向
--6月6日、上陸作戦が開始され、ウォースパイトはソード・ビーチに上陸したイギリス陸軍第3歩兵師団を支援する。発射した砲弾の数は2日間で300発以上に上り、多数の陣地・車両を破壊した。一度ポーツマスに戻り弾薬補給の後、6月9日には弾薬不足のアメリカ戦
現地の指揮官はその砲撃を短く、かつ的確な文章で称賛した。
「''15インチ砲弾50発の迅速な射撃!''」
[[砲撃をするウォースパイト。第三砲塔(X砲塔)が動いていないことが分かる。>https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/57/Operation_Overlord_%28the_Normandy_Landings%29%2C_6_June_1944_A23916.jpg]]
-砲撃支援を続けていたウォースパイトだったが、6月13日午前7時48分、イギリス・ハリッジ沖45km地点で触雷してしまった。
--艦底に数ヶ所の穴が開いたほか、触雷した左舷側を中心にバルジに大きな歪みが生じた。それに伴って690tの浸水が発生し最大4.5度の傾斜が発生した。左舷推進器も破損したため、ウォースパイトは残った右舷側推進器を用いて10ノットでよろよろとロサイスに帰
--その際、傷ついたウォースパイトを励まそうと在泊していた戦艦アンソン、ハウ以下諸艦艇の乗員が登舷礼で迎えてくれた。
}}
-二度の大戦を戦い続けた老嬢にも、まもなく最後の時が訪れようとしていた。
#fold(ウォースパイト最後の戦い){{
ウォースパイト最後の戦い
-それから2ヶ月の修理が行われたものの、幾多の戦いに身を置きボロボロとなった彼女は、もはや十分に修理されることはなかった。支援任務をこなすためだけの艦として、主砲は新品に交換したが、左舷の推進器は内側のみ修理されただけであり、修理後の公試でも
--人間で例えれば片足を引きずり全身包帯だらけのような状態にもかかわらず、戦列に復帰した8月以降、ウォースパイトはドイツ軍が立て籠もるブレスト等の要塞へ砲撃を実施し、地上の友軍部隊に多大な貢献をした。
--そして1944年11月1日、オランダ・ワルヘレン島のドイツ軍陣地を攻撃する「インファチュエイト作戦」支援のためにその日353発目となる15インチ砲弾を発射した17時23分、二つの世界大戦を戦い抜いた不屈の戦艦の主砲は永久に撃ち方を止めたのであった。
}}
***第二次大戦後から最期の日まで [#c3c78ad3]
-大戦中の度重なる酷使によって艦体の全体が傷んでいたウォースパイトは1945年上旬には既に予備艦としてイギリス本国の港に係留され、1946年8月に正式に廃艦が決定した。
[[自慢の主砲すら取り外され係留されるウォースパイト。後ろはクイーン・エリザベスとマレーヤ。>https://1.bp.blogspot.com/-tCmMoRXFtR8/WIpSKMzmZlI/AAAAAAAAI5A/W15wOu2hhjU4dfTzjnPSd8OMOLKRoKFqQCLcB/s1600/The%2Bend%2Bof%2Ban%2Bera.jpg]]
-偉大なる戦歴を持つウォースパイトを解体させてなるものかと保存運動も起こったが、莫大な戦費と植民地喪失により、戦後の大英帝国国庫は危機的状況だった。
かつてフランスから鹵獲した栄誉の証である18世紀の木造戦列艦インプラカブル1隻すら維持できず、自沈処分せざるを得なかった状況下である。
修繕するだけで相当の費用が予想される傷み果てた老朽戦艦を保存する余裕は、もうどこにもなかった。
結局ウォースパイトは解体処分が決定し、武装を取り外された後係留されていたスピッドヘッドから解体場のあるクライド湾に曳航移送されることとなった。
-だが曳航移送中に英仏海峡で突風に見舞われて曳航ロープの1本が切断され、ウォースパイトは漂流を始める。
なんとか突風と闘いながら曳舟が再びロープを渡してウォースパイトを御し、彼女をコーンウォール州のマウント湾に投錨仮泊させることに成功したが、吹き続く突風にウォースパイトの錨鎖はちぎられ、彼女は再び漂流を始めた。((曳航する場合曳かれる側のエンジ
そして最後にマウント湾東部の岩礁地帯(通称「プロシア入江」)に乗り上げるように座礁する。まるで最期のその時まで海と共にあり続けたいと願うかのごとく…。&color(Silver){解体業者相手にウォースパイト最後の死闘である。};
-ウォースパイトは同地の岩礁の上に、完全に解体される1956年までその姿を留め続けたのであった。悪運艦ここに極まれりである。[[当時の様子。>https://www.youtube.com/watch?v=mWtJ1ijUEok]]
--現在、プロシア入江を望む高台には[[小さな記念碑>http://s0.geograph.org.uk/geophotos/02/10/22/2102291_d38bc4ee.jpg]]が建てられており、偉大な「オールド・レディ」最期の地を今に伝えている。
また、クレストや船鐘をはじめとするウォースパイトの多くの備品が、英国各地の博物館に保存されている。
-第一次世界大戦ではユトランド沖海戦で死闘を繰り広げ、第二次世界大戦では老体ながら緒戦より北海や地中海で働き続け((第二次大戦開戦から1943年までのウォースパイトの行動距離は次のように記録されている。開戦の1939年9月から年末までの3か月:12,984海
--ウォースパイトが第一次・第二次両大戦を通じて受けた戦闘名誉章(バトル・オナー)は、その数15個にのぼる。((1.ユトランド沖1916年、2.大西洋戦線1939年、3.ナルヴィク1940年、4.ノルウェー1940年、5.カラブリア沖1940年、6.地中海戦線1940-1943年、7.マ
ウォースパイトが解体されてから60年、米海軍の[[アイオワ>Iowa]]の除籍に伴い、戦艦という艦種が世界から完全に姿を消して10年が経過した今もなお、世界の歴史家や海軍関係者からウォースパイトへの称賛が止むことはない。
-歴史に名を残した多くの英海軍艦艇と同様に、ウォースパイトは度々切手やコインの題材に選ばれている。
参考:1982年イギリス発行の29ペンス切手[[「ウォースパイトとカニンガム提督」>http://farm6.staticflickr.com/5485/10289610613_ccc995b7ec_o.jpg]]、1994年ジブラルタル発行の25ジブラルタル・ペンス切手[[「HMS Warspite」>http://i.colnect.net/b/120/71
-1978年5月、イギリス国鉄の50形ディーゼル機関車の一両(50014)がウォースパイトと命名された。
--50形は1978年以降全ての車両に第一次・第二次世界大戦の軍艦名が付与されている。そのため姉妹艦のヴァリアント、バーラムや空母[[アーク・ロイヤル>Ark Royal]]、弩級艦の由来であるドレッドノートなどの車両が存在した。
-ウォースパイトは他の艦艇と比べて、非常に雰囲気のよい艦であったという証言が多数残されている。士官や下士官・兵を問わず、(一部の例外的な事件を除き)温厚で不平不満を言うことなく、規律をよく守るものが多かった。大型艦に多少なりとも存在した下の
--ウォースパイトは生涯幾度もひどい損傷を負ったが、その度に決して沈むことなく耐え抜き乗員達を守った。そして乗員達もまた、一致団結し愛するオールド・レディを懸命に守り抜いたのである。
前述のパッカー艦長も、かつて少壮の士官だった時をウォースパイトで過ごし、最初の危機であったユトランド沖海戦を共に戦った。それから27年の後、サレルノ沖で再びウォースパイトが危機に瀕した時には、彼は主たる艦長として彼女を救ったのだ。
-イギリスの戦史家V.E.タラント氏は、著書「戦艦ウォースパイト~第二次大戦で最も活躍した戦艦~」の前書きでウォースパイトについて次のように賛辞を贈っている。
「''第二次大戦を通じて ― 戦闘による損傷がひどかったため海軍工廠で過ごす時間を別とすれば ― ウォースパイトの大砲はほとんど絶え間なく火を吹いていた。ウォースパイトは自分自身の魂を持っていた船であり、乗組員すべてに愛された ''」
-2019年2月25日、イギリス海軍第一海軍卿サー・フィリップ・ジョーンズ大将は、ドレッドノート級戦略ミサイル原子力潜水艦の3番艦を「ウォースパイト」と命名することを[[自らのツイッター垢>https://twitter.com/AdmPhilipJones/status/1099980009211682817]
***余談 [#p73edbc0]
#fold(ウォースパイトのペット事情と「エイブル・ドッグ・プルート」 ){{
ウォースパイトのペット事情と「エイブル・ドッグ・プルート」
-マスコットやペットとして動物を乗せていた軍艦は国を問わず多く存在しているが、同じようにウォースパイトもその生涯において様々な動物をマスコットとして乗せていた。
--例えば、就役間もない頃にはキツネザルをマスコットとして飼っていた。普段は前檣楼に住んでいて、ウォースパイト最初の修羅場であったユトランド沖海戦でも敵弾の破片を上手くかわしながら生還した。
--第二次世界大戦中には、「''ストライピー''」という猫がウォースパイトに乗っていた。
---その名が示すように縞模様の所謂トラ猫であり、生まれも育ちもウォースパイトという叩き上げの船乗り猫であった。開戦以来、ウォースパイトの戦うところ常に乗員と共に過ごし終戦まで生き抜いた。
---しかし、戦後ウォースパイトがその任を解かれた時、ストライピーの処遇が問題となった。除籍後係留されるウォースパイトに留まっていたストライピーは、幸いにも番人を務めていたジョージ・ワトソン氏に気に入られ互いに意気投合。めでたく二人は共に新た
[[ウォースパイトの救命浮輪と共に写るストライピーとワトソン氏。>http://www.gettyimages.co.jp/detail/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%86%99%E7%9C%9F/the-keeper-of-the-h-m-s-warspite-a-ship-used-by-britain-in-wwi-%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%8
--ウォースパイトのマスコットで最も有名かつ乗員達に愛されたのは、「''エイブル・ドッグ・プルート''」という名前の垂れ耳の雑種犬である。
---プルートはトブルク包囲戦中に誕生し、駆逐艦で幾度も実戦を経験した後にウォースパイトへ移って来たという強者であった。
---非常に賢い犬であったといわれており、プルートのファンの一人であったパッカー艦長は、妻ジョイに宛てた手紙の中で様々なエピソードを書き残している。プルートはただ乗員達と遊ぶだけでなく、乗員が錨を下ろす時には、集合ラッパが聞こえると舳先に座っ
また、イタリア艦隊降伏の際にはウォースパイトの艦首を走り回りながらイタリア艦隊に吠え続けていた。
---一方で、彼はプルートのこんなハプニングも記している。1943年6月のある朝、日課である軍艦旗(ホワイトエンサイン)の掲揚を終えた海兵隊員が後甲板から退出しようとしたタイミングで、プルートが後甲板に積まれていた大量の卵をばら撒いてしまったのであ
卵を踏みつけた一人の海兵隊軍曹は、「南南西の方角へ25ノットの速さで」「スケートをするドナルドダックのように」滑って行き、後部砲塔の陰で見守っていたプルートの大きな尻尾のところでようやく止まったいう。
---しかし、乗員達に愛されたプルートは、1943年11月ウォースパイトがジブラルタルでドック入りしてすぐに工廠内でトラックに轢かれて命を落とした。サレルノ沖でフリッツXを受け大破して間もない時期の突然の悲劇に、多くの乗員が悲しみに暮れた。エドワーズ
--ウォースパイトは大型艦であり、(もちろん「人間用」ではあるが)ある程度の医療設備やスタッフが整っていたため、時にはより小型の艦から動物について相談されることもあった。
--- 1943年8月31日の午後、対潜トロール船ガヴォッテからウォースパイトの医療スタッフ宛に信号が送られてきた。
「ペットの猿が誤って鉛丹(えんたん = 艦底の赤い塗装に使う鉛を含む有毒な塗料)を食べて死にかけています。手当ての方法についてご教授願いたい」
ウォースパイトはすぐに返信した。
「一般的に病気の猿には、ティースプーン半分の硫酸マグネシウムを水1カップに溶かして与える。小用量のブランデーを水で薄めて与えるのもありかもしれない」
しかし、14時50分ガヴォッテからの返信は残念なものだった。
「貴艦の援助に感謝いたします。悲しいことに、哀れな小さな仲間は息を引き取りました」
}}
***参考文献 [#b7f9f9ae]
本稿の記述は主に以下の文献に依る。
-V.E.Tarrant著・井原裕司訳 「 戦艦ウォースパイト―第二次大戦で最も活躍した戦艦 (原題 Battleship Warspite) 」 (元就出版社刊 1998年・原著1991年)
-Harry Plevy著 「 BATTLESHIP Sailors - The fighting career of HMS Warspite recalled by her men - 」 (Chatham Publishing刊 2001年)
-Lain Ballantyne著 「 WARSPITE - FROM JUTLAND HERO TO COLD WAR WARRIOR 」 (Pen & Sword Maritime刊 2010年)
-ネイビーヤード編集部編 「 世界の戦艦プロファイル - ドレッドノートから大和まで 」 (大日本絵画刊 2015年)
*この艦娘についてのコメント [#comment]
#fold(過去ログ){{
#ls(./)
}}
#pcomment(./コメント7,reply,15)
終了行:
|CENTER:218|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|c
|>|>|>|>|~No.239|
|&attachref(./239_2nd.jpg,nolink,Fleet information? 了解、待ってて。);|>|Warspite&br;(ウォースパイト)|>|Queen Elizabeth級&br;2番艦 戦艦|
|~|>|>|>|~艦船ステータス(初期値/最大値)|
|~|~耐久|72|~火力|72 / 92|
|~|~装甲|72 / 91|~雷装|0|
|~|~回避|26 / 54|~対空|38 / 88|
|~|~搭載|12|~対潜|0|
|~|~速力|低速|~索敵|14 / 48|
|~|~射程|長|~運|55 / 89|
|~|>|>|>|~最大消費量|
|~|~燃料|90|~弾薬|110|
|~|~搭載|>|>|~装備|
|~|3|>|>|[[38.1cm Mk.I連装砲]]|
|~|3|>|>|未装備|
|~|3|>|>|未装備|
|~|3|>|>|未装備|
|>|>|>|>|~改造チャート|
|>|>|>|>|''Warspite'' → [[Warspite改]](Lv75)|
|>|>|>|>|~図鑑説明|
|>|>|>|>|LEFT:&ruby(クイーン エリザベス クラス){Queen Elizabeth Class};((クイーンエリザベス級)) &ruby(バトルシップ){Battleship};((戦艦)) 二番艦、Warspiteです。&ruby(アドミラル){Admiral};((提督)).よろしくお願いしますね。&br;生粋の英国生まれ
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。
#fold(CV:内田秀、イラストレーター:コニシ (クリックするとセリフ一覧が開きます)){{
CV:内田秀、イラストレーター:コニシ
#shadowheader(2,[[定型ボイス一覧>Warspite/定型ボイス]])
#table_edit(Warspite/定型ボイス)
~
#shadowheader(2,[[時報ボイス一覧>Warspite/時報ボイス]])
#table_edit(Warspite/時報ボイス)
~
#shadowheader(2,[[季節ボイス一覧>Warspite/季節ボイス]])
#table_edit(Warspite/季節ボイス)
~
}}
*ゲームにおいて [#about]
-2016年夏イベント『[[迎撃!第二次マレー沖海戦]]』の最深部[[E-4>迎撃!第二次マレー沖海戦#area4]]クリア報酬。初のイギリス艦娘。
--改造にLv75も必要。ついに[[大和]]の最高改造レベルが陥落し、またこのレベルは大半の改二改造もできるレベルである。((改造可能レベルに必要な経験値はなんと319000。演習で旗艦にして1500の経験点をコンスタントに獲得できると仮定しても212戦の演習が必
--[[大型艦建造]]で、指定の秘書艦[[金剛改二]]/[[改二丙>金剛改二丙]]で建造可能。
---Warspiteを秘書艦にすると、同時に追加された[[Ark Royal]]を建造可能になる。
**基本性能について [#spec]
-戦歴を反映してか、運の初期値が何と55と改装前の雪風を上回っている。&color(Silver){不運ネタはかなり多いんだが……。};&color(Silver){どんな目に遭っても沈むことだけはない、という、ある意味無慈悲な一点評価なのかもしれない。};
--惜しむらくはその高い運を活かす局面が、水雷戦隊系の艦種に比べて少ないことである。
---ただ運による命中補正も馬鹿にできないため、そういう面では他艦に比べ頭一つ抜けている。
-旧式艦という位置づけらしく、低燃費かつ改造しても燃費が変わらない。
--改造レベルが遠いので未改造で運用する期間が必然的に長くなるが、[[金剛型の改>金剛改]]と同等のスペックを持つので特段不利は感じにくいだろう。
--それでいて[[改造後>Warspite改]]は[[金剛型改二>金剛改二]]に迫る性能を持っており、普段遣いに、イベント時には支援艦隊にとワークホースとして使いやすい艦。
しかし金剛型と同じ感覚で使うなら低速戦艦である事には留意したい。回避が低いのも気になる。&color(Silver){史実で脚回りに爆弾持ちなので仕方ない所ではあるが…};
-ちなみに''速力が低速の戦艦''の新規実装は2013年の[[武蔵]]から数えて2年半ぶりである。
実装当初は既存の低速戦艦と仕様・任務対象が異なることから若干の混乱も巻き起こしたとか。
**アップデート履歴 [#update]
-2016年 08月12日:実装。
-2020年 10月16日:[[大型艦建造]]に追加された。
**その他 [#other]
-艦船図鑑ではWarspite(No.239)の隣に[[Iowa]](No.240)が位置している。&color(Silver){海外艦娘のゲスト枠なのかもしれない};
-これまでに実装された海外の戦艦は、[[独>Bismarck]][[伊>Littorio]][[米>Iowa]]のいずれも「最新鋭かつ最後に建造された型式」が実装第一号だったが、英国に関してはその法則が崩れている。
&color(Silver){提督たちに根強く信じられていたジンクスや法則の類が新実装にあっさり破られるのは、艦これではよくあること。};
--実際の艦の戦歴や古くからの知名度からみたら英戦艦実装の一番手に選ばれるのは妥当ではあるのだが……。
-マンスリー任務『[[「水上打撃部隊」南方へ!>任務#id-Bm4]]』では自由枠扱いとなるので注意。
--この任務の前提任務である「戦艦を主力とした水上打撃部隊を編成せよ!」で大和型・長門型・伊勢型・扶桑型が指定されているため。仕様です。
-提督たちからの愛称は「スパ子」「ウォー様」など。
**キャラクター設定について [#character]
-発音がとにかく流暢。彼女を秘書艦にすると執務室が語学研修の場に早変わり。この機会に英語を本格的に学んでみるのも良いかもしれない。%%バロシッ%%
--声を担当した内田秀さんは、なんとこれが声優デビュー初仕事。((加えて20歳デビューに対しオーストラリア在住18年の帰国子女である。日本の英語教育で聞き慣れない一部の発音は、オーストラリア英語の性質であるようだ。))今後に期待大である。
--英語の特技を活かし、「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」ではミア・テイラー役に抜擢された。異例と言える全英語歌詞の曲も披露している。
-イラストで身につけているのはイギリス王室伝統の王冠・王笏・宝珠の3点セット。ロイヤルなネイビーのロイヤルなクイーンここにあり。
--''レガリア【regalia】''(英語発音では“リゲィリア”)と呼ばれる王権象徴のための器物で、日本でいうところの「三種の神器」に相当する。
--これらの装飾にはマストやブリッジをイメージしたデザインが取り入れられている。
--強く人目を惹く「玉座型艤装」((腰掛けるタイプの椅子型艤装は[[伊58]]が初である。))は、舵を始めとした足回りの不具合に艦歴の最後まで苦しんだ実艦の史実にからめられて車椅子のイメージが付与され、「'''''足が不自由'''''」という解釈が二次創作のあち
---ちなみに艤装を接続したまま立ち上がり玉座の背を畳むことで、見た目オーソドックスな「戦闘展開mode」となる模様。
---艦これアーケードでは遂に2019年9月下旬にWarspiteが実装され振る舞いが注目されたが、航行・砲撃シーンは座りっぱなしで行っておりなんともシュールな光景である。
なお、カットイン砲撃は[[SEGA公式紹介動画>https://youtu.be/q7h4HBeAD4I?t=107]]のように玉座から立ち上がって砲撃を行っている。ちなみにMVP時や秘書艦にした際も母港では立っている。
--イラストは第二次近代化改装後、迷彩と機銃の強化を施した第二次世界大戦中の姿を再現している。
---ロイヤルでクイーンな姿は一見すると1番艦クイーン・エリザベスを連想する向きもあるが、イラストではメインマスト型王笏の太い柱(QEは三脚楼なので単脚楼のウォースパイトより細い)、38.1cm砲塔上の円筒形のエリコン機銃座(QEでは支柱が入っている)、
-午後9時の時報で[[Zara]]・[[Pola]]に逃げられているのは、史実のマタパン岬沖海戦において両艦が交戦し、姉妹艦とともに彼女たちを撃沈しているため。
-午後10時の時報で言いかけているのはドイツの誘導爆弾[[フリッツX>Do 217 K-2+Fritz-X]]のことと思われる。[[Italia]]・[[Roma]]同様にフリッツXによる空襲を受け、ボイラー室大破・航行不能などの被害を受けた。
-梅雨限定ボイスにて「雨の時期は古傷が痛むので苦手」と言及する。史実を察するに、体中古傷だらけだろう…。
--晩秋ボイスでも言及しており、特に「フリッツX」のことを思い出すと不意に痛み出す様子。
**[[限定グラフィック>艦娘カード一覧(期間限定グラフィック)]] [#graphic]
-2018年1月1日のアップデートにて、晴れ着modeが実装された。
--これまでは立ち姿はラフ絵のみだったが、ようやく公式絵でも立った姿を見せてくれた。はしゃぎ様が大変かわいい。&color(Silver){そして中破絵でしょげた姿も大変かわいい};
-
#fold(限定グラフィック:晴れ着mode){{
限定グラフィック:晴れ着mode
&attachref(./239_Nensi_2018.jpg,nolink,Best wishes for the happy new year Admiral!);
}}
-2023年11月28日のアップデートにて、【Xmas】modeが実装された。
--暖かそうな紅白のワンピースの上から、紅白のケープを羽織った姿。楽しげに笑う姿が大変可愛らしい。
--いつものレガリア三点セットは装備しているものの艤装は簡易的ものになっており、武装は腰から伸びた主砲塔一基だけとなっている。
-
#fold(限定グラフィック:Xmasmode){{
限定グラフィック:Xmasmode
&attachref(./239_Xmas.png,nolink,Admiral!Happy Christmas!今日は飲みましょう、乾杯!いいわね、こんな日も。);
//中破絵は無しで
}}
*小ネタ [#trivia]
&size(16){''「戦いのあるところ必ず'''Warspite'''あり、と海軍では言われている」'' };((1944年6月7日 英タブロイド誌「デイリー・ミラー」より))
-イギリス海軍のクイーン・エリザベス級戦艦2番艦。デヴォンポート海軍工廠にて1913年11月26日進水、1915年3月8日就役。艦番号は「03」。
第一次・第二次両大戦を戦い抜き、その戦歴から「''&color(Red){傷だらけの不沈艦};''」「''&color(Red){オールド・レディ};''」の異名を持つイギリスきっての、いや世界随一の殊勲艦である。
//
//通常文字サイズに戻したときに「大文字でよかった」というコメントが散見されたこともあり元に戻します。文字サイズは差分『2 (2016-08-13 (土) 00:10:19)』を参考にしています。
//
//無断で小文字に戻した誰かが居るようですが、復帰させます。
//
//wikiでは過度の装飾や拡大文字の使用は極力控えて下さい。強調したい内容は閲覧の見やすさを考慮して強調文字や色つき文字程度で
//
//「wikiでは過度の装飾や拡大文字の使用は極力控えて下さい」とありますが、当Wikiにおいてそのようなガイドライン等は存在するのでしょうか? 普通文字サイズでなければならない等の前例があればご教授願います。なければそれはあなたの単なる主観の問題で
//また「//」で非表示にされていた文章を無断無言で削除するのは混乱と反感を招くだけですので避けた方が無難です。評価が分かれている問題でもありますので、これ以上の議論とするのであれば「提案意見掲示板」への提言を行い、しかる後に新たなるガイドライ
//
//上で無断編集合戦のやりとりをしている当事者たちとは別人ですが、コメント欄にて編集提案・意見募集を行ってから、無断ではない編集をさせて頂きました。
//これにより、文の表示位置は「左寄せ」に決定しています。変更の際は、事前にコメント欄での提案と意見募集を行って下さい。今回は位置だけの変更であり、文字サイズ等についてはノータッチです。
//無断編集合戦を行った方は反省し、すべてのページで二度と無断編集を行わないで下さい。
//
**艦名について [#name]
-Warspite(ウォースパイト)の艦名を持つ艦としては7代目。
--最初に命名されたのが''1596''年のことであり、Warspiteという艦名の正確な由来は今となっては不詳である。
spite(またはdespite)は古い英語で「悪意」「軽蔑的な無視」の意味であり、一般には「戦争を軽蔑する者」の意味と解されている。
また、キツツキ科のアオゲラの一種をspiteと呼ぶことから、「敵の艦体に穴を開ける」という意味合いもあると思われる。ウォースパイトの正式なシップ・クレスト(各艦毎に定められている紋章)は、[[緑地に大砲を描いたもの>https://upload.wikimedia.org/wik
---初代のガレオン船ウォースパイトが建造された16世紀末当時は、スペインと英西戦争の最中であった。「Warspight(Warspite)」という名前は後世一般的になった反戦的な意味合いよりも、敵国スペインに対する軽蔑を込めた命名であったというのが有力な説とさ
---1802年に英国で刊行された艦名辞典では "warlike fury(好戦的な怒り)" の意とされている。(([[William LOSACK. '''The Nautical Nomenclator; Or, Dictionary of the British Navy. In which is Explained the Meaning of the Name of Every Ship ... Belo
---ウォースパイトのモットーは「Belli dura despicio」、ラテン語で直訳すると「戦争の辛苦を軽蔑する」であり、意味合い的には「戦いの苦しみなんてものともしない」という感じになる。だがウォースパイト乗組員は専ら「やれるもんならやってみろ!」という
--アンドリュー・カニンガム中将((Sir Andrew Browne Cunningham(1883~1963)英国海軍提督・地中海艦隊司令長官。英海軍内ではイニシャルからABCとして知られていた。))が語ったコメントから、「グランド・オールド・レディ」(偉大なる老嬢)とも呼ばれる。&
アンドリュー・カニンガムは1943年に地中海艦隊司令長官から第一海軍卿、すなわち英国海軍武官の最高位のポスト((帝国海軍の軍令部総長、海上自衛隊の海上幕僚長、アメリカ海軍の作戦本部長に相当する。帝国海軍は海軍大臣も現役武官制だったり、自衛隊やアメ
--当艦の後は、8代目として1967年就役のヴァリアント級原子力潜水艦2番艦(HMS Warspite, S103)にその名が使われたものの、こちらも色々あって衝突と損傷と修理の連続で1991年に退役。しかし放射能の問題があって現在でも解体されずに静かに余生を過ごしている
--その名を継ぐもの9代目として、4隻が建造・計画中のドレッドノート級原子力弾道ミサイル潜水艦の3番艦がウォースパイトとして2022年9月に起工され、戦艦三笠の建造でも知られるバロー・イン・ファーネス造船所にて現在建造中である。ド級戦略原潜である。&c
#fold(そもそもクイーン・エリザベス級戦艦とは?){{
そもそもクイーン・エリザベス級戦艦とは?
**構想について [#wc1b165d]
-産業革命に先んじたイギリスに対し、ドイツは国力に遅れをとっており、海軍軍備でも歴然たる差が生じていた。しかし、日本海海戦の戦訓を元にイギリスが生み出したドレッドノート級(弩級)戦艦は、これまでの戦艦とは「別次元の強さ」であり、従来型を一気に
-こうして英独の間で弩級戦艦、超弩級戦艦の建艦競争が始まるのである。従来、伝統的政策として「二国標準主義((大陸の有力海軍国フランス=世界二位とロシア=世界三位を合計したのと同等以上の海軍力を整備するマジキチ政策。広大な植民地を持っていた大英帝
--ドイツが毎年4隻の戦艦を建造する「艦隊法」を施行したため、「We want eight, We won't wait(八隻欲しい、今すぐ欲しい)」というトンデモないスローガンをひっさげて建艦予算をもぎ取ったエピソードさえ存在する。戦艦一隻の建造費が国家予算の数%にも
-このような中、13.5インチ(34.3㎝)砲を連装5基搭載する超弩級戦艦「オライオン」級を建造し列強、特にドイツに差をつけたイギリスであったが、早くもドイツ、日本、アメリカが計画中の新戦艦は14インチ(35.6cm)砲を備えるという情報が得られた。更なる差を広
--15インチ砲はこの時点では未完成であり、完成には2年から3年かかるとされていた。しかし失敗するリスクはあるものの増大した口径は砲塔を前後2つずつにまとめても十分な火力を期待でき、船体中央に余裕を持った動力系統を配置できることを意味した。石油専
--こうして弩級戦艦時代では前例のない『主砲が未完成状態で砲塔や船体の設計を始める』という方法を用いて、第一次大戦型の高速戦艦としてクイーン・エリザベス級は開発されるのである。
--そして日英同盟もあってQE級の図面は日本にも提供され、[[長門]]の計画において大いに参考となっている。&color(Silver){拡大強化された従姉妹のような関係といえなくもないかも。};
-ネームシップのクイーン・エリザベス((1558年 - 1603年にかけて在位していた女王エリザベス1世にちなむ))に続き、ウォースパイト、ヴァリアント((意味は「勇敢な」))((2021年現在艦これ未実装ではあるが、[[アブルッツィ>L.d.S.D.d.Abruzzi]]が女優である事
--ちなみに、チャーチルは1912年10月に本級の1隻に「HMS オリヴァー・クロムウェル」と命名する提案をしている。彼は前級のアイアン・デューク級で同様の提案をしていたが、国王ジョージ五世の反対で断念していた。(ピューリタン革命で、当時の国王チャール
結局、今度もジョージ五世や海軍高官の反対によって断念されている((チャーチルの提案では「クイーン・エリザベス」「リチャード1世(後にウォ―スパイト)」「ヘンリー5世(同ヴァリアント)」「オリヴァー・クロムウェル(同バーラム)」であった))。最終的にネー
---さらに、6隻目のクイーン・エリザベス級戦艦として、エジンコート((アジャンクールの戦い-百年戦争中の1415年にイングランド軍がフランス軍に圧勝した戦い-))の建造が計画され、実際にポーツマス海軍工廠に発注が行われたが、第一次世界大戦勃発に伴い1914
-英領マレーと同じく、カナダ政府も1913年度予算で3隻のクイーン・エリザベス級戦艦を建造する計画を立てた。建造後、イギリス海軍とカナダ海軍のどちらで使用する予定だったのかは定かではないが、肝心の予算案が議会で否決されたため計画は立ち消えとなった
**性能について [#ye32b15f]
-元祖・高速戦艦と呼べるクィーン・エリザベス級だけあり、走・攻・防全てにおいて高い次元でバランスされた優秀艦。
-主砲は当時世界最強の[[15インチ砲>38.1cm Mk.I連装砲]]。後に「奇跡の大砲」と呼ばれたほどの優秀な砲で、単なるカタログ値だけでなく集弾性や整備性、故障の少なさなどあらゆる点で優れた素養を発揮した。&color(silver){なのに、どうして四連装砲という変
--副砲は6インチMk.12単装砲([[これ>15.2cm単装砲]]と同じヴィッカース社製だが異なる砲)をケースメイト(砲郭)式で14基(クイーン・エリザベスのみ16基)装備した。
--クイーン・エリザベスだけ門数が多いのは、三番砲塔付近舷側に片舷2門ずつを真後ろに向けられるケースメイトで装備したため。これが位置が低すぎて波を被りまくりで使い物にならず(見れば納得するはず)、竣工後早々に撤去されその埋め合わせに上甲板煙突近
-防御は330mm装甲を中心に、就役当時のドイツ戦艦に十分対応できる強固な防御を持つ。ただしプレ・ユトランド戦艦であることには変わりなく、水平防御はやや薄弱だったが後に改装で補強された。
-速力はジョン・アーバスノート・フィッシャー第一海軍卿((戦艦ドレッドノート建造を指揮し、巡洋戦艦や駆逐艦というジャンルを創りだした、英国海軍艦政面における偉大な人物。しかし一方で所謂「英国面」の極北のような艦も多数建造指揮しているお方。なに
---また重油専焼ボイラーのみにしたことにより、面倒この上ない補給時の石炭積み込み作業を不必要としたことや、煤煙の低減による視認性の向上などのメリットも産まれている。
--同時代の列強の戦艦の速力を比較すると
|艦名|建造国|速力(ノット)|
|扶桑|日本|22.5|
|アイアン・デューク|英国|21.3|
|ケーニヒ|独国|21|
|クールベ|仏国|21|
|ニューヨーク|米国|21|
|カイオ・ドゥイリオ|伊国|21|
|インペラトリッツァ・マリーヤ|露国|21|
|テゲトフ|墺国|20.3|
と大きく圧倒している(アイアン・デューク級はクイーン・エリザベス級の前級)。
&color(Silver){扶桑型が意外と同期では2位の速さであることは内緒?};
--しかしそれは竣役当初の話で、第二次世界大戦の時点では二度にわたる近代化改装で速力を1ノット落として23ノットとなっている。同じく近代化改装を受けながら、速力(&color(Silver){だけ?};)は22.5ノットから25ノット弱まで大きく向上した扶桑型や、原型を
-まあ完成時のドイツ巡洋戦艦が26~27ノット程度だったことを考えれば十分に高速で、ユトランド海戦で巡洋戦艦に伍して参戦できた大きな要因となった。
--だが次のリヴェンジ級(R級)では量産のためのコストカットや戦時燃料事情を考慮した結果から、重油石炭混焼ボイラーの搭載を再開し、速度も21ノットと従来の戦艦並みに抑えられた。
就役直後に第一海軍卿に復帰したフィッシャー提督の命令でボイラーをすべて重油専焼ボイラーに置き換えられたが、もともとボイラースペースが狭いので1~2ノット優速になった程度に終わる。
結果的にR級はQE級より新しいにも関わらず終始QE級より低い扱いを受けることとなったのであった。&color(Silver){[[不幸だわ……>山城]]};((ただ、基本設計は優秀だったので後のレナウン級巡洋戦艦やライオン級戦艦(未完成)、ヴァンガードの設計はリヴェンジ
-戦間期には全艦で近代化改装が施行されているのだが、[[某>金剛]][[高速>比叡]][[戦艦>榛名]][[姉妹>霧島]]同様に、艦ごとに内容が見事にバラバラになっている。
結果、同級は4種の全く外見が異なる艦が混在するという結果となった。
**クイーン・エリザベス級の改装 [#wc1b165d]
--全艦に共通する1920年代に行われた第一次大規模改装は煙突の集合煙突化、[[バルジ>増設バルジ(大型艦)]]の装着、対空火器の増設など。
--1931年頃からトップを切って第二次改装されたマレーヤは本格的な航空艤装(煙突脇に格納庫とデリック、煙突後方に横向き固定式カタパルト)が追加されたが、その他の上部構造などには特に手は加えられず、三脚檣艦橋を備えたままだった。
--1934年から第二次改装を施されたウォースパイトはマレーヤのメニューに加えて上部構造物の一新が図られ、「アン女王の邸宅」の異名を持つ箱型艦橋を有した。
また新型のQF4インチMk.16連装高角砲4基も装備されたが、一方で砲郭式の副砲も半減されたとは言え残ったままとなった。
--1936年と1937年にそれぞれ第二次近代化改装に着手されたヴァリアントとクイーン・エリザベスはウォースパイトの改修メニューに加えて副砲の完全撤去が行われ、高角砲もQF4.5インチMk.2連装両用砲10基の装備が実施され、同時期に建造されたキング・ジョージ5
--続いてバーラムも第二次改装に入る予定だったがここで第二次大戦が勃発。ヴァリアントとクイーン・エリザベスが改装中で戦列を離れている時にさらに稼働戦艦を減らす訳には行かなくなり、改装はお流れとなった。結果、同艦は第一次改装状態のまま(対空兵装
--バーラムの他、巡戦レパルス・フッドにも改装計画があったが同様に全て中止されている。フッドなどは防御構造の全面改良で相当凶悪な艦になるはずだったのだが…
--第二次世界大戦時の姉妹たちの様子はこんな感じだった。
''[[クイーン・エリザベス(1941年2月、第二次近代化改装後)>https://commons.wikimedia.org/wiki/File:A_009255.jpg]]''
''[[ウォースパイト(1942年7月、第二次近代化改装後)>https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/HMS_Warspite%2C_Indian_Ocean_1942.jpg]]''
''[[ヴァリアント(1939年後半、第二次近代化改装後)>https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/28/HMS_Valiant-2.jpg]]''
''[[バーラム(1940年代、第一次近代化改装後)>https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/HMS_Barham.JPG]]''
''[[マレーヤ(1941年7月、第二次近代化改装後)>https://commons.wikimedia.org/wiki/File:HMS_Malaya_Leaving_New_York_Harbour_After_Repairs,_9_July_1941_A5440.jpg]]''
}}
**艦歴について [#z5cfa8b8]
-第一次大戦・第二次大戦ともに数々の戦場で戦った歴戦の軍艦であった。
非常に長いので一行で纏めるならば「&size(15){[[''戦艦が簡単に沈むか!!''>http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%88%A6%E8%89%A6%E3%81%8C%E7%B0%A1%E5%8D%98%E3%81%AB%E6%B2%88%E3%82%80%E3%81%8B%21%21]]};」である。
***就役から第一次大戦終結まで [#ce3872c6]
-1913年11月26日午後3時15分、デヴォンポート海軍工廠にてチャーチル海軍大臣や3万人もの観衆が見守る中、ウォースパイトはオースティン・チェンバレン((第二次世界大戦前の英首相で、ナチス・ドイツへの融和政策からヒトラーを増長させ第二次世界大戦勃発を
彼女が就役したのは、それから1年4ヶ月後の1915年3月8日である。就役した際にはすでに第一次世界大戦が始まっていた。
-この頃のウォースパイトは[[ドジっ子>五月雨]]属性がついていたのか、やたら事故に見舞われている。
#fold(リトル・レディのドジッ子エピソード集){{
リトル・レディのドジッ子エピソード集
--就役から6ヶ月後の9月にフォース湾((スコットランド東岸にある湾。沿岸にはスコットランド首都エディンバラやロサイス海軍工廠が点在する。))にて濃霧の中で座礁事故を起こして燃料タンクを損傷。2ヶ月も入渠修理の憂き目にあう。
---ウォースパイトのエドワード・フィルポッツ艦長はこの事故の原因を「護衛の駆逐艦がないためにUボートを警戒し、わざと高速で航行していたら、濃霧の中から陸地が現れた」と査問会で証言している
(当時乗り組んでいた主計士官候補生は「ロサイスの巡洋戦艦艦隊所属の駆逐艦に掃海済みの水道へと案内されたところ、それが小型艦用の浅い水深の水道で、結果ウォースパイトは腹を擦った」という別説を提示している)。
--11月20日にドックから出て戦線に復帰するも、直後の12月3日には今度は演習中に姉妹艦バーラムの右舷中央部に衝突する羽目となる。
---原因は旗艦であったバーラムが回頭中に掲げた「速度8ノットに変更せよ(G・8)」という旗旒信号をウォースパイトの信号員が「速度18ノットに変更せよ(G・1・8)」と勘違いして報告し、18ノットに急増速してバーラムめがけて突っ込んだことであった。結果
--後述のユトランド沖海戦の損傷修理から1ヶ月後の1916年8月24日深夜、今度はスカパ・フローでの夜間砲撃演習の帰路についていたウォースパイトは、不幸にも停泊地から移動中の姉妹艦ヴァリアントの横腹に衝突してしまう。
---この事故で三度フィルポッツ艦長は戒告処分を受け(後に法的にはヴァリアント艦長に非があったとして戒告は取り下げられたが)、これが止めとなってウォースパイト艦長の職を辞すこととなった。
そして再び艦首に傷を負ったウォースパイトは9月29日までドック送りとなり、衝突されたヴァリアントも9月18日まで入渠している。
--この他1917年の6月にも駆逐艦(艦名不明)と衝突しているようだが、損傷は軽く修理が必要な程ではなかったらしい。
}}
-この頃のウォースパイトは根拠地であるスカパ・フローに停泊していたが、乗員達は上陸してスポーツやピクニックを楽しんだり、音楽隊の演奏のもとダンスパーティーをしたりして楽しい時を過ごしていた。また、スカパ・フローにはポラック(鱈の仲間)の群れ
-ウォースパイトの初陣に待ち受けていたのは生涯で最初の危機であった。
#fold(ユトランド沖海戦){{
ユトランド沖海戦
1916年5月31日のイギリス大艦隊(グランド・フリート)とドイツ外洋艦隊(ホーホゼーフロッテ)が激突したことで知られるユトランド沖海戦では、姉妹艦3隻((ネームシップのクイーン・エリザベスは当時入渠中。))とともにエヴァン・トーマス提督の第5戦艦部隊に所
-開戦以来、イギリス海軍はジョン・ジェリコー大将指揮の大艦隊は「現存艦隊主義」を採り拠点のスコットランド北方のオークニー諸島スカパ・フローに籠り、活発的には動かなかった。代わりにデヴィッド・ビーティー提督率いる巡洋戦艦部隊が半ば大艦隊から独
-対するドイツもフランツ・ヒッパー((この戦いでバイエルン王より騎士位を授与され「フランツ・リッター(騎士)・フォン・ヒッパー」となる。[[アドミラル・ヒッパー級>Prinz Eugen]]1番艦「アドミラル・ヒッパー」や戦後西ドイツ海軍の138型教育フリゲート「
-1916年になるとドイツ海軍は再び活発的になる。主力である大洋艦隊の司令長官がラインハルト・シェーア((こちらも後にドイッチュラント級装甲艦の「アドミラル・シェーア」に名前が使われている。))中将に代わり積極的に活動しだしたのだ。これに危機感を覚
-5月30日、暗号解読によりドイツ艦隊の出撃を知ったイギリス大艦隊は直ちに出撃、前衛を務める巡洋戦艦部隊は翌31日に同じく前衛として航行するドイツ偵察部隊を発見。ここにユトランド沖海戦の幕が切って落とされる。
--つい2週間前に配属されたばかりの第5戦艦部隊は旗艦「ライオン」の旗旒信号を見落とすというミスを初手から犯してしまう。そのためイギリスとドイツの巡洋戦艦艦隊の砲戦は6対5とほぼ同数で始まってしまう。この時風は西風で、西に陣取るイギリス艦隊は自艦
--この窮地を救ったのがようやく追い付いた第5戦艦戦隊だった。彼女らは南進するドイツ巡洋艦隊を同航戦で迎え撃ち、ウォースパイトはドイツ巡洋戦艦部隊の後方に居た軽巡ピラウ、続いて殿艦フォン・デア・タンに砲撃を加えている。[[ユトランド沖におけるウ
---が、イギリス側の砲撃精度はドイツ側に比べて甘く、また主砲徹甲弾の不発率の高さもあってドイツ側に有効打を与えることは出来ず、逆にイギリス側は巡洋戦艦「クイーン・メリー」を失ってしまった。
--16時30分には巡洋戦艦部隊の前方に展開していた巡洋艦部隊がラインハルト・シェーア提督率いるドイツ海軍の戦艦部隊を発見し、巡洋戦艦部隊は14時46分に、敵艦隊を本隊の方へおびき寄せようと北へ引き返す。
が、またしても第5戦艦部隊は伝達ミスで転針することなく、巡洋戦艦艦隊とすれ違いかけた際にようやくビーティー提督から逐次回頭((旗艦に続いて、その時の陣形を維持したまま回頭すること。))での北上を命じられた。
第5戦艦部隊は命令の通り16時58分になってやっと逐次回頭を行うが、北上してくるドイツ主力艦隊を前にして所要時間の長い縦列での逐次回頭を行ってしまったため、回頭中の第5戦艦部隊はドイツ主力艦隊のいい的となってしまい、戦隊の二番艦にいたウォースパイ
--それからの北上中にもドイツ主力艦隊との撃ち合いは続き、18時にやっとジョン・ジェリコー提督の英国海軍の主力艦隊と合流するまで、ウォースパイトには戦艦の主砲弾5発が命中していた。
--艦隊合流後、巡洋戦艦部隊の後方へ位置するよう命じられた第5戦艦戦隊は再び回頭するのだが、18時18分、回頭点手前にあったウォースパイトの操舵装置が原因不明の故障を発生し、ウォースパイトは突如左に転舵。後続の姉妹艦ヴァリアントに異常接近する。
なんとかヴァリアントと衝突は免れたが、舵は面舵のまま壊れて動かず、フィルポッツ艦長は機関出力を調整してウォースパイトを戦隊に戻そうとした。
が、結果としてウォースパイトは速度を落としながらドイツ主力艦隊の眼前で旋回を行うこととなる。
---フィルポッツ艦長は艦隊へ戻るのを諦め増速。ウォースパイトは故障した舵の力で右に旋回し続けた。
ドイツ主力艦隊も単艦で旋回を続けるウォースパイトをカモとして見ないはずがなく、計20発もの主砲弾・副砲弾を叩きこまれている。
---しかしウォースパイトのおかげで救われた艦もあった。
先立つ戦闘で撃破されていたドイツ軽巡ヴィースバーデンを撃沈しようと近づいたイギリス装甲巡洋艦ウォーリアとディフェンスは、直後に霧の中から現れたドイツの主力艦隊に捕捉された。
18時20分には先行していたディフェンスに砲撃が命中し、ディフェンスは轟沈。後続のウォーリアも砲火に晒されて戦闘能力を喪失し、撃沈されるのも時間の問題となっていた。
だが時同じくしてウォースパイトの旋回がはじまり、ドイツ艦隊は死にかけの装甲巡洋艦から戦列から落伍し異常挙動を行う戦艦に狙いを変える。
ウォースパイトが狙い撃ちにされている間にウォーリアは辛くも戦線を脱出。ウォーリアは損傷が激しく結果的に放棄されたが、生存者743名は水上機母艦エンガーディンに移乗し事なきを得た。
--15分間の間に数多くの命中弾を受けながら一回半円旋回を続けたウォースパイトは機関出力の調整でようやっと前進を保つことに成功し、ドイツ艦隊の射程外に離脱。英独両艦隊も砲戦をつづけながら東に向かっていき、ウォースパイトは完全に戦場から遠ざかった
被害は大きかったが人的損害は非常に少なくこれほどの危機的状況立ったのに戦死者は14名と損害に比べて非常に少なかった&color(silver){運がいいのか悪いのか・・・。};
安全圏に離脱したことを確認するとフィルポッツ艦長は一度艦を停止させて、応急修理を行うこととする。
--結果的にウォーリア脱出の時間稼ぎとなったウォースパイトのこの旋回は『''&color(blue){ウィンディ・コーナー};''』として知られる事になる。
--修理を完了したウォースパイトは現状を第5戦艦戦隊に知らせると、トーマス提督はウォースパイトにロサイスへの帰還を命じ、ウォースパイトは命に従って姉妹より一足早くロサイスに帰投する。
---その後、ジェリコーの艦隊から先行していた第3巡洋戦艦戦隊が海域に到着し、ビーティの巡洋戦艦部隊を支援する。戦力差が開いたドイツ艦隊は集中砲撃を受け多くの艦が損害を受け、まともに戦っているのはモルトケだけとなる。それでもドイツ艦隊の砲撃は衰
---フッド提督は代々海軍提督を輩出するフッド子爵家の一門で、夫を失った未亡人は後に夫の名(正確にはフッド家の初代サミュエル・フッドだが)を冠した1隻の艦の進水式に参加する。後にドイツ最強の戦艦ビスマルクと死闘を演じ北海に沈んだ『''&color(black)
---こうして巡洋戦艦同士の死闘を経て、イギリス大艦隊は日没頃の19時頃にはドイツ艦隊をT字体制に捉えることに成功する。絶対絶命の状態となったドイツ外洋艦隊司令長官シェーアは非情な指示を出す。
『全艦、180度一斉回頭、巡洋戦艦部隊は敵に肉薄せよ』
既に深手の巡洋戦艦部隊を突入させて時間を稼ぎ、その間に主力は反転して脱出する。非情ではあるが絶対絶命なこの状況で主力を脱出させるには他に手はなく、シェーアのこの決断は吉と出る。
---この後10分間にわたる交戦は、後に『''&color(red){死の騎行};''』と呼ばれるようになる。それでもシェアの外洋艦隊は困難な反転脱出に成功し、ヒッパーの巡洋戦艦部隊も残骸同然になりながらも一隻の沈没艦を出さずに脱出に成功する。
---その後は退却するドイツ艦隊と、それを追撃するイギリス艦隊との間で一晩中交戦が続き、数隻の駆逐艦や旧式戦艦が沈んだが双方の主力に損害はなくドイツ艦隊は1日午後にヤーデ湾に帰還する。
---但しドイツ巡洋戦艦リュッツオウは損傷による浸水に耐えきれず、乗員退去後に雷撃処分された。
--戦線を離脱したウォースパイトは翌6月1日朝ロサイスへの帰投の途上、フォース湾の沖で出入港するイギリス艦船を狙っていたドイツ海軍のUボートU-51とU-63に遭遇。
---U-51はウォースパイトを雷撃したが、いざ魚雷を発射中の段階でU-51の艦首がうねりで沈んだために魚雷は外れ、雷跡に気づいたウォースパイトは転舵し全速でU-51の潜む海域から離脱。
2時間後にウォースパイトの見張りがU-63の潜望鏡を発見すると、フィルポッツ艦長は全速力で体当たりして撃沈させようと試みたが、操舵手への伝達が上手く行かずに失敗し、結局ウォースパイトは手ぶらで帰還することとなった。
---ロサイスの港に帰って来た時、ウォースパイトは艦の艤装を大きく破壊され、艦内には大量の浸水があった。しかしボロボロになりながらも士気高く戦ったその戦艦を、多くの群衆が歓声でもって迎えたのであった。
---帰投したウォースパイトはすぐにロサイス海軍工廠のドックに入渠し、同年7月まで修理を施されることとなった。ただし、彼女の傷は一刻も早く戦列に復帰させるため不十分な修復しかされなかった。1934年からの第二次近代化改装の際、下部構造物の損傷の多く
--ウォースパイトはユトランド沖海戦で合計29発の命中弾を受けた。
外舷側の機関室や操舵区画は浸水し、居住区画が大きく破壊されたものの、死傷者は死者14名・負傷者17名とわずかで済んだのだった。
[[敵の砲弾により開いた大穴の写真。>https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1f/HMSWarspitesidedamage1916.jpg/1280px-HMSWarspitesidedamage1916.jpg]]
---なお、この時顔面に重傷を負ったウォルター・ヨー砲手に対して、後に世界初となる顔面皮膚移植手術が行われたことが知られている。
-ユトランド沖から帰還した翌朝、フィルポッツ艦長はドックで傷を癒すウォースパイトを見に行った。彼はその時の気持ちをこう記している。
「''感情的と思われるかもしれないが、ウォースパイトに愛着を抱いていると感じた。そして今も世界中を探しても、ウォースパイトのような船はないと思う。その名前はいつも讃えられるだろう''」
}}
-1917年7月9日の夜、スカパ・フローに停泊中の戦艦ヴァンガードが爆発事故によって轟沈した。同じく停泊中だったウォースパイトは仲間を救うべく真っ先にボートを下ろし救助活動にあたった。警備艇や他艦のボートと共に捜索が行われたが、多くが就寝中の事故
-1918年の3月初日にウォースパイトの機関室の石油供給管から火災が発生し、消火にあたった乗員一人が火傷の重症を負った。幸い大事故には至らなかったが、リード線融解によってまた1ヶ月の修理を施されることになったのであった。
-1918年11月11日、ウォースパイトはドイツとの休戦の知らせをフォース湾で聞いた。全艦の全乗員にラム酒が特配され、乗員は踊りや歌で喜びを爆発させた。ウォースパイトや他の艦艇達は、3時間に渡って霧笛やサイレンを鳴らし凱歌を上げたのであった。そして19
***戦間期 [#y79208df]
-第一次世界大戦が終わりを告げ、世界が束の間の平和を取り戻した後、ウォースパイトは大戦の戦訓と発達する新技術を盛り込むために二度の改装を受けることとなった。
#fold(二度の改装){{
二度の改装
-1924年から1926年にかけて、ウォースパイトはポーツマス海軍工廠にて最初の近代化改装を受けることとなった。工事内容は、バルジの装着による水線下の防御力強化や安定性の向上、艦橋への煤煙流入を防ぐために煙突を一本にまとめるなどであった。無事に改装
-1928年7月12日、エーゲ海を航行中に海図に未記載の暗礁に触れ損傷してしてしまう。そのため本国に帰還して修理を受けた。
--修理完了後の1929年7月、今度はタービンのトラブルによって地中海艦隊対抗の砲術競争への参加を見送る事態となった。
--同年7月29日には地中海で荒天下で遭難しかけていたギリシア帆船セント・ヘレナ号の乗員を救助してマルタ島まで移送した記録もある。
---救助したセント・ヘレナ号の乗員に対して、ウォースパイトの乗員達は手厚い保護を行うだけでなく、当面の生活費をカンパまでしたという。セント・ヘレナ号乗員の深い感謝の言葉は、当時の新聞記事によって今日に伝わっている。
-二度目の近代化改装は1934年から1937年まで施された。
--今回の改装は非常に大規模なものであり、上部構造物を完全に撤去した上で機関とボイラーをより強力なもの(7万5千馬力→8万馬力)に置き換えた。また上部構造物そのものも一新され、垂直に切り立った城のような外観の艦橋が設けられた。主砲塔も[[仰角の向上
--この改装で戦闘能力や機関能力は大幅に改善され、ウォースパイトは生まれ変わったのであった。
だがユトラント沖で「ウィンディ・コーナー」を引き起こし、それ以降も度々ウォースパイトを危機に陥れ続けた操舵機の故障だけは残り続けた。操舵機を新規に交換したにもかかわらず、改装完了後の1937年3月8日、英仏海峡で全力操舵試験中にいきなり舵が故障し
--それでも3月11日の全力航行試験は無事に完了し、8万250馬力・23.84ノットを出す快調な走りを見せたが、3月18日の砲術試験で大惨事一歩手前の事態を引き起こしてしまう。主砲を最大仰角で二度斉射したところ、現場は視界が悪かったため、ちょうど落下点付近
--上記第二次改修は姉妹で最初の事例であったため、不調のせいか機密保持目的かは不明だが、出られないことは無いにも関わらず、ジョージ6世戴冠記念観艦式に出してもらえなかった。
---招待を受けた[[足柄]]には牧野造船少佐はじめ各国の最新鋭艦の諜報目的で多数の随員が同乗、ポーツマス軍港内でもそこそこの行動の便宜が図られていたにも関わらず、改装を終えて間もないウォースパイトの動静をつかんだ様子は無い。
どうにもヴァリアント共々、非公開の船渠に引っ込んでいたようである。&color(Silver){そんな足柄の最大の諜報戦果は「チャタレイ夫人の恋人」であったと云う…。};
なお、秩父宮両殿下はじめとする日本代表員団は英国側の特別の計らいで[[クィーン・エリザベスに乗艦して参列>http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200903/04.pdf]]することとなった。
}}
-1937年6月30日のこと、3月から続く試験や改修による過重な負担が原因で水兵達の間に不満が溜まっていたのだが、休暇と帰艦時間との兼ね合いからとうとうトラブルになりかけた。報告を受けたクラッチリー艦長は、直ちに乗員を後甲板に集めて彼らの不満に耳を
-1938年1月14日、マルタ島で対空射撃訓練中に命令の伝達ミスが原因で陸に向ってポンポン砲を誤射する事故を起こしてしまった。市街地に着弾する最悪の事態は避けられたものの、陸軍の射撃場にいた歩兵達が危うく掃射されかけた。陸軍の抗議に対して、艦長と砲
-艦に問題を抱えているとはいえ、その基本性能と乗員の技量は非常に高かった。同年8月下旬、国際情勢の緊迫化を受けて行われた地中海艦隊の演習に巡洋戦艦フッドなどと共に参加したウォースパイトは、15インチ主砲をきわめて正確に目標へ命中させ、地中海艦隊
***第二次世界大戦 [#vcb28e52]
-第二次世界大戦勃発当初は地中海艦隊旗艦を務めていたが、本国艦隊の根拠地スカパ・フローに潜入したUボート(U-47)により戦艦ロイヤル・オークが撃沈されるとその戦力補充のため本国艦隊へ合流。
以後、数ヶ月にわたって北海や北大西洋で輸送船団の護衛や哨戒任務に当たることとなった。そして、ようやく地中海へ戻れると思われた矢先に下されたのはノルウェーへの出撃命令だった。
-雪と氷の北の海で、ウォースパイトは大勝利を収めることとなる。
#fold(第二次ナルヴィク海戦){{
第二次ナルヴィク海戦
-彼女の数多い武勲の中でも際立つのが、1940年のドイツ軍のノルウェー侵攻時に、駆逐艦隊と共にフィヨルドに突入した第二次ナルヴィク海戦である。%%舵の故障癖あるのにフィヨルド突入とかマジか?%%
--ウォースパイトは駆逐艦と共同でドイツ駆逐艦2隻を撃沈し、他の6隻を自沈に追い込んだ。先の第1次ナルヴィク海戦で2隻を失っていたドイツ海軍は、保有駆逐艦の半数近く((1939年時点でドイツが保有していた駆逐艦はZ1~Z22までの22隻))を損失する痛手を被っ
---この戦い以前に[[Z1]]や[[Z3]]も誤爆や触雷で失われており、ただでさえ駆逐艦が不足していたドイツ海軍は深刻な駆逐艦不足に悩まされることになった。このため、ナルヴィクでの勝利は戦略的に見ても少なからぬ影響を与えたことが指摘されている。((例えば
--またドイツ駆逐艦隊との戦闘に先立って、ウォースパイトは搭載していた[[水上機型>Swordfish(水上機型)]][[ソードフィッシュ>Swordfish Mk.II改(水偵型)]]でUボート1隻(U-64)を撃沈するという、戦艦としては異例の戦果も挙げている。
しかもこれは、''第二次大戦において航空機による初の潜水艦撃沈''でもあった。
---ドイツ駆逐艦隊は先立つナルヴィクの戦いで燃料・弾薬を消耗していたため、正面からの対決を避け、各艦とも最低限の要員以外は陸に退避させた上、入り組んだフィヨルド内でイギリス艦隊を待ち伏せしていた。ただでさえ切り立った斜面が入り組んでいるフィ
--海戦後、ウォースパイトは英軍の負傷者と共に8名のドイツ海軍捕虜を移送することになった。初めて敵兵の顔を見ることになった乗員の一人は次のような感想を残している。
「''彼らは(悪魔のように)頭が二つあるわけでも、角や二つに分かれた蹄があるわけでもなかった。彼らは我々と同じように、命令に従い自らの務めを果たした単なる水兵に過ぎなかった''」
---2名の士官は士官用キャビンに、6名の水兵は船室に収容された。彼らを監視した海兵隊員は、捕虜達は全員素直に指示に従う普通の水兵であったと証言している一方、何人かはその余裕は最終的なドイツの勝利を確信している傲慢に基づくものだったと語っている
-4月19日、ウォースパイトはロイヤル・オークを沈めた相手であるU-47の魚雷攻撃を受けたが、幸い回避に成功しロイヤル・オークの二の舞は避けられた。U-47はその後駆逐艦からの爆雷攻撃で撃退された。
}}
-1940年5月に地中海艦隊へ戻った後も様々な戦果を挙げることとなるのだが、それらに関しては[[Zara]]や[[Pola]]のページも参考にしていただきたい。
#fold(地中海での奮闘){{
地中海での奮闘
-1940年7月9日、カラブリア沖にてイタリア艦隊と交戦。戦艦ジュリオ・チェザーレに対して21,000メートルの距離で命中弾を与えた。((これは「艦砲射撃による移動目標への砲撃命中」においてドイツ戦艦シャルンホルストに次ぐ長距離記録である。))
この戦いによりイタリア艦隊の行動は消極的なものとなり、その間ウォースパイトは各地で輸送作戦と対地砲撃を行った。
--1940年8月17日、ウォースパイトは重巡洋艦ケントと共にイタリア軍の拠点であるリビアのカプッツオ砦を砲撃、同時に戦艦マレーヤとラミリーズがバルディア港を砲撃した。
--1940年11月11~12日に行われたジャッジメント作戦では、タラントのイタリア艦隊を空襲した空母イラストリアスの護衛に付いた。
--1941年1月3日にはウォースパイトは戦艦ヴァリアント、バーラム、モニター艦テラー、防空巡洋艦カルカッタ、砲艦3隻および駆逐艦4隻と共に出撃、再びバルディア港を攻撃した。猛烈な砲撃によって英陸軍のバルディア攻略に大きな貢献を果たした。[[戦況を伝え
--1941年1月10日、マルタ島への輸送作戦(エクセス作戦)に護衛として参加したウォースパイトは、地中海方面で初めてのドイツ空軍の空襲を受けた。だがここでもウォースパイトは幸運を発揮する。ウォースパイトを狙った爆弾は彼女の錨の先端に当たって爆発し
--1941年3月27~29日にはギリシャのマタパン岬沖でイタリア艦隊と交戦。
---当初は速度に優る前衛部隊が交戦、続いて空母とクレタ島からの空襲でイタリア艦隊は損傷を受ける。戦艦ヴィットリオ・ヴェネトは撤退したが、重巡ポーラは航行不能となってしまう。
---ポーラの援護に向かったイタリア艦隊に対しウォースパイトら戦艦を含むイギリス艦隊が夜戦を敢行。戦艦ヴァリアントに搭載されたレーダーが無警戒なイタリア艦隊を捕捉し、至近距離から猛攻撃を加えた。
---イタリア艦隊を夜戦で追撃するかどうかについて、イギリス艦隊では反対意見が大多数を占めたが((主に同士討ちの危険を恐れたことによる。実際夜戦中にウォースパイトは危うく空母フォーミダブルを主砲で吹っ飛ばしそうになった。))、カニンガム提督は幕僚
---そして絶好の状況でザラ達を捉えた時の気持ちを、カニンガム提督は後にこう記している。
「''私は次の数分間を決して忘れない。(中略)私の全人生の中で、射撃管制塔からの"照準監督士官が標的を確認"という静かな声を聞いた時ほどスリリングな瞬間は経験したことがない。確かに主砲は発射準備ができていて、指が引き金を引きたくてたまらなかった
---イギリス艦隊各艦の奮戦で重巡ザラ、ポーラ、フィウメ、他に駆逐艦二隻が沈没。この海戦の結果、イタリア海軍は地中海における制海権を著しく失う事になった。[[当時のニュース映画。>https://www.youtube.com/watch?v=LSvsn9iz3K8]]
-1941年4月20日、ロンメル将軍率いるドイツ・アフリカ軍団の猛攻で苦境に陥った英陸軍を支援するため、ウォースパイトは戦艦ヴァリアント、バーラム、空母フォーミダブルらを引き連れ、リビアのトリポリ港を砲撃した。
--チャーチル首相の強い要望で、枢軸軍の重要な補給港であるトリポリを砲撃することになったが、カニンガム提督は空襲や沿岸砲台の攻撃を危惧し乗り気ではなかった。しかし海軍省が提示した代案は、戦艦バーラムやセンチュリオン((初代キング・ジョージ5世級
--フォーミダブル搭載機が投下した照明弾のもとで行われた夜明け前の攻撃は完全な奇襲となった。ウォースパイト以下各艦は損害なく、ウォースパイトは15インチ砲弾135発と6インチ砲弾106発を撃ち込み撤収した。
---ただし、ほとんどの弾は海面に落ちたため、輸送船1隻を撃沈、2隻を損傷させたにとどまり、港湾機能もわずか24時間で復旧した。市街地に落ちた砲弾が原因で、トリポリ市民に約400人の死傷者を出してしまっている。
}}
-イタリア空軍の空襲に対してはさしたる損傷も受けずにいたウォースパイトだったが、ドイツ空軍に対しては度々苦しめられる事となった。
--1941年5月、ウォースパイトはクレタ島を巡る戦いに参加する。この戦いでイギリス海軍は、空襲や爆装艇によって巡洋艦3隻・駆逐艦6隻を失う手痛い敗北を喫した。ウォースパイトの姉妹艦ヴァリアントは爆弾2発が命中し損傷、そしてウォースパイト自身も[[メッ
---ちなみにウォースパイトに痛打を与えたこの爆撃は、最終撃墜機数110機のエースパイロット[[クルト・ウッベン少佐>https://en.wikipedia.org/wiki/Kurt_Ubben]]によるものとされている。
---アレキサンドリアに後退して検査したところ、限られた現地の施設では修理が不能のため、スエズ運河を通って紅海、インド洋、ハワイ経由で太平洋を横断し、米本土西海岸のシアトルで修理と改装を行う事になった。アレキサンドリアで停泊中に再び空襲に遭い
-損傷の修理に加え、新型レーダーの搭載や消耗した主砲砲身の交換などを行っていたが、この間に状況は激変した。
--まず1941年11月25日、地中海を航行していた姉妹艦バーラムが[[U-331の雷撃で轟沈>https://www.youtube.com/watch?v=YdrISbwy_zI]]。
--1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。直後に行われたマレー沖海戦で東洋艦隊は壊滅的な打撃を被る。
--更に1941年12月19日には、イタリアの人間魚雷((日本のアレのような特攻兵器ではなく、二人乗りの小型潜水艇で港内に停泊している艦艇に時限爆弾を仕掛けて爆破する。))マイアーレ部隊がアレキサンドリア港に侵入し、停泊していたクイーン・エリザベスとヴァ
-そのような戦況の中でウォースパイトは防備を固めるべく、新たな戦場 - インド洋へと赴くのであった。
#fold(東洋艦隊旗艦として){{
東洋艦隊旗艦として
-イギリス海軍が威信をかけて派遣した戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスがマレー沖で日本軍航空隊にあっけなく沈められた事実は、ウォースパイトの乗員たちにも大きな衝撃を与えた。
乗員の一人は次のように述べている。
「''マレー沖で2隻が沈められたというニュースを、アメリカの新聞やラジオがひっきりなしに報じていた。君が若ければ、血気盛んに『よし行こうぜ、奴らを捕まえてとっちめてやるさ』と意気込むだろう。だが彼女たち2隻の損失は、この戦争が敵を容易に倒すこと
--ウォースパイトはシアトルから出航して太平洋を再び横断、日本軍の目から逃れるためオーストラリアの南を回ってセイロンへと無事に到着。1942年3月、東洋艦隊司令長官サマーヴィル提督((Sir James Fownes Somerville(1882-1949) 英海軍の著名な提督の一人。
当時の東洋艦隊はウォースパイト以下戦艦、空母等それなりの戦力を有していたが、最も危険な敵との対峙を余儀なくされることになった。当時飛ぶ鳥を落とす勢いの南雲機動部隊である。
--4月5日、日本の機動部隊がセイロン島のコロンボとトリンコマリーを爆撃した時、幸運にもウォースパイトは多くの艦艇と共に南西約960kmの地点にあるアッドゥ環礁((現在のモルディブにある環礁。当時イギリス海軍が泊地として整備していたが日本軍はそのこと
---すでにイギリス側は、暗号解読によって日本軍がインド洋方面に進出しようとしていることを掴んでいた。そのため主力艦艇を防御上難のあるセイロン島の根拠地からアッドゥ環礁へ移していたのである。
--5月には、ヴィシー・フランスが保持していたフランス領マダガスカル島への上陸作戦「アイアンクラッド作戦」に参加する。一緒に参加していた戦艦ラミリーズが日本海軍の[[特殊潜航艇>甲標的 甲型]]の雷撃で損傷したものの、ウォースパイトは特に損害を受け
--6月初めには、インド洋で通商破壊を行っていた日本海軍の特設巡洋艦愛国丸と報国丸の捜索にあたったが空振りに終わった。
--1942年6月のミッドウェー海戦で日本の機動部隊は壊滅したため、&color(Silver){%%慢心ダメ、絶対%%}; インド洋での危機は去った。そのため、1943年3月にウォースパイトは本国に帰還を命じられた。帰路の途中、喜望峰沖でイギリスへ向かう輸送船団と合流し護
}}
-再び地中海へ戻って来たウォースパイト。そこで待ち受けていたのは激闘に次ぐ激闘であった。
#fold(「オールド・レディ」 ){{
「オールド・レディ」
-1943年6月、ウォースパイトは連合軍の本格的な反攻作戦の第一歩であるシチリア島への上陸作戦「ハスキー作戦」に参加するために再び地中海へと移動した。上陸支援と、イタリアの戦艦が出撃してきた時に備えてである。
7月7日戦艦ヴァリアント、空母フォーミダブルと共にエジプトのアレキサンドリアから出撃したウォースパイトは、途中でアルジェリアのオランから来た戦艦ネルソンとロドニーの姉妹、空母インドミタブルらと会合、一路シチリア島を目指した。
--ところが、7月16日に空襲でインドミタブルが損傷したため、ウォースパイトとヴァリアントは彼女をマルタ島まで護衛するよう指示された。マルタ島到着後、ウォースパイトのハーバート・パッカー艦長はカニンガム提督に作戦への参加を求めた。
---だがカニンガム提督は、「それはどうかな、ウォースパイトは平時では地中海でいつも砲撃が最悪だったからな」とからかうように言った。
それに対してパッカー艦長が「戦時ではどうです?」とすかさず切り返すと、カニンガム提督は答えた。
「''絶対失敗しなかったな。マタパン岬沖の夜戦での功労艦の一隻だからな''」
---かつての旗艦であり、全幅の信頼を寄せるウォースパイトに対してカニンガム提督も直ちに出撃許可を与えた。出撃が認められたウォースパイトとヴァリアントだったが、翌7月17日、仮泊地へ向かう途中でヴァリアントのスクリューが防潜網に絡まるトラブルが起
-老朽化した機関のために速度が出ず、さらに例によって舵が故障し駆逐艦と衝突しかけるトラブルのために遅刻しながらも、ウォースパイトは目標に指定されたシチリア島カタニアの沖合へ到着し、同日18時43分初弾を発射した。[[ドイツ軍陣地へ火を吹く15インチ
--ウォースパイトは艦砲射撃を続けた後、19時02分に全速力で撤収を開始。ドイツ空軍はウォースパイトに対して一晩中断続的な空襲を仕掛けてきたが、ウォースパイトは対空射撃を続け大過なく切り抜けた。そして7月18日の朝無事にマルタ島マーサックスロック港
&size(20){''「作戦は成功した。オールド・レディもスカートを上げれば走ることができる」''};
&size(20){''(Operation well carried out. There is no doubt that when the old lady lifts her skirts she can run.)''}; ((「 WARSPITE - FROM JUTLAND HERO TO COLD WAR WARRIOR 」に依る。文献により「Operation well executed」「There is no questi
-シチリア島占領後、9月8日には連合国によるイタリア本土サレルノへの上陸作戦「アヴァランチ作戦」が始まった事で、イタリア海軍の残存戦力は次々と投降し始める。これを警戒していたドイツ軍はイタリア艦艇の投降を阻止すべく行動に出た。9月9日、14時20分
--その投降してきたイタリア艦隊を出迎えて、マルタ島へ護送したのがヴァリアント、そして他ならぬウォースパイトであった。その様子は、古参の乗員達に四半世紀前のドイツ艦隊投降を思い起こさせた。[[実際の映像。>https://www.youtube.com/watch?v=fZp28mZ
--艦隊がチュニジアのビゼルト沖を過ぎていた頃、カニンガム提督がアイゼンハワー連合国軍司令官と共に駆逐艦ハンブルドンに乗り視察に訪れた。イタリア艦隊を先導するウォースパイトを見ていたカニンガム提督は信号を送った。
「かつての旗艦が列の先頭という名誉であり、また当然の位置にいるのを見て嬉しい」
それに対してウォースパイトのパッカー艦長は答えた。
「''オールド・レディは立派にイタリア艦隊の世話をするつもりです''」
}}
-栄光ある異名を受けたウォースパイト。しかし彼女を危機が襲う。
#fold(アヴァランチ作戦){{
アヴァランチ作戦
-投降するイタリア艦隊主力に大打撃を与えたフリッツXの脅威を、ウォースパイトのある士官候補生は日記にこう記している。
「''我々は午後を通して、"バッグの中の物"を貯えた(=捕らえたイタリア艦隊をマルタ島に確保した)が、戦艦ローマはドイツ空軍に爆撃されて沈んだことが分かった。35,000tもの新鋭戦艦は艦体中央部に爆弾を受け、わずか20分で沈んだ。イタリア艦隊の司令長官
そしてフリッツXは、今度は「アヴァランチ作戦」に参加した連合軍艦艇へ矛先を向けたのであった。
--元々ウォースパイトはイギリス本国で改装の予定であったが、9月14日の出港直後、サレルノに上陸しているアメリカ軍が艦砲射撃による支援を要請してきたため、急遽予定を変更してサレルノ沖へ展開した。上陸させたウォースパイトの海兵隊員による着弾観測の
--9月16日、支援任務中のウォースパイトにドイツ空軍が空襲、フリッツX3発が投下され、内2発が命中する。ちょうど乗員が昼食のため警戒を解いたタイミングと重なり、対処が遅れてしまった。
1発は水上機格納庫を貫いて機関区で爆発。船体中央の甲板に巨大な穴をあけた。もう1発は右舷バルジを貫通してボイラー室で爆発。残り1発も至近弾となり、6基あるボイラーのうち5基を破壊や浸水で使用不可能、浸水した量は5,000tにも達するほどの損害を出した
--9日に新鋭戦艦のローマを轟沈させたフリッツX。それをローマと同じ2発、それも船体中央部という重要区画で受けてしまったウォースパイト。本来なら轟沈(下手をすれば竜骨が折れて真っ二つである)もありえる損害だったが、彼女は沈まなかった。戦死者もこれ
これまでの不運ネタをひっくり返すような幸運っぷり。それが改になることで艦娘一の運の初期値70となる理由かもしれない。
--しかしながら、危機的状況であることには変わりがなかった。大量の浸水によって艦は4度に傾斜(最終的に傾斜は4.5度まで増大し喫水は1.5mも沈下した)、主砲も使用不能となった。ウォースパイトはそのまま航行不能となり、円を描いて漂流しながら機雷原に突
---幸いにして、乗員の懸命のダメコンと救援に駆け付けたタグボートの援助によって復旧し、曳航されつつ4ノットで撤退を始めた。
---危機的状況を脱したとはいえ、艦の損傷は大きかった。換気扇が停止したため熱気と悪臭が充満。乗員は照明が破損し暗闇となった艦内をバッテリーランプで照らしながら排水作業を続けた。飲み水にも事欠く有様で、もちろん風呂や調理も不可能であった。それ
--大破したウォースパイトは、潮流に難儀しながらも修理をすべくマルタ島へ曳航された。大破したウォースパイトを何度もドイツ軍機が狙ってきたが、その度に共に戦火を潜り抜けてきた相棒ヴァリアントや護衛の駆逐艦達が全力で対空砲を撃ち上げ追い払った。何
[[大歓迎の中マルタへたどり着いたウォースパイト。バルジが見えなくなる程沈下していることが分かる。>http://www.shipsnostalgia.com/guides/images/7/74/Warspite1943_after_salerno_bomb.jpg]]
パッカー艦長はその時の喜びを日記に記している。
「''我々が通過する全ての船の乗員達がウォースパイトに(敬意を表して)向き直り、多くの(祝福の)通信を受け取った。もう二度と帰ってくることができないのではないか、という大変な不安を我々が抱いていたことは間違いない。ああ、そうだとも。そして我々
--マルタ島のドックではウォースパイトの修理は不可能であったため、応急修理を済ませた後、4隻のタグボートに曳航されて乾ドックがあるジブラルタルへ向かうことになった。ここでパッカー艦長がカニンガム提督の幕僚に栄転したため、艦は副長エドワーズ中佐
---到着の4日後にドック入りして修理が始まったが、艦底に開いた大穴を見たある下士官のコメントがその被害の大きさを物語っている。
「''どうしてウォースパイトが浮いていられたのか決して分からないだろう。誇張ではなく、艦底の穴は二階建てバスが易々と通り抜けられる程だったのだ''」
---ジブラルタルにいた時、ウォースパイト艦内で通称「''ニシン事件''」といわれる騒動が起きた。元々、ウォースパイトには「どんな尺度で見ても不味くて嫌われる料理」と言われた、ニシンを熱いトマトソースに漬けた激マズ料理(以下トマトニシン)があった
---ちなみに、このトマトニシンはイギリス軍全体でも評判は最悪のようで、海洋戦記小説の大傑作「女王陛下のユリシーズ号」の作中でジョークのネタになっている((ユリシーズ号のクルーの会話で「オレ達はこき使われて、あの戦艦はどうして出撃しないんだ」と
-ジブラルタルで修理中、ウォースパイト大破の知らせを聞いたカニンガム提督が、多忙な職務の合間を縫いパッカー前艦長らを連れて乗員とウォースパイトを見舞いに来てくれた。
}}
-傷ついたオールド・レディ。しかし彼女は休むことなく史上最大の作戦に参加する。
#fold(ネプチューン作戦(ノルマンディー上陸作戦) ){{
ネプチューン作戦(ノルマンディー上陸作戦)
-その後イギリス本国に戻った彼女は翌年にかけて本格的な修理を受けるが、「ネプチューン作戦」(いわゆるノルマンディー上陸作戦)((上陸作戦単体の名称。侵攻作戦全体は「オーバーロード作戦」といった。))が近づき、作戦にはウォースパイトの参加が決まっ
--1944年6月2日、ウォースパイトは東方任務部隊を構成する戦艦ラミリーズ、モニター艦ロバーツ、重巡洋艦フロビッシャー、軽巡洋艦モーリシャス、アレシューザ、ダナエー、ドラゴン、そして15隻の駆逐艦と共にグリーノックを出発、ノルマンディーの海岸へと向
--6月6日、上陸作戦が開始され、ウォースパイトはソード・ビーチに上陸したイギリス陸軍第3歩兵師団を支援する。発射した砲弾の数は2日間で300発以上に上り、多数の陣地・車両を破壊した。一度ポーツマスに戻り弾薬補給の後、6月9日には弾薬不足のアメリカ戦
現地の指揮官はその砲撃を短く、かつ的確な文章で称賛した。
「''15インチ砲弾50発の迅速な射撃!''」
[[砲撃をするウォースパイト。第三砲塔(X砲塔)が動いていないことが分かる。>https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/57/Operation_Overlord_%28the_Normandy_Landings%29%2C_6_June_1944_A23916.jpg]]
-砲撃支援を続けていたウォースパイトだったが、6月13日午前7時48分、イギリス・ハリッジ沖45km地点で触雷してしまった。
--艦底に数ヶ所の穴が開いたほか、触雷した左舷側を中心にバルジに大きな歪みが生じた。それに伴って690tの浸水が発生し最大4.5度の傾斜が発生した。左舷推進器も破損したため、ウォースパイトは残った右舷側推進器を用いて10ノットでよろよろとロサイスに帰
--その際、傷ついたウォースパイトを励まそうと在泊していた戦艦アンソン、ハウ以下諸艦艇の乗員が登舷礼で迎えてくれた。
}}
-二度の大戦を戦い続けた老嬢にも、まもなく最後の時が訪れようとしていた。
#fold(ウォースパイト最後の戦い){{
ウォースパイト最後の戦い
-それから2ヶ月の修理が行われたものの、幾多の戦いに身を置きボロボロとなった彼女は、もはや十分に修理されることはなかった。支援任務をこなすためだけの艦として、主砲は新品に交換したが、左舷の推進器は内側のみ修理されただけであり、修理後の公試でも
--人間で例えれば片足を引きずり全身包帯だらけのような状態にもかかわらず、戦列に復帰した8月以降、ウォースパイトはドイツ軍が立て籠もるブレスト等の要塞へ砲撃を実施し、地上の友軍部隊に多大な貢献をした。
--そして1944年11月1日、オランダ・ワルヘレン島のドイツ軍陣地を攻撃する「インファチュエイト作戦」支援のためにその日353発目となる15インチ砲弾を発射した17時23分、二つの世界大戦を戦い抜いた不屈の戦艦の主砲は永久に撃ち方を止めたのであった。
}}
***第二次大戦後から最期の日まで [#c3c78ad3]
-大戦中の度重なる酷使によって艦体の全体が傷んでいたウォースパイトは1945年上旬には既に予備艦としてイギリス本国の港に係留され、1946年8月に正式に廃艦が決定した。
[[自慢の主砲すら取り外され係留されるウォースパイト。後ろはクイーン・エリザベスとマレーヤ。>https://1.bp.blogspot.com/-tCmMoRXFtR8/WIpSKMzmZlI/AAAAAAAAI5A/W15wOu2hhjU4dfTzjnPSd8OMOLKRoKFqQCLcB/s1600/The%2Bend%2Bof%2Ban%2Bera.jpg]]
-偉大なる戦歴を持つウォースパイトを解体させてなるものかと保存運動も起こったが、莫大な戦費と植民地喪失により、戦後の大英帝国国庫は危機的状況だった。
かつてフランスから鹵獲した栄誉の証である18世紀の木造戦列艦インプラカブル1隻すら維持できず、自沈処分せざるを得なかった状況下である。
修繕するだけで相当の費用が予想される傷み果てた老朽戦艦を保存する余裕は、もうどこにもなかった。
結局ウォースパイトは解体処分が決定し、武装を取り外された後係留されていたスピッドヘッドから解体場のあるクライド湾に曳航移送されることとなった。
-だが曳航移送中に英仏海峡で突風に見舞われて曳航ロープの1本が切断され、ウォースパイトは漂流を始める。
なんとか突風と闘いながら曳舟が再びロープを渡してウォースパイトを御し、彼女をコーンウォール州のマウント湾に投錨仮泊させることに成功したが、吹き続く突風にウォースパイトの錨鎖はちぎられ、彼女は再び漂流を始めた。((曳航する場合曳かれる側のエンジ
そして最後にマウント湾東部の岩礁地帯(通称「プロシア入江」)に乗り上げるように座礁する。まるで最期のその時まで海と共にあり続けたいと願うかのごとく…。&color(Silver){解体業者相手にウォースパイト最後の死闘である。};
-ウォースパイトは同地の岩礁の上に、完全に解体される1956年までその姿を留め続けたのであった。悪運艦ここに極まれりである。[[当時の様子。>https://www.youtube.com/watch?v=mWtJ1ijUEok]]
--現在、プロシア入江を望む高台には[[小さな記念碑>http://s0.geograph.org.uk/geophotos/02/10/22/2102291_d38bc4ee.jpg]]が建てられており、偉大な「オールド・レディ」最期の地を今に伝えている。
また、クレストや船鐘をはじめとするウォースパイトの多くの備品が、英国各地の博物館に保存されている。
-第一次世界大戦ではユトランド沖海戦で死闘を繰り広げ、第二次世界大戦では老体ながら緒戦より北海や地中海で働き続け((第二次大戦開戦から1943年までのウォースパイトの行動距離は次のように記録されている。開戦の1939年9月から年末までの3か月:12,984海
--ウォースパイトが第一次・第二次両大戦を通じて受けた戦闘名誉章(バトル・オナー)は、その数15個にのぼる。((1.ユトランド沖1916年、2.大西洋戦線1939年、3.ナルヴィク1940年、4.ノルウェー1940年、5.カラブリア沖1940年、6.地中海戦線1940-1943年、7.マ
ウォースパイトが解体されてから60年、米海軍の[[アイオワ>Iowa]]の除籍に伴い、戦艦という艦種が世界から完全に姿を消して10年が経過した今もなお、世界の歴史家や海軍関係者からウォースパイトへの称賛が止むことはない。
-歴史に名を残した多くの英海軍艦艇と同様に、ウォースパイトは度々切手やコインの題材に選ばれている。
参考:1982年イギリス発行の29ペンス切手[[「ウォースパイトとカニンガム提督」>http://farm6.staticflickr.com/5485/10289610613_ccc995b7ec_o.jpg]]、1994年ジブラルタル発行の25ジブラルタル・ペンス切手[[「HMS Warspite」>http://i.colnect.net/b/120/71
-1978年5月、イギリス国鉄の50形ディーゼル機関車の一両(50014)がウォースパイトと命名された。
--50形は1978年以降全ての車両に第一次・第二次世界大戦の軍艦名が付与されている。そのため姉妹艦のヴァリアント、バーラムや空母[[アーク・ロイヤル>Ark Royal]]、弩級艦の由来であるドレッドノートなどの車両が存在した。
-ウォースパイトは他の艦艇と比べて、非常に雰囲気のよい艦であったという証言が多数残されている。士官や下士官・兵を問わず、(一部の例外的な事件を除き)温厚で不平不満を言うことなく、規律をよく守るものが多かった。大型艦に多少なりとも存在した下の
--ウォースパイトは生涯幾度もひどい損傷を負ったが、その度に決して沈むことなく耐え抜き乗員達を守った。そして乗員達もまた、一致団結し愛するオールド・レディを懸命に守り抜いたのである。
前述のパッカー艦長も、かつて少壮の士官だった時をウォースパイトで過ごし、最初の危機であったユトランド沖海戦を共に戦った。それから27年の後、サレルノ沖で再びウォースパイトが危機に瀕した時には、彼は主たる艦長として彼女を救ったのだ。
-イギリスの戦史家V.E.タラント氏は、著書「戦艦ウォースパイト~第二次大戦で最も活躍した戦艦~」の前書きでウォースパイトについて次のように賛辞を贈っている。
「''第二次大戦を通じて ― 戦闘による損傷がひどかったため海軍工廠で過ごす時間を別とすれば ― ウォースパイトの大砲はほとんど絶え間なく火を吹いていた。ウォースパイトは自分自身の魂を持っていた船であり、乗組員すべてに愛された ''」
-2019年2月25日、イギリス海軍第一海軍卿サー・フィリップ・ジョーンズ大将は、ドレッドノート級戦略ミサイル原子力潜水艦の3番艦を「ウォースパイト」と命名することを[[自らのツイッター垢>https://twitter.com/AdmPhilipJones/status/1099980009211682817]
***余談 [#p73edbc0]
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ウォースパイトのペット事情と「エイブル・ドッグ・プルート」
-マスコットやペットとして動物を乗せていた軍艦は国を問わず多く存在しているが、同じようにウォースパイトもその生涯において様々な動物をマスコットとして乗せていた。
--例えば、就役間もない頃にはキツネザルをマスコットとして飼っていた。普段は前檣楼に住んでいて、ウォースパイト最初の修羅場であったユトランド沖海戦でも敵弾の破片を上手くかわしながら生還した。
--第二次世界大戦中には、「''ストライピー''」という猫がウォースパイトに乗っていた。
---その名が示すように縞模様の所謂トラ猫であり、生まれも育ちもウォースパイトという叩き上げの船乗り猫であった。開戦以来、ウォースパイトの戦うところ常に乗員と共に過ごし終戦まで生き抜いた。
---しかし、戦後ウォースパイトがその任を解かれた時、ストライピーの処遇が問題となった。除籍後係留されるウォースパイトに留まっていたストライピーは、幸いにも番人を務めていたジョージ・ワトソン氏に気に入られ互いに意気投合。めでたく二人は共に新た
[[ウォースパイトの救命浮輪と共に写るストライピーとワトソン氏。>http://www.gettyimages.co.jp/detail/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%86%99%E7%9C%9F/the-keeper-of-the-h-m-s-warspite-a-ship-used-by-britain-in-wwi-%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%8
--ウォースパイトのマスコットで最も有名かつ乗員達に愛されたのは、「''エイブル・ドッグ・プルート''」という名前の垂れ耳の雑種犬である。
---プルートはトブルク包囲戦中に誕生し、駆逐艦で幾度も実戦を経験した後にウォースパイトへ移って来たという強者であった。
---非常に賢い犬であったといわれており、プルートのファンの一人であったパッカー艦長は、妻ジョイに宛てた手紙の中で様々なエピソードを書き残している。プルートはただ乗員達と遊ぶだけでなく、乗員が錨を下ろす時には、集合ラッパが聞こえると舳先に座っ
また、イタリア艦隊降伏の際にはウォースパイトの艦首を走り回りながらイタリア艦隊に吠え続けていた。
---一方で、彼はプルートのこんなハプニングも記している。1943年6月のある朝、日課である軍艦旗(ホワイトエンサイン)の掲揚を終えた海兵隊員が後甲板から退出しようとしたタイミングで、プルートが後甲板に積まれていた大量の卵をばら撒いてしまったのであ
卵を踏みつけた一人の海兵隊軍曹は、「南南西の方角へ25ノットの速さで」「スケートをするドナルドダックのように」滑って行き、後部砲塔の陰で見守っていたプルートの大きな尻尾のところでようやく止まったいう。
---しかし、乗員達に愛されたプルートは、1943年11月ウォースパイトがジブラルタルでドック入りしてすぐに工廠内でトラックに轢かれて命を落とした。サレルノ沖でフリッツXを受け大破して間もない時期の突然の悲劇に、多くの乗員が悲しみに暮れた。エドワーズ
--ウォースパイトは大型艦であり、(もちろん「人間用」ではあるが)ある程度の医療設備やスタッフが整っていたため、時にはより小型の艦から動物について相談されることもあった。
--- 1943年8月31日の午後、対潜トロール船ガヴォッテからウォースパイトの医療スタッフ宛に信号が送られてきた。
「ペットの猿が誤って鉛丹(えんたん = 艦底の赤い塗装に使う鉛を含む有毒な塗料)を食べて死にかけています。手当ての方法についてご教授願いたい」
ウォースパイトはすぐに返信した。
「一般的に病気の猿には、ティースプーン半分の硫酸マグネシウムを水1カップに溶かして与える。小用量のブランデーを水で薄めて与えるのもありかもしれない」
しかし、14時50分ガヴォッテからの返信は残念なものだった。
「貴艦の援助に感謝いたします。悲しいことに、哀れな小さな仲間は息を引き取りました」
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***参考文献 [#b7f9f9ae]
本稿の記述は主に以下の文献に依る。
-V.E.Tarrant著・井原裕司訳 「 戦艦ウォースパイト―第二次大戦で最も活躍した戦艦 (原題 Battleship Warspite) 」 (元就出版社刊 1998年・原著1991年)
-Harry Plevy著 「 BATTLESHIP Sailors - The fighting career of HMS Warspite recalled by her men - 」 (Chatham Publishing刊 2001年)
-Lain Ballantyne著 「 WARSPITE - FROM JUTLAND HERO TO COLD WAR WARRIOR 」 (Pen & Sword Maritime刊 2010年)
-ネイビーヤード編集部編 「 世界の戦艦プロファイル - ドレッドノートから大和まで 」 (大日本絵画刊 2015年)
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