雑学

Last-modified: 2014-03-02 (日) 01:03:07

ゲームに直接関係ないけど、知っているとゲームが楽しくなったり艦娘への理解が深まったりかもな知識
目次

 

最近追加された項目

  • 鹿屋基地  -- 2014-03-01
  • コロンバンガラ島沖海戦 -- 2014-02-02
  • 宿毛湾泊地  -- 2014-02-01
     
    ※詳しい説明は Wikipedia などに任せてください。

皇紀(こうき)とは

神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)の略称であり、日本書紀の記述により系譜上の初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年(紀元)とする日本の紀年法。
明治5年に制定され、翌6年に施行されたもので、皇紀元年は西暦紀元前660年にあたる。
つまり西暦に660を足せば、それが皇紀の数字となる。例をあげると、西暦1940年=皇紀2600年。

 

昭和生まれの日本軍の兵器の命名には皇紀が採用されているので、これを知っておくと採用された年代がわかる。
例を艦これ出演兵器で言えば九一式徹甲弾(91=皇2591→西1931)、九九式艦上爆撃機(99=皇2599→西1939)、零式艦上戦闘機(00=皇2600→西1940)など他多数。
ちなみに海軍は陸軍との対立もあってか、1943年(皇紀2603年)以降は皇紀による命名は行われなくなった。
後述する紫電改彗星天山に「○○式」という名称が存在しないのはそのため。

軍艦とは

国際法的には、一国の軍隊に所属する全ての船舶。海洋法に関する国際連合条約にその定義が定められている。
旧日本海軍では独自の定義をしており、「菊の御紋」のついた艦、すなわち戦艦、巡洋艦、航空母艦、水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、砲艦が「軍艦」とされた。
「軍艦」を含めた戦闘艦は「艦艇」、国際法上の軍艦は「艦船」とされた。
定義上「軍艦」ではない駆逐艦などでは「艦長」ではなく「長」と呼ばれるなど、扱いに差があった。

 

もっとも、旧日本海軍が他国の駆逐艦を一等下に扱ったとか、「これは軍艦ではなく艦艇だ」と言って国際法の穴をつこうとしたとか、そういうことがあったわけではない。
海自や他国の軍艦をこの独自の定義に当てはめないよう注意。

艦名の命名基準

軍艦の命名には基準があります。
帝国海軍の命名基準はだいたいこんな感じ。

艦種類基準備考
戦艦旧国名大和、長門など「扶桑」もまた日本の別名
航空母艦空を飛ぶ瑞祥の動物飛龍、翔鶴など昭和18年6月4日以降、山岳名が追加
重巡洋艦山岳名高雄、足柄など
軽巡洋艦河川名長良、川内など
駆逐艦気象に関するもの吹雪、雪風など昭和18年6月4日以降、甲型、乙型、丁型の各型で命名基準が変更となった
潜水艦排水量により等級分け+番号伊168など等級は伊(1000トン以上)、呂(500トン以上)、波(500トン未満)に分かれる。
その他の補助艦艇など島、岬、海峡、名所・旧跡、かつて存在した艦艇の名ほか間宮、千歳など
  • いくつかの例外
    • 金剛型は山岳名だが、これらの計画時の元は装甲巡洋艦(一等巡洋艦)だった。
    • 赤城は巡洋戦艦、加賀は戦艦の未成艦をそれぞれ航空母艦に変更しているのだが、当時は航空母艦の命名基準が存在しなかったため、そのままの艦名。*1
    • 最上型および利根型は軍縮条約下の軽巡洋艦として計画されたため河川名だが、竣工後あるいは計画中に条約が失効し主砲を換装して扱いが重巡洋艦になった。
      なお換装後も書類上は軽巡洋艦(二等巡洋艦)のままだったりする。
    • さらに最上型三番艦鈴谷は当時日本領だった南樺太の鈴谷川が由来。
    • 加古は本来、川内型4番艦として予算が組まれたもの。ワシントン海軍軍縮条約の締結後に未成艦整理の対象となり、予算と艦名が7100トン型一等巡洋艦に使用された。*2
    • 千歳・千代田は空母改装の際改名が検討されていたが、水上機母艦として戦功を挙げていること、名前が瑞祥動物である鶴を連想させること(さらに言うと、千代田は皇居の美名でもある)などから乗員に対し改名可否のアンケートを取ったところ、反対多数のため改名されなかった。
    • 戦争後半には航空母艦は量産が予定されていたので、名前を考えるのが大変であることから、山の名前に変更された。いずれも未実装だが、雲龍、天城、葛城があり、その他にも未完成艦として笠城、阿蘇、生駒がある。
    • 改名が行われなかったことについては、帝国海軍では艦名は「天皇陛下から授かったもの」と考えられており、それを海軍の都合で変えるなど恐れ多いとされていたということもある。
  • 小ネタ
    • 日本を含む世界の海軍では、かつて存在した艦の名前を襲名することがよくある。
      旧海軍で最も多く使われた艦名は『高雄』の4回。海上自衛隊を含めれば『愛宕』『千代田』『朝潮』『黒潮』『村雨』『夕立』『』『』『』も4回。ただし、『高雄』『愛宕』は1隻の未成艦を含む。
    • 外国では軍艦に人名や都市名を付けることは珍しくないが、日本では人名・都市名は使用しない。*3
      これは、明治天皇が軍艦に人名・都市名を付けることを嫌ったためとされる。
      都市名については、明治38年制定の「艦名命名則」で、「都市名を付けちゃいけない訳じゃないけど、あまり面白くない」という言及がされている。

軍用機の命名基準

帝国海軍機の命名基準はだいたいこんな感じ。
「零戦のA6M2bとかってどういう意味?」とか解説すると非常に長くなるので詳しいことはwikipediaとかで調べてください。

機種基準備考
甲戦(制空戦闘機)強風、烈風など
乙戦(局地戦闘機)紫電震電など
丙戦(夜間戦闘機)月光、極光など
爆撃機彗星流星などただし、流星の機体分類は攻撃機
攻撃機天山、連山など
偵察機瑞雲彩雲など
  • 上記の命名基準は1942年途中、具体的には『月光』以降のもの。
    それ以前は『採用年(皇紀)下2桁 + 機種』(皇紀2597年に制式採用された艦上攻撃機→九七式艦上攻撃機)。さらに前(西暦1928年/皇紀2588年以前)は『元号下2桁 + 機種』。
    陸軍も含め、あらゆる兵器は同様に命名される(例:三式通常弾)。
  • 陸軍機にも『隼』のようなものがあるが、あれは愛称(ペットネーム)に過ぎず正式名称は『一式戦闘機』。終戦まで命名基準が変わることはなかった。

プレイヤーの呼称・役職

艦娘の台詞に出てくるプレイヤーの呼称。
特記ない場合旧日本海軍における解説を示す。

呼称階級(標準)解説使用艦娘
提督大将~少将海軍の将官の総称、敬称。提督という役職があるわけではなく、海軍将官なら誰でも提督と呼べる。陸奥赤城ほか多数
司令官少将「艦隊」の下にある「戦隊」の長。ちなみに、「艦隊」の長は「司令長官」である。
鎮守府や航空隊などの陸上部隊の長も役職に応じて「司令長官」「司令」などと呼ばれた。
吹雪如月ほか多数
司令大佐「戦隊」のさらに下にある「隊」の長。上述の「司令長官」や「司令官」の略ではない。
ただし艦娘の中には「司令官」「司令」共に使う者もおり、艦これの世界観ではどう違うのかは不明。
比叡陽炎ほか多数
将校大将~少尉海軍で「将校」と言えば兵科・機関科の士官(予備・特務士官を除く)を指したが、陸軍では兵科の士官、予備士官、叩き上げの士官(陸軍にはそもそも特務士官制度が存在しない)が将校とされた。
なお、将校ではない士官を「将校相当官」と呼び、海軍では厳密に区別されていた。
あきつ丸
隊長大尉~少尉陸軍においては、単に「隊長」と呼んだ場合通常「隊」の長である中隊長又は小隊長を指す。
海軍においては、陸軍の編成を模した陸戦隊を除けば隊長と呼ばれる役職は存在しない。
まるゆ

当時の軍事・戦略思想

  • 大艦巨砲主義 (たいかんきょほうしゅぎ)
    巨大で強力な火砲(と頑丈な装甲)を装備した大きくて強い艦(戦艦)が海上戦力の優位を決定するという考え方(ドクトリン)。その思想の極致は大和型戦艦となって現れたと言える。
    ドレッドノートを先駆けとし、第2次大戦(の途中)までは日米含めて世界の海軍の主流な考え方だった。
  • 航空主兵論 (こうくうしゅへいろん)
    航空戦力を軍の中核に据えようという考え方。第2次大戦中における航空機と機動部隊の発達によって世界の海軍では主流となり、大艦巨砲主義を過去のものとした。
    日本の大西瀧治郎中将、山本五十六元帥海軍大将、アメリカのウィリアム・ミッチェル少将など、ずっと以前から考えている人は少数ながらいたが、あくまでもイロモノ的アイディア扱いだった。
    但し、帝国海軍は開戦前から航空主兵論が比較的優位だった。
  • 漸減邀撃作戦 (ぜんげんようげきさくせん)
    大艦巨砲主義に基づく戦前の日本海軍の対米作戦構想。詳細はこちら
  • オレンジ計画 (War Plan Orange) (おれんじけいかく)
    漸減邀撃作戦と対照を成す、戦前のアメリカ軍の対日本作戦計画。
    戦艦を主とする米艦隊が太平洋を西進して、フィリピン辺りで海上決戦を行うという内容であった。
    様々な情勢の中でかなりテコ入れされ、やがて新構想に変移していったが、後に太平洋戦争の進め方の基本となった。
    なお、他の国に対する作戦計画も秘匿のため色名で呼ばれており、日本に対応する計画名がオレンジになったのは深い意味は無いらしい。

艦娘用語

艦娘がプロフィールやセリフとして使用していたり、関連する用語(造語含む)を紹介。

あ行
アイアンボトムサウンド/アイアンボトム・サウンド
読み-
使っている艦娘夕立衣笠
意味ソロモン諸島のサボ島・フロリダ諸島とガダルカナル島の間に位置する海峡。
太平洋戦争中、日米の大消耗戦となったガダルカナル島の戦いやソロモン海戦(第一次・第三次)により多数の艦船、航空機がこの海域に沈んだ。
海底を鋼鉄の残骸が埋め尽くしていることから「アイアンボトムサウンド(鉄底海峡)」と呼ばれるようになり、現在は絶好のダイビングスポットとして有名となっている。
艦これに登場する艦で挙げられる内でも「暁」「綾波」「霧島」「比叡」「吹雪」「古鷹」「夕立」「巻雲」がここに眠っている。
細かいことだが、自己紹介にて夕立は「アイアンボトム・サウンド」、衣笠は「アイアンボトムサウンド」と呼称(記述)している。
アウトレンジ
読み-
使っている艦娘瑞鶴瑞鳳
意味[射程:短]の敵の攻撃は届かないが[射程:長]のこちらの攻撃は届く距離から一方的に攻撃しよう、という考え。アウトレンジ戦法。
軍縮条約により米国に数で劣る日本軍が、艦隊決戦を有利に行うために考え出された。
発想は容易だが実行は困難で、特に艦載機による長距離攻撃にはかなりの練度を要した。
米艦上戦闘機の2倍以上の航続距離をもつ零戦、米魚雷の4倍以上の最大射程をもつ酸素魚雷、米戦艦と同等かそれ以上の有効射程をもつ大和型戦艦など、多くの兵器がアウトレンジ戦法を主眼として開発された……というのが一〇年ぐらい前までの定説。現在では色々と当時の資料が出てきて、「必ずしもアウトレンジの為に開発されたのではない(=結果的にその様に使われたのは認める)」という感じである。
赤煉瓦
読みあかれんが
使っている艦娘飛龍
意味海軍省・海軍軍令部の通称。建物がイギリスから輸入した赤煉瓦づくりだったことに由来する。
所在地は官庁らしく霞が関にあった。(場所は現在の厚生労働省・環境省合同庁舎の位置)
戦後になって海軍が解体され、他の役所の建物に相次いで建てかえられたため、海軍時代の建物は残っていない。
また、海軍省地下防空壕筐体の一部は現在の千代田線霞ヶ関駅として使われている。
余談だが、明治以来赤煉瓦造の建物は多く、通称”赤煉瓦”と呼ばれる現存物は各地にあるため、話題にするときは相手との連想対象のすれ違いには注意。
海軍関係の建造物では、海軍兵学校や舞鶴赤レンガ倉庫群などがよく赤煉瓦と呼ばれる。
これとは別にデスクワーク畑を歩み続けた軍人を「赤煉瓦」と呼称する場合がある。対義語は艦隊勤務を歩み続けた軍人に対する「両舷直」。
具体例では任期の大半を陸上勤務で過ごした井上成美提督あたり。
イージス艦
読み- かん
使っている艦娘霧島妙高など
意味後世に「イージスシステム」を搭載した軍艦、自衛艦のこと。
冷戦時代において、ソ連の飽和攻撃(90秒でミサイル100発など、敵の迎撃能力の限界を超える程の膨大な一斉攻撃)戦術への対抗策として米国が開発した。
人の判断頼りだった従来の防空システムとは違い、コンピュータにより多数のミサイルを同時に迅速に捕捉・迎撃可能。
各国のミサイル防衛計画の一翼を担っているが、非常に高価であること、米国が技術供与を行った国が限られていることなどから、2013年現在配備国は7ヶ国にとどまっている。
よく勘違いされるが、イージス艦とはイージスシステムを搭載した艦の総称であり、「航空母艦・巡洋艦・駆逐艦」のような艦種のひとつではない。
一航戦
読みいっこうせん
使っている艦娘赤城加賀
意味「赤城」や「加賀」が所属していた最精鋭の空母艦隊「第一航空戦隊」の略称。
艦娘の「加賀」は新人揃いの「五航戦」に対してやたらと辛辣な節が見受けられるのだが、これは後発の五航戦搭乗員を一航戦の搭乗員が新米扱いして見下していたことに由来する。
なお、艦これでは「一航戦=赤城・加賀」のようになっているが、これはミッドウェー海戦の頃の所属艦であり、それ以前には龍驤鳳翔が所属していたこともある。ミッドウェーで一・二航戦所属空母が全滅し、翔鶴・瑞鶴・瑞鳳で再編成された。後に大鳳隼鷹も所属している。
ヴィッカース社
読み- しゃ
使っている艦娘金剛
意味かつて英国の重工業を支えた超名門企業。日本で例えるならば三菱的な立ち位置。
金剛や三笠などの名軍艦を建造したほか、機関銃や戦車など様々な軍事兵器の開発・生産を行っていた。
2004年にBAEシステムズ社に買収され、現在ではヴィッカースの名を冠する企業は存在しない。
飢えた狼
読みう - おおかみ
使っている艦娘足柄
意味「まるで飢えた狼のようだ」「美しい艦とはとても言えない」
英国王ジョージ6世の戴冠記念観艦式にゲストとして招かれた「足柄」を評した英国人の一言。
また、「今日私は初めて軍艦を見た。今まで私が見てきたのは客船だった」とも評された。
外洋を長距離航行する巡洋艦のくせに、戦闘能力一辺倒で居住性が低いことを皮肉っていると言われている。
ただし日本側は足柄に対するプラスの評価としてこの言葉を捉えているのがミソ。
これは狼に対する日英のイメージギャップが如実に表れた結果のダブルミーニングでありどちらも正解と言える。
なお、これは「植民地を含めた外洋を行動する王立海軍」と「設立以来近海警備を主務としてきた帝国海軍」の違いもある。
褒め言葉と捉えられなくもないあたりはブリティッシュジョークの妙技か。
フランス人芸術家などはその機能美を賞賛していたりするので、個人の感性や国民性の違いなのかもしれない。
か行
カレー
読み-
使っている艦娘衣笠伊168など
意味言わずと知れた国民食であり、日本海軍を代表する料理。
海軍では長期航海で曜日の感覚を失わないよう、毎週「土曜カレー」を出す習慣があり、これは海上自衛隊にも受け継がれている。
なぜ土曜日かというと、カレーは材料に融通が効き、週末の在庫整理に都合が良かったからと言われている。
ゆえに、海軍では土曜日であり、週休2日制となった現代の海上自衛隊では金曜日となった。
各艦ごとの調理員が独自のレシピを作り、その味を競い合い、海軍・海上自衛隊を問わず、艦長同士が歓談する際は自艦のカレーの旨さを自慢しあうことも頻繁であるという。
海軍や海上自衛隊に縁のある街での土産や町おこしに使われることも多い。
陸軍でも糧食として採用されており、一部の調理員のみがカレーの作り方を知っていた海軍よりも、兵員数に勝り、すべての兵が持ち回りで糧食を担当した(すなわち、全員がカレーの作り方を知っていた)陸軍のほうが国民食化への貢献が大きいとする説もある。
カレーの存在自体は戦前から国民に知られており、主に料理屋で供されていたが、終戦後に一般家庭の料理として広まった所以にこの説を上げるものがある。
因みに戦時中は敵性語としてカレーの名前を自粛、辛味入汁掛飯の名前で出している店もあった。
観艦式
読みかんかんしき
使っている艦娘足柄
意味多くの軍艦を並べて観閲する式のことで、国家の祝典あるいは海軍の記念行事のひとつとして行われる。
艦隊の威容を誇示し、自勢力の士気を高めるとともに、敵勢力に対する示威行為とすることが目的である。
現在では、同盟国・友好国との交流や、自国民の海軍への理解を深めることも目的としている。
日本における観艦式の起源は1868年(明治元年)に大阪天保山沖で明治天皇を迎えて行われたものであり、1900年(明治33年)の式から「観艦式」という名称が使われた。なお、比叡は練習戦艦となってからは艦隊に束縛されない存在であった為、スケジュール調整が容易で観艦式の「御召艦」を何度も任されている。
1933年(昭和8年)の観艦式の実際の映像 → http://www.youtube.com/watch?v=fvnRhsjIzNA
海上自衛隊でも実施しているので、興味のある方は調べてみると良いかもしれない。
ちなみに、某ジャンルの隠語として別の意味でも使われるのだが、詳細は大人の提督諸士のみ調べられたし。
鎧袖一触
読みがいしゅういっしょく
使っている艦娘加賀
意味鎧の袖が一瞬触れただけで倒せるというほど、簡単に相手を打ち負かすこと。今風に言うなら「グッとガッツポーズしただけで5点くらい入った」
一航戦の人間は珊瑚海海戦の戦果を聞いて「妾の子(五航戦)でも勝てたのだから、本妻の子(一航戦)なら鎧袖一触だ」と言ったといわれる。
この言動は、当時連戦連勝を重ねる日本軍に蔓延していた慢心気分「勝利病 Victory Desease」とも無関係では無かった。
帰国子女
読みきこくしじょ
使っている艦娘金剛
意味学齢期頃に長期に外国で生活した後に本国(国籍のある国)へ帰国した者を指す語。
「帰国」と入っていることから、「本国で生まれて外国へ行って帰ってきた者」だけを指すと勘違いしている人も多いようだが、そんなことはなく、外国で生まれて本国へ来た者も含まれる。外国籍として外国で生まれ、本国へ来た後に国籍を変更した場合は「帰化」である。
帝国海軍から発注されて(=日本国籍)英国で生まれ、建造後日本へ来た金剛は帰国子女ということになる。もちろんこれは、擬人化したから「帰国子女」なのであって、帝国海軍が実際の金剛のことを帰国子女と呼んでいたわけではないと思われる。
現時点で艦これ実装艦では金剛が唯一の帰国子女である。初期の帝国海軍はほとんどの艦を外国の造船所で建造していたため、「帰国子女」の艦も多かった。
貴様
読みきさま
使っている艦娘那智初春
意味現代ではかなり見下したニュアンスを感じる言葉だが、本来は文字通り「あなた様」を意味する敬称である。
海軍では、兵学校の同期生などが「イーブンな関係」であり「特に親しい間柄」であることを周囲に知らせる意味も含めて「貴様」という言葉を使っていて、可愛がっている部下に対しても使われる場合もあった。
兵学校生徒の友情と団結を歌った軍歌『同期の桜』でも「貴様と俺とは~」と歌われているように、「貴様」を使うことは信頼の証でもあった。
ただ、元々は武士やその子孫の士族が使う言葉で、一般民には元々馴染みのない言葉であった。
それが徴兵制であった戦前戦中に軍隊で広く使われたため、しごかれる対象である徴集兵を呼ぶ言葉というイメージが、この言葉に馴染みがなく本来の意味を知らなかった一般世間に広く流布してしまい、現代のようなニュアンスになったと言われる。
海軍は薩摩閥だったので薩摩弁の「貴様(きさん)」が語源になっているという。ちなみに長州閥を母体とする陸軍では「貴公」を使うことが多い。
艤装
読みぎそう
使っている艦娘加古長門など
意味船の場合、船体を造って進水させた後に機関や兵装、室内外の各種装備などを船体に取り付ける工程・作業のこと、及びここで取り付けた装備のことを指す。艦これにおいては、艦娘が背中に背負うなどしている兵装・機関のことを「艤装」と呼んでいるようである。
進水直後の艦はいわば「ただ浮くことができる状態」であり、進水の後も数か月~数年かけて艤装が行われる。
艤装が終われば造船会社の手を離れ、艦籍に入ることとなる。艤装が終わることを「竣工」と呼ぶ。
牛缶
読みぎゅうかん
使っている艦娘秋雲
意味牛肉大和煮の缶詰のこと。
缶詰は保存が効くことから、戦前は軍需が需要の中心であり、特に牛肉大和煮の缶詰(牛缶)は人気が高かった。
なお、運営の中の人ことC2機関が製作した同人誌「こんな日には缶詰あけよ。vol.2」の中で、どう見ても私服の赤城さんにしか見えない「大和煮さん」(牛缶の「缶娘」)が、熱々の白飯と牛缶の組み合わせを大絶賛し、装備換装(おかわり)を要求している。
給糧艦
読みきゅうりょうかん
使っている艦娘伊58「間宮」、夕張「間宮」
意味艦艇や前線基地に食料などを補給する船。給糧艦「間宮」は中に冷蔵庫、食物加工工場などがあり、内部で軍属のプロ職人による羊羹、最中、アイスクリーム、ラムネなどが生産されていたため、艦艇の将兵から大人気であった。帝国海軍の下士官兵にとって給糧艦の護衛任務は艦隊決戦よりも優先されたとか。事実4隻建造された給糧艦「杵崎」型は3隻が無事に終戦を迎えている。また人気の給糧艦が撃沈された時は全軍がお通夜状態だったなどという話もある。
夾叉(挟叉)
読みきょうさ
使っている艦娘那智大和
意味こちらが斉射した複数の砲弾が、敵艦を前後か左右に挟む形で着弾すること。
当時の中~遠距離砲撃は公算射撃と言って、砲弾の散らばる範囲内(散布界)に敵艦を捕捉して撃ち続ければ、いずれは命中を得られるという、いわば確率に則ったものだった。
そこで夾叉したということは、命中は逃したが、既に標的(敵艦)を砲の散布界に捉えている(≒照準が合っている)、という状態を意味する。
簡単に言えば、「弾ブレで命中しなかった」だけで、照準は合っているのでこのまま調整して撃ち続ければいずれ命中弾が出る、という状況。
ゲームのシステム上に関係するものではない。
魚雷
読みぎょらい
使っている艦娘吹雪など他多数
意味魚形水雷の略。内蔵動力により水中を自力で進む水雷(水中爆弾)のこと。
喫水下(艦船の水面下の部分)への攻撃は多量の浸水による大被害が期待できる上、水圧により爆圧が拡散せず一点に集中するため、少量の爆薬でも凄まじい破壊力を発揮することができた。
当たれば戦艦でもタダでは済まない強烈な威力ながら、強力な大砲に比べると重量が軽く収まるため、駆逐艦などの小型艦艇に搭載されている事が多い。
また潜水艦でも使用されていた他、航空機搭載用には短射程ながら大幅に軽量化されたものが使用されていた。
太平洋戦争当時の魚雷は、深度調整機能と単純なジャイロ誘導機能しか有しておらず、一定の深さをまっすぐ進むことしか出来ない。
そのため通常は、一度に複数発射することで命中を期待する兵器であり、その性質上潜行中の潜水艦への攻撃はほぼ不可能である。
大日本帝国海軍では主に九〇式空気魚雷、九一式航空魚雷、九三式酸素魚雷などが使用されている。
現代では対水上艦用の長魚雷、対潜水艦用の短魚雷という区別が有るが、当時は短魚雷が存在しないため、艦娘に搭載されている魚雷は当然潜水艦には当たらない。
なお、ざっくりとした値段だが、昔は「魚雷一本、家一軒」と言われるぐらい高価な代物で、演習時は爆発しない演習用弾頭を装着して、本体部分を整備して再使用していた。ちなみに演習用弾頭は赤色、実用弾頭は黒色であった。
銀蝿
読みぎんばい
使っている艦娘夕張
意味文字通り食べ物に集る蠅のように、艦の烹炊所(ほうすいじょ)や食料庫から食料や嗜好品をちょろまかす行為のこと。
もちろん窃盗罪に当たる犯罪行為なのだが、仮に見つかっても罰直(鉄拳で殴られたりバッターで尻をぶっ叩かれたり)で済む事が多く、大事になる例は稀であった。
ちょっとやそっとであれば見て見ぬふりをしたり、逆に便宜をはかる主計官も多かったといい、良くも悪くも海軍の伝統文化的な面があった。
ただ、当時の衛生状態を考えるに推奨しかねる行為であったことも事実である。
轟沈
読みごうちん
使っている艦娘磯波羽黒菊月
意味被弾した艦船が短時間(概ね1分半)のうちに沈没することを指し、単に沈没しただけではこの言葉を使用しない。
既にボロボロの状態で進撃しない限り絶対にロストしない仕様の艦これでは、轟沈には当てはまらない。
しかし元々定義が曖昧なこともあり、「華々しく勝利した」「壮絶な最期を遂げた」ことを演出するために轟沈ではない場合もあえて轟沈と表現するケースがよくあり、「軍艦が沈むこと=轟沈」であるという誤解を生んだ。
同じように、「撃沈」という言葉も誤って使われることが多々ある。
「撃沈」とはこちらの攻撃で敵を沈めたという意味で、「敵艦撃沈」とは言っても「味方艦撃沈」とは言わない。
事故や自沈ではなく、戦闘によって沈没したことを表すために「味方が撃沈された」のように受身として使う場合もある。
なお、戦中の映画にそのものズバリ、「轟沈」というタイトルの宣伝映画(潜水艦もの)がある。
その映画の主題歌も「轟沈」という名前である。しかもDAM や JOY SOUNDといった大手のカラオケでも配信されている。
五航戦
読みごこうせん
使っている艦娘加賀翔鶴瑞鶴
意味「翔鶴」「瑞鶴」により構成された「第五航空戦隊」の略称。
昭和16年10月新編され、猛訓練の末真珠湾作戦に間に合ったことから一航戦などからは新兵扱いされていた。
珊瑚海海戦で米空母「レキシントン」を撃沈するなどの戦果を上げるが、「翔鶴」が大破し「瑞鶴」も艦載機に大被害を出したため、ミッドウェー海戦には参加できなかった。
ミッドウェー海戦後に「翔鶴」「瑞鶴」は第一航空戦隊として再編成された。
さ行
至近弾
読みしきんだん
使っている艦娘日向雪風
意味砲弾や爆弾などが直撃せずすぐそばに着弾すること。直撃弾ではないからといって舐めてはいけない。
至近弾により発生した火災が命取りになった「鈴谷」や、爆撃の至近弾による破孔からの浸水で着底してしまった「日向」など、状況によっては艦に重大な影響を及ぼすほど危険。
なお、日本海軍の九一式徹甲弾は、敵艦の手前に落ちた至近弾が、そのまま水面下を進んで敵艦の土手っ腹に直撃することを狙って開発されたものであった。
七面鳥
読みしちめんちょう
使っている艦娘瑞鶴
意味未熟な艦載機搭乗員の揶揄。
マリアナ沖海戦(主な海戦・作戦参照)の頃になると航空機の熟練搭乗員の不足が深刻となり、空母への着艦もできない錬度の低い未熟な搭乗員が多数戦闘への参加を強いられることになる。
これらの艦載機が米艦載機に一方的に、それも七面鳥を撃ち落とすように簡単に撃墜させられるという意味で、「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されることになる。
次発装填
読みじはつそうてん
使っている艦娘神通
意味魚雷発射管に予備の魚雷を装填すること。
大型兵器である魚雷(93式酸素魚雷で一発2700kg)を発射管に装填することは困難な作業であり、通常は装填されている魚雷を撃ちつくしたら基地に戻るまで魚雷攻撃はできなかった(一応予備魚雷は大体みんな搭載していたため、やってやれないことは無いが現実的ではないくらいには困難。一度前線から下がって穏やかな海で昼間に数時間の作業)。
だが、日本海軍の一部の艦船は次発装填装置を装備しており自力で素早く予備の魚雷を装填することができた。その速度、最速で僅か数分である。
なので、あいつら魚雷撃って逃げやがったもう安心だ、と思ってたら戻ってきて殺られた、なんて例もある(コロンバンガラ沖海戦)。
例えば「陽炎型」などの甲型駆逐艦は四連装発射管2基8門を装備しているが、次発装填装置内に予備魚雷8本を搭載しているので、合計16本の魚雷を持っていることになる。
これは五連装発射管3基15射線を誇るものの次発装填装置を持たない「島風」よりも1本多い。
なお潜水艦の場合、潜航中はほとんど揺れないこと、雷撃に特化した構造であることから装置がなくとも容易に次発装填でき、発射管の数倍の魚雷を搭載するのが当たり前だった。
例えば「伊168」は発射管6門に対し魚雷14本、「伊58」は発射管6門に対し魚雷19本を搭載していた。
巡洋戦艦
読みじゅんようせんかん
使っている艦娘比叡榛名
意味装甲巡洋艦から発展した艦種。
優れた高速性と戦艦と同等の火力を有したが、防御面では戦艦に劣った。
大日本帝国海軍の金剛型(改装後の艦種名は戦艦)はその使い勝手のよさから数多くの戦いに投入された。
英語では「Battle Cruiser」と呼んでいる通り、本来は「戦艦並みの攻撃力を持った巡洋艦」なのであって「巡洋艦並みの速度が出る戦艦」ではない。
水上機
読みすいじょうき
使っている艦娘木曾
意味水面に浮いて滑走することで離着水が出来る航空機。なかでも、フロートによって機体を支えるフロート水上機を指す。ゲーム中の水上機はすべてフロート水上機である。
映画「紅の豚」に登場するドナルド・カーチス(最後に主人公と一騎打ちした人)が操縦する飛行機がそれである。
大きな甲板が要らないので、直接着艦するスペースのない、空母以外の船でも哨戒・索敵をするために搭載可能である。
また、滑走路設営能力に劣っていても波の穏やかな湾があれば基地とすることが可能で迅速に戦力を展開できる。
軍縮条約下、仮想敵国である米国に対し空母戦力に劣る日本海軍は、水上機の開発運用に熱心で、各国の水準を超える高性能機を数多く送り出した。
その一方、水上機は離着水に波の穏やかな水面が必要という制限も抱えており、外洋上で着水・回収するには艦隊を円く航行させて航跡で波を打ち消す事が不可欠だった。この時の事故も多いため、日本海軍は再出撃の多い索敵を空母機に任せ、艦爆と協働して先制で敵空母の甲板を潰す為の水上爆撃機を待望するようになる。
なお瑞雲は水上機の最高傑作と言ってよいマルチロール機であり、ゲーム中でも雷撃以外のすべてをこなすことが出来る立場にある。
(丁字不利率低下のような特殊能力は除く)
これらの伝統を引き継いだのか、ヘリコプターが幅を利かせている21世紀の現在でも日本は世界的な水上機大国である。
正規空母
読みせいきくうぼ
使っている艦娘祥鳳
意味時代や国によって用法が非常に曖昧な言葉。
現代では概ね、軽空母との対義語という用法になっていて、艦これ世界でもほぼこれを踏襲し「大型高速の空母」を表す区分になっている。
日本海軍では、正規空母とは「最初から空母として建造された艦」を指し、他艦種から改造された空母との対義語として使われていた。よって、「鳳翔」「龍驤」は正規空母である。鳳翔が「最初から空母として建造された、世界で初めての航空母艦」と自身のことを説明しているが、要は「世界初の正規空母」ということである。
これに対し、「赤城」「加賀」や「祥鳳型」「千歳型」など「他種の軍艦から改装された空母」は「改装空母」であり、「飛鷹型」等のように「軍艦ではない商船などから改装された空母」は「特設空母」というように区別していた。
軍艦と商船では船体の構造が全く違い、建造上でも運用上でも差異が出るからという観点でこのような区別がなされていた。
なお、日本海軍の艦籍には「軽空母」なるものは存在せず、空母黎明期の「若宮」を除き、全通飛行甲板を備えた艦の分類は大小を問わずすべて「航空母艦」であった。
諸外国もほぼ同じであるが、戦艦や巡洋戦艦からの改造は正規空母扱いになったり、「飛鷹型」のように大きければ正規空母扱いになったり、小型のものは空母として建造されても正規空母でなかったりと、国や時代でグチャグチャである。
斉射
使っている艦娘長門比叡霧島妙高伊勢改大和
読みせいしゃ
意味戦艦主砲を砲塔ごとにバラバラに撃つのではなく、ある目標に全砲塔で向きや仰俯角などを合わせて一斉に発射すること。
着弾観測がしやすいため、その後の照準修正が楽になる。
しかし、実際は全砲門を一度に発射するわけではなく、連装砲なら片側ずつ交互に撃っていた(交互射撃)。
最初に斉射の有用性を見出したのはイギリスだが、初めて実戦で斉射を採用したのは日露戦争時の帝国海軍である。
その際に有用性は確かなものと確認され、この戦法を主眼とした革新的な戦艦「ドレッドノート」の開発へと繋がった。
潜水母艦
読みせんすいぼかん
使っている艦娘祥鳳瑞鳳
意味潜水艦に物資を補給したり、乗員の休息をするための艦艇。旗艦設備も充実し、潜水戦隊旗艦となることもあった。
後々軽空母に改造できるように設計された潜水母艦もあり、「祥鳳」「瑞鳳」がそれに当てはまる。
字面だとややこしいが、要は、「潜水艦のための母艦」であって、「潜水する母艦」ではないので注意。海外の極一部の艦をのぞき、潜水母艦は水上艦艇である。
なお、似た言葉として潜水空母(艦これでは「伊19改」「伊58改」「伊8改」「伊401」が該当)がある。
ゲームでは潜水空母を「潜母」と略されているが、そもそも帝国海軍に「潜水空母」なる艦種は存在しないので、通常は潜母というと潜水母艦の略である。
なので他所で使うと全く別物の意味になるので注意。
た行
多聞丸
読みたもんまる
使っている艦娘飛龍五十鈴(山口提督)
意味二航戦(第二航空戦隊)司令官山口多聞少将の事。山本五十六長官の後任と目されていた名将。ミッドウェー海戦において戦死。
あまりにも苛烈な訓練を部下に課したために事故が頻発し「人殺し多聞」「気違い多聞」などと散々に言われていたが、真珠湾攻撃で彼の二航戦が航続力不足を理由に外されるという案を聞いた時、「置いて行かれては(厳しい訓練に耐えた)部下に顔向け出来ない」として出撃を訴えている。
戦死の報を聞いた多聞より先輩であった角田覚治少将は「彼の下でなら、喜んで一武将として戦ったのに」とその死を惜しんでいる。
(皮肉にも多聞の死後二航戦を率いたのは角田である)
なお、多聞という名は南北朝時代の名将楠木正成の幼名である多聞丸から取られている。
第四艦隊事件
読みだいよんかんたいじけん
使っている艦娘龍驤
意味1935年(昭和10年)9月26日、大演習に向かっていた第四艦隊が台風に遭遇。
想定外の大波浪を受け、「初雪」「夕霧」は艦首切断、「睦月」「龍驤」は艦橋圧壊or半壊、他の艦も甲板や船体が歪む(中には切断寸前のものも)など大惨事に。
この事件や前年に起きた水雷艇の転覆事故「友鶴事件」などを機に当時の艦船の強度不足や構造の脆さも浮き彫りとなり、全面的な補強改修が施された。
その甲斐あってか、戦中の日本海軍では波浪による重大な事件は起きていない。一方米海軍では台風などで大損害を出してたりする。
超弩級
読みちょうどきゅう
使っている艦娘扶桑伊勢
意味超弩級の弩は「一夜にしてすべての戦艦を旧式化させた」と言われたイギリスの戦艦「ドレッドノート」のドで、超弩級はそれを超えている意を持つ。
それまでの艦隊戦は「近づいて小口径砲で砲座を破壊し、大口径砲でとどめを刺す」という戦法が基本であった。
それに対し「遠距離から多数の大口径砲の斉射で倒す」という戦法を主眼としたドレッドノートはまさに革新的な戦艦で、世界を震撼させたのである。
今では「スゴイ」という意味合いで何にでも付く形容詞になったが、本来の意味からは離れてしまった気がしないでもない。
ちなみに、ドレッドノートの登場を受けて、各国がこれを超える戦艦の建造に熱中したために、ドレッドノート自身は早々に陳腐化してしまい、実戦であげた戦果は潜水艦1隻撃沈(しかも体当たり)のみというなんとも言えない落ちが付いている。
ドレッドノート以前の戦艦は「前弩級」と呼び、有名なところでは三笠やクニャージ・スヴォーロフ、ロイヤル・サブリンなどがある。
なお、「弩」は「ド」の宛て字であるが、「弩」とは飛距離・貫通力に優れた大弓のことであり、その意味をふまえてこの字を選んだものと思われる。
てー
読み-
使っている艦娘長門由良綾波川内
意味「撃て」という掛け声。
「うてー」ではなく「てー」という理由は色々あるが、
(1)「う」は戦場(特に海上)では聞き取りづらい
(2)普段から「うてー」と言っていると、「撃つな」と言おうとしたのに「う」で発砲してしまう恐れがある
(3)「う」の時点では「撃て」なのか「撃つな」なのか「うーん」なのかわからず、次を待たなければならず、撃つタイミングを逃してしまう
なお、実際の射撃指示は現場の指揮官が行うものであり、艦長や指令などは「てー」とは言わない。上官の「撃ち方始め」の指示が末端まで伝わって、現場の指揮官の「てー」で射撃する。
敵艦見ゆ
読みてきかんみ -
使っている艦娘敷波名取
意味文字通り「敵艦を発見した」の意。敵艦を発見した際普遍的に使われるが、特に日露戦争で仮装巡洋艦「信濃丸」から発信された電信を指す。
この通信を受けた「三笠」以下連合艦隊が迎撃のため出港した結果何をもたらしたか、提督諸氏はよくご存じだろう。
日本無線史上最も重要な通信のひとつとして知られている。
DDH
読みでぃーでぃーえいち
使っている艦娘伊勢改日向改
意味後世のヘリコプター搭載護衛艦の艦種記号。通常の護衛艦よりヘリコプターの運用能力に優れている。
搭載したヘリは主に対潜哨戒・戦闘や輸送・救難にあたる。
ヘリ空母正真正銘のヘリコプター搭載護衛艦を「ひゅうが」「いせ」「いずも」と名付けたのは、「これは空母ではない」というメッセージが込められているのかもしれない。
特型駆逐艦
読みとくがたくちくかん
使っている艦娘吹雪型、綾波型、
意味ワシントン条約制限下で設計された、世界中を驚愕させたクラスを超えた駆逐艦、それが特型駆逐艦です!
全24隻(艦これに出ているのは16隻)が造られ初期型の「吹雪型」(特I型・10隻)、特I型を少し大型にして主砲を別の物に変更した「綾波型」(特II型・10隻)
そして前2タイプのいいところを残しつつ小型化したのが「暁型」(特III型・4隻)である。
特型駆逐艦を総称して「吹雪型」とも呼ばれることがあるので、一応全員親族ということになるが、その中で最後まで生き残ったのは「潮」「響」の2隻であった。
友永隊
読みともながたい
使っている艦娘飛龍
意味ミッドウェー海戦時の南雲機動部隊の攻撃隊を指す。ミッドウェー爆撃と、飛龍による米空母ヨークタウン攻撃のいずれも、指揮官が飛龍艦攻隊長友永丈市大尉だったことからこう呼ばれる。
本来、南雲機動部隊の攻撃隊長は淵田美津雄中佐だったが、淵田中佐は盲腸手術のため友永大尉が代役の隊長となった。
ミッドウェー島を爆撃した友永大尉は、爆撃効果不十分という意味の暗号電文「カワ・カワ・カワ」を発信した。この報告もあり、機動部隊では雷爆装転換作業を始めることになる。
その後、ただ一隻残った飛龍から発進した友永隊はヨークタウンを攻撃、魚雷2本を命中させてこれを大破させた。
ただし、この時隊長である友永丈市大尉本人は、燃料タンクに被弾して半分の燃料しか積めない状態の九七式艦攻でそのまま出撃しており、攻撃後ヨークタウン艦橋付近に激突自爆し未帰還(死後2階級特進中佐)である。
な行
南雲機動部隊
読みなぐもきどうぶたい
使っている艦娘赤城
意味南雲忠一司令長官が指揮した第一航空艦隊、及びミッドウェー海戦後に再編成された空母機動部隊である第三艦隊のこと。「赤城」は前者を指している。
第一航空艦隊は、指揮下に一航戦・二航戦・五航戦・第三戦隊・第八戦隊・一水戦などがいた。開戦時の旗艦は「赤城」。
ハワイ真珠湾攻撃を皮切りに、ニューギニア方面の南方作戦やセイロン沖海戦・ミッドウェー海戦などを戦い、ミッドウェーで空母4隻を失い壊滅した。
文字通り世界最強の機動部隊であり、撃墜:被撃墜のキルレシオは10:1以上、セイロン沖海戦では艦爆隊の命中率80%以上を叩き出すなど、向かうところ敵なしの最精鋭部隊だった。
その状態から一転してミッドウェーで大敗したために、「慢心」という言葉が強調される要因になり、南雲提督を批判する声が非常に強かったが、
近年の再検証でこれに対する反証が行われており、南雲提督の再評価も進んでいる。批判と反論はかなり広範囲に渡るので、興味のある方は調べてみると良いだろう。
なお、第一航空艦隊は実は正式な艦隊ではなく臨時編成であった。そのため訓練や部隊内の指揮統制などに支障が出ていたという話が伝わっている。
正式な艦隊となったのはミッドウェー後に第三艦隊として再編成されてからであった。
第三艦隊は南太平洋海戦を戦った後に、司令長官が南雲中将から小沢治三郎中将に交代し、ここに南雲機動部隊の歴史は終わった。
南雲中将はその後サイパン島の戦いで守備隊の玉砕とともに自決した。戦死後大将。
西村艦隊
読みにしむらかんたい
使っている艦娘扶桑時雨満潮
意味1944年10月、捷一号作戦のレイテ湾突入に基づき編成された西村祥治中将を司令官とした艦隊。正式名称は、第二艦隊第一遊撃部隊第三部隊。
戦艦「山城」を旗艦に「扶桑」重巡洋艦「最上」駆逐艦「山雲」「満潮」「朝雲」「時雨」を擁した。
当初は栗田艦隊と同時に突入し、敵戦力の分散を図る作戦であったが、栗田艦隊から到着遅延の連絡より、西村中将は自らの艦隊のみでの夜間突入を判断。スリガオ海峡を北東に抜けてレイテ湾を目指した。
24日22時頃に艦隊はスリガオ海峡付近に侵入したが、米魚雷艇の襲撃と追尾により位置を把握されたまま、未明に海峡南部に侵入。
翌25日3時頃には米駆逐艦隊の雷撃を受け扶桑が沈没するなど艦隊が半壊。4時前に米戦艦隊が砲撃を開始し、頭を抑えられた西村艦隊は「時雨」「最上」を除き撃沈され、撤退を開始。「山城」に乗り込んでいた西村中将はこの時に戦死。
最後尾の「時雨」は無事に退避できたが、「最上」は追撃で大破し操艦不能のまま、後続の志摩艦隊の「那智」と激突。「最上」には志摩艦隊の駆逐艦「曙」が護衛につきコロン湾に避退命令が下されたが夜明けに空襲を受け、最終的に乗員退艦後に「曙」に雷撃処分された。
結果、スリガオ海峡に突入して生還した西村艦隊所属艦は「時雨」ただ1隻のみとなった。
鼠輸送
読みねずみゆそう
使っている艦娘村雨夕雲
意味駆逐艦などの機動性の高い艦艇で(鼠のように夜にコソコソと)前線の島などに物資や人員を輸送すること。
特に序盤の激戦区だったガダルカナル島において行われている。
これは日本軍の輸送艦不足と敵の航空攻撃回避のために行われたやむなしの手段で、これらを含む駆逐艦の多用によって日本軍は多くの駆逐艦をソロモンの攻防で失った。
ちなみに米海軍はこれを「トーキョー・エクスプレス(東京急行)」と呼んでいた。
ちなみに潜水艦を用いた「モグラ輸送」も行われた。
鼠つながりネタだと、海軍には「鼠上陸」というルールがあり、船内の鼠を1匹捕まえると賞品として上陸許可が1回与えられた。
は行
排水量
読みはいすいりょう
使っている艦娘木曾など
意味軍艦の大きさ・武装の規模などをあらわす単位。
木曾などが「5500トン級」などと言っているのは、この排水トン数のことを言っている。
船の大きさや能力をあらわす場合、タンカーなどの貨物船なら「どれだけ積めるのか」商船なら「どれだけ稼げるのか」が重要で容積トン数で表す。
これは甲板から下の船そのものの容積を計算で出した値である。
軍艦の場合は「どれだけの武装をしているか」が重要であった。
そのために考え出された単位が排水トン数である。排水トンとは、船を水上に浮かべた際に押しのけられる水の重量をトン単位で示した数値で、船全体の重量に等しく、積み荷によって重量の変化がすくない軍艦の大きさを表すのに最も適している。
現在では乗組員・弾薬・燃料・水など、計画上搭載できるもの全てを搭載した状態での満載排水量が使われ、
WW2当時は満載排水量から燃料および水の重量を差し引いた状態の基準排水量が主要国で使用された。
八十一号作戦
読みはちじゅういちごうさくせん
使っている艦娘白雪
意味時期的には「ケ号作戦」ころ。ラバウル基地を出て、ビスマルク海~ダンピール海峡を通り、ニューギニア島の都市ラエへ向かう輸送作戦。
その途中で米・豪軍の空襲を受けた。別名ビスマルク海海戦、ダンピールの悲劇。海戦といってもほとんど一方的にボコられただけで失敗に終わってしまった。
しかもその失敗は事前に予測できていたのだが「命令だから」の一言のもと強行することに。「白雪」のページにも詳細。
おもな参加艦艇:白雪 朝潮 荒潮 時津風 朝雲 雪風 他輸送艦8隻
抜錨
読みばつびょう
使っている艦娘天龍愛宕鳥海など
意味錨を上げること=出港・出帆・出撃。ちなみに反対語は「投錨」。
関連ネタとして、海軍・海上自衛隊では「出港」、民間や海上保安庁では「出航」という地味に面倒な言葉の違いがあったりする。
平賀譲/平賀さん
読みひらがゆずる/ひらが -
使っている艦娘妙高夕張
意味日本の海軍軍人であり貴族(従三位男爵)であり、そして艦艇設計士の平賀譲(ひらが ゆずる)氏のこと。軽量な艦体に重武装を備える氏の設計は諸外国からも脅威視され、「夕張」や「妙高型」などの功績から「造船の神様」とも呼ばれる。(ワシントン条約やロンドン条約で、巡洋艦の分類や保有隻数が厳しく規定された一因との説もあるほど)
一方で、頑固で反対意見を一切受け付けない性格から「平賀不譲(ひらが ゆずらず)」と皮肉られたり、その設計思想が(当時は)革新的過ぎて関係各処と『色々とあった』。
(所謂典型的な“斬新なアイデアを具現化する”天才。細かい改修とかウンウンな)

平賀氏は蕎麦が好物だったようで、死ぬ間際にも蕎麦が食いたいと夫人に呟いたそうな。ちなみにその時に食ったのは有名老舗蕎麦屋、2013年2月に火事で燃えた「藪」である。(「夕張」が時報で蕎麦蕎麦と言うのはこれが元ネタ)
設計した主な艦娘:「夕張型」「古鷹型」「妙高型」「川内型」「大和型」
彼に縁がある艦娘:「山城」「比叡」「島風」
参考>“「かんだやぶそば」出火 1880年創業の老舗 都の歴史的建造物(※外部リンク)
VLS
読みぶいえるえす
使っている艦娘日向改
意味後世のミサイル発射装置。「Vertical Launching System」の頭文字で、日本語では垂直発射装置などと言われる。
ミサイルを垂直方向に立てて並べる形で搭載するため甲板上のスペースを有効活用出来、また発射装置がそのままミサイル弾薬庫を兼ねるので、従来の発射装置よりも圧倒的な連続発射が可能。
「ひゅうが型」護衛艦を始め、「むらさめ型」、米海軍の「アーレイ・バーク級」、仏海軍の「シャルル・ド・ゴール」など、現代の戦闘艦では多くの艦でこの系統の発射装置を装備している。
なおVLSはその殆どが甲板に埋め込まれる形で搭載されるものであり、甲板上で見られるのは発射口の蓋だけ。*4
砲雷撃戦
読みほうらいげきせん
使っている艦娘睦月長良古鷹大和など他多数
意味大砲と魚雷で戦うことを意味する架空の用語
旧海軍において、大砲で戦う場合は「砲戦」、魚雷で戦う場合は「魚雷戦(雷撃戦ではない)」と使い分けるのが正しい用語であり、大砲と魚雷を同時に使用する場合でも「砲戦、魚雷戦用意」と号令をかけた。
ちなみに潜水艦の場合は「襲撃戦」だとか。
ま行
右舷・左舷
読みみぎげん(うげん)、ひだりげん(さげん)
使っている艦娘筑摩「みぎげん」、那智「うげん」、鳥海「ひだりげん」など
意味艦尾から艦首を見て右側と左側を指す用語。
海軍や自衛隊では戦闘中の聞き間違いを防ぐために「みぎげん」「ひだりげん」と呼んでいるが、民間や陸軍では「うげん」「さげん」と呼んでいた。
そして海軍の文献にはどちらの表記も混在してたりしてややこしい。
これは、海軍で特にルール化されていたわけではなく、現場の慣例的な面が強いために、ぶっちゃけどっちでも良かったからである。
ちなみに、船が港に着いたときは、左舷側を岸壁につける。これは古代バイキングの時代、右側に取り付けられた舵が邪魔だったからで、その流れを汲んで旅客機も左側から乗り降りする。
さらにいうと、日本の空母が左舷側に煙突を置かなかったのもこのため。下向き煙突からの排気が岸壁にどさーは大惨事ですな。
因みに英語でも、左舷を港側という意味から「port(ポート)」と呼び、右舷を舵取り板から訛った「starboard(スターボード)」と呼んでいる。
や行
山本五十六
読みやまもといそろく
使っている艦娘五十鈴
意味新潟県長岡市出身の海軍軍人。連合艦隊司令長官。
旧姓高野。大尉時代に絶家となっていた長岡藩家老の家系である山本家の養嗣子となる。
少尉候補生の時に装甲巡洋艦「日進」に配属され、日本海海戦に参加。左手人差し指と中指を失い、左大腿部に重傷を負う。
早くから航空機の有用性に着目し、航空主兵を推し進める。
幾度かのアメリカ駐在経験で日米の国力差を実感しており対米戦には反対であったが、対米戦不可避の状況になると真珠湾攻撃を計画、これを実行し大戦果を挙げるが、ミッドウェイ海戦で空母四隻を失い、戦局は膠着状態に陥る。
苦戦が続くなか戦争指揮を続けるが、視察に訪れたブーゲンビル島上空で敵機の襲撃に遭い、戦死。
なお、五十六という名前は父・貞吉が56歳の時に生まれたことにより名づけられたもの。
四航戦
読みよんこうせん
使っている艦娘日向
意味空母艦隊「第四航空戦隊」のこと。太平洋戦争初期は空母「龍驤」や「春日丸(空母『大鷹』、艦これ未実装)」が所属していたが、ミッドウェー海戦後に解隊。その後1944年に航空戦艦「日向(旗艦)」「伊勢」で世界にも類を見ない航空戦艦を軸にした航空戦隊として再編成される。
一時期、航空戦艦2隻に加えて空母「隼鷹」「龍鳳(艦これ未実装)」も所属していたが、互いに作戦行動を共にしたことはない。
捷一号作戦や北号作戦に参加したが、航空戦艦の2隻は実戦で航空機を運用しておらず、太平洋戦争末期には軽巡「大淀」が所属するなど航空戦隊というよりは戦艦戦隊でありアメリカ軍もフィリピン戦線の懸念材料として執拗に追い回し続けた。
捷一号作戦で連合艦隊が壊滅状態に陥った日本海軍はシンガポールに停泊していたこの戦隊に対し、戦略資源を満載し日本本土へ帰還させる「北号作戦(主な海戦・作戦を参照)」を発動した。
司令官の松田千秋少将は標的艦「摂津」航空戦艦へ改造前の「日向」戦艦「大和」などの艦長を務めた歴戦の司令である。
彼が「摂津」艦長時に研鑽した爆撃回避法は解隊されるまで日向・伊勢に至近弾以上の損害を許さなかった。
彼のおかげで「伊勢」「日向」は艦これにおいて高回避・幸運艦として設定されたと言っても過言ではない。
四航戦は北号作戦終了後の45年3月に「日向」「伊勢」を浮き砲台に、「大淀」を練習艦とすることが決定したため解隊された。
ら行
連合艦隊
読みれんごうかんたい
使っている艦娘長門雪風
意味2個以上の艦隊で編成された、日本海軍の主力艦隊。
日清戦争開戦の6日後、主力艦で構成された常備艦隊と、老朽艦などで構成された警備艦隊(西海艦隊と改称)をもって連合艦隊とした。
以後、日露戦争などの戦時や演習の際臨時に編成されていたが、大正12年(1923年)以降常設となった。
ロクマル
読み-
使っている艦娘日向改
意味「修理してもロクマルは載めないぞ」:後世の護衛艦「ひゅうが」搭載の対潜ヘリ「SH-60K」のこと。
原型初飛行からすでに30年以上経過している旧式であるが、変態的な魔改造最新技術を応用した近代化により未だ一線級の性能を誇っている。
勿論、姉妹である「いせ」や「22DDH」改め「いずもまる」をはじめ、多くの護衛艦に搭載されている。
航空戦艦「日向」のエレベーターサイズでも収納可能なので、やろうと思えば運用できる・・・かもしれない。
わ行
ワシントン海軍軍縮条約
読み- かいぐんぐんしゅくじょうやく
使っている艦娘吹雪妙高
意味1922年に調印された海軍五大国(英米日仏伊)による海軍軍縮条約。
世界的な建艦競争・軍備拡張・莫大な軍事費増大に歯止めをかけるべく、主力艦の装備・保有の制限(と要塞建設の禁止)を施した。
…のだが、かえってこの条約が制限の緩い巡洋艦・軽空母以下の小型艦艇の建艦競争に発展してしまった。軍縮とはいったい何だったのか…。
実際の所、第一次世界大戦の後遺症で財政がお寒く、米国のダニエルズプランや日本の八八艦隊に対抗できない英国の泣きの一手だったのだが…。
その反省から1930年に、さらに厳しい条件のロンドン海軍軍縮条約が調印される。
すると今度は「数で劣るなら質で補うしかない」と、小型艦艇に制限ギリギリの無茶な設計を施して…。
このワシントン海軍軍縮条約の影響を受けた艦娘たちは多い。
例:「吹雪型」(特型)「妙高型」「龍驤」「長門型」etc…

鎮守府・警備府・泊地・基地

鎮守府
大日本帝国海軍の根拠地として、艦隊の後方たる4つの海軍区に置かれ、その統轄や防備を行った機関。
横須賀鎮守府(神奈川)・呉鎮守府(広島)・佐世保鎮守府(長崎)・舞鶴鎮守府(京都)が存在した。また、北海道に室蘭鎮守府を設置する計画もあった。
海上自衛隊でも、横須賀・呉・佐世保・舞鶴・大湊に総監部を置いている。
ちなみに鎮守府とは、古代日本において東北地方統治のために置かれた機関の名称である。
艦これでは各プレイサーバーをあらわす言葉であったり、プレイヤーor制作陣が指揮を執る本拠地にして、秘書艦がつつかれたりする場所であったりする。
余談ではあるが帝国海軍の「大人のジョーク」にこんな話がある。
ある若い海軍士官が妻宛てに「鎮海を発つ。佐世保に会いに来い」という文を略して電報を打ったところ、妻の父が読んで「なんとハレンチな!」と激怒したと言う。
略した際の文章がどのようなものであったかは、提督諸氏自ら調べていただきたい。
横須賀鎮守府日本海軍初の鎮守府。通称横鎮。横浜に仮設された「東海鎮守府」が前身で1884年に横須賀へ移転する。
フランスのトゥーロン軍港に似た地形をしており、そのため建設された幕府海軍の造船所が始まりである。このときのドックは現在でも現役で使用されている。
青森日本海側から時計回りに紀伊半島南端までの太平洋側、及び千島列島・樺太含む北海道と小笠原諸島周辺の海域が管轄である。また、トラックやパラオも横鎮の所轄。
呉鎮守府1889年開庁。通称呉鎮。管轄は紀伊半島南端から四国・宮崎の太平洋側、及び瀬戸内海と山口・福岡の一部の日本海側の海域である。
東洋最大の軍港で、日本海軍の中枢であった。
佐世保鎮守府呉鎮守府と同時期に開庁。通称佐鎮。管轄は呉鎮守府管轄の海域を除く九州周辺、及び南西諸島と台湾・朝鮮半島、遼東半島周辺の海域である。
舞鶴鎮守府呉・佐世保の整備が優先されたため、その二つの鎮守府と少し遅れた1901年に開庁。通称舞鎮。日本海唯一の鎮守府にして対露戦略の要衝。
ワシントン条約の影響で1923年に要港部に格下げされ、条約失効後の1939年に鎮守府に返り咲いた。
山形から島根までの日本海側、及び日本海に浮かぶ島々を管轄する。
警備府
鎮守府に準じた役割を担うが、鎮守府と違い固有の艦艇を持たない。
大湊警備府(青森)・大阪警備府(大阪)・馬公警備府(台湾・澎湖県、後に高雄に移転し高雄警備府)・旅順警備府(中国・遼寧省、1942年に廃止)・鎮海警備府(韓国・慶尚南道)・海南警備府(中国・海南省)が置かれていた。
ただしこのうち大阪、海南は他の警備府と毛色が異なるため、大湊、馬公、旅順、鎮海のみを指して警備府とされることもある。
大湊警備府下北半島の内側、陸奥湾を望む青森県大湊に作られた北方防備のための警備府。いずれ鎮守府に昇格する予定だったようだが、最後まで昇格はなかった。
当初北方の鎮守府は北海道の室蘭に作られる予定だったが、防護上の問題から大湊へと変更になった経緯を持っている。
現在でも海上自衛隊の大湊地方隊が存在する海軍の街である。
泊地
港としての設備がないかあっても小規模な港では大型船舶は接岸することができず、岸から離れた場所に投錨し、小型船舶等を使って人員・物資の輸送をする必要がある。
また、荒天を避けるために安全な場所に投錨することもある。これらの目的での投錨に適した場所を泊地という。
湾や環礁内など波浪を避けられる場所にあることが多い。
トラック泊地現在のミクロネシア連邦のトラック諸島(現在ではチューク諸島と呼ばれている)にあった日本海軍の根拠地。
もともとドイツの植民地であったが第1次大戦後に日本が入手した。
場所はグァム島の南東1000kmあたり。世界最大級の堡礁(防波堤のように島を囲んだ形のサンゴ礁)でおよそ東京湾の倍の大きさがあり、かつては「日本の真珠湾」とも呼ばれていたとか。
ただ、ドックなどの本格的な修理施設は無く、できるのは応急修理程度で本格的な修理のためには本土への回航が必要であったという(故に「基地」ではなく「泊地」扱いされているのではないかと思う)。
1944年2月のトラック大空襲により停泊中の多くの艦船が撃沈されたほか、基地機能を破壊されて戦略的意味が大きく低下。
その後は連合国軍が上陸する事も無く、敗戦まで敵味方からほぼ放置状態にされた。
リンガ泊地シンガポール南方およそ100kmあたりにあった日本海軍の根拠地。
「広いが、近隣の島々の人口が少なく目立たない」
「パレンバンの油田・製油所が近いため燃料に困らない」
「連合軍の主要基地から遠いので空襲を受けない」
などの利点を持ち、トラック泊地撤退後の主要拠点として運用された。
一方「敵から遠い」ということはこちらからの攻撃にも不便ということにもつながり、また、赤道直下で娯楽施設の類もなく、乗組員たちの生活面では相当厳しい場所だったらしい。
ちなみにリンガとはサンスクリット語である。意味を知りたい提督紳士諸君は自分で調べてみよう。
ショートランド泊地ブーゲンビル島の東南端、ショートランド諸島の近辺にあった日本海軍の拠点。ソロモン諸島での戦いにおける最前線基地の一つ。ラバウルから東南約500Km程の地点になる。
ラバウルから先に飛行場を持たない日本軍はショートランド水域に「千歳」などの水上機母艦を送り、水上機を主体として航空戦を行った。戦況悪化に伴い水上機母艦は引きぬかれたが、搭載機部隊は現地に留まって戦い続けたという。
タウイタウイ泊地フィリピン南西部、スールー諸島にあった日本海軍の拠点。マリアナ沖海戦の際第1機動艦隊が泊地として利用した。
ボルネオ島の産油地のひとつタラカン油田から近いため燃料は問題ないのだが、やはり敵の拠点から遠いせいで重要視されなかったためか艦載機部隊が訓練に使えるような大きな飛行場がなかったのが欠点。
パラオ泊地現在のパラオ共和国・コロールに存在した日本海軍の拠点。南洋庁が置かれ、南洋諸島統治の中心地でもあった。
コロール島の目と鼻の先のペリリュー島、アンガウル島に米軍が上陸したが、起伏が激しく飛行場の建設に向かないコロール島にはついに上陸することはなかった。
ブルネイ泊地現在のブルネイ・ダルサラーム国に存在した日本海軍の拠点。
潤沢な石油資源を持つため日本軍の戦略目標となり、開戦直後に上陸・占領された。その後、軍港としても使われた。
レイテ沖海戦においては、栗田艦隊と西村艦隊は、ここで燃料を補給してからレイテ湾に向けて出撃した。
単冠(ひとかっぷ)湾泊地北方領土・択捉島の天然の良港。
軍港としての設備が整っていたわけではないが、人口が少ない離島であり情報封鎖が容易なこと、内地では最も真珠湾に近い位置にあることなどから、一航戦、二航戦、五航戦を基幹とする第一航空艦隊が集結、真珠湾攻撃へと出撃した。
集結直前から開戦までの18日間、島外との一切の交通・通信は禁じられたという。
幌筵(ぱらむしる)泊地千島列島の北端付近に位置する幌筵島北東部、柏原に存在した。
大戦末期、有名な占守島の戦いが繰り広げられた占守島とは、幌筵海峡を挟んで目と鼻の先にある。
北方防衛の要であったため、陸軍、海軍ともに比較的大きな規模の設備が作られていた。
また海軍では第五艦隊を編成、この地域を含めた本土東方の防衛に当てている。
キスカ島撤退作戦の出発地にもなった場所であり、北方海域での作戦においては重要な拠点の一つと言えるだろう。
正式名称は「ぱらむしる」だが、そのまま訓読みして「ほろむしろ」と呼ばれることもあったようだ。変換する際に楽なので覚えておくといいかもしれない。
宿毛湾泊地高知県の西南端に位置する宿毛(すくも)市に存在した泊地。
沿岸には宇須々木海軍基地があり、宿毛湾沖一帯が連合艦隊の演習水域として使われていた。
大和が公試運転を行った他、加賀の姉妹艦である土佐が廃艦処分となった後、この海域で眠りについてる。
基地
一般には「軍事施設」の意味で使われることが多いが、旧海軍では港湾施設に基地の名称は使わず、もっぱら飛行場をもち航空機の運用が可能な施設を指して航空基地と呼んだ。
ラバウル基地トラック泊地の南方およそ1500km、パプアニューギニア・ニューブリテン島にある街。ラボールとも言う。
1910年にドイツが建設するが、第一次世界大戦でオーストラリア軍が占領、その後同国により統治される。
第二次世界大戦が始まると日本軍が支配し、東南方面への拠点とした。
ラバウル航空隊で有名。「大空のサムライ」こと坂井三郎や、笹井醇一、西沢広義、太田敏夫など、日本海軍のトップエース達が連合軍との激闘を繰り広げ、その多くがソロモンの海に散っていった。
自給自足体制により食料を確保、堅固な要塞を築き上げ、連合軍もラバウルの堅固さをみてこれを包囲するにとどめたため、終戦まで日本軍が保持するに至った。
周辺の地形と侵攻すると大損害を被るという事実から、ドラゴンジョーズ(竜の顎)とも呼ばれている。
ブイン基地ソロモン諸島北部に位置するブーゲンビル島南端部の町。
日本軍が占領し、飛行場を建設して基地として使用した。以後、陸海軍航空隊の重要拠点として機能した。
戦後、ブイン空港となるが内戦で破壊され、現在でも一帯は反政府武装勢力の支配下にある
聖地巡礼では最も難易度の高い場所だろう。
鹿屋基地鹿児島県の大隅半島中央部に位置する鹿屋(かのや)市に存在した海軍航空隊の基地。
太平洋戦争開戦後は空母艦載機の搭乗員育成が行われていたが、大戦末期には第5航空艦隊の司令部が置かれ、もっとも多くの特攻隊がこの基地から出撃していった。
現在も海上自衛隊の航空基地として地域の平和維持と防災を担っている。
海軍航空隊の史料館も併設されており、零戦52型や二式飛行艇が展示されている。


主な海戦・作戦

艦娘の台詞に出てくる太平洋戦争(大東亜戦争)の海軍が関わった主な戦闘・作戦の概説的ガイド。
艦娘にとっては誇りだったりトラウマだったり。

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もっと生真面目に知りたい方はこちらもどうぞ(ややサイズが大きいので注意)

以下の表では、参加艦隊で名前が赤色その戦いで轟沈した艦灰色艦これ未実装の艦ピンク艦これ未実装でその戦いで轟沈した艦である。

1941年
真珠湾攻撃
(しんじゅわんこうげき)
昭和16年(1941年)12月8日、ハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊と基地に対しての航空機、および潜航艇(甲標的)による攻撃作戦。
当時ハワイに停泊していた戦艦8隻のうち5隻を撃沈(擱座含む)・3隻を行動不能にする大戦果を挙げるが、最大の脅威であった米空母を取り逃がし、短期決戦にもちこむ当初の目論見は外れた。
また日本大使館の不手際により、宣戦布告する約1時間前の攻撃開始となってしまい、それを米国政府が「だまし討ち」として宣伝したため、アメリカの対日世論を激昂させた。
(当時の国際法に宣戦布告の項目はあったが特に規定されていなかったので国際法違反ではない。真珠湾攻撃より前に開始されたマレー作戦でもイギリスへの宣戦布告をしていないが、イギリスはこのことを追求していない。戦後に宣戦布告の規定が明記された)
 
ちなみに撃沈・行動不能にさせた戦艦のうち6隻は後に引き上げられ修理改造を施され艦隊に復帰したので最終的にアメリカが失った戦艦は2隻にとどまっている。
余談ではあるが真珠湾攻撃という呼称に馴染みが深いが元はアメリカ側の呼称であり、当時の日本軍ではハワイ海戦と呼ばれた。
マレー沖海戦
(まれーおきかいせん)
昭和16年(1941年)12月10日、マレー半島沖で日本海軍航空部隊とイギリス東洋艦隊とのあいだで行われた海戦。
真珠湾攻撃の衝撃も冷めやらぬ中、東南アジアの制海権確保のため派遣されたイギリスの東洋艦隊を日本海軍の陸上機部隊が攻撃。
戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ(PoW)」、巡洋戦艦「レパルス」を撃沈。
「作戦行動中の戦艦を航空機が沈めることはできない」という当時の常識を完全に打ち砕き、
大艦巨砲主義時代の終焉現代の海戦における航空機の有効性を決定づけた。
ただし作戦行動中に航空攻撃で撃沈された例は他に2件しかなく、そのどの例も直掩機がない上に相当数の航空機を投入してようやく沈めているため、同時に作戦行動中の戦艦撃沈の難易度も証明している。
余談だが、「PoW」が航行不能に陥った際に艦長のジョン・リーチ大佐と乗艦していた英軍指揮官トーマス・フィリップス大将は参謀からの退艦要請に対し「ノーサンキュー」と答え、艦と運命を共にした。
昔から英国海軍を模範としていた日本海軍はこの話に影響を受け「艦長は艦と運命を共にする」という慣習が広まったとも言われている。
この話には「お国柄」が大きく出ているので興味を持った提督諸氏は資料を探してみると良いであろう。
1942年
H作戦
(えいちさくせん)

蘭印作戦
(らんいんさくせん)
昭和17年(1942年)1月から開始された、日本軍によるオランダ領東インドの攻略作戦。
後のソロモン諸島を巡る戦いほどではないが、日本と連合軍の水上戦闘艦同士による海戦が幾度も発生した。
朝潮、大潮、満潮、荒潮の第八駆逐隊が参加したバリ島沖海戦などがある。
また「雷」と「電」による敵兵の救助作業は、この作戦中に起きたスラバヤ沖海戦での出来事。
「ただ強いだけじゃ、ダメだと思うの。ね、司令官!」「頑張ったの…です…」
遣独潜水艦作戦
(けんどくせんすいかんさくせん)
同盟国であるドイツとの技術・資源交換は同盟締結の1936年よりシベリア鉄道や輸送船を用いて行われていたが開戦により陸路及び海路が連合軍に封鎖され使えなくなった為に互いの得意分野であった潜水艦を生かして行われた輸送作戦の総称。
第一次(1942年4月出発)・第二次(1943年6月)・第三次(同9月)・第四次(同11月)・第五次(1944年3月)の5回が実施されたがドイツ軍との合流地点であるフランスのロリアン港(第二次はブレスト港)にたどり着いたのは第一次、第二次、第四次の3回、そこから無事に日本に帰還することができたのは「伊八」の第二遣独作戦のみであった。
成果は第二次作戦においてドイツ軍よりUボート(潜水艦)1隻が無償提供され日本に回航後は「さつき1号」と銘々され日本海軍に編入されてからは「ロ-500」として終戦まで研究や訓練に使われている。その他にもジェット機・レーダー・ロケット弾・電気溶接の技術等が提供され日本からは主に魚雷関連の技術を提供している。
余談であるがドイツからも同じようにUボートが三度に渡り日本に派遣されるが全て日本にたどり着くことは無く、同じ同盟国のイタリアからも計4隻の潜水艦派遣が行われ1隻が日本に到達、持ち込まれたレーダーの技術によって終戦までに2機のB29を撃墜する戦果を挙げている。
珊瑚海海戦
(さんごかいかいせん)
昭和17年(1942年)5月、オーストラリア北東部の珊瑚海で、ポートモレスビー攻略(MO作戦)を目指し南下してきた日本海軍機動部隊と、
連合軍(アメリカ海軍とオーストラリア海軍)機動部隊のあいだで行われた海戦。
史上初の空母同士の対戦で、日本海軍が軽空母一隻を失ったのに対し、連合軍は正規空母一隻を失った。
戦術的には日本海軍の勝利といえるが、多数の航空機と搭乗員を失ったためポートモレスビー攻略を断念。
快進撃を続けていた日本海軍の初めての蹉跌となった。
なお、日本海軍が失った軽空母一隻とは「祥鳳」であり、彼女が珊瑚嫌いなのはこのことに由来する。
ミッドウェー海戦
(みっどうぇーかいせん)
昭和17年(1942年)6月にハワイ諸島の北西に位置するミッドウェー島付近で行われた海戦。
陸軍部隊の同島の攻略における支援と、それに釣られてくる米空母の撃滅が主な作戦目的だった。
この戦いで日本軍は「赤城」「加賀」「蒼龍」及び「飛龍」の4隻の空母を失い、主力の一航戦と二航戦がまとめて壊滅した(米軍は空母1隻を喪失)。
日本軍がそれまでの攻勢から守勢に転がり落ちるターニングポイントとなった。
 
なお大敗北の主な原因としては、米軍との諜報力の差や空母部隊司令部の慢心、司令部での意見の不一致という説が根強い。
しかしながら近年調査が進んできたこともあり、一部の内容が否定される意見も出始めているという。
気になった提督諸氏は自ら様々な資料を当たってみるのも良いであろう。
また、この海戦に関しては、特に赤城や飛龍の台詞に関連しているものが多い。

この時陽動作戦として「龍驤」「隼鷹」らがアッツ島、キスカ島などを占領しており、のちの撤退作戦に繋がる。
おもな参加艦艇:赤城 加賀 蒼龍 飛龍 瑞鳳 千歳 金剛 比叡 榛名 霧島 三隈 最上 熊野 鈴谷 愛宕 鳥海 妙高 羽黒 神通 由良 長良 五月雨
春雨 村雨 夕立 朝雲 峯雲 夏雲 三日月 朝潮 荒潮 親潮 黒潮 雪風 時津風 天津風 初風 不知火 霞 陽炎 霰 早潮 野分 萩風 舞風
風雲 夕雲 巻雲 秋雲 磯風 浦風 浜風 谷風 伊168(潜水艦は他22隻参加)
ソロモン海戦
(そろもんかいせん)
第一次(1942年8月)・第二次(42年8月)・第三次(42年11月)ソロモン海戦の総称。
米豪遮断を目的としたソロモン諸島の戦い(有名なガダルカナル島の攻防戦はここに含まれる)の中で発生した数ある海戦のひとつ。
 
米軍優勢であったガダルカナル島に「殴り込み」をかける目的であった第一次ソロモン海戦で日本は得意の水雷夜戦で勝利を収めるが、
航空攻撃を恐れて主目標であった米輸送船への攻撃を断念して帰投したため戦略的な勝利は得られなかった。
ガダルカナル島奪回の為に行われた第二次ソロモン海戦は両軍の機動部隊が交戦となり、軽空母「龍驤」や輸送船を失い奪回作戦を中止。
再度飛行場砲撃と同島奪回の為に行った第三次ソロモン海戦では3日に及ぶ乱戦の末、多数の輸送船と共に戦艦「比叡」「霧島」を失い断念、ガダルカナル島は米軍が優位に立つこととなった。
サボ島沖海戦
(さぼとうおきかいせん)
第二次ソロモン海戦の約2ヵ月後である10月11日夜に起きた海戦。
ガダルカナル島への物資支援と敵飛行場砲撃の為に重巡3、駆逐艦2からなる第6戦隊と、日本軍を察知し迎撃に出ていた当時新兵器であるレーダーを装備した米水雷部隊との海戦。
遭遇直後日本側の司令官である五藤少将は暗闇の中見張員が見つけた10km先の米艦隊を別行動中の味方輸送部隊と誤認し無警戒で接近し、レーダーで日本軍を発見していた米軍にT字での先制攻撃を許してしまう。
旗艦である「青葉」は米軍から攻撃を受けながらも全て味方からの誤射だと思い込み「ワレアオバ、ワレアオバ」と繰り返し発光信号で合図するが、さらに集中砲火を浴び艦橋に直撃弾を受け五藤少将は戦死、司令部は壊滅、艦も大破する。
しかし即座に退避行動を取っていた「古鷹」が米艦隊と「青葉」の間に割り込み「かばい」ながら応戦したおかげで沈没は免れるが「古鷹」は撃沈、その後第6戦隊はなんとか撤退するも「吹雪」は弾薬庫爆発により轟沈、戦闘後救援に来た駆逐艦2隻「叢雲」「夏雲」を空襲にて喪失。一方米軍の駆逐艦1隻を撃沈、軽巡と駆逐艦をそれぞれ1隻大破させている。
別行動のおかげもあり輸送作戦自体は成功したが、日本海軍のお家芸である夜戦で勝利を収めたアメリカ軍はこの作戦以降、夜戦をあまり恐れることが無くなったという。
「かばう」システムのモデルの1つであるとされ実装された当時、掲示板ではこの話で持ちきりであった。
南太平洋海戦
(みなみたいへいようかいせん)
昭和17年(1942年)10月、ソロモン諸島沖で行われた海戦。ソロモン諸島の戦いの中の数ある海戦のひとつ。
日米の空母機動部隊同士の海戦だが、両軍ともに航空戦に終始していた。
この海戦により米空母「ホーネット」が沈没、同「エンタープライズ」が大破し、
太平洋戦線における米空母の稼働数が一時的に皆無となったため、米軍をして「史上最悪の海軍記念日」と言わしめた。
しかし、日本も空母「翔鶴」が大破、「瑞鳳」が小破し、敵のすさまじい対空砲火により出撃機の半数以上と150名近い開戦以来の熟練搭乗員を失い、以後同等水準、規模の艦載機部隊が終戦まで復活することはなかった。
ルンガ沖夜戦
(るんがおきやせん)
昭和17年(1942年)11月30日、第3次ソロモン海戦によってガタルカナル島とその周辺の制海・制空権を失った日本軍が同島への「鼠輸送」を行っていた駆逐艦8隻による第二水雷戦隊とそれを阻止するために出撃していた重巡4・軽巡1・駆逐艦6からなるアメリカ第67任務部隊との間で起きた海戦。
米軍は日本軍が発見するよりも先にレーダーを使い日本艦隊を察知、先制攻撃を仕掛ける。
物資を揚陸している最中に攻撃を受けた日本側の司令官である田中頼三少将は「揚陸やめ、全軍突撃せよ」と全艦に揚陸中の物資を投棄させ戦闘に突入、日本軍の最新兵器であり秘密兵器であった酸素魚雷の活躍もあり米軍の重巡洋艦1隻を撃沈、3隻大破、こちらの損害は駆逐艦1隻の損失のみと大勝をおさめる。
咄嗟の判断によって自分たちの艦艇よりも大型の艦艇を多数に打撃を与えたので敵である米軍からは高く評価された戦闘であった。
しかし目的であるドラム缶輸送には失敗し、旗艦「長波」の行動が非常に消極的だったこともあり、司令官田中頼三少将に対する日本軍からの評価は著しく低かった。
1943年
ケ号作戦
(けごうさくせん)
昭和18年(1943年)2月上旬に実施された、日本軍によるソロモン諸島ガダルカナル島からの撤退作戦。艦これに登場する艦も多数が参加している。
敵軍の制空・制海権下で行われた大規模な撤退作戦であった為、後方には「金剛」「榛名」「隼鷹」「瑞鳳」を含んだ中規模艦隊を待機させていた。
しかし、奇跡的にもアメリカ軍の艦隊は現れずに駆逐艦のみの部隊で3度に渡る撤退作戦で兵員の殆どであった1万人以上を収容することに成功、
約20隻の駆逐艦が撤退作戦に参加して何度か小規模な攻撃は受けたが沈没は「巻雲」1隻のみで予想以上の成果を上げることができた。
なお、「ケ号作戦」という作戦名は後述のキスカ島撤退を始め各地の撤退作戦に使われているが、一般的にはガダルカナル島撤退作戦のことを指すのが通例である。
い号作戦
(いごうさくせん)
昭和18年(1943年)4月7日から行われた日本海軍による航空作戦。奪取されたガダルカナルや東ニューギニアの連合国軍に打撃を与えることが目的であった。
使用された「瑞鶴」ほか3隻の空母の艦載機は、地上基地に移されてから発進した。
ラバウル基地に赴いた山本五十六連合艦隊司令長官の指揮により約一週間実施されたが、戦果の割には多くの搭乗員と機体を失うことになった。
作戦終了直後の18日、山本は飛行機で移動中に、暗号解読して待ち伏せていた米軍機の襲撃により戦死する(海軍甲事件)。
コロンバンガラ島沖海戦
(ころんばんがらとうおきかいせん)
昭和18年(1943年)7月12日深夜~13日未明にかけて、ソロモン諸島コロンバンガラ島への輸送作戦を行っていた日本軍の第二水雷戦隊と、それを阻止するために出撃したアメリカ軍第18任務部隊との間で起きた夜戦。
米軍はレーダーを使い日本艦隊を先に察知したが、日本軍も水偵と「雪風」の逆探知装置により米艦隊の察知に成功。日本艦隊の先頭に立っていた「神通」は駆逐艦に攻撃目標を指示するために探照灯を投射。それにより自艦の位置を暴露する形になり集中砲火を浴びる。計34門もの6インチ(約15.2センチ)砲を擁する近代軽巡3隻に対し、「神通」は艦齢18年になろうとする旧式艦であった。激しく反撃するが大破炎上する。
この間、ほぼノーマークとなったニ水戦の駆逐隊は雷撃を実施。軽巡1隻を大破させ、離脱にも成功する。
「神通」が撃沈された頃、魚雷の『次発装填』を終えた駆逐隊は戦線に戻ってきた。再度の雷撃で米艦隊は混乱、直後の艦同士の衝突も合わせて最終的に軽巡3隻と駆逐艦2隻を大破、1隻の沈没という大被害を被る。
これにより米軍の迎撃作戦は完全に失敗に終わり、同島への揚陸も許してしまった。

戦後、アメリカの戦史学者はこの海戦を評して『神通こそ太平洋戦争中、最も激しく戦った日本軍艦である』と語った。
余談であるがこの海戦で旗艦を失った第二水雷戦隊の次の旗艦に「能代」が配備されることになる。
キスカ島撤退作戦
(きすかとうてったいさくせん)
昭和18年(1943年)7月29日に行われた、第一水雷戦隊(旗艦:阿武隈)によるアリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦。
当時キスカ島は米軍の重包囲下にあり、日本海軍はこの時期に発生しやすい霧に紛れての救出を狙った。
7月15日に一度はキスカ島への突入を試みるも、霧が晴れてしまったため断念、帰投し好機を待った。
この時、部下から突入を催促された時の木村昌福司令官の名言「帰ろう、帰ればまた来られるから」は、艦これ提督諸兄も胸に刻むべし。
無理して大切な艦娘を失ったら元も子もないのである。
その後、29日に絶好の濃霧が発生し、米艦隊が包囲を解いた一瞬の隙を突く形でキスカ島に突入、わずか55分で守備隊員5200名を収容、キスカ島を撤収した。
 
日本軍にとって幸運な出来事が重なったことや、同年5月に近隣のアッツ島で守備部隊が全員玉砕したのに対し、
キスカ島は全員無事に撤収できたことから、この作戦は「奇跡の作戦」と呼ばれた。
戦後に映画化もされたので、興味のある方はレンタルショップで探してみよう。

ちなみにこの作戦には後日談という名のヲチがあり、米軍は偵察により島内を歩きまわる動物を帝国軍と勘違いして超が付く程の緊張の中上陸(コテージ作戦)。
視界不良による同士討ちや、撤退前に施しておいた軍医の悪戯によりパニックが発生するなどの多大な被害を出している。
この作戦は戦後、米軍出身の戦史家に"史上最大の最も実戦に近い上陸演習"と皮肉られた。
1944年
マリアナ沖海戦
(まりあなおきかいせん)
昭和19年(1944年)6月19日~20日、マリアナ諸島(サイパン島やグアム島が含まれる)沖で行われた航空機主体の海戦。
マリアナ諸島に侵攻した米機動部隊の撃滅が主な作戦目的だった(1944年の「あ号作戦」)。
だがすでに多くの熟練パイロットを失っていた日本側は米軍にほとんど損害を与えることができず、
逆に「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」の3空母と航空機の大半を失った。

米海軍の迎撃機や新型対空砲弾により日本の戦闘機・攻撃機がバタバタと落とされたことから、
アメリカ軍のパイロットから「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄された。
そして占領されたマリアナ諸島より戦略爆撃機B-29が発進し、日本本土空襲が始まることになる。
レイテ沖海戦
(れいておきかいせん)

比島沖海戦
(ひとうおきかいせん)

フィリピン沖海戦
(ふぃりぴんおきかいせん)
昭和19年(1944年)10月下旬にフィリピン諸島内外の数箇所で起きた海戦の総称で、世界最大の海戦。日本側の作戦名は「捷一号(しょういちごう)作戦」。
艦これでは第三艦隊(小沢艦隊)のエンガノ岬沖海戦、第二艦隊(西村艦隊)のスリガオ海峡夜戦、第二艦隊(栗田艦隊)のサマール島沖海戦、武蔵の沈んだシブヤン海海戦(栗田艦隊)が図鑑及び艦娘のセリフ内で登場している。
内容は「フィリピンのレイテ島に侵攻した連合軍とその艦隊に対し、「瑞鶴」を旗艦とする第三艦隊が囮として米機動部隊を北へ釣り上げ、
護衛部隊がいなくなった敵上陸部隊を第二・第五の両艦隊を西から殴り込ませて撃滅する」というものであった。
更にこの戦いで初の組織的な「特別攻撃」が行われている。
まさに連合艦隊の総力を挙げた作戦だったが、ここでもほとんどアメリカに損害を与えることができず、
囮となった空母4隻は全滅、さらに戦艦3隻のほか多数の巡洋艦・駆逐艦も沈没・損傷し、連合艦隊は事実上壊滅した。
また作戦終了後、本土へ帰還中に「金剛」が米潜の雷撃により沈没している。

ここに書いてあることはほんの一部なので興味のある提督諸氏は資料を探してみると良いだろう。
おもな参加艦艇:大和 武蔵 長門 金剛 榛名 山城 扶桑 愛宕 高雄 摩耶 鳥海 妙高 羽黒 那智 足柄 鈴谷 熊野 利根 筑摩 最上 青葉
能代 矢矧 阿武隈 鬼怒 早霜 秋霜 岸波 沖波 朝霜 長波 浜波 藤波 島風 浦風 磯風 雪風 浜風 清霜 野分 山雲 朝雲 満潮
時雨 曙 潮 霞 不知火 若葉 初春 初霜 浦波
瑞鶴 千代田 千歳 瑞鳳 伊勢 日向 多摩 五十鈴 大淀 槇 杉 桐 桑 初月 秋月 若月 霜月 秋風
礼号作戦
(れいごうさくせん)
昭和19年(1944年)12月26日、日本海軍による、フィリピンのミンドロ島に上陸した米軍および米艦船への襲撃作戦。重巡1・軽巡1・駆逐艦6からなる少数精鋭艦隊で実行した。
艦これ実装艦では「霞」「足柄」が参加、「霞」は巡洋艦を差し置いて旗艦に抜擢された。
この戦いで日本側の駆逐艦「清霜」(艦これ未実装)が爆撃で沈没したが、「霞」が味方に撤退命令を出し単艦で救助を開始する。
しかし他の艦も撤退命令を無視し危険を顧みずに救助、およびに度々襲い掛かってくる米軍の撃退にあたり「清霜」の乗員約7割が救助される。
米軍側の損害は輸送船1隻に加え多数の魚雷艇の損傷、そして航空機約30機の喪失であり当時のアメリカ軍からすれば微々たるものであったが、
追撃も不成功に終わるなど日本軍の作戦成功を許してしまったのも事実であった。
 
このささやかな『勝利』が日本海軍最後の組織的戦闘による勝利となる。
なお日本側の指揮官はキスカの「奇跡の作戦」成功の立役者である木村昌福少将であり、本作戦中において彼の人望と水雷戦指揮能力の高さが伺える戦いにもなった。
1945年
北号作戦
(ほくごうさくせん)
昭和20年(1945年)2月に行われた、航空戦艦「日向」「伊勢」軽巡「大淀」擁する第四航空戦隊及び駆逐艦3隻による物資輸送作戦。
シンガポールで燃料などの物資を搭載した艦隊は、途中アメリカ軍の爆撃や潜水艦による攻撃を受けたが、
スコールの発生や各艦の臨機応変な対応、また同地に展開していた機動部隊が硫黄島攻略戦のために不在だった事も有り、奇跡的に全艦無傷で呉に到着することが出来た。
 
この作戦は僅かな被弾でも危険なほどに可燃物を積んでおり、しかも制海権も無い海域を突っ切る作戦だったため
司令部は半数が戻ってくれば上出来、最悪の場合は全滅と予想していた(事実半月ほど前にこの作戦と同様のルートを辿った輸送船団が前述の機動部隊に捕捉され、海防艦3隻を残し全滅していた)
だが作戦指揮の松田千秋少将より、部隊名を「任務を完遂する」と言う意味の「完部隊」と命名されたこの部隊が、
その名の通り全艦健在で帰還した様子を見て司令部が狂喜乱舞したという話が残っている。
この作戦は太平洋戦争において、日本が成功を収めた最後の作戦である。
ちなみに艦これに登場する艦では、「日向」「伊勢」の他に「初霜」と「霞」がこの作戦に参加している。

なお、戦争末期の劣勢の中奇跡的とも言える成功を収めた6隻は、

日向・伊勢・大淀…3月1日付で第四航空戦隊は解隊、浮き砲台になり7月の呉軍港空襲で日向と伊勢は着底、大淀は転覆
霞・初霜・朝霜(未実装)…坊ノ岬沖海戦に参加、「霞」と「朝霜」はこの海戦で戦没、初霜は生還するも7月末に宮津湾で擱座

と、全艦とも半年後の終戦を待たずして壮絶な最期を遂げている。
坊ノ岬沖海戦
(ぼうのみさきかいせん)
昭和20年(1945年)4月7日に起こった、第一遊撃部隊(戦艦「大和」と護衛の軽巡「矢矧」・駆逐艦8隻からなる第二水雷戦隊。指揮・伊藤整一中将)と米海軍の機動艦隊との間で起こった海戦。
日本海軍が沖縄方面の敵戦力に打撃を与える事を目的として発動した「天一号作戦」の一環として沖縄へ「海上特攻部隊」として向かう第一遊撃部隊に、米海軍第58任務部隊の艦載機約400機が殺到。
味方の航空機一つ無い中、対空攻撃で必死の抵抗を試みるが奮戦空しく「大和」に加え「矢矧」ほか駆逐艦4隻(「霞」のみ実装。「磯風」「浜風」「朝霜」)が沈没、3700名が戦死した。
一方米軍側の損失は気象条件が有利だったこともあって艦載機12機、戦死13名とわずかなものであった。
約2時間に及ぶ熾烈な戦闘であったが「冬月」「涼月」(共に艦これ未実装)「雪風」「初霜」の4隻が生き残り佐世保に翌日帰還した。
またこの海戦は航空攻撃により戦艦が失われた最後の海戦でもある。
なお「雪風」はこの激戦の中でロケット弾の直撃を受けるものの不発に終わり(ほぼ)無傷で帰還しており太平洋戦争開始から終戦までの主要海戦にたびたび参加、さらに後述する呉軍港空襲も生き残ったので艦これ内では超幸運艦として設定されている。(「初霜」もほぼ無傷での帰還であったが宮津湾での空襲・触雷により力尽きた)
日本海軍の意地と面子を賭けた作戦だったが、戦闘詳報の戦訓でも自ら批判しているように戦略的に割の合わない戦いとなってしまった。
余談だが、当初米軍は戦艦部隊を使い夜戦で迎撃をするつもりだったが、大艦巨砲主義の終焉を全世界に知らしめ航空機の有用性を証明させる為に航空戦で迎え撃つこととなった。
呉軍港空襲
(くれぐんこうくうしゅう)
昭和20年(1945年)3月19日、7月24日、同28日に起こった、米軍の空母艦載機による呉軍港を狙った大空襲。
3月の空襲は軽微だったものの敗戦間近の7月の空襲では約950機もの航空機が襲来。
もはや動けるだけの重油もない生き残りの艦船や、建造されたばかりの新造艦が浮き砲台として必死の抵抗を見せるも、命運尽きて次々と大破・着底または転覆していった。
艦これに登場する艦でも7月24日の空襲で弾薬庫が誘爆した「日向」が26日に、28日の空襲で「北上」「利根」「榛名」「伊勢」「青葉」がそれぞれ奮闘の末力尽きた。
余談だが、28日の空襲終了間際に「伊勢」は帝国海軍の戦艦として最後の主砲射撃を行っている。


海域モデル

通常海域

エリア海域 or 作戦名モデルと考えられる事柄備考戦没艦
1-1鎮守府正面海域不明推測される候補地は日本近海、沖縄、
オランダ領東インド、フィリピン、グァム~サイパン(南洋諸島)など
1-2南西諸島沖
1-3製油所地帯沿岸
1-4南西諸島防衛線
2-1カムラン半島仏領インドシナ・マレー沖海戦
2-2バシー島沖ルソン島北部・バタン(バシー)諸島・ルソン島上陸
2-3東部オリョール海南シナ海~バシー海峡~フィリピン海?
ポートダーウィン空襲?
2-4沖ノ島海域あ号艦隊決戦の名からあ号作戦だと推測 マリアナ沖海戦沖ノ島の地名は日本海海戦の戦場だが地形的に矛盾大鳳翔鶴飛鷹、伊184、伊185
3-1モーレイ海哨戒アッツ島沖海戦?
3-2キス島撤退作戦キスカ島撤退作戦伊7、伊9、伊24
3-3アルフォンシーノ方面進出AL作戦・ダッチハーバー空爆
3-4北方海域艦隊決戦アリューシャン列島全域
4-1ジャム島攻略作戦ジャワ島・バタビア沖海戦
4-2カレー洋制圧戦インド洋進出戦艦ウォースパイト以下の東洋艦隊主力部隊*5
4-3リランカ島空襲コロンボ空襲・セイロン島(スリランカ)沖海戦
4-4カスガダマ沖海戦マダガスカル島の戦い実際には潜水艦のみの参加
5-1南方海域進出作戦ツラギ島攻略・ソロモン進出菊月
5-2珊瑚諸島沖海戦MO作戦・珊瑚海海戦・ポートモレスビー攻略実際には五航戦と祥鳳は別行動だった祥鳳
5-3第一次サーモン沖海戦サボ島沖・第一次ソロモン海戦ボス輸送船は揚陸部隊旗艦の攻撃兵員輸送艦マッコーリー*6加古
5-4東京急行鼠輸送作戦表題では鼠輸送だが、戦域マップではソロモン諸島を抜けて
バヌアツのエスピリトゥサント基地*7を襲撃する航路
神通、高波、照月、村雨、峯雲
新月、長月夕雲、巻波、大波
夕霧
2013年秋イベントモデル海域

2013年秋イベント海域

エリア海域 or 作戦名モデルと考えられる事柄備考戦没艦
13秋-E1サーモン諸島海域第二次ソロモン海戦海戦後に伊19がワスプ撃沈龍驤
13秋-E2ルンバ沖海域ルンガ沖夜戦高波
13秋-E3サンタクロース諸島海域南太平洋海戦(サンタクルズ諸島沖海戦)南雲機動部隊最後の戦い由良*8
13秋-E4アイアンボトムサウンドサボ島沖海戦、ヘンダーソン基地艦砲射撃リコリス航空基地は史実でのヘンダーソン飛行場
*9
古鷹吹雪叢雲*10
13秋-E5サーモン海域最深部第三次ソロモン海戦比叡衣笠夕立*11
霧島綾波*12

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*1 「航空母艦潛水母艦敷設艦等ノ如キ現今ニ在テハ他ノ艦種ヨリ轉ゼシモノ多ク時ニ新造アリト雖モ其數僅少ナレバ未ダ一般的選名ノ標準ヲ設クルニ至ラズ。」(出典:東京水交社『日本海軍艦船名考』)
*2 出典:福井静夫著作集4 日本巡洋艦物語
*3 海軍草創期に「東京」や「大阪」などが存在していたことはある
*4 正確には発射されるミサイルの排気を逃がすための排気口も
*5 戦艦5隻、正規空母2隻を擁する有力な艦隊だったが指揮官サマヴィル中将の方針で極力戦闘を避けていた
*6 当時、この艦には陸上部隊指揮官ヴァンデグリフト少将、南方部隊(5-3-C)指揮官クラッチレー少将、北方部隊(5-3-D)指揮官ターナー少将、ヘンダーソン基地司令マケイン少将が集まり、作戦会議を行っていた
*7 ソロモン攻略の最重要拠点。史実ではここを攻撃しなかった為にガ島の米軍へ次々と物資が送り込まれる事となった。
*8 第六駆逐隊・第四水雷戦隊による陽動作戦
*9 現ホニアラ国際空港
*10 第一次挺身隊/サボ島沖海戦
*11 第一夜戦
*12 第二夜戦