No173 アカスタ/元ネタ解説

Last-modified: 2022-09-04 (日) 00:57:18
所属Royal Navy
艦種・艦型A級駆逐艦
正式名称HMS Acasta (H09)
名前の由来Acasta 無柄目ムカシフジツボ科のフシツボの一種
起工日1928.8.13
進水日1929.8.8
就役日(竣工日)1930.2.11
除籍日(除籍理由)不明(英Operation Juno/独Unternehmen Juno/(ノルウェー沖海戦) 1940.6.8沈没)
全長(身長)98.45m
基準排水量(体重)1350英t(1372t)
出力Admiralty式重油専焼缶3基Brown Curtis式蒸気タービン2基2軸 34000shp(34471.6PS)
最高速度35.0kt(64.81km/h)
航続距離15.0kt(27.78km/h)/4800海里(10000.8km)
乗員138名
装備4.7inch45口径Mk.IX単装砲4門
ヴィッカース2ポンド機関砲x2(1x2)
21inch四連装魚雷2基8門
爆雷投下軌条3基
爆雷投射機2基
装甲なし
建造所John Brown and Company, Clydebank, Scotland
(ジョン・ブラウン社 スコットランド国ダンバートンシャー郡ウェスト・ダンバートンシャー州クライドバンク市)
  • 1928年から30年にかけて9隻建造されたA級駆逐艦のネームシップ。当級の駆逐艦は全てAから始まる艦名を持つ。アカスタは海の妖精に由来する。
  • 第一次世界大戦終結から6年もの間、イギリスは新型駆逐艦の建造に着手出来なかった。既に手持ちの駆逐艦は旧式化し、また技術の進歩から一新する必要が出てきた。
    そこでイギリス海軍省は、駆逐艦の建造技術に長けた5社に新型艦の建造を指示する。その結果、アマゾンとアンバスケイドという駆逐艦が誕生する。
    2隻の新型駆逐艦はプロトタイプとして大きな成果を収め、満足したイギリス海軍省はこのデータを基にして77隻の準同型駆逐艦の建造を計画するのだった。
  • 1926年7月、新たな担い手となる新型駆逐艦の要求事項を検討し始める。当初予定されていたスペックを全て盛り込むと、排水量が2000トンを超えてしまう事が判明したため、急遽訂正が行われた。
    同時に冷暖房の完備や建造費用の抑制等を盛り込んだ結果、排水量は1350トンに落ち着いた。
  • 試験的に建造・運用された駆逐艦アマゾンのデータを基に、建造した新式駆逐艦アカスタ。航続距離を40%延伸し、北大西洋まで行動範囲に収めた他、魚雷発射管を4連装のものにしたり、主砲の防盾を大型化して砲手の生命を守る等の様々な改良が加えられている。9隻いる姉妹艦のうち、2隻がカナダ海軍に出荷された。
    ちなみにアカスタは、4連装魚雷を装備した初のイギリス駆逐艦となった。諸元は全長98.5m、全幅9.9m、吃水2.6m、排水量1350トン、出力4万馬力、速力35ノット。
  • 1926年7月、クライドバンク造船所に発注。1928年8月13日に起工し、1929年8月7日に進水、翌30年2月11日に竣工。竣工して間もない14日、地中海艦隊第3駆逐隊に編入され地中海での任務に就く。
  • 1931年10月22日、地中海に浮かぶイギリス領サイプラス(キプロス)島の首都ニコシア市にて暴動が発生した。植民省の発表によると、暴徒は総督府に放火。警官や市民に投石して数名を負傷させた。
    サイプラス島総督サー・ロナルド・ストーアスは、マルタ島総督府を通して海軍に救援を求めた。アカスタは僚艦3隻とともにクリート島を出港してサイプラス島へ向かい、暴徒鎮圧を図った。
    暴動の原因は、ギリシャ国粋主義者がサイプラス島をギリシャ本国に合併させるべく扇動した、とされている。1932年8月から11月にかけて、本国にて整備を受ける。
  • 1934年6月12日、演習中に駆逐艦コドリントンと衝突事故を起こし損傷。25日から7月27日までマルタ工廠で修理を受ける。その後、本国へ帰還、以降大戦勃発まで本国周辺の警備任務に当たる。
    1937年、ソナーを装備。
     
  • 1939年9月3日、第二次世界大戦が勃発。開戦時、海峡部隊第18駆逐戦隊に所属していた。主に本国近海にて船団護衛に従事し、最前線に赴く事は無かった。
  • 1940年4月、ドイツはデンマーク・ノルウェー侵攻作戦である『ヴェーザー演習作戦』を発動。陸路、海路、空路からノルウェー及びデンマークに侵攻。デンマークは瞬殺され、ノルウェー軍は苦戦を強いられた。
    1940年4月10日、本国艦隊第1駆逐隊に転属。苦戦するノルウェー軍と現地のイギリス軍を支援するため、本国艦隊の護衛としてノルウェー近海に出撃した。
  • しかし、この時点でフランス戦線は電撃戦により崩壊しつつあり、この上更にノルウェーでもドイツ軍を相手にするのは不可能だと悟ったイギリスは、同地のイギリス軍将兵・ノルウェー王室・閣僚のイギリス本国に向けた脱出作戦を決行する。
     
  • 1940年6月、北ノルウェーの英軍兵士24500名を撤退させる『アルファベット作戦』が発動。撤退のための輸送船団は2組に分けられ、第2船団の護衛を受け持ったのが空母グローリアス、駆逐艦アーデント、そしてアカスタの3隻であった。
  • 1940年6月8日、撤退作戦実施に当たって、3隻からなる護衛部隊はとある目的により、輸送船団に先行して航行していた。
  • しかし運の悪い事に、ナルヴィクを支援すべくドイツが派遣した巡洋戦艦部隊(戦艦シャルンホルストグナイゼナウ、重巡アドミラル・ヒッパー、駆逐艦4隻)に発見されてしまう。
    かの艦隊は、連合軍が撤退中である事を看破しており、既に1つの船団を葬り去っていた。燃料補給のため重巡以下の艦艇はトロンヘイムに向かったが、残った2隻の戦艦が追跡してきた。
    イギリス軍は付近の海域でドイツ艦隊が活動していた事を知らず、まさに奇襲となった。グローリアスは第四種警戒体勢、つまり平時の巡航を行っていたため対応が遅れた。
    アカスタたちが接近する艦影に気付いたのは16時15分(ドイツ側より30分遅い)、これを敵として認識するのに5分を要した。
  • それでも快速の空母部隊なら逃げ切ることも可能……と思いきや、グローリアスは燃料節約のため、主機の1/3を停止させていた。そのため、全速力を出すことが出来ず、ドイツ戦艦部隊に距離を詰められてしまう。
    ノルウェーから引き揚げ中のイギリス軍機18機を収容しているところだったので、迎撃する事も出来ない。最悪のタイミングで攻撃を仕掛けられた格好となった。
  • だが、アカスタは勇敢に護衛任務を遂行した。16時58分、アカスタは煙幕を展開。グローリアスを煙霧の中に包み込んだ。煙の中に逃げられ、ドイツ戦艦2隻は17時20分頃まで砲撃を中止させられた。
    その間にもアカスタは、あちこちに煙幕を張り、敵から視野を奪っていく。
  • 17時32分、シャルンホルストから1回目の一斉射が行われる。もはや逃げることは不可能と悟ったアーデント、アカスタはドイツ艦隊へ突撃。
    空母グローリアスを敵の攻撃から庇いつつ、自らは果敢に敵艦隊へ切り込む。アカスタとアーデントの前に、グナイゼナウが立ちはだかった。砲撃戦を演じる2隻だったが、火力と装甲が釣り合っていなかった。
    それでも、シャルンホルストと合流させまいと奮戦し、グナイゼナウを引き付けた。やがて僚艦アーデントが被弾し、葬られる。アカスタは煙幕に紛れ、一度後退した。
  • 護衛対象のグローリアスはシャルンホルストによって大破炎上。余命幾ばくも無い状態と成り果てていた。18時30分、アカスタは燃え盛るグローリアスの後ろから2隻の戦艦に向かって突撃。
    せめて一矢報いんと、魚雷の発射体勢に入る。銃撃でシャルンホルストに軽微な損傷を与えるも、反撃してきたシャルンホルストの副砲がアカスタを殴り続け、次第に傷が深くなっていく。
    しかしアカスタは勇猛果敢に食い下がった。副砲だけではアカスタを止められず、シャルンホルストは本来対空用の高角砲まで使い始めた。生じた火花が流血のように散ってゆく。
    2隻の戦艦を横切り、一見すると命中不可能な角度から魚雷を4本発射した。シャルンホルストは苦も無く回避運動を取り、殆どの魚雷を避けた。
    だが、1本だけ発射位置が遠すぎて、他の魚雷より遅れて伸びてきていた。これがシャルンホルストの意表を突き、直撃した。なおドイツ側はアカスタの魚雷ではなく、英潜水艦によるものだと思っていた。
    これによりシャルンホルストは48名が戦死、速度も10ノット近く低下する損害を受ける。浸水も大規模で2500トンの海水が艦内に侵入。
    このダメージによりシャルンホルストは戦闘終了後、トロンヘイムに駆け込む事になる。
  • しかし、無力化された空母1隻と駆逐艦2隻では、戦艦2隻を擁するドイツ艦隊に対抗できるはずもなく、やがて集中砲火を受け、大破轟沈してしまう。1940年6月8日19時17分、臨終。
     
  • 海面には投げ出された生存者が900名ほどいたと言われる。季節が6月だったため気候も穏やかで、ノルウェー近海特有の嵐や暴浪も無かった。
    ドイツ艦隊は潜水艦を恐れて足早に退却。洋上には生存者だけが残された。だが彼らは楽観視していた。沈没までにグローリアスから緊急電が発信されていたので、じきに救助が来るだろうと思っていたのである。
    ところが、いつまで経っても救助が来ない。それもそのはず、グローリアスの緊急電は全て味方に届いていなかったのだ。2回ほどアーク・ロイヤルの索敵機が飛来し、生存者は必死に手を振ったが、彼らに気づかず飛び去ってしまった。運命に見放された彼らの末路は哀れだった。時間が経つにつれ、生存者は力尽きて絶命。海の中へと没していった。
    このとき重巡洋艦デヴォンシャーも近隣海域を航行しており、グローリアスの緊急電を受信していたが、このときデヴォンシャーはノルウェー王室や首相を乗艦させ、ドイツの手に落ちたノルウェーから脱出中であった。カニンガム提督は載せているものの重要性から、無線を遮断してイギリス本国へ帰還したため、救助に向かうことはなかった。

3日後、偶然通りがかったノルウェーの蒸気船ボルグンドによって39名が救助され、6月14日にフェロー諸島まで送り届けられた。
アカスタの生存者は161名中わずか1名(カーター上等水兵)だけであった。ノルウェーの漁船スヴァールバルⅡに5名が救助され、ドイツ軍の水上機に1名が救助されている。
1000名近くいた生存者は45名にまで激減していた。いかにこの漂流が過酷かつ残酷なものであったかを如実に語っている。

  • だが、シャルンホルストがアカスタの雷撃により損傷した事、加えて戦艦ロドニーレナウンの2隻が撤退作戦の援護に駆け付けた事から、ドイツ艦隊は追撃を諦め、護衛対象であった第2船団は無事英国へ辿り着くことが出来た。
  • アカスタの奮戦ぶりはドイツ艦隊にも感銘を与え、戦闘後、シャルンホルスト・グナイゼナウは半旗を掲揚し、アカスタの乗組員に弔意を示している。
     

余談

  • グローリアス一行が全滅し、多くの乗員が死亡した痛ましい事件。当然、乗組員の遺族や航空隊の将校が黙っていなかった。
    自らの選挙区に多数の犠牲者が出た下院議員リチャード・ストークスは彼らの叫び声を代弁した。1940年8月、彼は議会でこの問題を提示。グローリアスは何故貧弱な護衛のみで、船団から離れていたのか?
    海軍に対し追及を続けたが、戦時中は「軍機に属するため公開できない」とあしらわれた。公式回答が得られたのは戦後の1946年5月であった。
    「グローリアスは燃料不足だったため船団から分離し、直接イギリス本土へ帰還するよう命じた」というのが海軍の返答だった。だが、ストークスや遺族は納得しなかった。
    グローリアスは燃料不足になんかなってない。これにはチャーチル元首相すら疑問を投げかけた。回顧録には燃料は十分だったはずだ、と記されていた。
    将校たちの間には「燃料不足」は表向きの理由、裏に何かしらの理由がある、という噂が流れていた。だが公式発表である以上、覆す事は難しかった。