所属 | 大日本帝國海軍 |
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艦種・艦型 | 古鷹型一等巡洋艦(重巡) |
正式名称 | 古鷹(ふるたか) |
名前の由来 | 古鷹山 日本国広島県江田島市 |
起工日 | 1922.12.5 |
進水日 | 1925.2.25 |
就役日(竣工日) | (1926.3.31) |
除籍日(除籍理由) | 1942.11.10(サボ島沖海戦/Battle of Cape Esperance 1942.10.12沈没) |
全長(身長) | 185.166m |
基準排水量(体重) | 7950英t(8077.6t)→8700英t(8839.6t)(1939) |
出力 | ロ号艦本式重油専焼缶10基ロ号艦本式石炭重油混焼缶2基Parsons式蒸気タービン4基4軸 102000shp(103414.7PS) →ロ号艦本式重油専焼缶10基Parsons式蒸気タービン4基4軸 110000shp(111525.7PS)(1939) |
最高速度 | 34.6kt(64.07km/h)→33.0kt(61.11km/h)(1939) |
航続距離 | 14.0kt(25.93km/h)/7000海里(12964km) |
乗員 | 627~639名 |
装備(建造時) | 50口径三年式20cm単装砲6門 40口径三年式7.62cm単装高角砲4門 61cm連装魚雷発射管6基12門 艦載機x1 |
装備(1939) | 50口径三年式20.3cm連装砲3基6門 45口径十式12cm単装高角砲4門 61cm四連装魚雷発射管2基8門 艦載機x2 |
装甲 | 舷側:76mm 甲板:32~35mm 砲塔:19~25mm バーベット:25mm |
建造所 | 三菱造船長崎造船所 (現 三菱造船社長崎造船所) (日本国長崎県長崎市) |
古鷹型重巡洋艦1番艦。20cm砲6門を搭載し相応の防御力を有した8,000トン級巡洋艦として1923年度の計画で建造された。背景には5500t軽巡ではオマハ級に大きく劣っていたことが挙げられる。
特にイギリス海軍は古鷹型の設計図を買いたいと言ってきたという(居住性を切り捨てた事は知らなかった)。
重巡洋艦の祖とも言うべき存在だが、それだけに老朽艦となっていた。そこで大規模な近代化改装を行い、大東亜戦争に臨んだ。
大東亜戦争では第六戦隊の一員として開戦劈頭の快進撃を支える。そして第一次ソロモン海戦では僚艦ともども大戦果を挙げるが、帰り道に姉妹艦の加古を雷撃で失う。
それから約二か月後の1942年10月に生起したサボ島沖海戦では、旗艦の青葉をかばって滅多撃ちにされ、その後浸水し沈没。
古鷹が身を挺して守った青葉は無事に離脱した。
余談
- 重巡洋艦というカテゴリーができた経緯について
- 当時、通称5500t型と呼ばれる球磨型・長良型・川内型巡洋艦を配備していた日本海軍だが、同時期に建造されたアメリカ海軍のオマハ級巡洋艦の出現を脅威と感じていた。
そこで日本海軍は、列強の15cm砲搭載軽巡洋艦を凌駕する巡洋艦として、直前に締結されたワシントン条約に定義された砲口径制限のほぼ上限である20cm砲6門を搭載し相応の防御力を有した8,000トン級巡洋艦として1923年度の計画で古鷹型の建造を決定した。
古鷹型は補助艦として分類されるため条約の建造総トン数の制限を受けなかった。そのため各国による条約ギリギリの建造競争が激化した。
これらの艦は条約型巡洋艦と呼ばれる。 - その後、補助艦艇を含めたロンドン海軍縮条約により巡洋艦を重巡洋艦と軽巡洋艦に分類し、保有制限枠を設けることで建造競争は終結した。
- 当時、通称5500t型と呼ばれる球磨型・長良型・川内型巡洋艦を配備していた日本海軍だが、同時期に建造されたアメリカ海軍のオマハ級巡洋艦の出現を脅威と感じていた。