No19 レパルス/元ネタ解説

Last-modified: 2023-10-01 (日) 01:39:49
所属Royal Navy
艦種・艦型レナウン級巡洋戦艦
正式名称HMS Repulse (34)
名前の由来Repulse 英語で撃退、反撃という意味
愛称Repair
モットーQui Tangit Frangitur(Who touches me is broken)
起工日1915.1.25
進水日1916.1.8
就役日(竣工日)1916.8.18
除籍日(除籍理由)不明(マレー沖海戦/Sinking of Prince of Wales and Repulse 1941.12.10沈没)
全長(身長)242.0m
基準排水量(体重)27200英t(27696t)(1916)→32000英t(32513t)(1939)
出力Babcock-Wilcox式石炭重油混焼缶42基Brown Curtis式蒸気タービン2基4軸 112000shp(113553.4PS)(建造時)
最高速度32.0kt(55.56km/h)→31.0kt(55.56km/h)(1939)
航続距離15.0kt(37.04km/h)/9400海里(16668km)
→15.0kt(37.04km/h)/9400海里(16668km)(1939)
乗員967名(建造時) 1181名(1939)
装備(竣工時)15inch45口径Mk.I連装砲3基6門
4inch45口径Mk.IX三連装砲5基+単装2基17門
3ポンド40口径砲4門
21inch四連装魚雷発射管8門
艦載機x4
装備(1941)15inch45口径Mk.I連装砲3基6門
4inch45口径Mk.IX三連装砲4基12門
4inch45口径Mk.XVIII高角砲6基6門
2ポンド機関砲x24(3x8)
エリコン20mm機関砲x6
ヴィッカース0.5inch機関銃x16(4x4)
21inch四連装魚雷発射管8門
艦載機x4
装甲舷側:3~6inch 甲板:1~2.5inch 砲塔:7~9inch バーベット:4~7inch 艦橋:10inch 隔壁:3~4inch
→舷側:2~9inch 甲板:1~4inch 他は同じ(1939)
その他ゲームとの性能違い魚雷発射管を装備しているがゲーム中では発射しない
建造所John Brown and Company, Clydebank, Scotland
(ジョン・ブラウン社 スコットランド国ダンバートンシャー郡ウェスト・ダンバートンシャー州クライドバンク市)
  • レナウン級巡洋戦艦の二番艦として就役。第一次大戦に参加した後近代化改修は受けたが、姉レナウンほどの大々的な改修ではなかった。
    第2次大戦ではその高速を活かして船団護衛などに従事したが、太平洋側の情勢が不穏になると新鋭プリンス・オブ・ウェールズと共に東南アジアへ進出。
    南方進出を開始した日本軍を攻撃するため出撃したが、マレー沖で航空機による爆撃・雷撃を受けて沈没した。
     
  • 1914年に計画されたR級戦艦レパルスの予算を流用して建造が決定。当初はR級戦艦の6番艦として建造される予定だったが、一旦発注が取り消される。
    1914年12月に生起したフォークランド沖海戦でインヴィンシブル級巡洋戦艦が活躍した事を受け、巡洋戦艦に艦種を変更。設計を変更した上で建造を再開した。
    クライドバンク造船所に船体と機関を発注し、1915年1月25日に起工。1916年1月8日に進水し、同年8月18日に竣工した。建造当時から、世界で最も美しい軍艦の一隻と称されていた。
    レパルスには「反撃」「拒絶」といった意味がある。
  • 1915年、第一次世界大戦に参加。最初の二年は最前線に赴く事は無く、第一戦艦部隊の旗艦として北海で過ごした。
    イギリス海軍が敷設した機雷群を掃海しようとするドイツ軍部隊の撃滅にレパルスが投入される。煙幕を張って退却するドイツ艦艇を追撃したが、1917年11月、ドイツ戦艦カイザーとカイゼリンの逆襲を受ける。
    濃霧にまぎれて何とか退却し、追撃から逃れられた。
    この戦闘でレパルスは15インチ砲を54発発射し、速度を落としたドイツ軽巡洋艦に一発の命中弾を与えている。
  • 1918年11月21日、降伏したドイツ艦艇群をスカパフローで目撃する。後にドイツ艦は一斉に自沈した。
  • 1918年12月27日から1921年1月1日にかけて第一次改装を実施。甲板を追加して防御力を向上させる。工事を終えた後、フッドとともにリオ・デ・ジャネイロへ入港し、ブラジルの建国100周年を祝う式典に参加。
    そして南アフリカや南米を訪問しつつ巡航。その間にも兵装の改良が加えられた。
    ブラジルへの訪問を終えた後、5隻の軽巡洋艦とともに世界を一周する事に。1923年12月、最初にフリータウンを訪問。次にケープタウンとザンジバルを訪問した。
    1924年3月、オーストラリアに到着。オールバニー、アデレード、メルボルン、タスマニアを巡航。翌月にはシドニーを訪問、そしてニュージーランドのウェリントンにも訪問した。
    5月、ウェリントンを出港し、太平洋方面の信託統治領を転々とする。サマラ、フィジー、スヴァ、サモアを歴訪し、6月にコロンビアへ入港した。その後、伴走の軽巡5隻は南アメリカ訪問のため分離。
    レパルスは単身北上し、7月にバンクーバーへ寄港した。9月、パナマ運河を通過して大西洋に戻り、ポーツマスへ帰投。世界一周の旅を終わらせた。そして機銃を換装する工事を受けた。
  • 1924年10月、イギリスの皇太子を乗せて南アメリカと南アフリカを訪問。1926年、大西洋艦隊に所属し、訓練に従事。その最中、搭載機が事故を起こし、2名のパイロットが死亡した。
  • 1934年から36年にかけて第二次改装を実施し、航空兵装を得た。4.5inch連装高角砲を搭載したがテスト用のためすぐに撤去。排水量が3万8300トンにまで増加。完了後、地中海艦隊に配備された。マルタ島を拠点に訓練を行う。
  • 1936年7月よりスペイン内乱が勃発。イギリスは世界大戦の引き金になりかねないとして義勇軍は送らなかった。代わりにレパルスを派遣し、マルセイユから脱出する難民400名以上を避難させた。
  • 1938年7月、パレスチナ方面の不安要素を除去するためハイファへ向かう。10月にはカナダを訪問する王室の護衛に選ばれた。王室が乗っても遜色ないよう、内装を豪華なものにする改造が行われた。
     
    第二次世界大戦の生起
  • 1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発。本国艦隊所属として対独戦に参加する。ドイツ海軍の通商破壊艦がアイスランド近海で待ち伏せていると考えた海軍本部は、本国艦隊を西方へ送り出した。
    レパルスは航路を見張り、通商保護に努めた。スカパフローで補給を受けつつ、ずっと目を光らせ続けた。23日、本国艦隊はスカパフローへ帰投した。
  • 10月1日、ドイツ軍の空爆から逃れるためスカパフローを出港。索敵を行ったあと、13日にロサイスへ入港した。16日、そのロサイスにドイツ空軍のJu-88急降下爆撃機2機が飛来。開戦以来、初の英国本土爆撃である。
    レパルスが入渠していた造船所は攻撃されなかったが、僚艦とともに対空砲火を放った。
    駆逐艦モホークが急降下爆撃を受け、16名が死亡。44名が負傷した。やがてJu-88はスピットファイアに撃墜され、戦闘は終結。レパルスの乗員はモホークの乗員を救助している。18日、北海で船団護衛を行うためロサイスを出発した。
    同年10月下旬、航空機をハリファックスまで輸送。そしてドイツ艦を求めて索敵を始めた。
    11月23日、英仮装巡洋艦ラワルピンディを撃沈したドイツ戦艦シャルンホルストを捜索するも、逆に味方の仮装巡洋艦が沈められる。
    これに危機感を覚えたレパルスと英空母フューリアスはノルウェーから脱出しようとしたが暴風により港への反転を余儀なくされる。本国へ帰還できたのは12月10日だった。
    28日、戦艦バーラムと哨戒任務に就くが、バーラムが触雷し損傷。
  • 1940年2月、ドイツの封鎖突破船を捜して哨戒。3月19日からは姉妹艦レナウンとともに北方海域の哨戒に従事。4月9日からはロフォーテン諸島沖を警備した。
    17日、スタヴァンゲル沖で被雷大破した重巡サフォークを救援。スカパフローまで連れ帰った。
    5月からドイツのノルウェー侵攻が始まり、これを阻止するためレパルスも出撃。グローウォームが発見したドイツ艦隊を攻撃しに向かったが、既にグローウォームは沈没。
    姉妹艦レナウンと合流するよう命令を受けて離脱した。ドイツ軍にとってレナウン級2隻の存在はかなり厄介であったが、イギリス軍が見当違いな場所へ2隻を派遣したためドイツ軍は助けられた。
    スカパフローで燃料補給した後の6月中旬、ドイツ艦を求めて北大西洋を遊弋した。
  • 7月29日、スカパフローへ入港。翌日には駆逐艦とともに低角及び高角の射撃訓練を実施した。8月の間はスカパフローでひたすら訓練に従事。
    9月7日、アイスランド東方で掃討任務に従事。翌10日の21時半にスカパフローへ帰投した。10月23日、訓練を終えて出撃。ノルウェーの沿岸でドイツの輸送隊を襲撃した。
  • 1941年1月25日、グナイゼナウを始めとするドイツ大型艦の出現に伴ってネルソン等とともにスカパフロー出港。2月8日、H部隊に編入され、ジブラルタルへ進出。
    北大西洋で暴れるシャルンホルストやグナイゼナウの攻撃から、フリータウン・リヴァプール間の航路を守るよう命令される。ジブラルタルに寄港した後、駆逐艦を伴ってフリータウンに向かった。
    3月27日17時、ダカールの西方200マイルで護送船と合流。殿を務めてフリータウンへ到着した。4月からはマルタ島へ戦闘機を輸送する空母の護衛を務めている。
    5月にはドイツ船の捜索を行っているが、発見できず。その後、フッドを撃沈したビスマルクの追撃戦に参加。しかし5月25日に燃料切れとなり、退却せざるを得なくなった。
    6月から8月にかけて小改装。レーダーの搭載と武装の交換を行った。8月頃、ロンドンの省庁や共同企画委員会では極東方面の戦力増強が急務となり、議論された。
  • チャーチルと国防相はキングジョージ五世級戦艦デューク・オブ・ヨークとレナウン級巡洋戦艦一隻、空母一隻の派遣を提案したが、海軍大臣に却下された。
    新鋭のキングジョージ五世級は、ノルウェー北方に鎮座するティルピッツ対策のためスカパフローから動かせなかったのだ。
    そこでチャーチルは、高速戦艦を中心とした遊撃部隊を派遣して抑止力にしろと強く主張した。
    最終的にキングジョージ五世級のプリンス・オブ・ウェールズとレナウン級巡洋戦艦レパルス、空母インドミダブル、駆逐艦エレクトラ、エクスプレス、エンカウンター、ジュピターの派遣が決まった。
     
    大日本帝國の脅威
  • 浅間丸事件により対日関係が悪化し、日本の参戦が現実味を帯びてくると東南アジアの資源地帯を守るため、レパルスは東インド艦隊に編入される。
    • イギリスにとってシンガポールは東南アジアの重要拠点で、有事の際は有力な艦隊を派遣すると繰り返し表明。
      日本の攻撃を受けやすいシンガポールに艦隊を派遣するのは危険だとする意見もあったが、艦隊派遣により日本への威圧や、自治領・友邦諸国を鼓舞できるとしてチャーチル首相や外務省は派遣を強く望んでいた。
    • また、開戦前の1938年末から始められた米英の太平洋共同作戦計画では「対日戦生起の場合、イギリスはシンガポールに艦隊を派遣し、アメリカはハワイに艦隊を集結させて作戦を行う」という基本方針が定められていた。
      東南アジアへの艦隊派遣は織り込み済みのものだった。
  • レパルスの極東方面投入はチャーチルの指示とされるが、一方で誰が指示したのか分からないという説がある。8月29日、護衛と輸送船団を伴ってスカパフローを出港。極東方面へ向けて航海を始めた。
    本国艦隊からレパルスとプリンス・オブ・ウェールズが引き抜かれ、欧州方面の戦力が低下した。翌日、グリーノックへ到着。現地でレーダー等の新装備を搭載した。同時にインド洋で活動するハーミス等への物資も搭載。
    ここまで乗員は航海の目的を解していなかったが9月6日、テナント艦長より、レパルスが東インド艦隊に編入された事と目的地への到着日が知らされた。
    11月5日、ダーバンに寄港。南アフリカの首相ジャン・スメッツがレパルスを訪問し、乗員と触れ合った。8日、輸送船団WS12とともに出港。インド洋を横断する。
    13日、ジャマイカ島近海でインドミダブルが座礁し、合流出来なくなってしまう。このため空母を欠く事になったが、これが後のレパルス死亡の遠因となる。
    代わりに小型空母ハーミーズの投入が決定するがターバンで修理中だったため、どのみち空母は欠いたままだった。
    11月22日、セイロン島コロンボへ入港。同月27日、トリンコマリに回航。ここで日本側の監視網に引っかかり、レパルスとプリンス・オブ・ウェールズの出現を知られる事になる。
    日本軍はこの脅威に対抗するためインド及び中国方面に一式陸攻を配備し、26本の魚雷を補充した。この事を受け、急遽シンガポールへの回航を決める。
    29日18時、トリンコマリを出港。道中でテナント艦長による鼓舞が行われた。
  • 1941年12月2日午後、艦隊はジョボール東水道を通り、シンガポールへ到着。2隻の巨体がセレター軍港に接近すると、陸岸の大衆から歓声が上がった。
    出迎えの大衆の中にはマレー駐留陸軍中将パーシバルの姿もあった。プリンス・オブ・ウェールズとともにZ部隊の基幹となり、乾ドックへ入渠した。
    艦隊は本国より「シンガポール到着の際は派手に宣伝せよ」と命じられていた。このためシンガポール駐在の各国報道関係者が招待され、艦艇が公開された。
    無論、これらには日本や反英運動に対する牽制・恫喝の意味合いがあった。また、艦隊のシンガポール入港はチャーチル首相によって世界中にラジオ放送され、大々的に喧伝。
    「プリンス・オブ・ウェールズ以下の主力艦群と護衛艦艇群がシンガポールに到着した」と声高に宣言したのだった。これに呼応して現地の司令官ジョフリー・レイトンもラジオに出演。
    戦艦群の到着によりシンガポールの防衛が磐石なものになったと自信たっぷりに言い放った。シンガポールの新聞各紙もレパルス達の事を取り上げた。
    「これはシンガポール、マレーにとってばかりでなく、太平洋地域のあらゆる民主国家にとって偉大なニュースである!日本の海軍行使力の野望は、これで微塵に砕かれた!」
    ある記者はこう断言した。「極東に派遣されたイギリス艦隊の戦力は、日本近海に決して存在した事が無い程のものであり、実際問題として日本海軍が抱いていたであろう貪欲な願望は、すべて、現実味を失ったのである」と。
    軍部の意向もあったが、この大規模な宣伝は準戦時下では考えられないものだった。
    一方で、イギリスは強かだった。プリンス・オブ・ウェールズに関しては実名を使って報道しているが、レパルスの艦名は伏せられた。
    「主力戦艦」や「護衛艦艇」と表記する時は必ず複数形にするよう指示も出されていたという。イギリス海軍なりに隠蔽工作を行っていた訳だが、それは簡単に見破られた。
    当時、マレーには多数の日本人が住んでいた。いくら言葉による隠蔽を行っても、実際に艦隊を見られては隠しようが無い。Z部隊の真の姿はすぐに日本の諜報部に知られた。
    そして、何故このように事実以上の大規模な宣伝をしなければならないのかを日本軍は既に看破していた。
    入港の前日、日米交渉決裂必至としてイギリス極東方面軍はマレー全域に非常事態宣言を出していた。並々ならぬ緊張が、極東を支配していた。
    シンガポール入港後、英軍令部はレパルス及びプリンス・オブ・ウェールズを東方海域に回航するようフィリップ提督に命じた。
  • 同日、フィリピンの米哨戒機が仏印沖を南下する日本潜水艦12隻を発見、またカムラン湾に21隻の輸送船が集結している事を報告してきた。
    この報告を受けてイギリス海軍本部は再びフィリップ提督に、2隻の戦艦を出港させるよう促すと同時にマニラで米アジア艦隊司令ハート大将と会談し、増援を請うよう命令。
    4日、フィリップ提督はマニラに飛んでハート大将と会談。しかし何故かプリンス・オブ・ウェールズを出港させず、レパルスと護衛のテネドス、ヴァンパイアだけをオーストラリアに回航。
    レパルスだけを出港させた理由は未だ不明である。この日、日本側の偵察機が飛来し、Z部隊の位置を知られる。
  • フィリップ提督は現状の戦力だけでは力不足とし、本国にリヴェンジ級戦艦リヴェンジとロイヤル・サブリン、クイーンエリザベス級戦艦ウォースパイトを12月20日までに派遣するよう求めていた。だが、これは間に合わなかった。
  • 5日、護衛の駆逐艦とともにダーウィンへ回航されていたが翌6日13時30分、シンガポールに呼び戻される。
    オーストラリア空軍のロッキード・ハドソンがインドシナ半島南端のカマウ岬南東150キロの地点で西進中の日本船団を発見したのだ。マニラ訪問中だったフィリップ提督も急遽シンガポールに引き返した。
    この発見は日本側に大きなショックを与えたが、イギリス側にも警鐘として知れ渡った。船団はシャム湾に向かった公算が大として、直ちに影響は無いと考えた。
    6日の夕刻、3機のロッキード・ハドソンがコタ・バルを離陸。南シナ海を偵察し、日本艦隊の侵入を報告してきた。
    輸送船団がシャム湾へ向けて移動している事、中国大陸の南東で戦艦金剛と10隻の駆逐艦が活動中である事等がレポートにして纏められ、提出された。
    決戦の時が刻々と迫っているのが肌で感じられた。
    日本船団の出現は、イギリスの攻撃を誘って開戦の口実にするものと考えられたため手出しはせず、偵察だけに留めた。が、悪天候により見失う。
  • 12月7日、レパルスはシンガポールに入港した。この日も悪天候で、日本船団の動きが中々分からなかった。かろうじてシンガポールからカタリナ飛行艇が2機飛び立ち、索敵を行った。
    しかし何の戦果も挙げられなかった上、1機が未帰還となった。その1機は哨戒の零式水偵に発見され、撃墜されていたのである。これが日本軍機によってもたらされた、イギリス軍初の犠牲だった。
    何の対策も打てないまま、遂に12月8日を迎えてしまう。
  • 南下してくるであろう帝國海軍を迎撃するため、レパルスは戦備を整える。レパルス乗員の士気は高く、どれだけ敵艦を沈められるか盛り上がっていたという。また二年以上訓練を積んだだけに絶対勝てると、強い自信も抱いていた。
     
    日出づる帝國との戦い
  • そして大東亜戦争が勃発し、帝國陸海軍の侵攻が始まる。12月8日午前4時、シンガポールに17機の日本軍機が襲来。英空軍司令部付近や商港を爆撃していく。
    戦闘機隊は錬度不足のため出撃が控えられた。夜空を貫く一条のサーチライト。それが1本、2本と次第に増えていく。そして工廠地区のサイレンが鳴り響き、高射砲部隊が応戦し始める。
    レパルスは対空砲火を放って迎撃。1機も撃墜できなかったが、艦艇への被害も許さなかった。
    初攻撃を乗り切ったZ部隊は早速作戦を立てる。フィリップ提督はシンガポールの極東軍総司令部で航空援護を求めた。だが極東方面の航空機は乏しかったため中々結論が出なかった。
    ソ連への支援に航空機を回していたため、極東方面には計画の半数にも満たない数しか無かったのだ。更にマレー半島東岸にあるイギリス軍の航空基地は片端から爆撃されており、コタ・バルの飛行場は既に放棄された。
    作戦会議中は常に重苦しい空気が漂っていたという。15時50分、埒が明かないとしてウェールズに戻り、艦内で作戦を練った。
  • 同日17時35分、Z部隊はシンガポールを出撃し北上を開始した。雲一つ無い、蒸し暑い天気だった。艦隊は17.5ノットの速力で航行する。レパルスには従軍記者が乗り込んでいた。
    この時、何故かプリンス・オブ・ウェールズは疫病神扱いされており、一緒に出撃したレパルスの乗員は「これで我がレパルスも終わりだな・・・・・・」と呟いたらしい。
    一方、帝國海軍の動きは早かった。前日のうちに特設敷設船辰宮丸がアナンバス諸島とチオマン島の間に機雷を敷設していた。この機雷原のせいでZ部隊はマレー半島沿いに北上する事が出来ず、アナンバス諸島の東側に迂回するルートを取った。
    マレー上陸作戦と時を同じくして、帝國海軍は真珠湾攻撃を敢行。協力相手の米艦隊を叩かれ、連携をズタズタにされた極東軍は寡兵で敵に挑まなければならなくなった。
  • 一方で、この二大戦艦の存在は帝國陸海軍にとって大きな脅威となった。レパルスとプリンス・オブ・ウェールズが第25軍の船団を攻撃するかもしれないと大いに恐れていたのである。
    手持ちの艦船では太刀打ちが難しく、まさに死神の如き存在だったのだ。このため日本側は小型艦艇を繰り出し、夜襲に全てを賭けるという犠牲覚悟の悲愴な作戦で挑まなければならなかった。
  • ところが12月9日、遊弋するZ部隊を伊65が発見。魚雷は全て外れたものの、これによりZ部隊の所在がばれ、運命のマレー沖海戦へと繋がっていく。
    Z部隊の所在を知った日本軍首脳部は愕然とした。偵察機の報告によると二大戦艦はシンガポールに停泊しているはずだったからだ。
    潜水艦と偵察機の報告が食い違う中、小沢司令官は伊65に確認電報を打った。返答は「一番艦は新型戦艦、二番艦はレパルス型に間違い無し」だった。
    彼は決断した。船団に退避命令を出すと、基地航空隊に全力出撃を命じたのである。のちに鳥海艦上で偵察写真の拡大が行われ、レパルスと思われた艦は大型商船だった事が判明。
    小沢司令官の予感は的中した。
    • 12月9日、大東亜戦争勃発に伴って伊65はマレー沖に進出していた。敵主力艦2隻がシンガポールより出撃してきた場合、これを撃滅するよう命令を受けていた。
      この日の朝は悪天候で、数十分ごとにスコールが発生して視界は極めて悪かった。陸軍のマレー東岸上陸を支援しつつ、目を光らせる伊65。午後3時15分、潜望鏡に2つの黒点が映った。
      この黒点は次第に大きくなり、北方へ向けて悠々と航行していた。この黒点こそ、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスであった。
      不幸な事に、伊65がZ部隊を発見したのは視界ギリギリのところを航行していたからだった。もし数海里、東に寄っていれば発見されなかったのである。
      直ちに敵艦発見の第一報が放たれ、サイゴン基地に届けられた。サイゴンから航空隊が出撃したが、日没が迫っていた事もあって攻撃の機会を逃した。
      日が暮れてもなお、伊65はZ部隊の追跡を続けていた。しかしスコールに阻まれて100メートル先も見られない。そして遂には敵艦を見失ってしまった。
      だが、伊65はしぶとく喰らい付いた。執念の捜索の末、午後6時半に再び敵艦隊を捉えた。闇夜に紛れつつ、浮上した伊65は隠密に接近したが、Z部隊には通用しなかった。
      艦尾より敵の艦載機が2機発進し、殺到してきたため急速潜航をせざるを得なくなった。結果、また敵艦を見失ってしまう。
      翌日午前3時40分、伊58がZ部隊を発見し通報。サイゴンの航空隊は出撃準備に取り掛かるのだった。
  • 12月9日昼過ぎ、サイゴン基地の兵舎では航空隊の指揮官たちが汗まみれになりながら作戦を練っていた。レパルス及びプリンス・オブ・ウェールズを如何にして撃沈するか。
    それが急務であった。シンガポール軍港の奥深くに鎮座する二大戦艦を暴れさせては、皇軍に極めて不利になる。妙案が思いつかず、一時は沈黙が支配する中、潜水艦より敵艦発見の報が届いた。
    日没まで1時間ほどしか無かったが、搭乗員たちは喜び勇んで基地を飛び立った。しかし天候は悪く、分厚い雲が空を覆った。更に雪やスコールに見舞われ、目的地点に到達した頃には既に敵艦はいなかった。
    まんまと逃げられたと知り、航空隊の面々は肩を落として基地に帰投した。上官から睡眠を取るよう命令されたが、明日こそは仕留めねばと考えると誰も眠れなかった。
    21時30分、哨戒中だった美幌第二中隊が敵味方不明の艦影を確認。照明弾を投下し、攻撃体勢に移ったところ、艦影の正体は南遣艦隊の鳥海である事が判明。すんでの所で同士討ちを回避した。
    日付が変わって10日午前3時40分、再び潜水艦から報告が入った。各搭乗員はすぐに愛機へ飛び乗り、追跡の準備を始める。
    敵の強大な艦隊が相手という事で、司令官からは「皆、死んで帰るのだ」との訓示があった。だが搭乗員は臆せず「はい、死んで帰ります」と力強く返答した。
    また、別の搭乗員は「雷撃しに行ったら、60~70%はやられる」と言われたという。各々が死の覚悟を抱いて、サイゴンから飛び立っていった。
    午前6時25分、サイゴン基地より元山航空隊所属の偵察機9機が出撃。11時45分、Z部隊を捕捉。ついに決戦の火蓋が切って落とされた。
    その頃、連合艦隊旗艦の戦艦長門では、山本五十六長官が「レパルスは撃沈できるが、プリンス・オブ・ウェールズは大破だろう」と発言。
    これに対し三和作戦参謀は2隻とも沈めると反論。山本長官は自論が現実のものになるとして、ビール10ダースを賭けたという。
  • 一方、Z部隊はシンガポール出港後、日本船団を攻撃するため遊弋していた。フィリップ長官は奇襲を以って船団を撃滅しようと考えていたようである。
    Z部隊の上空に空軍機の姿は無かった。フィリップ長官が空軍への支援要請をしなかったからだ。当時、行動中の戦艦を航空機で沈めるのは不可能とされていた。
    何せ、2年以上も戦い続けてきたドイツ空軍ですら、イギリス艦艇を1隻も撃沈できなかった。東洋の黄色い猿如きが紙飛行機を繰り出してきたところで知れていると長官は思っていた。
    日本軍の猛攻で無事な航空隊がシンガポールにしか無いという実情も、この判断を後押しした。重要拠点の防空体制を疎かにする訳にはいかないのである。
    9日、旗艦プリンス・オブ・ウェールズのレーダーが日本側の水上偵察機を捉えていたが船団への攻撃に変更は無かった。明朝に輸送船団へ攻撃をかけるが、
    厄介な相手、戦艦金剛と遭遇した時は優先的にこれを攻撃し撃滅せよ、との命令が下った。午後6時30分、燃料が不足気味な駆逐艦テネドスを離脱させる。
    9日午後9時45分、日本側の偵察機に発見されたため、作戦を中止しシンガポールに帰投しようとした。戦力を再編成する必要があると考えたからだ。
    レパルスのテナント艦長は「勇気ある決断」と、フィリップ提督の方針に賛同した。
    が、10日午前1時にシンガポールのパルサー参謀長から日本軍がクワンタンに上陸したとの情報(実は誤報だった)を受け、奇襲を仕掛けるべくクワンタン沖に舳先を向けた。
    退却から転じて攻撃に移ったため、かえって空襲圏内に留まってしまう結果となった。夜明けを迎えた頃、日本軍のコタバル上陸を知らされ、急遽コタバルへと進路を変えた。
    午前6時27分頃、Z部隊のレーダーは4つの反応を探知。正体を確かめるべく接近してみると貨物船だった。午前8時15分、ウォーラス偵察機を発進させてクワンタンを偵察したが、日本軍の姿は無く平穏だった。
    念のため駆逐艦エクスプレスが海岸を偵察してみるも、やはり日本軍はいなかった。ここで誤報だと知り、Z部隊は午前10時30分頃にシンガポールへの帰路についた。
    レパルスから発進したウォーラス偵察機はそのまま飛行させ、対潜任務に当たらせた。何とも貧相な上空支援であった。
    午前11時13分、艦隊から分離した駆逐艦テネドスが日本軍航空隊に発見され、爆撃を受ける。午後12時14分にも元山航空隊から攻撃を受けた。
    元山航空隊はテネドスをレパルスと見間違え、500kg爆弾を投下したが命中しなかった。その後、テネドスは無傷で振り切り、シンガポールへと生還した。
    日本側は中々Z部隊の位置を掴めなかったが午前11時45分、遂に発見される。報告を受けた司令部は展開中の攻撃隊に電文を送信し、Z部隊に殺到する事となる。
     

運命のマレー沖海戦

  • 翌10日午後0時45分、マレー半島クワンタン沖でサイゴンより発進した日本航空隊の空襲を受ける。この時、レパルスは艦隊の殿を務めていた。対空砲で迎撃し、5機を損傷させる戦果を挙げる。
    艦齢こそ25歳と古く防御性能も低かったが、度重なる改装により装備は新鋭艦プリンス・オブ・ウェールズに匹敵。独伊軍相手に戦闘してきただけに性能も十分だった。
    プリンス・オブ・ウェールズや5隻の駆逐艦も負けじと対空砲を撃ち上げ、日本軍機の上下左右に高角砲弾が炸裂した。
    石原中隊と高井中隊の九六式陸攻16機が雷撃し、8本の魚雷が向かってきたが、レパルスはこれを全弾回避。雷撃後、大竹一飛曹はレパルスのマストに接触するほどの低空で航過した。
    その際、甲板上を走り回るレパルスの水兵が目に焼きついたという。爆弾や魚雷だけでなく、機銃でさえもレパルスを狙った。
  • そんな中、250kg爆弾1発を受け、格納庫を貫通して爆発。多くの死傷者が出た。火災を知らせる報告がラウドスピーカーを伝って艦内に響く。
    灰黒色に塗られた艦体から、赤褐色の火炎が噴き出し始める。延焼を防ぐため、艦載機を隅へ寄せた。爆風でダメージコントロール要員に多くの死者が出たため、中々鎮火させる事が出来なかった。
    カタパルト上にあった水上機が炎上、海中投棄を行っている。この被弾で最も手痛かったのは、高圧蒸気管が破裂した事だった。
    被弾してもなおレパルスは25ノットの快足を発揮。激しく抵抗し、空を切り刻む対空砲火で2機を撃墜、11機に損傷を与えた。
    日本側も決死の覚悟で喰らい付き、傷だらけになりながら突っ込んでくる。高々と築かれる水柱がレパルスを覆い、死闘の様相を如実に表す。
    レパルスは左に回頭しながら回避運動を行った。そして進路をシンガポールへ向け、何とか空襲から逃れようと必死に逃げ回った。
  • 防戦一方な戦況を憂慮したテナント艦長は無線封鎖を破り、空軍に支援を要請した。だが、コタバルの空軍司令部は後退し、機体数も帝國陸軍の爆撃で減少。すぐには援護を受けられなかった。
    13時20分、レパルスからの連絡を受けたシンガポールは戦闘機一個中隊10機を支援に向かわせた。これが今、出せる機体の全てだった。
    同時期に美幌航空隊第四中隊が現れ、8機の九六式陸攻がレパルス攻撃に加わった。当初、第四中隊はレパルスを金剛だと思い込んでいたが、撃たれた事で敵艦だと認知。
    ウィリアム・テナント艦長による巧みな操艦で魚雷攻撃を全て回避し、歴戦の猛者である事を誇示した。プリンス・オブ・ウェールズが被雷し、スクリュー軸に異変を起こしている頃、
    レパルスは第二中隊機に包囲され、周囲をぐるぐる飛ばれていた。この間、攻撃は無かった。実は第二中隊はレパルスを金剛ではないかと疑っており、逡巡していたのである。
    旋回してじっくり見てみると金剛ではない事が分かり、攻撃を再開。老練なテナント艦長は右への回頭を続ける事で、対空砲の発射点を掴ませない巧みな戦法を実施した。
    13時37分、宮内七三少佐率いる鹿屋航空隊が現れる。皮肉にも、彼らを導いたのはレパルスから発艦した、ビル・クローザー准尉のウォーラス水上機であった。
    対潜哨戒の報告をレパルスに行うため、艦隊に向かっていたところを追跡されたのだ。日本軍機の攻撃が始まると対空砲の射程圏外へと逃げ、シンガポールに遁走した。
    途上で燃料切れを起こし不時着水するが、シンガポールから発進した捜索のカタリナ飛行艇に発見され、続いて救援に現れた駆逐艦ストロングホールドに曳航される事で生還した。
  • 攻撃が一旦止んだ後、乗員たちは日本軍搭乗員の練度の高さに感嘆した。日本人はイタリア空軍以下の土人だという認識を改める必要があった。
    火災が発生していたものの未だ速力20ノットを発揮する事が出来、レパルスは健在だった。新鋭艦プリンス・オブ・ウェールズが重傷だったのに対し、まだまだ戦える状態だったのだ。
    レパルスは瀕死のプリンス・オブ・ウェールズに接近し、発光信号で色々と尋ねたが反応が無かった。テナント艦長は旗艦の動きと傾斜角度から損害を推定。
    14時28分、再びシンガポールに緊急電を発した。プリンス・オブ・ウェールズのマストに不吉な黒球が2つ上がった。「我、行動の自由を失えり」の信号だった。
    間もなく、Z部隊は死神に憑りつかれる事になる。
  • 増援に現れた26機の一式陸攻に雷撃され、1本が命中。機関室が浸水すると速力が低下し、恰好の的となる。左右から魚雷が迫り、立て続けに4本の魚雷を喰らって致命傷を負う。
    決死の反撃で2機を叩き落としたが、もはや沈没の運命から逃れる事は不可能に見えた。それでも諦める事無く、対空砲は火を噴き続けていた。
    だが艦の沈没を悟り、テナント艦長は静かに「総員退艦」を命令。その直後、すぐに傾斜が始まった。旧式だったレパルスは被雷後、わずか4分ほどで沈没してしまった。轟沈である。
    断末魔の黒煙だけを残し、海中にその身を没した。テナント艦長以下約800名が救助された。
    レパルスの沈没を知るや、鹿屋空第三中隊長・壱岐大尉の機内では万歳が連呼され、乗員たちが手を握り合った。そしてワインをホーローのコップに注いで乾杯したという。
  • 空襲開始から1時間10分で、その姿を海中に没した。乗員508名が犠牲となった。二大戦艦の沈没は、ロイヤルネイビーの落日を示し、世界に大艦巨砲主義の終焉を知らしめた。
    イギリスの駆逐艦が救助を終えるまでの30分間、帝國海軍の航空隊は手出しせず待ったという。しかもその駆逐艦に「仲間を救助せよ」と信号を送り、エスコートまで行った。このため犠牲者の数が抑えられた。
    日本側の航空隊が退却した後、シンガポール航空隊のバッファロー8機が入れ替わりで駆けつけたが、全てが遅かった。
    とあるイギリス軍パイロットは、手を振ったり、サムズアップをして「しっかり頼むぞ」「後は任せた」と伝える日本軍搭乗員を目にしたという。
    海面に浮かぶ水兵の誰もが機銃掃射を恐れていたが、どの機も発砲せず見守るだけだった。この行為にイギリス軍パイロットは「私の心は揺さぶられた、ここには人間性を超越したものがあった」と感銘を受けた。
     

常識を変えた海戦のその後

  • レパルスとプリンス・オブ・ウェールズの撃沈を知ったチャーチル首相は最大の衝撃を受け、ベッドの上で身悶えたと伝わる。
    前大戦のスカゲラク海戦以上の損害で、ロイヤルネイビー創設以来最大の打撃を喰らったチャーチル首相は冷静さを失い、外套や帽子も持たずに議会へ駆け込み、前置きの挨拶も忘れて報告を始めるという狼狽っぷりであった。
    特に、不可能とされた作戦行動中の戦艦を航空機で沈めたという事実に焦燥を隠しきれなかった。
    「従来の海軍作戦は完全に覆された」と、首相は絶望を含んだ声色で叫んだ。
    ロンドン来電によると、下院でプリンス・オブ・ウェールズ及びレパルスの撃沈について問われた時、チャーチル首相は「マレー地区駐屯のイギリス空軍は
    事前に各地の飛行場を日本軍によって破壊されていたため、両艦の救援に急行する事が出来なかった。更に同方面のイギリス空軍は期待に副うほど強力ではなかった。
    これはマレー地区の別方面についても同じである」と弁明している。
  • イギリス国民は消沈し、内務省の週間ニュース調査報告は「2隻の沈没はダンケルク敗北以来の最悪のニュース」と報じた。オブサーバー紙のガルビン記者は「私の生涯で最も悲しいニュース」と書いている。
    シンガポールの新聞も「(2隻の喪失は)信じがたいニュース」と伝えた。
    イギリス本国のイブニング・ニュースは「航空機の危険性を過小評価していた態度を根本的に変えねばならない、軍艦の生命は最早装甲の厚さより艦隊自身の空軍強化にある。
    我々はこの大なる警告を受けるため、実に高価なる代償を払ったのである」とした。マレーの人々は2隻の派遣で万事安泰と思っていたため、現地の人間もまた大きなショックを受けたのだった。
  • イギリス極東軍にも、レパルス乗員の生き残りがシンガポールに到着した事で、大敗北の仔細が知れ渡った。トランス・オツエアン通信はストックホルムからこう報じた。
    「両艦の撃沈は、今後の戦局に重大な影響を持つものとして、失われた自信を早く回復させねばならぬ」。
  • マレー沖海戦が日本の大勝利に終わった事で、タイ国が対日協力に踏み切ったとされている。
  • この一件で刺激を受けたヒトラー総統は、ゴーテンハーフェンで放置されていた未完空母グラーフ・ツェッペリンの建造を再開したという。
    • 英仏海峡突破作戦ことツェルベルス作戦(またの名をチャンネルダッシュ)を目前に控えていたレーダー提督は、イギリスの戦艦が航空攻撃で沈められたと聞き、
      主力艦の喪失を極度に恐れるようになった。シャルンホルスト、グナイゼナウ等の主力艦がイギリス空軍の手にかかる光景が脳裏に浮かんだのだろう。
  • マレー沖海戦の朗報を聞き、日本人は喜んだ。さらにマレー人、タイ人、インドネシア人、インド人、親日中国人も飛び上がって喜び、日本人が呆気に取られたとか。
    • この勝利は、12月10日午後4時に大本営によって発表された。戦勝を祝して、わずか3時間で「英国東洋艦隊潰滅」という軍歌が作曲され、ラジオ放送されている。
  • 天皇陛下はマレー沖海戦の戦果に御嘉尚遊ばされ、12月12日に海軍幕僚長を宮中に召された。そして山本五十六長官に勅語を賜った。
  • イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーはこう述べた。
    「英国最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈された事は特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、
    西洋全体の支配を象徴してきていたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋が無敵ではない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の士気に及ぼした恒久的な影響は
    1967年のベトナムに明らかである」と。
  • マレー沖海戦から8日が経過した18日、9機編成の中攻隊が戦闘のあった海域に現れた。高度を300メートルに下げると、レパルスの沈没地点に花束を1つ投下した。
    先の戦闘で犠牲になった両軍の兵士への献花だった。海が透き通っていたため、海上からレパルスの残骸が確認できたという。
     
    終戦から約20年が経過した1960年代中頃、イギリス海軍のダイバーによって残骸が発見される。以降、定期的に訪問が行われている。残骸は漁礁となっているようだが全体的に状態は良かった。
    しかし違法サルベージの被害に遭い、爆破されたりスクリューを盗られたりして一部が損なわれてしまっている。
     
    時は流れ、2001年。英国から軍事遺産保護法による遺構指定を受けた。ユニオンジャックが添えられた白い信号旗がマストに設置されたが、流されたのか盗まれたのか消失していた。
    このため軍歴を持つイギリス人ダイバーが、改めて赤い信号旗を艦首に設置した。赤い信号旗は商船に使われるものだが、軍艦でも海外の港から出航する時に使われるという。
    また、レパルスの艦名が入った杯や鐘、灰皿が個人の所有物として現存している。