No225 ワスプ/元ネタ解説

Last-modified: 2019-02-16 (土) 20:06:19
所属United States Navy
艦種・艦型航空母艦ワスプ
正式名称USS Wasp (CV-7)
名前の由来Wasp 英語でスズメバチ上科のうち捕食性の大型蜂
起工日1936.4.1
進水日1939.4.4
就役日(竣工日)1940.4.25
除籍日(除籍理由)1942.9.15(第二次ソロモン海戦/Battle of the Eastern Solomons 1942.9.15雷撃処分*1)
全長(身長)225.9m
基準排水量(体重)14900英t(15139t)
出力Yarrow式重油専焼缶6基Parsons式蒸気タービン2基2軸 70000shp(70970.9PS)
最高速度29.5kt(54.63km/h)
航続距離15kt(27.78km/h)/12000海里(22224km)
乗員1800名(常時) 2167名(戦時)
装備(建造時)5inch38口径Mk.12単装両用砲8門
1.1inch75口径Mk1機銃x16(4x4)
M2ブローニング0.5inch機関銃x24
艦載機x100
装甲舷側:無し 艦橋:対60lb爆弾装甲 甲板下(操舵室):3.5inch
建造所Bethlehem Shipbuilding Corporation, Fore River Shipyard, Quincy, Massachusetts
(ベスレヘム造船フォアリバー造船所 アメリカ合衆国マサチューセッツ州クインシー市)
勲章American Defense Service Medal(Atlantic device & Fleet clasp)
American Campaign Medal
European-African-Middle Eastern Campaign Medal(1 star)
Asiatic-Pacific Campaign Medal(2 star)
World War II Victory Medal
航空母艦ワスプについて
  • ワシントン海軍条約で認められていた空母の保有枠に余裕があったため、それを埋めるべく建造された。
    レンジャーで得られたノウハウを投入し、ヨークタウン型に準じた設計が成されたが未だ手探りの部分が大きく、様々な問題を抱える。
    条約の範囲内で建造するため艦体が小型化されており、防御面と機関出力がその犠牲となった。
    しかし艦内配置はレンジャーより合理的で、出力不足を補うため新型缶を採用するなどヨークタウン級と比べて進んだ一面もある。
    また、米空母としては初のサイドエレベーターを搭載。船体が小さいため一基のみだったが、実験としては概ね良好だったようでエセックスから標準装備となった。
    元々米軍は雷撃機を軽視していたため、雷撃機を載せない設計だった。しかしデバステーターが就役してからはその重要性に気付き、魚雷格納庫を設置した。
    古い資料によってはレンジャーの(準)同型艦とされている場合も。
 
  • 1936年4月1日、クインシー造船所で起工。1939年4月4日に進水し、1940年4月25日に竣工。大西洋艦隊に編入された。6月28日からカリブ海で慣熟訓練を行うが、
    7月9日に艦載機の着艦事故で軽微な損傷を負う。また陸軍機の発艦テストも行われている。
     
    1941年
    • 第16任務部隊に配属され、対独戦に参加。1941年1月末よりグアンタナモ湾を拠点に哨戒や訓練に従事する。3月7日夕方、ノーフォーク方面は大嵐に見舞われた。
      荒天の中ワスプは抜錨し、遭難者がいないか捜索を始めた。真夜中の荒れた海をサーチライトで照らす。捜索を続けていると、フロリダ沖で遭難する8人の水夫を発見。
      日付が変わり8日0時7分、ワスプは彼らを救助するため停船。ヤコブの梯子を垂らし、4人を救い出した。残りの4人は派遣したボートによって救助された。
      後日、救助した水夫を降ろし、ノーフォーク海軍工廠に帰り着いた。そして機関を修理し、火器を交換。
      7月28日にはアイスランドに配備する予定の航空機と兵員をイギリスに輸送。トリニダード湾に進出して大西洋の哨戒を行った。8月30日、英戦艦ロドニーと邂逅した。
      9月22日、船団を護衛しつつアイスランドに陸軍機を輸送。続いてアドミラル・ヒッパーの捜索も兼ねた北大西洋の哨戒任務に従事。10月2日、スターク提督より「独伊の軍艦を破壊するため、イギリスに出来るだけの事をせよ」との命令を受ける。
      10月6日、ワスプは4隻の駆逐艦を伴って船団護衛に従事。11日にリトル湾へ帰投するが、強風により湾内での停止を強いられる。風が止まった後、寒さと霧が支配する北大西洋をパトロール。
      この秋、米海軍にとって最初の悲劇が起きた。10月31日、U552の雷撃で米駆逐艦ルーベン・ジェームズが撃沈したのだ。この艦は最初の喪失艦となった。
      任務を終えた12月、ノーフォーク海軍工廠へ入渠し、翌1月までオーバーホールを受けた。丁度その頃、地球の裏側では大日本帝國が真珠湾を攻撃し、大東亜戦争が勃発。
      太平洋にも戦線が構築され、ワスプと同様に大西洋方面で活動していたヨークタウンは対日戦のため離脱。ワスプに対独任務を託し、回航されていった。
     
1942
  • ワスプの次なる任務は、西インド諸島とカリブ海に停泊しているフランス軍艦の監視であった。これらの艦艇がドイツ占領下のフランスに帰還しないよう、駆逐艦を伴って出動。
    フランス艦艇に対し、停泊し続けなければ捕獲するか撃沈すると脅しをかける。フランス艦艇は停泊を選び、危機は去った。
    1942年3月からは第39機動部隊旗艦としてイギリスに派遣。イギリス艦隊と共同でスピットファイア60機をマルタ島へ輸送した。ところが枢軸空軍の攻撃で40機が地上撃破されてしまった。
    同月17日午前5時50分、大西洋にて駆逐艦スタックと衝突し損傷。スタックの一番ボイラーが浸水してしまった。
    4月20日夜、再度マルタ島へスピットファイアを送るためジブラルタル海峡を通過。この輸送任務は極秘とされたが、ドイツ軍は事前に察知し、空軍を出動させた。
    ワスプから48機のスピットファイアが飛び立ったが、たまたまコースを間違えて到着予定時間を狂わせてしまう。しかし、これが功を奏した。
    予定の時間になっても敵機が現れないため、ドイツ軍機はマルタ島を適当に爆撃して引き上げたのだ。本来のコースから外れたスピットファイア隊の指揮官は、無線でマルタ島へのルートを尋ねた。
    ところがこの通信を傍受したのはイギリス軍ではなくドイツ軍だった。ドイツ軍はイギリス軍のふりをして応答し、イタリアの基地へ誘導しようとしたが失敗。
    結局1機を除いて全機がマルタ島に辿り着き、補給作戦は成功した。が、到着から2時間後にドイツ軍の空襲を受けて15機が損傷。
    独伊軍の猛攻で焦燥したチャーチル首相は、ルーズベルト大統領に対し「ワスプにもう一度針を」と支援を要請した。ルーズベルトは快諾し、ワスプにスピットファイアが載せられた。
    5月9日、枢軸側の攻勢で窮地に陥ったマルタ島を救援するため、バワリー作戦に従事。再びイギリス艦隊と行動し、英空母イーグルと合わせて64機のスピットファイアをマルタ島に送り届けた。
    飛び立とうとした最初のスピットファイアが海面に墜落し、パイロットが死亡する事故が発生したが、その後は順調に発艦が進んだ。
    ワスプより発艦したスピットファイアはマルタ上空で待ち伏せ、攻撃に現れた枢軸空軍を奇襲した。チャーチル首相はワスプの働きに感謝し、電報を送った。
    この電報をドイツ軍は傍受していたが、誰が発言したのかまでは分からなかったらしい。
 
対日戦へ
  • 大西洋でワスプが活動している頃、太平洋方面では思わぬ劣勢を強いられていた。帝國海軍の猛攻により、かつての同僚ヨークタウンも討ち取られ、空母の稼働数が激減したアメリカ海軍は急遽増援として、ワスプを太平洋へと進出させる。
    1942年6月10日にパナマ運河を通過。この時点では旧式機しか持ち合わせていなかったが、7月に新鋭機を与えられた。
    7月18日、ヌクアロファ港沖で機関が故障。航行しながら右舷高圧タービンを修理し換装、残りはトンガタブ島で修理した。
    8月6日の夕方、ワスプはガダルカナル島近海に到達。翌7日の夜明け、ワスプは太平洋戦線で初めて艦載機を放った。フロリダ諸島タナムボゴ島に設営された日本軍の水上機基地を攻撃し、駐機していた水上戦闘機と航空燃料用トラックを機銃掃射で破壊。未帰還機はゼロという素晴らしい初陣を飾るワスプであった。
    続いてワスプはガダルカナル島上陸作戦を支援。沿岸警備の監視員から日本軍機接近の通報を受け、エンタープライズサラトガと共にF4Fを発進させる。
    そして標的にされている米船団の近辺へ忍ばせ、日本軍機を迎え撃った。空戦の結果、陸攻5機と零戦2機を撃墜するも11機を喪失した。戦闘機隊に21%の犠牲が出たため、ワスプら米空母は一旦退却を強いられた。
    • この結果ガダルカナル泊地に向かっていた日本の水上艦隊(三川艦隊)の突入を許すことになる。(第一次ソロモン海戦)
      このフレッチャーの戦線離脱に作戦部長のキングはフレッチャーの指揮能力を疑うようになり、後に更迭される。
  • 間もなく戦線に復帰すると、対潜及び上空警備艦として艦載機を放ち、8月15日に日本軍の飛行艇を撃墜した。
    8月23日午後、数日間は大きな戦闘が無いと判断したフレッチャー中将の指示で南下。燃料補給へ向かった。しかしその翌日、第二次ソロモン海戦が生起。ワスプは参加できなかった。
 
最後
  • 1942年9月15日午前11時45分、ガダルカナル島へ増援部隊を輸送していたワスプは伊19から雷撃を受ける。見張り員が魚雷を発見し、艦長が面舵を命じるも既に遅かった。
    魚雷3発が一気に命中し炎上。この時、ワスプは艦載機に給油を行っており、ミッドウェーの如く次々に引火。被弾の衝撃で消火ポンプも破損する。
    さらに魚雷防御を全く考慮していなかったワスプはダメージコントロールに失敗し、火災が止められなくなる。護衛の駆逐艦が爆雷80発を投下し伊19を追い払ったが、復旧は絶望的だった。
    それでも最期の意地か、雷撃による致命傷にも関わらず浸水はしなかったという。
    同日夕刻、総員退艦が命ぜられ、18時に駆逐艦ランスダウンにより雷撃処分された。
    ワスプの喪失と、約一ヶ月後のホーネット喪失により米空母の稼働数は遂にゼロとなってしまった。
    戦没後、ワスプは従軍星章2つを賜った。生き残った航空隊はヘンダーソン飛行場に配備され、帝國陸海軍の迎撃に当たった。ワスプの名は後にエセックス級空母の1隻に受け継がれている。
     
  • ワスプと聞いて、一部の人は漫画「ジパング」を思い出す人も多いのではないだろうか。ちなみにアニメ版ではラスボスを務めている。

*1 公式文書では“自沈”とされているが、これは米海軍の“自沈”の定義が日本海軍・海上自衛隊と異なることに注意。日本ではあくまで「自らの力だけで沈没した場合」を指す。