No139 ペンサコーラ/元ネタ解説

Last-modified: 2019-05-06 (月) 16:53:38
所属United States Navy
艦種・艦型ペンサコーラ級巡洋艦→重巡洋艦(1931)
正式名称USS Pensacola (CL/CA-24)
名前の由来City of Pensacola アメリカ合衆国フロリダ州エスカンビア郡ペンサコーラ市
愛称Grey Ghost
起工日1926.10.27
進水日1929.4.25
就役日(竣工日)1930.2.6
退役日(除籍後)1946.8.26 1945.11.28除籍(1948.11.10標的艦として沈没)
全長(身長)178.5m
基準排水量(体重)9100英t(9246t)
出力Westinghouse式重油専焼缶8基Parsons式蒸気タービン4基4軸 107000shp(108484.1PS)
最高速度32.5kt(60.18km/h)
航続距離15.0kt(27.78km/h)/10000海里(18520km)
乗員指揮官85名 乗組員445名
装備(竣工時)8inch55口径連装砲2基三連装砲2基10門
5inch25口径単装高角砲4門
3ポンド単装砲2門(礼砲)
1.1inch機関砲x28(7x4)
ブローニング12.7mm機関砲x8
21inch三連装魚雷発射管2基6門
艦載機x4
装備(1945)8inch55口径連装砲2基三連装砲2基10門
5inch25口径単装高角砲4門
3ポンド単装砲2門(礼砲)
ボフォース40mm機関砲x28(7x4)
エリコン20mm機関砲x18(9x2)
艦載機x4
装甲舷側:2.5~4inch 甲板:1~1.75inch 砲塔:0.75~2.5inch バーベット:0.75inch 艦橋:1.25inch
建造所Brooklyn Navy Yard,Brooklyn, New York
(ブルックリン海軍工廠 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区)
勲章Navy Combat Action Ribbon
American Defense Service Medal(Fleet clasp)
American Campaign Medal
Asiatic Pacific Campaign Medal(13 stars)
World War II Victory Medal
Navy World War II Occupation Medal(ASIA clasp)
Philippine Presidential Unit Citation
Philippine Liberation Medal

1924年12月18日に建造が決定。船体をブルックリン工廠に、機関をキャムデン造船所に発注し、1926年10月27日起工。1929年4月25日に進水し、1930年2月6日に竣工した。

  • ペンサコーラ級はもともとオマハ級の拡大発展型として設計された。
    7,000t級のオマハに対し日本側は7,000t級の古鷹型に8インチ砲を搭載しこれを射程で上回る対抗措置を取った。
    これに対し9,100tで55口径の8インチ三連装砲4基12門を搭載し更に優位に立とうとしたが、軍縮条約で8インチ砲搭載艦をAクラス(重巡洋艦)とすることになり制限がついた。
    おまけにいざ船体を設計してみると、1番と4番の砲塔は三連装だと装甲が薄くなり実用性が低いとして、急遽連装砲に替えられた。
    これにより連装砲の背後に三連装砲を背負うという特徴的な外観となっている。
    その背後に箱型艦橋と三脚型の前マストを持ち、上に射撃指揮書を配置、背後に一番煙突があり、シフト配置機関のため二番煙突までのスペースに艦載機を設置、
    二番煙突背後にボートやカッターを集中させ、三番四番の砲塔が続く。
    煙突の周辺には25口径の5インチ単装高角砲が4基設置され、他に1.1インチ四連装機関砲を7基と三連装の魚雷発射管を両舷に一基ずつ備えていた。
    これに加え他国の巡洋艦が1~1.5インチ程度の装甲を持っていたのに対し2.5インチの装甲を設けて水上砲戦で有利に戦おうというコンセプトであった。
    しかしカタログスペックに偏ったため凌波性や左右の揺れに弱く、巨大なマストはトップヘビーで、居住区画も狭かった。
    技術交流に招いた英国の技術者からはせっかくの長距離航行能力もこれでは乗員が疲れ切ってしまうから、もっと火力を欲張らずコンパクトに纏めた方が良いと指摘を受け、
    次級ノーザンプトン級以降は三連装砲塔三基とし、平甲板から船首楼型になっていく。
    ペンサコーラ級も魚雷を撤去しマストをやや切り詰めるなどトップヘビー改善工事が行われた他、開戦後は高角砲増設や機銃の交換・増設が行われている。
  • ペンサコーラは就役後すぐに太平洋艦隊に編入された。1931年7月1日、ロンドン条約により重巡洋艦に艦種を変更。太平洋やカリブ海で任務に従事した。
    1939年10月5日、真珠湾を出港しアラスカに寄港。1940年に新型のレーダーを搭載する。開戦直前の1941年11月29日、マニラ行きの船団を護衛して真珠湾を出発。このため真珠湾攻撃には巻き込まれなかった。
     
    1941年12月8日、日本がアメリカを含む連合国に宣戦布告。22日、船団とともにブリスベーンに到達。1月19日、打撃を受けた真珠湾に戻る。
    そして2月5日にサモア諸島に進出し、警戒を行った。そしてABDA艦隊と合流し、日本海軍と対峙する。

1942年2月20日、バリ島沖海戦に参加。日本側の駆逐艦2隻を大破させるも、攻略船団の上陸を許してしまい、戦略的敗北を喫した。
その後、東南アジアの失陥は決定的となりペンサコーラは虎口から脱出。かろうじて生き延びる事が出来た。命からがらの目に遭ったペンサコーラであったが、復讐の機会はすぐに訪れた。
6月5日、ミッドウェー海戦に参加。ペンサコーラ自体は戦闘に参加できなかったが、この海戦で日本海軍の主力空母4隻を沈め、最初の打撃を与える。
次に真珠湾を出港し、8月7日からガダルカナル島争奪戦に参加。10月26日に生起した南太平洋海戦では、駆逐艦モーリスより移乗してきたホーネットの乗員を収容。
11月30日、ルンガ沖夜戦に参加。この戦闘で日本駆逐艦から魚雷を食らい、大破。瀕死の体をひきずってエスピリットサント島へ辿り着き、応急修理を受ける。1943年1月、真珠湾へ回航されて本格的な修理を受けた。
復旧工事とともに近代化改装も行われ、11月7日より試運転を開始。間もなく戦線に復帰し、同月19日にタラワ島を砲撃した。

1944年6月からはアリューシャン方面に派遣され、北千島列島に対して砲撃を行っている。9月より南下し、マリアナやウェーキ島を砲撃。
10月23日、フィリピンの奪還を目指すためレイテ沖海戦に参加。この戦闘に勝利した米軍は、開戦劈頭に日本軍に奪われた失地を回復する。
12月からは硫黄島に対して攻撃を開始。1945年2月17日、硫黄島の砲台から攻撃を受けて損傷。傷を癒すと、3月からの沖縄攻略戦に参加。
3月31日、LST227と衝突事故を起こす。修理のため本国へ移送される事になり、カリフォルニアのメア・アイランド工廠に入渠する。修理とともに特攻機対策も施され、対空砲とレーダーが増設された。
だが、この改修工事中に日本は降伏。せっかくの新装備を試す事無く終戦を迎えた。終戦後、青森県の大湊へ入港。

 

1946年7月ビキニ環礁における水爆実験ことクロスロード作戦の標的艦となった後、1948年11月、改めて標的艦として処分された。