――博霊の巫女が代替わりした。  その報せはあっという間に幻想郷を駆け巡った。  このことは、妖怪達にとって2つのことを意味していた。  一つは、今後の弾幕勝負を挑む相手が変わったという事。  もう一つは、博麗霊夢を倒してはならない理由が無くなったという事――  森の中で霊弾が炸裂する。 「まったく、今日はずいぶんと多いじゃないの」  さっきの一撃でいくらかは吹き飛ばしたが、霊夢を囲む気配はあまり減っていない。  里から神社に続く道で襲撃を受けたのが数刻前。戦っているうちに、いつの間にか森の中に入り込んでしまっていた。 「私の勘も鈍ったかな」  出かけるときに娘に止められた。今日はおとなしくしているように、と。  しかし、最近口うるさくなった娘の忠告を霊夢は笑って流して、軽い気持ちで出かけたのだ。  もちろん、明るいうちに戻るつもりでいた。  だが、辺りはすでに薄暗く、もう間もなく太陽は完全に沈む。そうなれば今以上の攻撃を受けるだろう。夜は妖怪の世界なのだ。  ――夜は怖い。  これまで里の人間に何度もそう忠告したことがある。  しかし、自分で感じるのは初めてだった。  霊弾のストックはまだある。どれほどの数の妖怪がいるかわからないが、一斉にかかってくるならまとめて吹き飛ばすこともできるだろう。  ところが、先ほどから妖怪達の攻撃は急に弱まっていた。様子を見ているのか、何かを待っているのか、罠を張っているのか……。  霊夢の霊力は全盛期からまだ衰えていない。だが、体力はそうもいかなかった。  無闇に動き回って体力を消耗するのはまずい。かといって、長期戦も不利である。  睨み合いが続く。  こんな時、昔の霊夢なら自分から仕掛けに行っただろう。待つのは性に合わない。しかし今は敵の動きを待つしかなかった。体力を少しでも回復させておきたい。 「昔、か――」  ずっと昔、霊夢は母から博麗の巫女を引き継いだ。もう20年以上も昔だろうか。  その数日後、母は霊夢の前から姿を消した。  今と同じくらいの季節だった。 “これから妖怪退治に出かけるわ”  確か、母はそんなことを言っていた。それに対して、妖怪退治は博麗の巫女を引き継いだ自分の仕事だと言った覚えがある。もう母が戦う理由はないと。 “これが最後よ。これは私が片付けないといけないの”  優しい笑顔だった。そして、有無を言わせない笑顔だった。 “きっと長くなるわ。だから霊夢、これからは一人でがんばるのよ”  そういって出かけた母は、結局帰ってはこなかった。 「母さんも同じだったのね」  思い返せば、霊夢は母から祖母の事を聞いたことがない。おそらく歴代の巫女がずっと繰り返してきたことなのだろう。  妖怪の目的は分からない。復讐のためかもしれないし、名を上げたいだけかもしれない。巫女の血肉に特別な効用があるとでも思っているのかもしれない。  いずれにしろ、役目を終えた巫女は妖怪に狙われ、そして命を落としてきた。  だからといって、いまここで妖怪達に殺されてやるつもりはない。  数こそ多いが、周りの妖怪にあまり強いものはいないようだ。神社にたどり着くことができれば、深追いしてくることはないだろう。  これならまだ突破できる。  霊夢はそう思った。  より強い力を持つ妖怪が来る前なら、突破できる。  太陽が地平に沈んだ。  そして、ここ紅魔館では夜になってからが、1日の始まりとなる。  館の主である吸血鬼レミリア・スカーレットが目を覚ますのだ。 「おはようございます、お嬢様」  傍らに控えていたメイド長が、目を覚ましたレミリアに気づいてすかさず挨拶をする。 「おはよう」  レミリアはベッドの上に身体を起こすと、窓の外に視線を向けた。  辺りはすっかり闇に覆われ、空には月が浮かんでいた。 「いえ、少し遅かったかしら?」 「はい」  律儀に返すメイド長に苦笑しつつ、着替えを済ませる。今日は外出用のドレスだ。これから血に濡れるのが少々惜しい。 「まだ生きてるかしら?」  レミリアは窓を開けながら尋ねた。自分が着く前に死んでしまわれては面白くない。 「10分ほど前の知らせでは、まだ生きていました」 「そう」  外を見上げる。満月ではないのが残念だった。吸血鬼の戦いには血のように紅い満月こそ良く似合う。 「行ってくる。きっと長くなると思うから、後を頼むわ、美鈴」 「はい」  深く頭を下げる赤毛のメイド長をあとにして、レミリアは夜空に向かって飛び出した。  マヨヒガの妖怪も動きを見せた。 「藍! ら〜ん!」 「お呼びですか、紫様?」  呼びかけに応じて式が姿を見せる。 「これから出かけるわ」  要件は簡潔。紫がいないときに藍がやるべき事は、全て式に刻まれている。 「わかりました。どちらに行かれるのですか?」  はぐらかされることも多いが、いちおうは聞いておく。 「ちょっと神社にね」  不気味な笑顔を浮かべて紫が答えた。ゾッとする笑顔だ。こういう時の紫は、この上なく機嫌がいいか、この上なく機嫌が悪いかのどちらかである。 「神社……ですか。そういえば巫女の代替わりがあったそうですね」  紫の笑顔におびえつつも藍が切り出す。 「ええ。でも、新しい巫女は後回し。興味があるのは元巫女の方よ」  紫の笑みがさらに深まる。藍の妖獣としての本能が、これ以上は命に関わると告げる。 「わかりました。お気をつけて。あとはお任せください」  どんな状態でも定型文句をスムーズに言えるのは、式の便利なところである。 「任せたわ。じゃあね」  軽く手を振り、紫の姿がスキマに消えた。  あれからどのくらい経ったのか。どのくらい進んだのか。霊夢にはわからなくなっていた。  ずいぶん進んだ気もするが、方角が合っているのかわからない。  今は、攻撃が弱まったのを見計らって、息を潜めながら空が見える場所を探していた。月と星を見ることができれば、その位置で方角がわかる。  やがて、木々の切れ目から月明かりが差し込んでいる場所を見つけた。  空を見上げる。  わずかに欠けた月。 「紅い、月――」  空に浮かぶ月の色は血に濡れたような紅だった。霊夢の背に嫌な汗が流れる。  そして、紅い月を背に、蝙蝠の羽を広げて浮かぶ吸血鬼と目が合った。 “こんなに月も紅いから本気で殺すわよ”  あの時彼女はそう言った。その後は親しく付き合っていたが、彼女がいつも仕返しを考えていたことも知っている。 「レミリア……」  霊夢の声が震えていたのは疲労のせいだけではない。 「こんばんは、霊夢。ずいぶん探したわ」  紅い月よりもさらに紅い目が笑みの形を作る。  霊夢は今でも、弾幕勝負ならレミリアにもそうそう負けはしない。霊弾の残りは少なかったが、十分勝てる相手だ。  だが、単純な殺し合いになったとき、夜の吸血鬼に人間が勝てる見込みなど無いに等しい。 「紅茶が飲みたいわ。霊夢、あなたの紅茶が」  そういいながら、レミリアは魔力を編み上げる。手に現れたのは神槍グングニル。 「あなたの運命を、少し見させてもらったわ」  運命を操るというレミリアの能力。それを防ぐ手段などあるのだろうか。 「でも、どうやら私が操る必要もなさそう。私がここに来て、それであなたの運命が変わってしまったのかもしれないけれどね」  そういいながら、レミリアは月を見上げた。空の紅がさらに深まる。 「さぁ、霊夢。こんなに月も紅いのに――」 「楽しい夜を邪魔しに来たわ」  声とともに月が裂けた。 「よいしょっと。はい、こんばんは」  軽く手を振りながら紫が裂けた月から姿を現す。 「……なにしに来たのよ」  苦りきった様子で霊夢が尋ねた。 「邪魔しに来たの。邪魔者を片付けるために」  紫は笑顔で答える。  嫌なときに現れる奴――それが紫に対する霊夢の認識だった。それは何年経っても変わらない。 「この状況で、まだ戦う意思があるのね。さすがは博麗の巫女」  紫のからかうような言い方が気に入らなかった。 「もう、巫女じゃないわ」  強気に言う霊夢を見て、紫は嬉しそうな顔をした。 「ええ、そうその通り。だからこの状況がある。でも――もうそろそろ終わりにしましょう。  役割を終えた巫女が戦うのはおかしいわ」  紫がスキマから傘を取り出し、開く。  それが合図となった。  周囲から霊夢に向かって一斉に攻撃が放たれる。  レミリアも、そして紫も動いた。  ――神槍『スピア・ザ・グングニル』  ――境符『四重結界』  レミリアが巨大な槍を振るい、飛来する弾幕の大半を薙ぎ払う。  残りの弾は、紫が張った結界で霊夢に届く前に消えた。 「「「え――?」」」  三人の口から間抜けな声が漏れる。  次の行動は紫が速かった。 「私は上空。貴女は地上」 「スキマの指示は受けない」  文句を言いつつも、レミリアが霊夢の前に降り立つ。 「レミリア……?」 「紅茶が飲みたいわ、霊夢」 「っ……ケーキは、ないわよ」 「辛くなければ何でもいい」 「……おせんべいで、いい?」 「ええ」  それだけ交わして、レミリアは繁みの中に飛び込む。紅い魔槍の一閃。灰となった妖怪が崩れ落ちた。 「かかってこい。レミリア・スカーレットの手にかかって死ぬ栄誉をその身に与えよう!」  紅い光が闇を裂いて奔る。 「まるで悪役の台詞ねぇ」  上空では、紫が結界やスキマやさまざまなよくわからないものを数多く展開していた。 「私も何か台詞を考えておくべきだったかしら」  紫はゆっくりと漂う。攻撃は仕掛けない。しかし、そこは弾幕も妖怪も何も存在できない空間となっていた。 「今日は機嫌が良いわ。だから……そうね、私の所までたどり着いたら、命は助けましょう」  紫の顔に笑顔が浮かぶ。ゾッとする笑顔だった。 「……っ」  霊夢は木に背を預け、うつむいたまま顔を伏せていた。  やっぱり自分の勘は鈍ってしまったようだ。  あの二人を敵だと思うなんて、どうかしている。 「……ふふ……っ」  本当にどうかしている。  自分もずいぶん歳を取ったものだ。  こんなに涙もろくなるなんて……。  数刻後。  森は荒野となっていた。  生きているのは3人だけ。 「やりすぎよ……」 「そうかしら?」 「そうみたいよ」  霊夢はあきれるように言い、紫は首をかしげてとぼけ、レミリアはなぜか誇らしげに胸を張った。 「まったく、見つかったらなんて言われるか……」  霊夢は頭を抱える。どう説明したら穏便に済ませられるだろうか。  だが、どうやら間に合わなかったようだ。神社が見える方向から厄介な相手が飛んでくる。 「そこの人、あなたたちが犯人ね!」  いきなりやってきて決め付ける紅白の巫女。もっとも、犯人というのは間違ってはいない。 「森を吹き飛ばしたのはあっち」 「私は空間ごと削り取るようなマネはしてないわ」  紫とレミリアが擦り付け合いを始める。 「って、紫さんにレミリアさん!? それに……ちょっと母さん、どこ行くの!」 「早く帰らないと娘が心配するかと思って」 「その娘ならここにいます!  それで? どうして森がなくなったの」  小さな巫女が霊夢に詰め寄る。 「えっと、妖怪退治?」 「妖怪退治ね」 「ええ、妖怪退治よ」  霊夢に続いてレミリアと紫も同意する。  しかし、周囲の様子はどう見てもただの妖怪退治ではない。森を1つ潰したのだ。しかも、ところどころに原型不明な死体もある。弾幕勝負ならこんなことになるはずがない。 「はぁ……まあいいわ。事情は後で聞きます。ひとまず神社に帰りましょう、母さん」 「そうね、ちょっと疲れてしまったわ」  娘に手を引かれて歩く霊夢に、レミリアと紫も続く。 「霊夢、紅茶をよろしく」 「私はお酒がいいわね」 「疲れたって言ったでしょう……」  遠慮のない友人達だった。  レミリアと紫は神社の縁側に並んで座り、それぞれ紅茶と酒を飲んでいた。二人の間にあるせんべいは、お茶請け兼つまみ。この場にいない霊夢は、事情を知った娘に説教を受けていた。 「貴女はもう、人間には関わらないと思っていたわ」  空になった自分のコップに酒を注ぎながら、紫はレミリアに言った。あの人間のメイド長を失ったとき、この幼い吸血鬼はひどく荒れていたのだ。 「……そんなことはない」  レミリアはカップを皿に戻して脇に置く。  かつてレミリアに仕えていた十六夜咲夜は、今はもういない。病が原因で数年前に他界してしまった。  咲夜は、病を患っていることを周囲に気づかせないようにしていた。そして誰も気が付かなかった。  だから咲夜が倒れた時には、もうすでに手の施しようがなかった。  それからわずか1ヶ月。咲夜はこの世を去った。  あの時、レミリアは初めて、人間の命の脆さを知った。人間の寿命が短いということは知識としてあった。しかし、あれほど簡単に失われるものだとは思っていなかった。  咲夜は最期に、それを教えてくれたのだ。 「スカーレット家には、後悔があってはいけないのよ」  そういってレミリアは冷めた紅茶に口をつけた。 「へぇ……貴族様は大変ね」  からかうように紫が言う。 「あんな後悔は、もう二度とあってはいけないわ」  霊夢まで失いたくない。  空になったカップを見ながら、レミリアはそうつぶやいた。 「……そう」  何度も同じ後悔を繰り返してばかりいる紫は、それだけ言ってコップに残る酒を飲み干した。  会話も途切れ静かになったところに、這い出るように霊夢がやってきた。 「はぁ〜、やっと開放されたわ。まったくあの子は親を何だと思ってるのかしら」  空いてるコップを手に取ると紫に向ける。注げということだろう。 「親に似ず、しっかりした子ね」  霊夢に酒を注ぎながら紫がひどいことを言う。 「霊夢がずぼらなだけよ」  それにレミリアが追い討ちをかける。  友人達が娘と仲がいいのは良いことだが、どうにも彼女達は娘の肩ばかり持つ。自分の扱いはずいぶんと雑だ。それが霊夢には面白くない。  だが助けてもらった手前、素面では文句を言いづらい。もっともその不満は、酒が回った後でぶつけるのだが。 「いいけどね……。  ところでレミリア。あんた、私の運命を見たとか言ってたわね」 「言ったかしら?」 「言ったわ。いったい何を見たの?」  未来のことをすぐに気にするのは、実に人間らしい。レミリアはそんなことを思った。 「大したことじゃないわ。来年の春、またいつも通りのことが起こるだけ」 「いつも通り?」 「そう。私達が集まって、霊夢が調子に乗りすぎて、それでいつも通り叱られる」  今年もそうだったし、去年もそうだった。 「うぇ、私またあの子に怒られるの……」  げんなりした様子で霊夢は酒を口に運ぶ。 「嫌なら母親らしい態度を取ったら?」  そうは言うものの、このところレミリアが神社に来るたびに、霊夢はいつも叱られていた。紫もあきれるように肩をすくませている。 「そんな事いわれても、“母親らしい”なんてわからないわ。  いいのよ、あの子ももう一人前――」 「母さん!」  霊夢の言葉をさえぎって、後ろから大声が上がった。寝室に様子を見に行ったら、母の姿が消えていたのだ。 「きついとか疲れたとか言っておいて、どうしてお酒を飲んでるの!」 「なに言ってるのよ。疲れたから飲んでるの」 「ダメです! 今日は早く寝てください!  もう、紫さんもレミリアさんも、あまり母さんを甘やかさないでください」 「ここにいると、親と子の境界がわからなくなるわねぇ」 「ちょっと紫! アンタ変なことしてないでしょうね!?」 「してないわよ」 「ほら、母さん!」 「嫌ー!」 「諦めて寝たら? 霊夢」 「だったらあんたも寝なさいよ!」 「吸血鬼に夜寝ろだなんて、非常識ね」 「あんたは昼も出歩いてるでしょーが!」 「もう母さん! あんまり騒ぐと近所迷惑です!」 「近所なんてないわ!」 「ないわね」 「遠くても近所というのかしら」 「う……」  いつもより少しにぎやかな夜だった。