No167 不知火/元ネタ解説

Last-modified: 2020-08-14 (金) 00:03:57
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型陽炎型駆逐艦
正式名称陽炎(しらぬい/しらぬひ)
名前の由来不知火 八代海や有明海で旧暦8月1日前後に現れる蜃気楼の一種
起工日1937.8.30
進水日1938.6.28
就役日(竣工日)(1939.12.20)
除籍日1944.12.10(1944.10.27沈没)
全長(身長)118.5m
基準排水量(体重)2000英t(2032.1t)
出力ロ号艦本式重油専焼缶3基艦本式蒸気タービン2基2軸 52000shp(52721.2PS)
最高速度35.0kt(64.81km/h)
航続距離18.0kt(33.33km/h)/5000海里(9260km)
乗員239名
装備(建造時)50口径三年式12.7cm連装砲3基6門
九六式25mm機銃x4(2x2)
61cm四連装魚雷発射管2基8門
爆雷投射機x1
装備(1943)50口径三年式12.7cm連装砲2基4門
九六式25mm機銃x28(4x3+1x2+14x1)
61cm四連装魚雷発射管2基8門
爆雷投射機x1
装甲なし
建造所浦賀船渠社 (現 住友重機械工業浦賀造船所2003年廃止 整地後民間に売却予定) (日本国神奈川県横須賀市)

大日本帝國海軍が建造した陽炎型駆逐艦二番艦。1937年8月30日、浦賀工廠で起工。1938年4月15日に不知火と命名され、同年6月28日に進水。1939年12月20日に竣工した。
竣工後、呉鎮守府所属となり第十八駆逐隊に編入された。

 

大東亜戦争開戦時、不知火は機動部隊の護衛として真珠湾攻撃に参加。1942年1月8日に柱島へ帰投する。続いて機動部隊を護衛しながら
ビスマルク諸島攻略作戦やポートダーウィン空襲支援などに従事し、緒戦の快進撃を支えた。2月25日、スターリング湾を出撃し、ジャワ南方方面に進出。
3月1日には僚艦の霞とともにオランダ商船を撃沈している。4月には機動部隊によるセイロン攻撃に参加。
6月5日に生起したミッドウェー海戦では船団を護衛していたが、戦闘には参加していない。ミッドウェー海戦が惨敗に終わった後、不知火は一度内地へ帰還。
アリューシャン方面の作戦に参加するべく、輸送船あるぜんちな丸を護衛してキスカ島へ移動。開戦劈頭から連戦をこなしてきた第十八駆逐隊は疲労が極限に達していた。
司令の宮坂大佐は乗員を想い、霧が晴れるまでキスカ島で駆逐隊を休ませようとした。しかしこの事が仇となってしまう。
7月4日、キスカ島占領の目的で湾外に停泊していたところを米潜水艦グロウラーに襲撃され、大破させられる。乗員3名が死亡した。艦体がくの字に折れ曲がる瀕死の重傷を負うも、
駆けつけた工作艦により艦首を爆破切断し、一命を取り留める。近海では米潜水艦が遊弋、2隻の駆潜艇が葬られるなど危機的状況が続いた。
現地での応急修理には限界がある事から内地への回航が決定。何とか僚艦に曳航・護衛されて舞鶴まで帰り着いた。この一件で宮坂大佐は非難を浴び、責任を取って自決してしまった。

 

1943年2月、ガダルカナル島撤退のケ号作戦に参加。4日、第二次撤退作戦に従事するためガダルカナル島へ接岸したが連合軍の空襲を受けて損傷する。この作戦で4978名を収容した。
5月8日、姉でありネームシップである陽炎が沈没。これに伴って残余の陽炎型は、全て不知火型へと改名される。
同年10月15日、修理が終わった不知火は再就役。第九艦隊に編入され、パラオやウエワク、ホーランジアといった南方方面への輸送船団護衛に従事する。

 

1944年1月7日、佐伯湾を出港し船団を護衛。パラオに寄港したあと、ウエワクとホーランジアに船団を送り届けた。2月3日から21日にかけて、再度ウエワク及びホーランジアに船団を護送している。
3月1日、第九駆逐隊に移籍。霞、白雲、薄雲、不知火の4隻体制で任務に臨む事になる。同時に呉工廠で探信儀を装備する工事を受けた。
ところが、たったの二週間で白雲が沈没。これに伴って3月31日、第十八駆逐隊に改名し、3隻体制となる。不知火には駆逐隊司令井上義雄大佐が乗り込み、旗艦となった。
4月2日、呉を出港。大湊を経由して北方海域に進出。6月19日、大湊を出港し重巡那智と足柄を護送。21日に呉へと帰投した。
水中探信儀や機銃の増設、電探の装備を受けながら転戦する不知火であったが、同年6月に薄雲が沈没。稼働する艦が2隻にまで減少してしまう。
その後、米軍の攻撃を受けるサイパン島を支援するための殴りこみ艦隊に編入されそうになったが、中止となり辛くも命拾いした。
生き残った僚艦、霞とともに6月28日から8月14日にかけて、硫黄島や父島への輸送任務に従事した。14日、呉に帰投し内地で待機する。
10月14日、呉を出港。足柄と那智を護衛しつつ奄美大島を経由して馬公に進出した。

 

1944年10月、フィリピンに米軍が襲来。資源地帯と本土の中間に位置する要衝を死守するべく、不知火も迎撃戦力に組み込まれ、馬公を出撃。
同月24日、志摩艦隊の一員としてスリガオ海峡海戦に参加。他の駆逐艦とともに敵が張った煙幕の中へ突入したが、敵を発見する事は出来なかった。
米艦隊もまたレーダーで探知する事が出来ず、反撃も受けなかった。連携不足で西村艦隊が壊滅する被害を受けたが、不知火は生き残った。
だが無慈悲な死神は、不知火をレイテの戦場から帰さなかった。1944年10月26日、軽巡鬼怒と駆逐艦浦波を捜索するためコロン島を出撃。
既に二隻は沈められていたが、そんな事は知る由もなく捜索する不知火。翌27日午前3時、マスバテ島付近で捜索を打ち切り、反転。帰投しようとしたが、
午前9時35分に「航空機発見」を打電後、消息不明となる。

帰路についた後、セミララ島に座礁した味方の駆逐艦、早霜を発見。早霜は空襲の危険があるからと退避を要請したが、それに構わず救助活動を始めた。しかし早霜の予想通り、敵の空襲が始まってしまう。
救助活動のため機関を停止していた不知火は逃げる事も出来ずに爆沈。一瞬で沈んでいったという。艦長含め、乗員が全員死亡した。レイテ沖海戦で戦没した最後の艦だった。

 

1944年12月10日、除籍。