野分

Last-modified: 2014-11-21 (金) 10:41:29

14.4.26 円卓バナー.JPG
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No.215
14.11.21 野分リアル.JPG野分(のわき)陽炎型 15番艦 駆逐艦
艦船ステータス
耐久16火力10
装甲6雷装24
回避44対空12
搭載0対潜24
速力高速索敵8
射程14
最大消費量
燃料15弾薬20
装備
12.7cm連装砲?
61cm四連装魚雷?
装備不可
装備不可
改造チャート
野分野分改?(Lv35)
図鑑説明
陽炎型駆逐艦十五番艦、野分です。舞鶴生まれです。舞風と一緒に第四駆逐隊に所属しました。
緒戦は那珂さん率いる四水戦と共に南方作戦、そしてミッドウェー、マリアナ、レイテにも参加。
できること…全力で頑張りました。
CV:未発表、イラストレーター:未発表 (クリックするとセリフ一覧が開きます)
セリフCV:未発表、イラストレーター:未発表*1
入手/ログイン陽炎型駆逐艦、野分。参上しました。さあ、司令。いきましょう。
母港/詳細閲覧あの…何かしら?
舞風、やめなさいって…司令?…どういうこと?
ん?司令、野分に何かお求めですか?
ケッコンカッコカリ(反転)
ケッコン後母港(反転)
編成駆逐艦野分、出撃します!
出撃第四駆逐隊、出撃です。抜錨!
駆逐艦野分、出撃します!
遠征選択時
アイテム発見待ってて!
開戦四水戦、突撃する!続けーっ!
航空戦開始時
夜戦開始やってやる!全艦、突撃―っ!
攻撃四水戦、突撃する!続けーっ!
やってやります!てーっ!
連撃/弾着観測射撃/夜戦攻撃
小破痛っ!ちいっ…!
何!?レーダー射撃!?や、やだ…
中破/大破やられた…ま、まだ動けます、今沈むわけには…いかない!
勝利MVPはぁ…良かったぁ そう、舞風、これが第四駆逐隊の力です!
旗艦大破何!?レーダー射撃!?や、やだ…
帰投艦隊が帰投しました。お疲れ様でした。
補給よかったぁ…これで戦えます。
改装/改修/改造いいですねぇ…これならいける気がします
これは…ありがとうございます!
待ってて!
入渠(小破以下)少しだけ…休ませてください。
入渠(中破以上)すみません…体調が戻ったら、すぐに戦線に復帰しますから。
建造完了新しい仲間が来ましたね。
戦績表示情報の確認ですね。大事です。
轟沈(反転)
時報(0時)
(6時)
(12時)
(18時)
放置時舞風どうしてるかな…元気、かな…。あっ司令、大丈夫!野分、今待機中ですし!

ゲームにおいて

  • 2014年11月14日のアップデートで新実装。同日から始まった秋イベント:期間限定海域【発動!渾作戦】?のExtra Operationクリア報酬。
    • 現時点では、秋イベント以外での入手手段は無い。
  • 未改造の金レア駆逐艦としては、Z1?Z3?時津風磯風?に続いて5番目である。

小ネタ

略歴
193911.8舞鶴工廠にて起工
19409.17進水
19414.28竣工
10.31舞風と共に嵐・萩風のいる第四駆逐隊に編入
12.8太平洋戦争開戦、第4水雷戦隊隷下に
19423.4チラチャップ沖海戦に参加
6.5ミッドウェー海戦に参加
8.24第二次ソロモン海戦に参加
9.3日進(水母、未実装)を護衛してガダルカナル島への輸送作戦に従事
10.26南太平洋海戦に参加
19432.4ケ号作戦(ガダルカナル島)に参加
8.6ベラ湾夜戦で僚艦の嵐・萩風が沈没
9.15山雲が第4駆逐隊に編入
10.10舞風と上海~ラバウルの第十七師団の輸送護衛に従事
11.26舞風、?とタンカー護衛に従事
19442.17トラック島空襲に遭遇。第4駆逐隊司令・磯久研磨大佐および舞風を失う
3.12松輸送に従事。龍田の乗組員を救助
6.18マリアナ沖海戦に参加
10.25レイテ沖海戦に参加、沈没した筑摩乗組員の救助にあたり、その後殿艦として撤退する
10.26日付が変わった直後、軽巡洋艦3、駆逐艦2の砲雷撃を受け沈没。幾人かは近くの島に流れ着いたが、艦長・守屋節司大佐以下272名、前日に救助した筑摩乗員もろとも全滅*2
19451.10除籍
  • 野分(のわき)とは、秋から初冬にかけて吹き荒ぶ台風の事。秋の季語でもある。
  • 明治41年に建造され、大正13年に除籍された初代に続く二代目。
  • 所属は第4水雷戦隊第4駆逐隊、開戦時の旗艦は那珂
    太平洋戦争開戦から解隊まで、第4駆逐隊に所属し続けた唯一の艦である。結成時のメンバーは野分、舞風、萩風、嵐
    • 第4駆逐隊の歴代司令は、佐藤寅治郎大佐が神通?艦長としてコロンバンガラ島沖海戦?で、有賀幸作大佐が大和艦長として坊ノ岬沖海戦?で、杉浦嘉十大佐が羽黒?艦長としてペナン沖で、磯久研磨大佐は舞風で、高橋亀四郎大佐は満潮?に乗組みスリガオ沖でとそれぞれ最期を遂げられている。
  • 開戦初期には南方作戦に参加。開戦初日にノルウェー商船を拿捕し、日本海軍の敵船拿捕第1号を飾った。
    さらに3月、第4駆逐隊第1小隊の野分と嵐(舞風と萩風らの第2小隊は南雲機動部隊にいた)は有賀幸作司令指揮のもと、商船3隻、油槽船2隻を撃沈し、商船ビントエーハン号を拿捕。
    さらに英国駆逐艦ストロングホールド、米砲艦アッシュビルを撃沈するという武勲をあげた。
    次いで3月4日には愛宕と協同でオーストラリア護衛艦ヤラ、油槽船1隻を撃沈し、商船チャーシローアを拿捕。
    これら一連の戦闘は「チラチャップ沖海戦」と名付けられた。
  • ミッドウェー海戦の際は第4駆逐隊は揃って南雲機動部隊の警戒隊として参加。赤城の直衛の任にあたっていたが、
    図らずも被弾炎上する赤城の乗員救助と雷撃処分に当たる羽目になってしまった。
    野分の乗員も赤城の乗員も、嗚咽をもらしながら沈みゆく赤城の姿に別れを告げ、黙祷を捧げたという。
  • トラック島空襲?の際の第4215船団の悲劇は、舞風の史実ですでに知っている提督も多いだろう。
    トラック島を脱出しようとした船団は米空襲部隊の襲撃に引っかかり、数波に渡る集中攻撃を浴びることとなった。
    特設巡洋艦赤城丸は爆発沈没、練習巡洋艦香取、そして舞風は被弾し航行不能に陥った。
    その中にあって、野分は航跡自画器の航跡が判読不能になるほどの回避を続け、ただひとり無傷で行動可能であった。
    舞風座乗の駆逐隊司令より「舞風被弾、機械室浸水ノタメ航行不能、直チニ横付ケセヨ、ワレ野分ニテ指揮ヲ執ル」と携帯無線機での通信があったが、
    あまりの空襲の激しさに野分も自身の身を守るのに精一杯で、この命令を果たすことが出来なかった。
    この時舞風乗員を救けられなかったことを、野分の佐藤清夫中尉(当時)は50年後に至っても最大の悲しみとして悔やみ続けている。
    • 香取と舞風が行動不能に陥った時点で航空攻撃は中止された。スプルーアンス提督率いる戦艦ニュージャージー、アイオワ、重巡2隻、駆逐艦4隻からなる米艦隊の射撃目標とするためである。
      この行動の目的については「戦艦部隊の戦意高揚のため」つまりリアルキラ付けとも、「米海軍力の強大さを日本に見せつけるため」とも言われる。
      米戦艦部隊は船団の前に躍り出てきた特設駆潜艇第十五昭南丸を一撃のもとに爆発四散させると、瀕死の船団へと襲いかかった。
      この光景を佐藤中尉は「身の毛がよだったのは筆者一人ではなく、盛んに発砲している光景と発砲のオレンジ色の閃光に対する何とも形容の出来ない恐怖は、半世紀たった今でも脳裏に焼き付いている」と回想する。
    • 香取と舞風が八つ裂きにされる中、野分は限界一杯の全速力を出しつつ激しく転舵を繰り返し、戦艦ニュージャージーのレーダー射撃をかいくぐって脱出に成功した。*3
      連続8時間に渡る激闘で弾丸は演習弾すら撃ち尽くし、燃料は欠乏、船体には無数の機銃掃射の弾痕が残っていたとのこと。この戦闘での野分の戦死者は1名だった。
      無線も故障したためか横須賀と連絡が取れず、横須賀に帰還した際には「幽霊が帰ってきた」と驚かれたという。
  • その後東松第2号船団に加わり、撃沈された旗艦龍田の乗組員を救助している。
  • 最期はレイテ沖海戦?。この頃の第4駆逐隊は欠員補充を済ませ、野分、満潮?朝雲?、山雲の4隻編成となっていた。第4駆逐隊はレイテ湾に突入する西村艦隊に所属する事となるが、野分のみ時雨と入れ替わりで栗田艦隊に派出する事に。
    • サマール沖海戦で被弾落伍した筑摩の生存者100余名を救助後、本隊から遅れて退却していたのだが、
      その途上、ハルゼー提督指揮下の米戦艦部隊に捕捉される。奇しくもトラック空襲の時と同じニュージャージーとアイオワを基幹とする部隊だった。
      そして軽巡3隻と駆逐艦2隻のレーダー射撃の集中砲火を浴び大破、最後に魚雷が命中し、撃沈された。
      野分乗組員、そして救助された筑摩の乗員も全員が戦死を遂げた。
      なお、筑摩の沈没地点で取り残されていた1人が米軍に救助されている。両艦合わせてたった1人の生き残りだった。
      • もともと筑摩救援には雪風が向かっていたのだが、水平線の彼方に遠ざかりつつある土壇場になって、
        大和の指示により雪風は原隊復帰、野分が代わりに救援に向かうことになった。
        この交代命令に加え、交代するために要した時間のロスによって、両艦の運命の明暗は完全に分かれることとなったのであった。
  • 野分はスプルーアンス提督、ハルゼー提督の両方に直接相まみえるという稀有な戦歴を持つこととなった。
  • 呉の長迫公園に建立されている「巡洋艦阿賀野?慰霊碑」の周りの欄干には「野分」の名も刻まれている。
  • 彼女の生涯については、野分乗員(通信士、のち航海長兼分隊長)佐藤清夫大尉の著した『駆逐艦「野分」物語』(光人社NF文庫)という本がある。
    野分に通信士として乗組み、トラック大空襲を目の当たりにした著者が米軍資料をも駆使して書き上げた、野分と舞風に捧げる鎮魂の書である。

*1 CVやイラストレーター加筆時はそれぞれCV・イラストレーターに出典を記載
*2 たったひとりの筑摩生存者は、筑摩沈没現場付近で米軍に救助されている。
*3 戦艦の射程外に出たとはいえ、航空機を出せば駆逐艦一隻などわけもなく圧殺できるはずだったが、スプルーアンス提督はそれをしなかった。米資料には「野分の対空砲火が激烈かつ正確だったため」とあるが、佐藤氏はそれに加えて「野分が目撃したトラック空襲の様子と米海軍力の強大さを日本上層部に伝えさせるため」、また「攻撃を見事かわし切った野分に対するスプルーアンス提督の武士の情け」ではないかと推測している。