No114 シャルンホルスト/元ネタ解説

Last-modified: 2021-07-21 (水) 18:59:58
所属Kriegsmarine
艦種・艦型シャルンホルスト級戦艦
正式名称Scharnhorst
名前の由来Gerhard Johann David von Scharnhorst(1755-1813) プロイセン陸軍中将 参謀本部制度の生みの親であり、後任のグナイゼナウと共にプロイセン軍の軍制改革に多大な影響を及ぼした。
愛称Salmon(イギリス)
起工日1935.6.15
進水日1936.10.3
就役日(竣工日)1939.1.7
除籍日(除籍理由)不明(英Battle of North Cape/独Unternehmen Ostfront(北岬沖海戦) 1943.12.26沈没)
全長(身長)234.9m
基準排水量(体重)32100英t(32615.11t)
出力Wagner式重油専焼缶12基Brown Boveri式蒸気タービン3基3軸 165930PS(163660.1shp)
最高速度31.5kt(58.33km/h)
航続距離17.0kt(31.48km/h)/10000海里(18520km)
乗員1669~1840名
装備(1942)28cm54.5口径SK C/34三連装砲3基9門
15cm55口径SK C/28連装砲4基単装砲4基12門
10.5cm65口径SK C/33連装高角砲7基14門
3.7cmSK C/30機関砲x16(8x2)
2cmC/30機関砲x38(7x4+10x1)
53.3cm三連装魚雷発射管2基6門
艦載機x4
装甲舷側:45~350mm 甲板:50~105mm 砲塔:180~360mm バーベット:280mm 艦橋:200~350mm 隔壁:20~45mm
その他ゲームとの性能違いゲームでは巡洋戦艦であるがドイツ海軍は戦艦として計画建造した*1
建造所Kriegsmarinewerft,Wilhelmshaven
(ヴィルヘルムスハーフェン海軍造船所 ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州ヴェルヘルムスハーフェン市)

起工から進水~バルト海訓練まで

  • 先に建造されたドイッチュラント級装甲艦に対抗するためフランスが建造を始めたダンケルク級へ対抗するため新たに起工された。
    ダンケルク級の情報錯綜や再軍備宣言などもあり設計は二転三転したが、最終的に3万トン級の高速戦艦として誕生している。
    艦名の由来となったのは、ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト(1755~1813)。元々はハノーバー軍に入隊していたが、プロイセン軍に移籍。
    ナポレオンに完敗したプロイセン軍を参謀長として立て直したため、プロイセン参謀本部の父と言われる。ナポレオンとフランス軍を徹底的に研究し、復讐に燃えた。
    1813年、リュッツェンの戦いで負傷し、敗血症で死亡した。後釜に座ったのは参謀次長だったアウグスト・フォン・グナイゼナウである。
    彼の遺志はローンやモルトケが引き継ぎ、フランス第二帝政を崩壊させた。
  • 廃艦となるブラウンシュヴァイク級戦艦エルザスの代艦として建造が認められた。
  • 元々はドイッチュラント級4番艦として設計され、計画戦艦Dの仮称を与えられていた。ドイッチュラント級の防御力を強化し、排水量は1万9000トンにする予定だった。
    1930年、D級装甲艦建造計画をヒンデンブルク大統領に提出、裁可されて建造が始まった。排水量が1万以上に達するため、ヴェルサイユ条約の規定に違反するが表向きはドイッチュラント級の姉妹艦と発表する事で、英仏の目をごまかしている。
    1934年1月25日、ヴィルヘルムスハーフェン工廠に発注。125番船として1934年2月14日に第2船台で起工した。だが、7月5日に計画中止となる。理由はダンケルク級への対抗のため設計を変更した事だった。
    未完成巡洋艦マッケンゼンをベースとし、設計を拡大発展。先発のポケット戦艦より火力が50%向上し、排水量も2万6000トンになるという、ヴェルサイユ条約完全無視の怪物が造られようとしていた。
    こんな物をヴェルサイユ条約下で造る訳にはいかず、一度建造を中止したのだ。英仏を刺激しないよう、同年6月27日の会議でヒトラー総統はこの怪物を「1万トンの改良型」と呼ぶよう忠告した。
    シャルンホルストの真の正体は、ヒンデンブルク大統領やブリューニング首相、グレーナー国防相等といった首脳陣にも伏せられていたという。
    • 「起工後、船体が横転し工員60名が圧死、110名が負傷」「ボイラーの爆発事故続出で死者が出る」という話が流れているが、実際は順調に建造されており、そのような大事故は無かったようだ。
      「艦長に就任予定の士官が心臓発作で死亡した」という話も、実話ではない模様。
  • 翌1935年5月16日に再起工する。この年の3月には再軍備宣言がなされ、ヴェルサイユ条約の破棄が発表された。このため忌々しい制約が無くなり、シャルンホルストは高性能化した。
    1936年10月3日、ヒトラー総統やレーダー大将、カール・ヴィッツェル造艦局長臨席の下、進水式が挙行された。ブロンベルク元帥が公開演説を行っている。
    洗礼親となったのは、先代シャルンホルスト最後の艦長を務めたシュルツ大佐の未亡人であった。(無作為に選ばれた14歳の少女じゃ)ないです。
    純白の艦体と優美な造形は「戦争の為に造られた事が悔やまれるほど美しい艦」と評された。実際は薄い灰色だったが、太陽に照らされると純白のように見えた。
    • 「進水を果たし、陸岸に係留されていたシャルンホルストが突然沖まで流され、繋がっていた飾り船3隻を乗員もろとも沈ませてしまった」という話があるが、これは事実を歪めたものである。
      シャルンホルストの進水式は至って平穏だった。だが、隣のドックで行われていたグナイゼナウの進水式は大変だった。進水時、船台から滑り降りた際に勢い余って反対側の岸に激突。
      この事に尾ひれが付いて、いつの間にかシャルンホルストの事故になったと思われる。
  • 公試で31.5ノットの速力を発揮。1939年1月7日、ツィリアックス大佐が艦長として着任し、竣工。ドイツが渇望してやまなかった、待望の戦艦が誕生した瞬間だった。
    排水量は3万4841トンにまで膨れ上がり、純白の悪魔は巨大児として産声を上げた。これでも公称は2万6000トンとしている。
    建造費用は1億4347万ライヒス・マルク。前級のドイッチュラント(8000万)より遥かに金が掛かっている。ちなみにグナイゼナウの方が253万高い。
    • 38cm連装砲塔を搭載する予定もあったが、開発が進んでいなかったため28cm砲に縮小し、後日換装する事にした。なお、戦没までに間に合わなかった模様。
      幸い、仮想敵ダンケルク級の舷側装甲が10インチ以下である事が判明し、28cmでも十分対抗できた。
      ドイッチュラント級と同じ28cm砲を搭載する事になったが、砲身を60cm延伸する改良が施されており、発射速度は毎分3.5発となっている(ドイッチュラント級は毎分2.5発)。
      仰角は40度で統一。砲塔の旋回・俯仰、砲弾の装填は主に電力で行われ、補助として人力が用いられた。
      その威力たるや、距離2万m以内でレナウン級の装甲を打ち破り、1万5000m以下に接近すればクイーン・エリザベス級やリヴェンジ級戦艦の装甲を打ち破れた。対艦性能は十分であった。
      防御性能は「330mm砲弾に対し、距離1万5000~2万mで耐える物」を目標としていたが、マッケンゼン級の設計を一部流用した弊害で、ドイッチュラント級に採用された巧みな機関配置や舷側・艦底部の三重構造が中止となり、対艦防御と水雷防御は前級に劣ってしまっている。
      さらに防御装甲の追加に余裕が無い設計のせいで、思うように装甲が仕込めず、舷側防御の大部分が45mmしかない装甲板で覆われていた。このため巡洋艦どころか駆逐艦の主砲でも脅威になりえた。
      一応、喫水線より上の狭い範囲には350mm装甲板を、喫水線下には170mm装甲板を仕込んでいた。多少進歩したとはいえ第一次大戦時代から防御性能が殆ど変わっていないのである。
      航続距離延伸のためディーゼルエンジンの搭載が考慮されたが、速力30ノットを超えるだけのエンジンを積むスペースが無く、やむなく高温高圧タービンを搭載。
      しかしこの判断がまずかった。出力が得られる代わりに信頼性が低い高温高圧タービンを採用したことで、シャルンホルストは恒常的な機関不調に悩まされる羽目になってしまった。
      舷側防御も兼ねたウイング・タンクに大量の燃料を搭載しているため、航続距離も長大。17ノットで1万海里を航行可能だった。
    • 開戦でお流れになってしまったZ計画艦隊には、O級戦艦なる図面が残っている。この戦艦はシャルンホルスト型に酷似しており、後継の拡大発展型である可能性が高い。
  • 2月から3月にかけて、バルト海にて訓練を行う。4月1日、戦艦ティルピッツの進水式に参列。同日、ヴィルヘルムスハーフェンに停泊しているシャルンホルストをヒトラー総統とレーダー提督が視察に訪れた。
    6月、入渠。垂直の艦首、乾舷の低さが祟って、荒天時や高速航行時に第2砲塔まで波をかぶる事があった。波濤で損傷する事さえあったため、凌波性を向上させるべく艦首をクリッパー型に改修した。
    波飛沫の原因となっていた主錨の位置も変更されたが、乾舷の低さが問題となって根本的な解決を得られなかった。秋頃には射撃指揮レーダー用アンテナを搭載。
  • 余談だが、2番艦グナイゼナウは1番艦シャルンホルストよりも早く就役していた。このためイギリスはグナイゼナウを1番艦と誤解し、グナイゼナウ級巡洋戦艦と呼んでいたとか。
    またイギリスでは巡洋戦艦と記録していたが、ドイツ海軍では伝統的に巡洋戦艦の枠が存在しないため戦艦扱いだった。

1939年

  • 1939年の開戦時、ドイツ海軍にとってシャルンホルスト級の2隻は虎の子の戦艦であったが、優勢なイギリスの戦艦との戦いは避けるよう命じられていた。
    当時、ビスマルク級は1隻も就役しておらず、シャルンホルスト級はドイツ海軍が持ちうる最大級の艦船だったのだ。喪失は何としても避けなければならなかった。
    このことは生涯シャルンホルスト級の戦歴に小さな傷をつけることになる。
    • とはいえ戦艦不足に悩むドイツ海軍は、ヴェルサイユ条約で保有が認められていた旧式のブラウンシュヴァイク級まで引っ張り出して、ポーランド侵攻に添えている。
  • 開戦から間もない1939年9月4日、エルベ河のブルンスビュッテルに係留されていたシャルンホルストにイギリス軍のウェリントン爆撃機9機が迫る。高高度爆撃が行われたが、ドイツ空軍の戦闘機に阻まれ失敗。
    更に追撃を喰らって2機が撃墜された。開戦後初の攻撃はイギリス軍の敗北に終わった。この空襲は、第一次世界大戦の時とは違い、港湾にいても安全ではないという教訓をドイツ軍に残した。
  • 何かと故障しがちなエンジンを修理するため開戦後しばらくは港湾で過ごし続けた。9月24日、ホフマン大佐が艦長に就任。10月17日、ヴィルヘルムスハーフェンでシャルンホルストの乗員が、スカパフローで攻撃を成功させたU-47を歓迎する。11月初旬、ようやく修理が終わると、レーダー提督は姉妹艦グナイゼナウともどもキール運河経由でヴィルヘルムスハーフェンに回航するよう命じた。
    運河を通過した艦の中で、シャルンホルスト級の2隻は最も大型であった事から、近隣住民を少なからず騒がした。
    • 「第二次世界大戦勃発直後、ダンツィヒ港を砲撃していると砲塔が爆発事故を起こした」という事を耳にするが、その時シャルンホルストは入渠中でポーランド侵攻に参加していなかった。
      (参加でき)ないです。
  • 11月13日、マルシャル中将に命令が下された。アイスランド南方に展開するよう命じた上で「敵の北大西洋航路に対する戦略的圧力を絶やさず、しかも当方より戦力に劣る艦船部隊に遭遇したら時を移さず効果的な攻撃を仕掛けよ」と指示した。これはグラーフ・シュペー追跡に躍起となっているイギリス艦隊の注意を引き付ける意味合いも込められていた。
  • 11月21日、ヴィルヘルムスハーフェンを出港し北上。グナイゼナウ、ライプツィヒケルン、駆逐艦3隻が同伴した。翌日、スカゲラク海峡で軽巡以下の艦艇は分離。
    シャルンホルストとグナイゼナウは北上を続け、強風に逆らいながら航行していたが、荒天の影響で若く未熟な水兵たちは船酔いに苦しめられた。
    だが、この嵐は敵の偵察機から2隻を守る壁にもなってくれた。1マイル以上先は見えない視界不良の状況だったが、守りを厚くするためマルシャル中将は2隻にイギリス軍旗を掲げるよう指示。
    この酷い悪天候は36時間に渡って続き、2隻は何とかアイスランドとフェローズ諸島の海峡に辿り着いた。
  • 23日の午後遅く、シャルンホルストは行き足を速め、北上。グナイゼナウに「大型蒸気船を発見、距離25キロメートル強、本艦は355度へ針路を変更する」と打電すると、獲物に喰らいついた。
    シャルンホルストのホフマン艦長は、敵戦闘艦に接近していると知りつつも相手が何者か確信を得られなかった。そこで「停船せよ、船名を知らせよ」と信号を放った。
    敵から身許証明文字が返ってきたが、ホフマン艦長には変針して逃げようとしているように見受けられた。敵の速力が急に上がった事もこれを裏付けた。
    気がつくと敵との距離が4マイル半と迫っていたため、シャルンホルストは敵に向かって警告弾を発射した。敵の正体はイギリスの特設巡洋艦ラワルピンディであった。
    元々は商船だったのを海軍本部に徴用され、15cm砲8門を装備して北方の哨戒部隊の一員となっていたのだ。哀れにも、敵にはシャルンホルストに歯向かえるだけの実力は無かった。
    それでもラワルピンディは、逃げられないと知るや果敢に抵抗してきた。エドワード・ケネディ艦長はイギリス海軍の伝統に背かなかった。
    • この時、ラワルピンディは敵発見の無電で、シャルンホルストの事をドイッチュラントと誤認し、誤った情報を送ってしまった。
      これを聞いたイギリス海軍本部はドイッチュラントが未だ北大西洋で活動中と思い、捕捉のため艦隊を送り込んだが、燃料と時間だけを浪費した。
      ドイッチュラントは11月15日の時点でキールに戻っていたのだ。何だこれは・・・たまげたなあ。
  • 優劣の差を埋めるため、ラワルピンディは煙幕を張ろうとしたが、舷外に投げられた薬煙幕発生器が上手く作動せず、不完全な発火だけで終わってしまった。
    頼りの煙幕が役に立たなくなり、ケネディ艦長は懸命に針路を変更。シャルンホルストに背を向け、右舷後方に敵艦が来るよう位置を調整。
    17時3分、逃走を図りつつ15cm砲で砲撃を開始した。1発がシャルンホルストに命中するも、軽微な損傷しか与えられなかった。すかさずシャルンホルストが反撃し、2度目の28cm砲斉射でラワルピンディは被弾。
    電気系統が破壊され、艦内は真っ暗になった。同時に給弾を電力に頼っていたラワルピンディは反撃すら叶わなくなってしまう。だが非常用発電機が作動し、かろうじて無線装置は動いた。
    通信士は緊急遭難信号を叩き出した。
    17時6分、シャルンホルスト4度目の一斉射が上部構造物に命中し、ケネディ艦長や士官の大半を殺傷。無電室をも破壊した。さらにグナイゼナウまで迫り、左舷から砲撃を浴びせてくる。
    各所で火を噴くラワルピンディだったが、砲撃をやめなかった。だが砲手が殺害されるにつれ、沈黙する砲が次第に増えてくる。戦闘は一方的だった。
    30分後、ラワルピンディは放棄された。燃え上がる上部構造物に立った乗員が、オルディス信号灯を手に簡潔な信号を送ってきた。「救命艇の派遣を乞う」。
    マルシャル中将はただちに応え、シャルンホルストに生存者の救助を命じた。この騎士道的行いは、不幸にも短時間で終わってしまう。海面から27名を救助したところで、見張り員が新たなイギリス艦を発見したのだ。
    2隻の戦艦は煙幕を張って逃走し、その場から離れた。接近してきたイギリス艦は巡洋艦ニューキャッスルであった。
    ラワルピンディと隣り合った哨戒線を警戒していたこの艦は、ラワルピンディの無電を聞きつけて救援に現れたのだった。
    • 戦闘後、ドイツの放送局がラワルピンディの一件を報道する際、レーダー提督はシャルンホルストやグナイゼナウの名前を出す事を禁じた。こうする事でイギリスの混乱を更に深めようと考えたのである。
  • イギリス軍の包囲は早かった。ヴィルヘルムスハーフェンの陸上基地から得られた情報によると、ラワルピンディを沈めた元凶を撃沈するため、本国艦隊が洋上に出ている事と巡洋艦デリーとニューキャッスルが北部哨戒線を離脱して狩り出しに参加しているとの事だった。このため北大西洋の敵護送船団襲撃を諦めざるを得なかった。
    ドイツ本国に帰投しようにも、南からは戦艦フッドとダンケルクが北上してきているとの情報もあったため、そのまま南下するのは危険だった。
    じっくり考えている暇は無い。包囲網は確実に狭まりつつある。マルシャル中将は決断した。舳先を北に向け、北極海を目指した。
    運良くスコールが発生し、その中に隠れる事でニューキャッスルをやり過ごした。ニューキャッスルにはレーダーが無く、肉眼での捜索を行っていた事も幸運だった。
    ドイツの気象船から「グリーンランド南西の海上で暴風が発達しつつある」との報告を受けた艦隊気象担当官ハートヌンク博士は、11月26日未明頃には前線がノルウェー沿岸に到達すると正確に予報した。
    この情報を得たマルシャル中将は変針し、ノルウェー方面に向かった。予報通り、恐るべき荒天が発生し、2隻は暴風に呑まれた。乗員は船酔いに苦しめられたが、おかげで敵に見つかる事無く
    ノルウェー沿岸を南下。大雨と南西の強風、ごくわずかな視界に守られつつ、遂に27日、ヴィルヘルムスハーフェンへと帰り着いた。
    • 帰還後、すぐに昼食会が催された。そこではナチス派の記者団から歓迎を受け、「イギリスは北海と北大西洋を放棄した」「アイスランド沖で海軍大勝」ともてはやされた。
      レーダー提督の命令は未だ有効だったため、シャルンホルストとグナイゼナウの艦名は検閲により徹底的に削除された。
      報道陣からは褒めちぎられたが、軍令部の評価は冷ややかだった。目的とした大西洋への突入は失敗し、グラーフシュペーの間接的支援も果たされなかった。
      海軍作戦部長のクルト・フリッケ少将はニューキャスルから逃げた事にあからさまな不満を漏らした。「戦艦の仕事は砲撃する事だ、煙幕を張る事じゃない」と。
      これに対しマルシャル中将は「危険を冒してシャルンホルストとグナイゼナウを失う訳にはいかない、いや、重い被害を蒙る事も許されない。我が方には余裕が無い」と弁明した。
  • 2隻の帰投を以って、海軍総司令部は宣言した。
    「我が戦艦がアイスランド水域に現れた事は、敵がその優勢にも関わらず、本国周辺水域で恒常的制海権を保持できない事を証明した。
    その結果は、英国の威信失墜及び中立国の英海軍観への持続的影響である」
  • 11月28日、ドイッチュラント改めリュッツオーはキール運河を通過。これはシャルンホルストの出撃を隠すための陽動と、イギリス軍の混乱を深める意味合いがあった。
     

1940年

  • 1940年2月14日、ノルウェーの領海内でドイツの補給船アルトマルクがイギリス海軍に拿捕される事件が発生した。この事に激怒したヒトラーはアルトマルク作戦を発令。
    イギリス軍にお仕置きするため、18日にシャルンホルスト、グナイゼナウ、アドミラル・ヒッパー、駆逐艦2隻をノルウェー沖へと送り込んだ。だが作戦は空振りし、20日に帰投した。
  • 3月、3番主砲塔上のカタパルトを撤去。搭載機数が3機に減少した。
  • 1940年4月からのノルウェー侵攻(ヴェーザー演習作戦)に参加するため、シャルンホルストは4月7日の早朝にヴェーザー川の河口に集結。
    ナルヴィク占領を任務とする第1グループと、トロンヘイム占領を任務とする第2グループの駆逐隊とともに出撃していった。
    シャルンホルスト級2隻は、イギリス海軍が保有する厄介なレナウン級が出現した時、囮として釣り上げる大任を背負っていた。
    スカゲラク海峡に差し掛かったころ、ブレニム爆撃機隊の襲撃を受ける。何とか無傷で爆撃機を退けたものの、艦隊の存在をイギリス軍に知られる事となった。
    夕刻より天候が悪くなり、艦隊は大波に揺られるようになる。荒天は敵の目から守ってくれたが、乗員を容赦なくいじめた。水兵はともかく、便乗の山岳猟兵は船酔いで死人同然に横たわっていたそうな。
    4月7日未明、嵐の影響で連携が取れず、艦隊が瓦解。リュトイェンス司令は明るくなるのを待ってから集結するよう各艦に通信した。4月8日朝、第2グループが艦隊を離脱しトロンヘイムに向かう。
  • 4月9日未明、英国戦艦を視認する。グナイゼナウの見張り員は巨大な塔型艦橋から、16インチ砲を持つ英国最強戦艦ネルソン発見と報告。
    第二次世界大戦初の戦艦対決である、ナルヴィク沖海戦が生起する。巨砲を持っているのは敵艦だったが、速力と兵装ではシャルンホルストに分があった。
    29ノットという高速で接近する英戦艦と砲戦を繰り広げながら退避。敵の放った砲弾が夾叉するという危ない一面もあったが、被弾せすに切り抜けた。
    そしてグナイゼナウが損傷したものの敵に3発の命中弾を与えた。しかしこのときネルソンは触雷の修理中で、塔型艦橋の戦艦は前年近代化改修を終えたばかりの巡洋戦艦レナウンだった。
    シャルンホルストの右エンジンが故障しかけたところで、司令のリュトイェンスは戦闘中止命令を出し、2隻は雪の中に姿を消した。シャルンホルストは主砲弾195発を放った。
    それから数時間後、シャルンホルスト級2隻はリュトイェンス司令によってヤン・マイエン島の陰へ隠れた。レナウンの出現をレーダー提督に知らせる必要があったのだ。
    無線封鎖を破る事は出来ないので、グナイゼナウのアラド水上機を飛ばして報告させた。燃料が欠乏していたが、無事にアドミラルヒッパーの下へ辿り着き、先任無線技師によってザールヴェヒター提督に伝わった。
    12日、ヴィルヘルムスハーフェンに帰投。翌日、リュトイェンス司令は第1グループの駆逐隊がナルヴィクで全滅した事を知らされる。
    • 「シャルンホルストはオスロ攻撃の際にレーダー装置が壊れ、敵艦隊から集中攻撃を受けて大破。グナイゼナウに曳航され、闇夜に紛れてどうにかヴィルヘルムハーフェンに帰った。
      しかしエルベ川で大型客船ブレーメンに衝突され、座礁させてしまう。そしてイギリス空軍の爆撃でブレーメンは失われた」という風説が一部で見受けられる。
      実際のところ、シャルンホルストはオスロ攻撃には参加しておらず、大した損傷もなく帰港しているのでデマである。ブレーメンも健在している。
       
  • 侵攻中のドイツ陸軍はノルウェー中部を北進していたが、イギリス艦隊の艦砲が進撃を妨げていた。また5月28日にナルヴィクが奪還された事を受け、ヒトラーは戦艦群にイギリス艦隊の排除を命じ、ユーノー作戦が発令された。当初は客船オイローパとブレーメンに増援部隊を乗せて殴り込ませるというものだったが、無謀すぎるとしてユーノー作戦に変更されたとか。
    同年6月4日にシャルンホルストとグナイゼナウと護衛の駆逐艦4隻はキール軍港を出撃した。途上でアドミラルヒッパーと補給用タンカー1隻が加わった。
    7日、ハルスターの西数百マイルの地点に辿り着いたところで旗艦グナイゼナウに上級士官が召集され、作戦会議が開かれた。通信量からこの先に連合軍艦艇が多数いるのは間違いないが、空中偵察でしか仔細が分からなかった。腹立たしい事に空軍はこういう時に限って協力を怠っていた。艦隊から艦載機を出そうにも悪天候のため飛行を禁じられた(艦隊曰く飛行可能な天候だったとか)。
    夜、ノルウェー近海で活動中のUボートから報告が入った。輸送船を含む大きな3つのグループが、ハルスターとトロムゼの沖合いで確認された。不思議な事に敵艦隊はノルウェーに背を向けていたという。
    若い参謀ハインツ・コーラー中尉が「ひょっとして撤退中なのでは?」と呟いた。当初は確認が取れないとして発言を退けられたが、次第に証拠が集まり、連合軍は撤退中と確信に至った。
    ハルスター上空を飛んでいた空軍機や、北東方面を偵察した艦載の水上機からも報告が寄せられ、司令官のマルシャルはハルスターの海岸堡攻撃から船団攻撃に切り替えるのだった。
  • 西部方面司令部が指示した海岸堡攻撃を取りやめ、艦隊は輸送船団に対し攻撃を開始した。まずノルウェーのタンカーと武装トロール船、空の兵員輸送船オラマが犠牲となった。
    病院船アトランティスも居合わせていたが、ジュネーヴ協定を遵守して見逃した。ここで西部方面司令部の介入が入った。
    「船団攻撃はヒッパーと駆逐隊に任せ、シャルンホルスト級2隻はトロンヘイム及びハルスターを攻撃せよ」。この新たな命令にマルシャルは怒った。敵が撤退中である事を知らず、
    安全な司令部でゆっくりしていってる連中に何が分かるのか!マルシャルは決断し、ヒッパーと随伴艦をトロンヘイムに向かわせ、シャルンホルスト級2隻は通信傍受で発見した敵空母の捜索に当たった。
    無電の傍受により敵空母の正体は既に判明していた。
  • 16時45分、シャルンホルストの前マストにある弾着観測所にいたゴス士官候補生が約28マイル先の水平線上に黒い煙がたなびいているのを発見した。戦艦のレーダーも敵を捉えた。
    17時2分、2隻の戦艦は戦闘態勢を整えた。そしてシャルンホルストを先頭にして敵に突進し始める。17時10分、敵は航空母艦であると判定された。数分後にはシャルンホルストの砲術長が駆逐艦2隻を認めた。
    17時21分、2隻は変針し、敵艦隊の追跡を始めた。それから11分後、シャルンホルストの前部砲塔2基が咆哮を上げた。28cm砲弾は敵には届かず、すぐに射程と射角を修正。
    55秒後に二度目の一斉射が行われた。敵の正体は航空母艦グローリアスと護衛の駆逐艦アカスタアーデント。この小規模艦隊は、何故か遥か北の艦隊主力から離れて活動していたのだが、ドイツ艦隊にはその理由が分からなかった。
    「変わり者のグローリアス艦長ガイ・ドイリー・ヒューズ大佐が上官と口論になり、軍法会議に出るためスカパフローに戻っている最中」という推測がなされた。
    おかしな事に、グローリアスはドイツ艦隊から攻撃されているのに航空機を発進させず、あまつさえ追跡されているのに信号の一つも出さなかった。*2
    グローリアスにはシャルンホルストが、護衛の駆逐艦にはグナイゼナウが挑み、砲撃戦は続いた。
  • 17時38分、グローリアスはシャルンホルストから痛撃を喰らった。8分後、駆逐艦をあしらったグナイゼナウも砲撃に加わる。17時42分、シャルンホルストはアーデントから雷撃を受けるも、全弾外れる。
    17時52分、格納庫から火の手が上がり、グローリアスは無電の発信を試みたが文言が切れ切れになり、意味を成さなかった。18時19分に再度無電の発信が行われたが、グナイゼナウの妨害電波で失敗。
    10分後、空母の傾斜が激しくなり、飛行甲板が海面に吸い込まれそうになる。甲板の航空機が次々と海の中へと落ちていき、30分後に沈没。
    1474名の乗員と空軍要員41名が運命を共にした。航空母艦が戦艦によって撃沈された唯一の例であった。マルシャルの独断が、この勝利をもたらしたと言えよう。
    グローリアスにトドメを刺したシャルンホルストの砲撃は、実に神業的であった。約24.2キロメートルの距離から発射し、それを命中させたのである。この距離は戦艦の遠距離砲撃における最大距離とされた。
  • だが、戦果の代償を払う必要があった。護衛の駆逐艦のうち、アーデントは早い段階でグナイゼナウに沈められていた。しかしアカスタは健在だった。
    18時30分、燃え盛る空母の後ろから現れると、2隻の戦艦に向かって突撃を始めた。放たれる砲弾をかいくぐりながら肉薄し続け、シャルンホルストの艦首前方を横切った。
    そして一見、命中が不可能な角度から魚雷を3、4発放ってきた。ホフマン艦長は、当たる事は無いだろうと思いつつも、艦を右へ回頭させて回避運動を取った。
    その間、副砲が容赦なくアカスタの艦体を殴り続けた。9分後、元の針路へ戻ったところで―――先の魚雷の1本がC砲塔の下方で炸裂した。その瞬間、48名の乗員が戦死。
    発射位置が遠すぎて、ひときわ遅れて伸びてきた魚雷に当てられた格好となった。*3シャルンホルストの速力は20ノットにまで落ち、応急対策班が浸水を食い止めるまでに2500トンの海水が浸入した。
    シャルンホルストは怒りの反撃で、アカスタを葬った。こうして、イギリスの艦隊は全滅。この勝利はドイツ海軍最大級の勝利と呼ばれる事となる。
    海戦後、マルシャルは敵潜水艦を警戒し、艦隊を引き上げさせた。そして手負いのシャルンホルストをトロンヘイムに向かわせた。ここなら応急修理が出来るし、
    仇討ちを目論むイギリス艦隊の魔手から逃れるには良い場所だった。グナイゼナウと別れたシャルンホルストはノルウェー中部へと向かっていった。
    • 「ノルウェーから撤退中の陸軍兵士を乗せたグローリアスが、霧の中から音も無く現れたシャルンホルストによって撃沈された」という話は、他の風説と比べると正しい。
      実際にグローリアスはシャルンホルストの砲撃で沈んだからだ。ただ、乗せていたのは撤退中の空軍機とその要員である。
      同時に「シャルンホルストが立ちふさがった事により救援が遅れ、ノルウェーが降伏してしまった」というのを聞くが、これはあまり正しくない。
      シャルンホルストがいなくても、遅かれ早かれノルウェーは降伏する運命にあった。
  • トロンヘイムに駆け込んだシャルンホルストは安息を得た。ところが、追っ手として現れたのはイギリス艦隊ではなく、イギリス空軍だった。グローリアスの仇を取るため、シャルンホルストを狙ってきた。
    6月11日、ハドソン12機が徹甲弾による高高度爆撃を仕掛けてきた。幸運にも投下された爆弾36発は全て外れた。だがシャルンホルストに対する容赦の無い爆撃は続く。
    15日、トロンヘイム沖に進出したイギリス空母アークロイヤルからスクア急降下爆撃機15機が発進し、再度の爆撃を仕掛けてくる。シャルンホルストは1発の命中弾を受けたが不発。
    またしても幸運に恵まれた。そしてスクア爆撃機にはきついお仕置きが待っていた。ドイツ空軍の戦闘機や高射砲による迎撃を受け、半数以上の8機が撃墜されてしまった。
  • 現地での応急修理は10日程度で終了した。6月20日、トロンヘイムを出港し南下。キールを目指して帰路についた。しかし相変わらずイギリス本国艦隊が警戒体勢を敷いており、危険が溢れていた。
    そこでホフマン艦長は道中のスタヴァンゲルに避難先を求めた。そこへイギリス海軍航空隊の雷撃機6機が襲い掛かり、シャルンホルストを亡き者にしようとしたが2機を撃墜されて失敗。
    同日、また攻撃を受けた。今度の相手はウィック基地のビューフォート爆撃機9機だった。
    度重なる敵の襲撃にドイツ側も対策を施すようになり、今やシャルンホルストの周りには駆逐艦6隻と魚雷艇1隻が護衛についていた。また空軍機も配備され、海軍と空軍が協力した珍しい事例となった。
    接近するビューフォート爆撃機は対空砲火をかいくぐり、1500フィートの高さから投弾。しかし1発の命中弾も出せず、次々とドイツ戦闘機や対空砲の餌食になった。
    護衛対象のシャルンホルストも激しく暴れ、ビューフォート爆撃機の撃退に貢献。10cm砲弾900発と37mm弾1200発を消費する暴れっぷりであった。
    この襲撃を最後に、イギリス軍の攻撃は止まった。幸運に恵まれ続けたシャルンホルストは6月23日にようやくキールへ帰投。分析評価で大成功と判定されたユーノー作戦を終了した。
    • だがレーダー提督は怒りでプンプンしていた。海軍にとって大型輸送船は喉から手が出るほど欲しい物なのに、どうしてオラマを沈めたのか、と。
      グローリアス及び随伴艦2隻撃沈についても、「単なる射撃訓練に過ぎない」とバッサリ斬り捨てている。そしてマルシャルに何故、ハルスターの海岸堡を攻撃しなかったのかと何度も詰め寄った。
      命令違反の事をひたすら責められ続けるマルシャルなのでした。
  • その後、マルシャルは病気を理由に艦隊司令の座から降りた。後任はギュンター・リュトイェンス中将であった。彼がシャルンホルストとグナイゼナウの指揮権を引き継いだとき、両艦は魚雷を喰らって修理中という有様だった。
  • 損傷の修理は1940年12月まで掛かってしまった。このため9月に予定されていた英本土上陸作戦のための海上封鎖をドイツ海軍は戦艦抜きでやることになるという悪影響を及ぼした。
  • 12月7日、シャルンホルストとグナイゼナウは通商破壊を行うため、弾薬を求めてキールへ入港した。新しい乗組員を迎え、同月28日に出撃。空襲を避けるべく、闇夜に隠れての出発となった。
    大西洋を目指して航行するも、間もなく激しい嵐に巻き込まれ損傷。通商破壊を延期せざるを得なくなってしまう。修理のためシャルンホルストはゴーテンハーフェンに向かうよう命じられる。

1941年

  • 1941年1月19日、修理が終わったシャルンホルストはキールに回航された。南大西洋を舞台に暴れ回る味方に続いて、今度は我々が栄光を手にするのだ!と乗員の士気は盛り上がった。
    1月22日、リュトイェンス中将はシャルンホルストとグナイゼナウを出港させた。シャルンホルストの艦長を務めるのはやはりクルト・ホフマンであった。
    ベルリン作戦と名付けられた通商破壊に従事するべく、外洋に出ようとする2隻に不幸が襲い掛かる。グレートベルト海峡を通過する2隻を、イギリス軍のスパイが観測し、即座にロンドンへ通報したのだ。
    報告を受けてイギリス海軍省は戦艦3隻、巡洋艦8隻、無数の駆逐艦からなる本国艦隊を出撃させた。更に航空省が沿岸防備隊に命じて、通過するであろうスカゲラク海域とノルウェー沿岸の警備を強化。
    いきなり敵に防備を堅められてしまう結果となった。
    当初、リュトイェンス中将はアイスランド・フェローズ諸島間の海峡を通過する航路を選択していたが、グナイゼナウの見張り員とレーダーがイギリス巡洋艦2隻を発見したため針路を北に転じてデンマーク海峡へと向かった。この海峡は霧深く、濃霧にまぎれて大西洋に進出しようと考えていたのだが、現実は甘くなかった。
    2隻の戦艦がヤン・マイエン島近海でタンカーのトーンから補給を受けていると、見事に晴れ渡ってしまった。恨めしい太陽光を浴びながら、2隻は南西の方角へ走った。
    • この時、イギリス側も重大なミスを犯していた。巡洋艦ナイアドが2隻のドイツ戦艦を一瞬視認していたのだが、しっかりと確認しなかった事が祟って取り逃がしてしまった。
      一応ナイアドは報告を行ったが、司令のジョン・トーヴィー卿は、ナイアドが見たのは光のいたずらによる幻影と結論付け、本国艦隊をスカパフローへと引き上げさせた。
      ナイアドの不真面目さがシャルンホルストの旅路を明るく照らす事になろうとは、誰が想像出来ただろうか。
  • 2隻の戦艦は北方へ大きく迂回し、イギリス軍の追跡を逃れた。北極海で燃料補給を行い、大西洋を目指す。イギリス軍のミスも手伝って、2月3日夜にデンマーク海峡を苦も無く突破。
    翌4日の夜にグリーンランド南方に到達し、再び燃料補給を行う。2月6日、ついに狩り場の大西洋へと抜ける事が出来た。
    リュトイェンス中将は意気揚々と部下に言った。「本日、史上初めてドイツの水上艦は、イギリスの封鎖を破る事に成功した!」
    アドミラルシェーアやヒッパーが既に突破しているんだよなあ・・・。 もっとも、シャルンホルストとグナイゼナウにとっては初の大西洋進出ではあるが。
    レーダー提督から与えられた任務は、単なる通商破壊に留まらなかった。「イギリスに向かう商船の絶滅」。徹底的に殺せ、それが命令だった。
    だが、戦艦2隻が虎の子である事に変わりなく、危険を冒さないという方針は貫かれた。
  • 大西洋の天候は気まぐれだった。晴れていた天候は悪化の兆しを見せ、すぐに大荒れの天気となった。強風を受け、2隻の戦艦は一時停止を強いられる。激しいスコールと雪が襲い、視界はほぼ閉ざされた。
    幸い、嵐のような荒天は弱まり、同時に無線傍受部隊からの情報が入ってきた事で希望が灯った。敵の護送船団HX-106が、1月31日にノヴァ・スコシアを出立。
    2隻の戦艦が待機している方角に向かっている事が確認された。リュトイェンス中将が立てた攻撃計画はこうだ。グナイゼナウが南から船団を攻撃、シャルンホルストが北から攻撃して挟撃する単純な物だった。
  • 2月8日午前8時30分、いよいよ標的のHX-106船団が姿を現した。攻撃計画に従い、シャルンホルストは速力32ノットで北上する。ところがこの攻撃は開始前に粉砕される事となる。
    船団に接近していたシャルンホルストは、敵の護衛に戦艦と思われる輪郭を視認した。それから10分ほどで、正体は古強者の戦艦ラミリーズである事が判明。
    速力こそ21.5ノットと低速だが、シャルンホルストより大きな主砲を持ち、装甲も厚かった。ホフマン艦長はこの戦艦に戦いを挑んで船団外へとおびき出し、取り残された船団をグナイゼナウに討ち取らせる作戦を考え付いた。だがこれは、非常に危険な賭けであった。何せラミリーズの火力はシャルンホルストの三倍。分厚い装甲は28cm砲を凌ぎ続けると推測された。
    高まる緊張に水を差したのはリュトイェンス中将の戦闘中止命令だった。優勢な敵艦を前に、虎の子の戦艦を喪いたくない彼は退却を選んだのだ。
    これで大西洋に2隻のシャルンホルスト級が展開している事を、イギリス軍は知るだろう。ナイアドがくれたチャンスは水泡に帰した。
    • この時、イギリス側はまたもやミスを犯した。シャルンホルストの出現に気を取られたラミリーズの見張り員は、南にいたグナイゼナウの存在に気づかず、1隻のみの襲撃と報告してしまった。
      また、見張り員はシャルンホルストをアドミラル・ヒッパーと誤認。無線傍受に熱心だったレーダー提督はこの間違いに気づき、ヒッパーに敵の誤認を拡大させる命令を下している。
      誤認の原因は、イギリス海軍省がヒッパーかシェーアが警戒線を突破して本国に帰投すると周囲の艦船に注意を促していたからだった。運が良いのか悪いのか、これもうわかんねぇな。
  • アドミラル・ヒッパーが敵の船団を食い荒らしてしまったため、シャルンホルストとグナイゼナウのいる海域に敵影は全く見受けられなかった。
    2月16日、待機していたタンカーから燃料を満タンにしてもらう。無線傍受部隊が捉えた新たな獲物、HX-111船団の捜索を行おうとしたが、午後から天候が悪化。捜索を断念させられる。
    せっかく大西洋に出られたのに、なかなか戦果が挙げられない2隻。そんな哀れな彼女たちに、運命の女神は慈悲を与えた。
    2月22日、ようやく嵐が去った。現在位置はニューファウンドランド東方約500マイル。早朝、見張り員が水平線に煙を認め、これを確かめるべく2隻は現場に急行した。
    正体はイギリス船団であったが、荷を降ろし終えカナダに戻る途中の空船だった。リュトイェンス中将は落胆した。もっと価値のある相手に弾薬を取っておきたかったのだが、ようやく見つけた獲物。
    考え直し、襲撃を決意する。犠牲者を減らすため、最初に警告弾を空に放った。これで相手が投降してくれれば良かったのだが、そんな事は露知らず。商船は思い思いの方向へ逃げ始めた。
    午前11時、シャルンホルストとグナイゼナウは本気で砲撃し始める。それから2時間に渡って、殺戮の宴が催された。逃げ惑う商船を、圧倒的な火力を以って狩っていく。
    シャルンホルストは大型タンカー1隻を仕留めた。10時間後、無線傍受部隊からもたらされた情報により、5500トンの貨物船ハールズデンを発見。グナイゼナウの主砲がハールズデンを冥府に送った。
    だが、純白の悪魔にも騎士道あり。乗船を撃沈され、海面に漂っている180名のイギリス人を救助し、犠牲者は11名に抑えられた。
  • 初めての通商破壊を終えた後、2隻は中部大西洋に進出。天候は穏やかで、非番の者は娯楽に興じる余裕が出てきた。毎晩映画が上映され、日中でもデッキで競技が行われた。
    3月3日、ケープ・ヴェルデ諸島付近に差し掛かった。この海域にも敵船団はいなかった。3月7日、シャルンホルストが戦艦マレーヤを発見、慌てて逃走した。
    敵の船団が接近している事は事前に分かっていたが、戦艦マレーヤがうろついているので、優勢な敵との交戦が禁じられている2隻は船団に手出しが出来なかった。
    せめて船団が壊滅するところだけは見届けてやろうと、リュトイェンス中将は西部方面司令部へ船団の情報を送る際、フランスのカーヌヴェルに司令部を置くUボート部隊にも情報を転送するよう要請。
    翌8日、2隻のUボートが船団を襲撃し、5隻(2万8488トン)を葬った。リュトイェンス中将と、2隻の正確な情報が決め手だった。
    被害を蒙ったにも関わらず、敵の船団は分散しなかったため、残敵を掃討しようと船団に忍び寄ったが、悲しい事に戦艦マレーヤが護衛に加わっていた。えーどうしてぇ・・・。
    空恐ろしい事に、マレーヤはシャルンホルストとグナイゼナウの存在に気付いており、上空には発進したウォーラス飛行艇が飛び回っていた。
    速力が敵より6ノット勝っていたため、かろうじて虎口から脱する事に成功。危ない一幕であった。もはやアフリカ沿岸は安全とは言えない。2隻は北上し、北大西洋に戻った。
    • 北大西洋に戻る途上でシャルンホルストは偶然、ギリシャの石炭船マラトン(7926トン)と遭遇。これを瞬殺した。この戦果が、せめてもの慰めだった。
  • 3月11日、パリにある司令部より「以後7日間以内にHX船団に対する全作戦を停止すべし」との命令を受けた。インド洋で記録破りな戦果を挙げたアドミラル・シェーアが帰国の途についており、またアドミラル・ヒッパーがブレストからキールに回航されると言う事で、下手にイギリス軍を刺激してはならないというのだ。
    同時にシャルンホルストとグナイゼナウは、キールではなくブレストに入港するよう命じられる。図らずも、次なる舞台へと誘われるシャルンホルストであった。
    ドイツの戦艦がブレストに留まる事で大西洋に苦も無く進出できるようになり、イギリス軍が敷いていた北海と英仏海峡の阻止線が用を成さなくなった。
  • 7日間という最後の猶予を活かすため、2隻は敵船団を求めた。補給船ウッカーマン、エルムラントを投入して探索に参加させ、死に物狂いで獲物を探した。
    するとウッカーマンがレース岬でHX-114船団の先頭グループを発見。今回は護衛には戦艦がついていない。最後の最後に素晴らしい獲物が見つかったのだ!
    3月15日、2隻の戦艦はこれまでの鬱憤を晴らすかのように、襲い掛かった。グナイゼナウは4隻の商船を沈め、3隻のタンカーを拿捕(うち2隻はレナウンに行く手を阻まれ、奪還された)。
    シャルンホルストは2隻の商船(うち1隻は貨物船アセルフォーム)を沈めた。捕虜となった敵船の乗員から、船足の遅い第2グループが後からやって来ると聞くと乗組員は喜びを隠せなかった。
    翌日未明、第2グループが現れ、補給船から連絡が入る。2隻は嬉々として船団に迫り、闇夜に紛れて船団の真ん中に入り込んだ。夜明けを迎えた時、敵の船団は驚愕した。
    ドイツの戦艦2隻が、船団の中に堂々と入り込んでいたのである。商船群は必死に逃げ回ったが、シャルンホルストとグナイゼナウの連携で逃れる事は出来なかった。
    エンパイヤ・インダストリー、マンカイ、デマートン、グランディ、シルバーフィックス、ロイヤル・クラウン、サルディニアン・プリンス、マイソンの計8隻が波間に消えた。
    船団の中で最も小柄な、1800トンのチリアン・リーファーは貧弱な武装にも関わらず2隻の戦艦に挑みかかった。優劣は明らかなのに抵抗をやめない敵商船を見て、リュトイェンス中将は、敵の罠を疑うようになる。こいつは魚雷発射管を隠しているのではないか?あるいは水平線の向こうにいる主力艦隊の偵察艦ではないのか?
    最終的にこの勇敢な商船はグナイゼナウの主砲でトドメを刺された。が、危機はすぐそこまで迫っていた。15分後、水平線より敵の大型艦が姿を現した。戦艦ロドニーである。
    シャルンホルスト級を上回る火力を持つ難敵の出現に、ドイツ側は凍りついた。だが老練なリュトイェンス中将は強かだった。
    ロドニーはグナイゼナウに対し、艦名を発光信号で尋ねてきた。グナイゼナウはイギリス軽巡エメラルドと身分を偽った。一定の効果があったようで、ロドニーに砲撃を控えさせた。
    その間に2隻は逃走し、安全圏まで離脱した。速力に勝るドイツ戦艦を追跡する事なんて、ロドニーには到底出来なかった。
    こうして、シャルンホルスト級による通商破壊は幕を下ろしたのだった。グナイゼナウとともに通商破壊に従事し、合計で11万トンを超す戦果を挙げた。シャルンホルスト単体の戦果は約4万9300トンであった。
    しかし前述のとおり大型戦艦との交戦を禁じられていたため、戦艦ラミリーズやマレーヤといった旧式艦が護衛についているだけで見逃した船団もいた。
  • ベルリン作戦を終えた2隻だったが、無事にフランスまで戻れるかどうかは別問題だった。無線傍受部隊から情報が入り、戦艦マレーヤが依然ケープ・ヴェルデ諸島で遊弋中である事、空母アーク・ロイヤルや戦艦レナウンがジブラルタルを出港し、所在不明なれど洋上に出ている事が判明。一方、イギリス軍も巧妙に索敵網をすり抜ける2隻を捕捉出来ておらず、捜索が難航。
    3月20日、アーク・ロイヤルのフルマー機がシャルンホルストとグナイゼナウを発見。ところが無線機が故障し、母艦へ通報するのに45分も手間取ってしまった。
    この時間はドイツ艦隊に逃げる隙を与えた。リュトイェンス中将は敵に見つかった事を知り、行き先を誤認させるため針路を北東から北へと変更した。
    フルマー機から情報を受け取った時には既に日没の時間が迫っていた。航空攻撃を行うには危険すぎる。レナウン座乗のサマヴィル提督はドイツ艦隊が変針したと聞くと、目的地をアイスランドと読み取った。
    アイスランドであればドイツ本国に帰り着く前に余裕で追撃が出来るだろう、と。だがドイツ艦隊の目的地はブレストであり、リュトイェンス中将の計略通り、判断は見事に誤っていた。
    3月21日夕方、沿岸警備隊のイギリス空軍機が2隻を発見。しかしフランスから約320キロしか離れておらず、ドイツ軍機の勢力圏に入られたため手を出せなかった。
  • 追っ手を振り切った2隻は、3月22日正午頃にフランス沿岸に到達。出迎えの護衛艦艇が向かっていたが、悪天候により翌23日の午前3時になるまで合流出来なかった。
    約1万7800マイルを航行し、2隻は無傷のままブレストへ入港。ようやく安全な場所に辿り着く事が出来たのだった。
    • 2隻の挙げた戦果に、レーダー提督は満足した。間もなくビスマルクとプリンツ・オイゲンが就役し、ブレストとドイツ本国で二正面作戦が可能になった事も喜びを増加させた。
      レーダー提督はリュトイェンス中将に「ベルリン作戦は非の打ちどころ無し、彼は常に状況を把握し、結果、当然の戦果を手にした」として評価した。
       
  • ブレストに辿り着いてから一週間後の3月30日夜、イギリス軍から手厚いモテナシが行われた。109機の爆撃機が編隊を組んでブレストを空襲しに来たのである。この時の爆撃は1発たりとも命中しなかった。
    • イギリス本土の鼻先にあるブレストは厳重な対空防御が施されている軍港であった。なかなか成果が挙げられないイギリス空軍の爆撃に対し、チャーチル首相は不満を抱いていた。
      彼は「どうやったら動かない目標に対し、爆弾を命中させられない搭乗員が出来上がるのかね?」と嫌味たっぷりに問いただした。
      この答えとしてガイ・ギブソンは「爆撃機搭乗員はドイツ軍艦を識別できなかった。無数のサーチライトで目が眩み、非常に狭い目標地区に配備された多数の対空砲と囮があるために
      軍艦には勿論の事、港湾施設にさえ爆弾を当てるのは事実上不可能だった」と弁明している。
  • 諦めの悪いイギリス軍は4月4日夜にも再度空襲を仕掛けた。空襲警報のサイレンが港湾に鳴り響く。
    シャルンホルスト・グナイゼナウ両艦の中級、下級士官の多くは四つ星のコンチネンタルホテルに滞在していた。ここは艦内より快適で、旨い高級メニューも出る楽園だった。
    サイレンがうるさく鳴り響いているが、前回の空襲が失敗に終わった事で楽観視していた士官たちは地下室への退避を怠った。豪華な夕食を前に逃げるのも惜しかったのだろう。
    席から立たず、料理が運ばれてくるのを待っていた。ウェイターがスープを運んできたところで、彼らは代償を払う事になる。ホテルに爆弾が直撃し、食堂を吹き飛ばしたのだった。
    この空襲で200名以上の死者が出たとされる。一方、シャルンホルストには被害は無かった。イギリス軍はブレストを空撮し、写真を現像。グナイゼナウをシャルンホルストと誤認する。
    シャルンホルスト(実はグナイゼナウ)はドックのコンクリート壁に防護されておらず、今なら魚雷攻撃が可能だった。この情報は沿岸防備隊の航空指揮官に伝達され、数時間のうちに攻撃計画が練られた。
    攻撃を担当するのは第22飛行中隊であった。ブレストには1000門を超える砲と、戦艦を守護する対空砲が存在し、決して楽ではない攻撃になるのは間違い無かった。地の利もドイツ側にある。
    しかしイギリス軍は攻撃を断行し、激しい対空砲火を掻い潜ってグナイゼナウに魚雷を命中させた。この損傷でグナイゼナウは使用不能となり、シャルンホルストも機関の不調で作戦行動が不可能だった。
    しかし、2隻の戦艦が欠けたままライン演習作戦が強行され、ドイツの誇る戦艦ビスマルクが短命に終わってしまった。
  • ブレストで牛歩な修理が始められた。シャルンホルストとグナイゼナウの下へ、新任の士官候補生100名が送られてきた。彼らは対空砲の砲手となり、訓練を始めた。
    そんな彼らにイギリス軍は残酷な訓練を課した。53機からなる爆撃隊がブレストを空襲し、約50名の死者と90名の負傷者を出した。不幸にも死傷者の大半が士官候補生だった。
    大西洋を散々引っ掻き回した2隻が二度と復活できないよう、チャーチル首相はイギリス空軍に攻撃の強化を指示。4月中には延べ278機が、5月中には延べ219機がブレストを猛爆。
    徹底的に痛めつけていったが、シャルンホルストにはそんなに被害が及ばなかったという。またイギリス空軍はブレストを大した目標だと思っておらず、総じて士気が低かった。
    ブレストに落とした爆弾を、ブレーメンやマンハイム爆撃に使った方がもっと効率的だと考えていたようである。
  • シャルンホルストを狙うのはイギリス空軍だけではなかった。ブレスト軍港の内外に通じる水路には機雷が撒かれ、フランス沿岸には常在の潜水艦が目を光らせていた。
    シャルンホルスト級2隻が出撃しようものなら、本国艦隊が出動して殴り殺す準備も整っていた。イギリス海軍もまた、ブレストに居座る脅威に対し、対策を施していたのだ。
    そして相変わらずブレストへの空襲が行われたが、ドイツ軍も馬鹿ではなかった。敵機の接近を知ると、発煙器を使って透視できない黒い煙幕を作り出した。おかげで6月の爆撃は全く成果が出なかった。
    あろう事か目標を見誤った爆撃機によって、フランス人が暮らす市街地に爆弾を落としてしまう一幕もあった。
    更に、この6月にはバルバロッサ作戦、ドイツ軍によるソ連領侵攻が開始された。イギリス領からソ連を支援するための船団が出航するようになり、ドイツ海軍はこれを撃滅するべくノルウェーに戦力を集めた。
    戦いの舞台は、いつしか大西洋から北極圏に移りつつあった。時勢に取り残されたシャルンホルストだが、港湾から出る事も叶わない。
  • シャルンホルストは、イギリス空軍の執拗な爆撃を無傷で乗り切っていた。この頃になるとようやく機関の修理を終え、2日間の試運転をブレスト錨地で行った。
    7月23日、新たな停泊地ラ・パリスへ回航された。シャルンホルストが入っていたドックには囮の給油艦を入れて隠蔽。行方をくらますため北へ伸びる偽りの油の航跡まで残したが、
    イギリス軍には通用しなかった。この移動はレジスタンスによってロンドンに通報され、迅速に準備を整えた。驚くことに新天地に来てから24時間以内に爆撃機が現れた。
    ハリファックス爆撃機15機がシャルンホルストに襲い掛かり、5発の命中弾を受ける。3発は甲板を貫いただけで不発に終わったが、2発が起爆。右舷推進軸と発電機室に損害を与え、大規模に浸水。
    15名が負傷したが、死者が出なかった事が不幸中の幸いだった。お返しに、配備された高射砲が5機のハリファックスを撃墜、残りの機も全てが被弾した。
    7月25日朝にも敵の哨戒機が飛来。シャルンホルストは対空砲で、この機を撃墜した。ラ・パリスは安全な場所ではないと判明し、シャルンホルストは同日19時30分にブレストへ戻った。
    損傷を受け、乾ドックに入渠していくシャルンホルストを見て、ホフマン艦長は塞ぎ込んでいた。また、修理に4ヶ月もの時間を要して戦えない日が続くのか、と。
    修理ついでに新型のレーダーシステムが搭載され、出力が100kWに増加した。同時に軽巡ニュルンベルクから降ろされた53cm魚雷発射管も装備されている。
  • しかしシャルンホルストの怪我も無駄ではなかった。イギリス空軍が出した公式統計によると、爆撃機隊の総攻撃力のうち、10%以上がブレストに停泊する大型艦3隻に吸収されていたのだ。
    フランスのレジスタンスが、3隻とも修理中でしばらくは動けないと報告すると、イギリス航空省は安堵の息を漏らしたのだった。ブレスト攻撃の必要が無くなり、同方面の航空隊はドイツ本国へ差し向けられた。
    それでも地上監視用レーダーを搭載した航空機が残され、24時間体制で見張っていた。もしブレスト艦隊が出撃するようであれば、フラー作戦と呼ばれる迎撃行動を取る事になっていた。
  • ブレストへの空襲は続けられた。9月には1回、11月には2回行われたが、大した損傷は与えられなかった。以降、3隻に対する本格的な空襲は、修理が完了する12月まで行われなかった。
    1941年11月13日に行われた海軍の会議で、レーダー提督はシャルンホルストとグナイゼナウの修理が完了後、ブレストを出港させてジブラルタルからの船団を撃滅する案を提示した。
    だがヒトラーは、通商破壊に艦船を使う余裕は無いとして案を退けた。ヒトラーは援ソ船団撃滅のため全ての戦艦をノルウェーに集めようと考えており、シャルンホルストも例外ではなかった。
    だがレーダー提督はあまり乗り気でなかった。大西洋から戦艦を撤退させるという事は、イギリスの船団が自由に行き来できる事を意味していた。
    そこで苦し紛れに、プリンツ・オイゲンのみの回航を提示したが、やはりヒトラーに却下された。「なぜプリンツオイゲンだけなんだ?なぜ全艦でやらない?」。レーダー提督は言葉が続かなかった。
  • シャルンホルストの修理完了に伴い、4ヶ月ほどゆっくりしていたイギリス軍の爆撃機隊も活動を再開した。12月7日夜、新開発のオーボー盲目爆撃装置を引っさげ、30機の編隊が戦艦を襲ったが失敗。
    その後も12月中だけで7回もの空襲があり、延べ302機が出撃したが戦果に乏しかった。一方、イギリス空軍は11機を失った。
    12月10日のマレー沖海戦で、同盟国日本がイギリスの戦艦2隻を航空攻撃で撃沈したとの情報が入ると、レーダー提督は主力艦の喪失を極度に恐れるようになった。
    彼はイギリス海峡の突破なぞ、絶対にやりたくなかったのである。
  • 12月29日、ヒトラーは会議のため専門家を招集した。議題は、ブレスト艦隊を帰還させるにあたりイギリス海峡を突破出来るか否かだった。
    レーダー提督は「手にし得る限りの情報によりますと、イギリス海峡突破は危険が多すぎて実現不可能であります」と否定的だった。
    だがヒトラーは己の考えを曲げなかった。レーダー提督と異口同音に意見を述べる助言者たちの言葉を聞いてもなお、戦艦をノルウェーに集める必要があると考えていた。
    さらにヒトラーは奇襲とするため、事前の演習や訓練を禁じた。これでは余計に突破の確率が下がってしまう。そして最後にヒトラーは鋭い言葉でレーダー提督に釘を刺した。
    「もし、海軍総司令部が不可能と言い張るのであれば・・・戦艦は全て退役させて乗員と砲だけでもノルウェーに送る」と。
    • 同時期、大西洋での通商破壊は以前より難しくなっていた。度重なる損害にイギリス軍が護衛を強化したのと、アメリカの参戦が通商破壊の難易度を引き上げたからだ。
      水上艦での通商破壊は終わりを告げ、以降はUボートによる襲撃が主力となっていく。
  • 12月30日、ブレスト港にいたティリアクス中将は西部方面艦隊司令部へ出頭するよう命じられる。出迎えのザールヴェヒター大将とシュニーヴィント少将からツェルベルス作戦の事が伝えられた。
    ザールヴェヒターはティリアクスに反対の意見書をまとめるよう命じ、自分の意見も付け加えた上でベルリンのレーダー提督へ送った。
    この意見書はヒトラーの下に届けられたが、作戦中止を想起させるには至らなかった。むしろ度重なる空襲で神経が参った将校の世迷い言程度にしか思っていなかったようだ。
     

1942年

  • イギリス空軍執念の爆撃は年が明けても続いた。1月だけで11回の空襲があった。この間にも、ドイツではブレスト艦隊帰還の件を巡って論争が続けられていた。
    1月12日、東プロイセンの総統大本営で最終調整が行われた。ブレスト艦隊は闇夜に紛れて出港する事とする。海路はドーバー海峡を突破するものを選択。北航路では上空援護が受けられない。
    何より、イギリス海軍の一大拠点スカパフローの眼前を通る事になるため、成功が絶望的となる。
    ブレスト艦隊を阻む機雷原を除去するため、投入できる全ての掃海艇を作戦の支援に当たらせる。空軍機は使用可能な250機を投入し、上空から出来得る限りの支援を行う。
    戦艦2隻なら決行する、戦艦1隻と重巡1隻でも決行する。しかし重巡1隻の場合は中止する。3隻の大型艦のうち、1隻を失うのは致し方ない。これが作戦の要点であった。
    参加艦艇は旗艦シャルンホルスト、グナイゼナウ、プリンツ・オイゲン、Z29を始めとする駆逐艦6隻。気象条件は夜陰と雲が低く、月が無く、悪天候な夜と定められた。
    Uボート3隻からの情報により気象予報の精度を格段に上げ、気象予報官は2月11日の夜が最適という答えを弾き出した。
    ヒトラーはこう締めくくった。「ブレスト艦隊はガン患者だ。放っておけば必ず死ぬ。しかし手術をすれば助かるかもしれん。ならば手術をしようではないか!」
  • 1月、掃海部隊を率いるルーゲ少将は頭を悩ませていた。ツェルベルス作戦に先立ち、航路に敷設されている機雷の除去を命じられたのだが、その範囲は広大だった。
    イギリスだけの物ではない。ドイツが敷設した機雷も障害となっていた。シャルンホルスト航海長ギースラー中佐との会議で示された詳細な予定航路によると、
    イギリス軍の機雷原を避け、ドイツ軍の機雷原を突破する事になっていた。さらに機密保持のため、ルーゲ少将は部下に悟られる事無く掃海作業を進めなくてはならなかった。
    寒空の下、悪天候に悩まされながら淡々と掃海作業をしていく。1月25日、掃海作業の支援としてブレストから駆逐艦と水雷艇群が出撃した。その道中でZ8がルイティンゲン沖で触雷し、沈没した。
    これは新たな機雷原が出現した事を意味していた。ルーゲ少将は更に掃海範囲を広げ、掃海艇3隻の犠牲と引き替えに航路の掃海を完了させ、艦隊司令部に報告した。
  • そしてブレスト艦隊の脱出が決定される。航路は、ドーバー海峡を堂々と突破するというもの。敵国の目の前を通過するという、無謀極まり無い脱出劇であった。
    ツェルベルス作戦、またの名をチャンネルダッシュと呼称される脱出劇が今、始まろうとしていた。
    艦隊司令に就任したティリアクスは、脱出前最後の欺瞞作戦を行った。2月11日の夜に晩餐会が行われるという偽情報を流したのである。より完璧な嘘に仕立て上げるため、
    3隻の大型艦から選ばれた士官たちに、翌朝の射撃大会に出るよう命じた。対空能力を向上させるため、甲板には対空機銃を持った陸軍の兵士が整列していた。
  • 2月11日19時、全ての艦艇が出撃準備を整えた。ツェルベルス作戦の全容を知るのは一部の士官のみで、大半の乗員には何も知らされていなかった。
    この準備についても、サンゼナール沖で演習をして、翌日ブレストへ帰る程度にしか思っていなかった。白昼の午前11時30分にドーバー海峡を突破するためには、19時30分に出港しなければならなかった。
    定刻の19時30分、旗艦シャルンホルストのホフマン艦長は僚艦に発光信号で出港を伝えようとした。その瞬間、空襲警報が鳴り響いた。運悪く18機のウェリントン爆撃機に襲われ、対空砲火が火を噴いた。
    出港が90分遅れてしまった。だが、ブレスト艦隊はこれを逆手に取った。防御用の煙幕を張り、それが広がっている間に出港したのである。煙幕に包まれた軍港から出るにはいつも以上に神経を使ったが、事故も無く無事に出港していった。港外に出たシャルンホルストは随伴艦に単縦陣になるよう指示。そして無線封鎖を徹底させた。
    空襲の間隙を縫い、イギリス空軍はブレスト軍港を空撮。そこには在泊中の大型艦艇がハッキリと写し出されていた。これに安心したイギリス側は、油断と隙を生んでしまう事になる。
    ティリアクスの妙案により空襲警報解除のサイレンを翌朝の明け方まで遅らせ、ブレストの陸岸にいるスパイの目を欺いた。スパイが出港に気付いた時には、既に大型艦は水平線の向こうだった。
    • この日、シャルンホルストの主計科下士官が上陸。いつもやっている洗濯物と郵便物の受け取りを行っていたが、彼が艦に戻る前に出港してしまい、見事に置いてけぼりを食らった。
      遅れて彼の下に命令が届く。「洗濯物と郵便物は潜水艦急行(ブレストと本国の軍港を結ぶ鉄道)で転送すべし」。長い間、自分のシャツを待たされる乗員が続出した。
  • 死に彩られた旅路であるが、ブレスト艦隊に幸運が味方した。ブレスト港の入り口にはイギリス軍の偵察機H-34と潜水艦シーライオンが24時間体制で見張っていたが、どういう訳か2つとも配置に付いていなかったのである(一説によると、シーライオンはバッテリー不足によって潮に流されてしまったらしい)。後に査問会が開かれたのは言うまでも無い。
    このため海軍の包囲網は簡単に突破され、後は空軍に委ねられた。
  • だが空軍も空軍でミスをした。出発を遅らせる原因となったブレスト空襲の際、監視に当たっていたハドソン機はレーダーの電源を切っていた。
    迎撃に上がってきたドイツ軍戦闘機に探知されないようにするためである。90分後、空襲が終わり電源を入れた。が、故障で機能しなかった。19時40分、やむなくハドソン機は基地に引き返し、修理を受けた。
    戻ってきたのは22時38分。この空白の時間に、ブレスト艦隊は海域を27ノットで北上。まんまと突破された。その先にも哨戒線が存在したが、ここでもハドソン機のレーダーが故障し、不在だった。
    抜けた穴を埋める代替機は何故か作動せず、またもや突破される。運勢は完全にブレスト艦隊に味方していた。早期警戒最後の哨戒線も視界不良を理由に、哨戒機がソーニー島へ呼び戻され、がら空き。
    イギリス空軍の警戒線は全て突破され、しかもイギリス軍はその事に気付いていなかった。ブレスト艦隊は順調な滑り出しを見せた。
  • 24時、ブレスト艦隊はウシャンを通過。もはや引き返す事は出来なかった。未だ訓練のための航海だと思っていた乗員たちに、ティリアクス司令からの放送が始まった。
    ツェルベルス作戦の全容が、訓示とともに説明されたのである。艦内にざわめきが広まった。あちこちで先の放送に対する議論が始まった。
    放送を聞いていた水兵たちは歓声を上げ、大いに盛り上がった。普段は姿を現さない軍医や主計員までもが艦橋に状況を聞きにきた。
    時間が過ぎるとともに熱くなった乗員たちは冷めていった。そして代わりに重苦しい雰囲気が広がり、各員の胸に重くのしかかった。果たして、自分たちは生きて祖国に帰れるのだろうか?
     
  • 2月12日の午前7時16分、「総員戦闘配置に付け」の号令が轟いた。まだ暗い西の方角から、戦闘機が4機接近していた。敵、ではなかった。その戦闘機から味方識別信号が出されたのだ。
    フォッケウルフ隊が護衛につき、心細い旅を横から支えてくれた。シャルンホルストの艦橋には空軍の連絡将校イベル大佐の姿があった。
    フランスに展開するフーゴ・シュペルレ元帥率いる第3航空軍は総力を以って、艦隊の上空支援と哨戒を引き受けてくれていた。8時50分、低空で援護してくれていた戦闘機隊が引き上げた。
    それから、太陽が水平線より顔を出した。未だ存命のブレスト艦隊を称えるかのように、その光で艦隊を明るく照らした。間もなく来るであろうイギリス軍の襲来に、皆が緊張で顔を強張らせた。
    ドイツ艦隊はイギリス軍の無電を妨害し始めた。この妨害行為は数週間前から定期的に行っていたため、イギリス軍は特に警戒しなかったという。
    電波のパルスを敵に探知されないよう、航法の補助装置は殆ど使えなかった。事前に演習や訓練が無かった事も悪影響を及ぼし始めた。海岸にある無線局からの情報に齟齬が生じ始めているのだ。
    何せ無線局の通信士にはフランス人も混ざっており、ドイツ軍の作戦を失敗させようと、あれこれ画策していた。事前に訓練をしていれば、ドイツ人に統一できたはずである。
    午前9時前後、フェカンを横切る頃に味方の水雷艇5隻が現れ、護衛に加わった。ディエップに近づいた頃、新たな脅威がブレスト艦隊を襲おうとしていた。
    この先には前夜、イギリス海軍が機雷を敷設しており危険な海域と化していた。だがドイツ側も迅速に対応していた。ルーゲ少将率いる掃海部隊がこの機雷原を発見し、死に物狂いで掃海。
    ブレスト艦隊到着までに血路を開いてくれていたのだ!無線で警報を受けたティリアクスは艦隊の速力を10ノットに落とした。そして2列に並んだ標識船を頼りに、ブレスト艦隊は機雷原を突破。
    闇夜の中での突破だったが、航海長ギースラー中佐の神業的技術でシャルンホルストは27ノットの高速で突破した。イギリス軍を憤死させる要因がまた一つ追加された。
    だが、安心するのはまだ早い。次に通る場所こそが、ツェルベルス作戦最大の難所―――ドーバー海峡なのだから。再び速力を27ノットに上げ、一刻も早く通過しようと試みた。
  • ブレスト艦隊が全力で走っている頃、イギリス本国は未だにその存在を認知する事が出来なかった。南岸沿いの各レーダー監視所が妨害を受けていたにも関わらず。
    そんな中、レーダー画面の一つが大型艦3隻の姿を捉えた。その情報がドーバーに伝えられ、ようやくイギリス軍はブレスト艦隊の存在をはっきりと認めた。ただ、情報伝達に不手際があり遅延と混乱が生じた。
    情報が伝わった後、イギリス軍は混乱した。ブレスト艦隊がドーバー海峡を通過中だと?懐疑的な将校が多くを占めていたが、ラムジーの司令部にいた航空連絡将校はすぐさま偵察機の急派を要請した。
    そこで更に混乱が深まったが、どうにかスピットファイア三個中隊とソードフィッシュ雷撃機の手配を行い、別のスピットファイア二個中隊に牽制攻撃を行うよう指示した。
    しかし管理上の様々な問題と混乱から、定数を満たせず、予定より少ない機数での作戦を強いられた。午前10時42分、スピットファイアが対空砲火をかいくぐって触接。
    すぐにメッサーシュミットMe109が2機現れ、追い回されたので触接を失った。何とか振り切り、情報を持ち帰る事には成功。
    大型艦3隻を含む強力な艦隊だったが、午前11時9分に飛行場へ着陸するまで報告がなされなかった。ずさんな体制がブレスト艦隊の海峡突破に寄与したのは言うまでも無い。
  • 12時15分、艦隊は出発時の遅れを完全に取り戻していた。ドーバーとグ・リネの海峡で最も狭い場所に差し掛かった。敵はここに大軍を配備して、一気に空と海と陸から攻めてくると思われたが、
    不穏なほど静かだった。見えるのはイギリス本土と数少ない阻害気球、そしてドーバーの崖の上にあるレーダーアンテナだけだった。
    シャルンホルストの艦橋で司令のティリアクスはタバコを取り出し、艦長のホフマンにも1本差し出した。金髪長身の操舵手ユルゲンスがマッチを擦った。礼を言い、深々と一服吸うと、彼にも1本差し出した。
    海図を取り出し、現在位置を確認するも、やはりここはドーバー海峡である。なぜ、敵は攻撃を仕掛けてこない?不気味な平穏が続いたが、霧の中から迸った閃光で突如平穏はかき消された。
    プリンツオイゲンの左舷後方1マイルに水柱が上がった。敵の砲撃である。いや、敵とも限らない。何故なら隣接するカレー地区には友軍の巨砲も配備されているからだ。
    全員、血の気が失せた。間もなく猛攻撃が始まるのではないか?だが、相手の正体は意外なものだった。砲撃したのは巨砲ではなく、ドーバー沿岸警備隊の魚雷艇であった。
  • イギリス軍の航空隊が慌しく出撃準備をしている頃、ブレスト艦隊は敵のドーバー沿岸警備隊と会敵しようとしていた。初の戦闘である。
    2月12日正午頃、魚雷艇221号のパンフリー少佐がブレスト艦隊を右舷に認め、接近。するとブレスト艦隊から激しい射撃を受け、やぶれかぶれの雷撃を行って逃走した。
    魚雷艇219号と48号はドイツ軍戦闘機に追い回され、非常に遠い位置から雷撃して退散。45号はブレスト艦隊の背後から迫ったが、駆逐艦フリードリッヒ・イーンに妨害され、危うく撃沈されそうになった。
    スピットファイアの一隊がオステンド東方にブレスト艦隊を確認し、ドーバーに通報した。が、大型艦がいる事は報告されず、イギリス軍は敵を過小評価してしまう。
    ここまでブレスト艦隊に振り回されっぱなしのイギリス軍だったが、その態度は余裕綽々だった。手元にはまだまだ戦力があるし、既に数々の兵器がブレスト艦隊を殲滅せんと解き放たれていた。
  • 第825中隊所属のソードフィッシュは午後12時28分にマンストンを発進。ブレスト艦隊を海の藻屑にしようと空に飛び上がった。が、死を迎えるのは自分たちの方だった。
    岸から10マイル離れたところで、いきなりメッサーシュミットMe109の編隊に襲われた。少数のスピットファイアが懸命に迎撃するも、数の暴力によって叩き落とされた。
    残されたソードフィッシュも6機全てが損害を受けた。その後、かろうじてブレスト艦隊に辿り着き、雷撃を行ったが命中弾は無し。そして全機が対空砲の餌食となって未帰還。第二波の3機も同じ運命を辿った。
    生存者は僅か5名に過ぎなかった。この中隊は逃走する戦艦ビスマルクを攻撃した隊でもあり、図らずもその報いを受ける形となった。
  • ソードフィッシュの攻撃が失敗に終わった頃、ブレスト艦隊はドーバー海峡の最も狭い場所を通過。最悪の状況は脱したと思った矢先、悲劇は起こる。
    14時32分、シャルンホルストが磁気機雷に触雷し、自然と動きが止まってしまったのだ。継続命令に従い、グナイゼナウとプリンツ・オイゲンがシャルンホルストを追い越して行く。
    こんなところで悠長に救助活動が出来るはずがない。非情の決断を取らざるを得なかった。ティリアクスやイベル大佐ら幕僚も横付けされたZ29に移譲。
    シャルンホルストは、ベルギーかオランダの港へ入るのが関の山だと思われた。だが、幸運艦と噂されていた純白の悪魔には神の加護もあったのだろうか。17分後には何事も無かったかのように動き始めた。
    艦隊の背中を追って、再び波を蹴り始めた。後にシャルンホルストの健脚を見たティリアクスは、かなり複雑な心境だったという。
    シャルンホルストを護る死の天使は、更なる加護を先行するブレスト艦隊に与えた。行く手にはマーク・ピジー大佐率いるイギリス駆逐艦6隻が待ち構えていた。あと1時間で日没を迎える。
    夜の海は、駆逐艦の独壇場。雷撃を以ってブレスト艦隊は海底に沈む運命となるはずだった。そんな駆逐艦6隻に、上空より攻撃が加えられた。しかも相手はドイツ軍機ではない!
    イギリス空軍のハドソン機とビューフォート機の群れが、同士討ちとも知らずに襲い掛かってきたのだ。混乱が招いた説明の不徹底が、最悪の形となって現れた。
    おかげで駆逐隊は攻撃の機会を失い、出鼻をくじかれる結果となった。同士討ちを傍から見ていたドイツ軍機は、駆逐隊を友軍だと思い、爆弾を落とさずに帰ったとか。
  • だがピジー大佐は諦めなかった。15時45分、霧の中から現れたブレスト艦隊と会敵し、二度目の戦闘が始まった。隊には旧式の駆逐艦が多いので、魚雷による一撃離脱を図った。
    しかし魚雷は、まるで何者かが護っているかのように命中せず、反撃でウースターが大破させられた。残る3隻の駆逐艦も魚雷を発射するが、無意味に終わる。
    それどころか再びビューフォート機が現れ、3隻の駆逐艦に盛大な誤射を加えていく。放たれた魚雷を回避するためキャンベラが回頭するが、それよって生じた波がウースター乗員の乗っている筏や救命艇を片端から転覆させ、犠牲者を増やした。呪われているとしか言いようが無い光景だった。
    この戦闘でZ29が損傷。ティリアクスは再び旗艦の変更を強いられた。戦闘後、落伍していたシャルンホルストが合流。25ノットの速力で元気良く走っていた。
    • 戦闘の少し前、妙な出来事が発生していた。ピジー大佐率いる6隻の駆逐艦。そのうちの1隻であるウォルポールは落伍して、やや遅れていた。
      そんな中、味方であるはずのウェリントン爆撃機に襲われた。それを救ったのは何とメッサーシュミット戦闘機だった。襲われている艦をドイツ艦と誤認し、追い払ってくれたのだ。
      その後も上空を旋回して援護してくれたが、助けたのがイギリス艦だと知ると、前面に機銃掃射を加えて引き上げて行ったという。
 
  • 送り込んだ刺客は全て不手際かブレスト艦隊によって撃退され、イギリス軍は焦燥し始めていた。何としても突破を阻止するべく、242機の爆撃機を送り込んだ。
    だが視界不良で、殆どの機は爆弾を投下する事すら叶わなかった。39機がブレスト艦隊を発見し、爆撃を敢行したが、やはり命中弾は出なかった。
    ヤケになったイギリス軍は機雷敷設機隊をエルベ川河口に派遣し、せめてもの抵抗としてブレスト艦隊の航路に機雷を撒いた。
    19時55分、フリートラント島沖でグナイゼナウが空中投下された磁気機雷に引っかかるが、損害軽微。その後、プリンツ・オイゲン等と共にキール運河の西端に到達。
    とうとう危険に満ち溢れたツェルベルス作戦を完遂した。だが、遅れて航行していたシャルンホルストにはまたもや受難の時が始まった。21時34分、磁気機雷が爆発し、更なる損傷を負ってしまう。
    これにより1時間以上も洋上で棒立ちさせられる。左舷のエンジンが動かず、1000トン以上の海水が浸入し、射撃指示装置や砲塔旋回装置といった重要な機器が粉砕される重傷だった。
    命運これまでと思われたシャルンホルストであったが、機関要員の不断の努力により中央と右舷のエンジンが復活。かろうじて航行可能になったため、12ノットの速力で動き始めた。
    目的地を変更してヴィルヘルムスハーフェンに滑り込んだのは、2月13日の24時頃であった。彼女も地獄の脱出劇を成功させた。
    こうして、前代未聞のドーバー海峡突破作戦ことツェルベルス作戦は1隻の喪失艦も無く完了した。まさに大成功だった。艦隊司令のオットー・ティクリアスはこの功績によって騎士十字章を授与された。
    • 目の前のドーバー海峡を突破されたイギリス軍は面目丸つぶれとなった。ロイヤルネイビーに劣るドイツ海軍に、1588年のスペイン無敵艦隊以来の突破劇を演じられた事は大いなる屈辱であった。
      追い討ちとして、独伊側として参戦した大日本帝國がシンガポールを陥落させ、史上最多の捕虜を出したという情報も舞い込んだ。イギリス国民の精神はもうボロボロだった。
      タイムス紙は「ティリアクス中将は、無敵艦隊のメディナ・シドニア公爵が失敗した場所で成功を収めた。海軍力を誇りとする我が国民にとって、17世紀以来空前の屈辱的事態が発生した・・・・・・」と報じた。
      チャーチル首相は下院で四方八方から説明を求められ、大西洋から戦艦がいなくなった事で状況は我が方に有利となった、と説明した。敵の白昼突破には気を付けよう!
      一方、レーダー提督はヒトラーの賭けが成功した事について、不満を抱いていた。「イギリス海峡の突破は戦術的には成功だが、大西洋から戦艦が撤退したのは戦略的後退である」。
      そしてツェルベルス作戦成功の報は、ドイツ国民を大いに盛り上げたのは言うまでも無い。
       
  • 辛くもヴィルヘルムスハーフェンに帰り着いたシャルンホルストであったが、容態は深刻なものだった。艦体は右舷側に傾いていた。
    凍結しているヤーデ川に、ぼろぼろなシャルンホルストを導く水先案内人や船長は、露骨に誘導を嫌がった。その巨体で河口内を暴れられたら周囲の船や建造物に被害が及ぶからである。
    だが、いつまでも足踏みしている訳にはいかない。夜が明ければ空襲の危険もある。シャルンホルストはサイレンを鳴らしながら川を遡行し、氷をばりばり砕きつつ進んで行く。
    ようやくヴィヘルムスハーフェンの海軍工廠に入渠し、味方の庇護下に入る事が叶った。
  • しばらくしてから、シャルンホルストはキール軍港へ回航された。そこでグナイゼナウと合流し、互いに無事を確か合った。2隻がチャンネルダッシュで受けた損傷を調査するため、探査船が入ってきた。
    調査中の間、乗員たちに上陸の許可が与えられた。海軍のメルセデストラックで、休養キャンプに駆り出した。専門家が水線下の破孔を調査した結果、修理には半年掛かると両艦長に伝えられた。
    ホフマン艦長は嘆息した。ここキールもイギリス軍の爆撃機に何度も空襲されており、ブレストと何ら状況が変わらなかったからだ。
  • 2月25日夜、60機以上の爆撃機がキールを空襲。130名以上の水兵が戦死した。敵は翌日の夜にも現れ、グナイゼナウの艦首に命中弾を与えた。
  • 3月29日、ホフマン艦長は名残惜しそうにシャルンホルストを見つめながら上陸した。少将に昇格した彼は、人事異動によりオランダへ向かう事になったのだ。
    後任の艦長としてフリードリッヒ・ヒュフマイヤー大佐が着任した。ホフマンの離脱は、ブレストから行動を共にしていた乗員たちの心を砕いた。
    独ソ戦開幕により、バクー油田からの燃料供給が止まったドイツ海軍は重油不足に悩まされていた。代わりに同盟国ルーマニアの油田を頼る事にしたが、産油量が低下の一途を辿った。
    これに伴って戦艦の出撃禁止命令が下った。重油を温存するため、敵の攻撃を受けて必要となった作戦以外、全ての水上作戦が停止された。
  • 4月4日、改装工事のためグナイゼナウは、イギリス軍の爆撃圏外にあったグディニアへ曳航される。ここで主砲塔を下ろされ、6ヶ月の改装工事を経て廃艦となった。
    ここまで連れ添ってきた相棒との永遠の別れになってしまい、シャルンホルストは孤独と化した。だがグナイゼナウは最期に、自分の運をシャルンホルストに分け与えていた。
    グナイゼナウが廃艦になると、イギリス空軍はキール在泊のシャルンホルストへの攻撃をぱったりやめてしまったのである。理由は不明だった。
    そのおかげでチャンネルダッシュの傷をじっくり癒やす事が出来、8月には完全とは言えないものの、再び外洋へ出られる状態になった。
  • 1942年8月上旬、シャルンホルストは複数のUボートとともにバルト海で訓練を行った。訓練中、U-523と衝突し、急遽乾ドックに戻らなければならなくなった。9月には修理を完了し、バルト海へと戻った。
    10月下旬、ゴーテンハーフェンに寄港。プリンツ・オイゲンとリュッツオーの戦訓を基に作られた、新しい舵を受領した。
    相変わらず機関は不調で、3つある缶のうち、1つが停止してしまっていた。12月までにオーバーホールが必要とされた。
  • 1942年12月31日に生起したバレンツ海海戦。この戦いにおいて、優勢なドイツ艦隊は貧弱な護衛しか持たないJW51-B船団を取り逃し、ヒトラーを激怒させた。
    この責任を取ってレーダー提督は辞任、後任にデーニッツ提督が就任した。デーニッツ提督は、「戦艦を全て解体せよ」と怒鳴り散らすヒトラーを懸命になだめ、
    練習艦隊に編入する事で戦艦を生き長らえさせた。だが、以降は外洋に出る事も出来なくなり、退屈な練習艦任務のためだけに浮かぶ存在となってしまう。
     

1943年

  • 1943年1月7日、工事を終えたシャルンホルストはプリンツ・オイゲンと駆逐艦5隻とともにグディニアを出撃。ノルウェーへ向かおうとしたが、沿岸の敵飛行場が活発化していたため反転。
    2月10日、Uボートと衝突事故を起こし、入渠させられる。修理は2月26日まで続いた。
  • 新しく司令官となったデーニッツ提督により、ノルウェーへ向かう準備が進められた。イギリス空軍の爆撃で二度出港の邪魔をされ、グディニアを発ったのは3月3日の事だった。
    バルト海で陽動作戦の演習を5日間行い、それから4隻の駆逐艦とともにスカゲラク海峡へ向かった。空襲を避けるため、悪天候に紛れての航行となった。猛烈な吹雪と強風の中を25ノットで北上。
    3月14日16時、ナルヴィクでティルピッツやリュッツオーと合流し、投錨した。3月22日、3隻は暴風で被害を受けたアルテンフィヨルドに向かった。
    4月8日、シャルンホルストの後部主砲にある弾薬庫が爆発事故を起こし、17名が死亡した。それでも幸運艦の名声は消えなかった。何故なら本来、爆発事故すなわち即死というのが当時の常識だったからだ。
    弾薬庫への引火を免れたシャルンホルストは戦闘訓練を続行した。
  • それからと言う物、乗員たちは退屈な日々を過ごした。アルテンフィヨルドは荒涼とした土地だけが広がる、娯楽施設の無い場所だったのだ。
    長い夏が無為に過ぎていく。戦う事も叶わず、ただひたすら係留される日々を送っていた。艦隊司令のクメッツは、9月までにどうにか戦艦を動かせるだけの重油を貯め込んだ。
    塞ぎこんでいる乗員たちのために、攻撃任務を準備していたのだ。標的として選ばれたのは、連合軍が気象観測所として使用しているスピッツベルゲン島だった。シチリア作戦と呼称され、実行に移された。
  • 9月6日夕刻、戦艦ティルピッツとともにアルテンフィヨルドを出港。8日早朝にスピッツベルゲン島の沖合いに到達した。まず駆逐艦で輸送されたコマンド部隊(陸軍第345擲弾兵連隊戦闘団)600名が上陸。
    要所を爆破して敵を引き寄せた。そしてノルウェー軍守備隊と交戦し、彼らを山中へと追いやった。
    続いて2隻の戦艦は島に砲撃。シャルンホルストはスヴーグルーヴァフィヨルドを砲撃した。現地のノルウェー軍は貧弱な装備しか持ち合わせていなかったが果敢に反撃。駆逐艦2隻を損傷させた。
    島内の建造物は2隻の戦艦により全て破壊し尽くされ、午前11時に退却。フレーザー提督の本国艦隊が救援に駆けつけた頃にはアルテンフィヨルドの港内に収まっていた。
    シチリア作戦は、久々の勝利となった。スピッツベルゲン島の倉庫から盗ってきた食料は乗員の士気を上げたが、鉄十字章の配分を巡る見苦しい口論があって再び下がってしまった。
    あの砲撃以来、攻撃作戦は行われずシャルンホルストは係留され続ける日々を過ごしていた。予想されたイギリス軍の空襲も起こらず、のどかな景色だけが広がっていた。だが、これは嵐の前の静けさだった。
     
  • 9月21日夜、シャルンホルストのフリードリッヒ艦長はクメッツ司令に許可を貰った上で、艦をアーロイ島沖に移動。夜明けとともに対空演習を行う準備を進めていた。
    午前5時前、黒い何かが関門を通過した。それを見張りの兵士が見ていたが正体はアザラシだと思った。ところが、この物体はイギリス海軍が送り込んだ豆潜航艇であった。
    X-1号から9号までの計9隻がアルテンフィヨルドに侵入してきたのだ。結果、戦艦ティルピッツが中破する被害を蒙った。たまたま港内にいなかったシャルンホルストは難を逃れた。
    ちなみに、シャルンホルスト攻撃を担当していたX-9号は行方不明となった。純白の悪魔に逆らった代償を支払わされたのだろうか。
    ティルピッツの戦線離脱とリュッツオーのグディニア回航に伴い、ノルウェー方面で活動できる戦艦はシャルンホルストただ1隻となった。
    ノルウェーの脅威を取り除いたイギリス軍は夏の間、取りやめていた援ソ船団を復活させ、物資をソ連軍に供給し始めた。しかしシャルンホルストが依然健在なので戦艦による護衛は必要とされた。
    敵のフレーザー提督は優れたレーダー技術と、ドイツの暗号を解読するウルスラのおかげで血気盛んになっていた。早くドイツ艦隊と戦いたくて、仕方がなかったのである。
  • 10月、シャルンホルストの艦長がフリッツ・ヒンツェ大佐に交代。ヒンツェ大佐はホフマン元艦長の代わりになる有能な人物であった。
    他方面の戦況悪化に伴い、ノルウェー北部に展開していた空軍機やUボートは引き抜かれ、11月17日には駆逐艦9隻のうち、4隻が他戦線に転用された。
    11月25日、シャルンホルストは2時間に渡る全力公試を行った。1940年の記録より、速力が微増していた。
  • ノルウェー方面に残された唯一の大型艦、シャルンホルスト。かの艦をどのようにして投入するか、ドイツ海軍内でも検討されたが、積極的に投入するという意見は無かった。
    北極圏の海は冬に近づくと日照時間が短くなる上、天候も悪くなりやすい。薄明の状況下で行われる海戦は砲弾の命中率を下げてしまう。
    一方、戦力が豊富なイギリス海軍は小型艦艇を闇に紛れさせ、不意打ちをかける事が出来た。天候までもが敵軍に与する海に、シャルンホルストの居場所はあるのだろうか。
  • 12月19日、ヒトラーとの月例戦況会議が総統大本営で行われた。東部戦線の戦況が急速に悪化している事と、イギリスが援ソ船団を復活させた事をヒトラーは気にしていた。
    デーニッツ提督は「海軍としても力を貸したい」と申し出、アルテンフィヨルドにいるシャルンホルストと生き残りの駆逐艦5隻を以って船団を襲撃しようと具申した。
    戦艦に対し失望と幻滅しかないヒトラーは賛成も反対もしなかった。だが熱心なデーニッツ提督の気迫に押され、作戦を承認した。
    クリスマス当日の12月25日14時15分、デーニッツ提督からJW-55B船団を攻撃するオストフロント(東部戦線)作戦が発令された。この情報は旗艦ティルピッツに送信され、シャルンホルストへと転送された。
    • 「作戦前日の12月24日、停泊中のシャルンホルストに、雲の切れ目から一筋の陽光が差して照らされた」という話は良く聞くが、アルテンフィヨルドは北緯70度の場所にあり、真冬には太陽が昇らないという。(太陽に当たら)ないです。
 
  • 12月25日19時、シャルンホルストは駆逐艦5隻を引き連れてアルテンフィヨルドを出撃した。翌26日午前7時、南西の方角に向けて進軍し、船団捜索のため駆逐艦を前方に分散させた。
    日照が期待できない薄暗い海は、砲撃戦を難しいものにした。気象条件も悪く、駆逐艦の航行すら危うくさせかねない。
    12月26日朝、ドイツ海軍の飛行艇6機が飛び立ち、北極海を目指した。午前10時21分、レーダーで戦艦デューク・オブ・ヨークを捉え、「大型艦1隻、小型艦多数」と報告した。
    だが、この報告がシャルンホルストに届いたのは15時と、かなり遅かった。しかも変に気を使った北部方面司令部が曖昧すぎるとして「大型艦1隻」の部分を削除して送信。
    更に空軍が適切な偵察を行わなかったので、余計に敵情が掴めなくなってしまう。確かにシャルンホルストは組みし難い相手であった。「ドイツ軍の協力」が無ければ、撃沈出来なかったとイギリスは語る。
  • 午前8時40分、敵の第1部隊である巡洋艦ベルファストがレーダーでシャルンホルストを捕捉。午前9時21分には砲撃戦が始まった。北岬沖海戦の幕開けである。敵はベルファストとサフォークの2隻だった。
    9時26分、距離1万2000mまで接近した敵巡洋艦2隻は吹雪の中から砲撃を加える。そのうちの1発がシャルンホルストのレーダー装置を破壊。以降、目視での戦闘を強いられる。
    シャルンホルストは応戦しつつ、高速で離脱を図る。南へ転舵したと思いきや、突如北へと急回頭する回避運動で意表を突き、自慢の速力で2隻を振り切った。一時はレーダーからも姿を消したが、午後12時5分に再び捕捉された。約20分後に砲撃戦が再開。サフォークに命中弾を与え、主砲塔とレーダーを損傷せしめる。そして再び敵艦隊を振り切る。その後、南南西へ走った。
  • しかし伝達の不備により、重要な情報を貰う事が出来なかった。その重要な情報とは、シャルンホルストの向かう先に船団最大の火力を持った戦艦デューク・オブ・ヨークが待ち構えている事だった。
    だが、シャルンホルストが教えてくれたのだろうか。座乗していたバイ司令は何やら嫌な予感を感じ、駆逐艦をアルテンフィヨルドへ戻した。護衛を無くした純白の悪魔は、単艦で敵船団に突入しようとしていた。
    16時17分、デューク・オブ・ヨークのレーダーにシャルンホルストが映し出された。戦いたい相手が現れたフレーザー提督は早速罠を張った。16時50分、1発の照明弾が放たれ、砲撃戦が始まる。
    この時の砲撃戦を、駆逐艦スコーピオンの乗員は「真っ暗闇の中で、戦艦の砲火のみが遠くで見えていた」と評した。既に海域は闇に飲まれており、レーダー無しでの戦闘を強いられているシャルンホルストがどれだけ不利な状況にあったかを如実に示している。対するデューク・オブ・ヨークはレーダーを完備し、質・数ともに優勢であった。
    デューク・オブ・ヨークと巡洋艦ジャマイカがシャルンホルストに砲弾を浴びせかけた。シャルンホルストは東に舳先を向け、一斉射を繰り返しながら応戦する。
    そして距離を離そうと後退するが、敵の正確なレーダー射撃は次々に艦を捉えた。まず前部砲塔の回転ギアが砲弾に潰され、爆発。火の手が上がり、それが2番砲塔を押し包もうとしていた。
    ヒンツェ艦長は弾薬庫に注水し、誘爆を防いだ。しかしこれで火力が3分の1にまで低下してしまう。17時27分、自慢の快足で敵の射程距離から逃れる事に成功。
    だがフレーザー提督はしつこく食い下がり、デューク・オブ・ヨークの火砲が吼える。距離が開いた事で砲弾の落下速度が速くなり、一撃の威力が増していた。
    1発、また1発とシャルンホルストに命中弾を与え続け、純白の艦体は炎の色に染まっていった。18時20分頃、距離2万mでデューク・オブ・ヨークの放った砲弾が2番砲塔を破壊し、1号缶室にも直撃した。
    速力が10ノットに低下するも、機関要員の努力ですぐ20ノットにまで回復した。すかさず反撃し、デューク・オブ・ヨークのマストを2発の砲弾がもぎ取る。驚いた敵艦は18時24分に砲撃を一時停止させた。
    しかし、シャルンホルストの最期は間近に迫っていた。ヒンツェ艦長はヒトラーへの最後の信号を送った。
     
    「我らは弾丸の尽きるまで戦う」
     
  • 手負いのシャルンホルストは副砲で駆逐艦の接近を阻んでいたが、まばらで統制の取れていない貧弱な弾幕だった。混戦の中、接近したソーマレズ以下英駆逐艦が主砲を食らいながらも雷撃を敢行。
    駆逐艦スコーピオンの水兵は「奴に横付けしてやるぞ!」と怒鳴り、雷撃位置についた。
    そして4本の魚雷が直撃し、喫水線下に重大な損傷が発生。大規模な浸水も始まった。速力もガクンと低下したが、シャルンホルストは戦いをやめない。ソーマレズに主砲数発をぶち込み、戦線離脱させた。
    後方からデューク・オブ・ヨークとジャマイカが追いつき、19時1分よりレーダー射撃を再開した。それぞれの主砲でシャルンホルストを徹底的に痛めつける。
    デューク・オブ・ヨークは正確な射撃をするため、接近した駆逐艦に着弾観測を依頼。約200ヤード前後、距離が足りないとの報告を受け、即座に修正する。
    執拗な砲撃は15分間続いた。稼動していた最後の28cm砲が沈黙し、ついに無力化された。イギリス艦隊は虫の息となったシャルンホルストを取り囲む。そして最後の猛攻撃を加えた。
    それでも19時30分までは5ノットの速力でよたよたと動いていたが、次第に傾斜が酷くなっていく。そんな彼女に55本の魚雷が放たれた。そして11本の魚雷と13発の36cm砲を喰らい、満身創痍と化した。
    艦体は裂け、装甲は黒こげていた。19時45分、弾薬庫への引火が原因とされる大爆発が起き、その身を海中へと没した。
    バイ司令とヒンツェ艦長も一緒に沈み、冬の荒れた北海に投げ出された1968名の乗員のうち、救助されたのはわずか36名だった。海軍兵学校を出たばかりで、初陣だった少尉候補生40名も全員死亡した。
    シャルンホルストは、合計5時間に渡る激闘の末、戦没したのだった。北岬沖海戦は、航空機無しで行われた最後の艦隊決戦となった。
    1943年12月26日、臨終。
    • 「シャルンホルストの生存者は僅か2名で、彼らは何とか岸まで泳ぎ着くも、暖を取ろうと携帯用ヒーターを使用した瞬間爆発、2名は死亡した」という説が出回っているが、実際の生存者は36名である。その後、生存者たちはスカパフローで降ろされており爆発事故で死亡した者はいない。
    • 駆逐艦スコーピオン水兵の証言によると、当初はバイ司令もヒンツェ艦長も重傷を負いながら海面に浮いていたらしい。だが救助する間もなく2人は沈んでしまったとの事。
      またシャルンホルストは弾薬庫の引火で大爆発を起こしているが、水中爆発は起きなかったので海中に投げ出されていた36名の命は助かる事になった。
      もし水中でも爆発が起きていれば、風説通り生存者ゼロとなっていたであろう。今際のシャルンホルストがもたらした最期の幸運なのかもしれない。
       
  • 英艦隊を指揮したフレーザー中将(当時)は作戦終了後、
    「諸君らがもし自分の倍以上の艦隊と戦うことになったら、今日のシャルンホルストのように戦ってくれることを願う」とコメントを残している。
    損傷を受けなかったJW-55B船団は、12月27日にムルマンスクへ入港している。
  • オストフロント作戦は失敗に終わった。デーニッツ提督は情報伝達のまずさを棚に上げ、敗因をイギリス軍のレーダー技術とした。
    ヒトラーは勇敢に戦った乗員に対し、全く同情の念を見せなかった。ドイツの戦艦がイギリス海軍に勝てるという期待を、ずっと前に捨てていたからだった。
     

余談

  • 因みに、巷でよく見かける「呪われた純白戦艦」と言う怪談話は戦後になってアメリカ人怪奇ライターがラジオ番組用にでっち上げた創作である。
    桐生操氏著作の「知れば知るほど残酷な世界史」等、後年の書籍では呪われていた事がさも事実であるかのように書かれているため、余計に誤解が広まっている。
    • 一方、シャルンホルストは幸運艦だと、ドイツ水兵たちの間で噂されていた。不思議な事に、シャルンホルストと一緒に出撃した艦は1隻も沈んでいないのである。
  • 横浜・ブレーメン間の極東航路に就役していた、同名の貨客船が存在する。日本とドイツの間を行き来していたが、第二次世界大戦の勃発で急遽神戸に寄港。そのまま帰れなくなってしまう。
    乗員はシベリア鉄道で本国に帰還したが、シャルンホルストは神戸港に係留され続けた。1942年春、日本がシャルンホルストを買い取り、空母へと改装。
    神鷹に名を改め、東南アジア方面への航空機輸送任務に就く。が、1944年11月17日に米潜の雷撃を受けて死亡した。
  • シャルンホルストの死後、搭載するはずだった38cm砲が完成。載せる艦が鬼籍に入っていたため、フランス沿岸に配備された。通称、ジークフリート艦砲と呼ばれた。
  • 2000年9月、イギリスのBBCやノルウェー海軍が協同で沈没船の探査を実施。海底をスキャンすると、大きな物体が沈んでいるのを確認された。9月10日にシャルンホルストであると判明した。
    艦体は290mの海底に逆さまの状態で沈んでおり、様々な破片が周囲に散乱していた。

*1 当時の英海軍の巡戦より速かったため英側の資料で巡洋戦艦としている文献もある
*2 ドイツ艦に風上を押さえられていたため、攻撃機を出すよりも自身の速力で振り切ろうとしたらしい。
*3 一説によると、この雷撃はアカスタによるものはなく、潜んでいた英潜水艦の仕業とドイツ側は考えていた。