No233 最上/元ネタ解説

Last-modified: 2019-01-28 (月) 01:22:29
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型最上型二等巡洋艦(軽巡)→二等巡洋艦(重巡)(1939)
正式名称最上(もがみ)
名前の由来最上川 日本国山形県
起工日1931.10.27
進水日1934.3.14
就役日(竣工日)(1935.7.28)
除籍日(除籍理由)1944.12.20(レイテ沖海戦/Battle of Leyte Gulf 1944.10.25自沈処分)
全長(身長)200.6m
基準排水量(体重)11200英t(11379.7t)→12200英t(12395.8t)(1943)
出力ロ号艦本式重油専焼缶10基艦本式蒸気タービン4基4軸 152000shp(154108.2PS)
最高速度35.0kt(64.07km/h)
航続距離14.0kt(25.93km/h)/8000海里(14816km)
乗員994名
装備(建造時)60口径三年式15.5cm三連装砲5基15門
40口径八九年式12.7cm連装高角砲4基8門
九五式25mm機銃x8(4x2)
九三式13.2mm機銃x4(2x2)
61cm三連装魚雷発射管4基12門
艦載機x3
装備(1939)50口径三年式20.3cm連装砲5基10門
40口径八九年式12.7cm連装高角砲4基8門
九五式25mm機銃x8(4x2)
九三式13.2mm機銃x4(2x2)
61cm三連装魚雷発射管4基12門
艦載機x3
装備(1943)50口径三年式20.3cm連装砲3基6門
40口径八九年式12.7cm連装高角砲4基8門
九五式25mm機銃x30(10x3)
61cm三連装魚雷発射管4基12門
艦載機x11
装甲舷側:100mm 甲板:35~60mm 砲塔:25mm
建造所呉海軍工廠 (現 ジャパン マリンユナイテッド社呉工場) (日本国広島県呉市)

1931年計画の第1中型二等巡洋艦として建造が決定。1931年10月27日、呉工廠で起工。1932年8月1日に進水し、軍艦最上と命名。1933年7月10日に竣工した。
友鶴事件の発生で最上型の復元性が問題視された。更に波浪の中で艦が異音を発し、外板に大きなシワが寄っていた事から強度不足も浮き彫りになる。故に1934年3月14日から改装工事を行った。
1935年9月26日、最上は第四艦隊の一員として演習に参加するべく東北に向かっていた。その途上、岩手沖で超大型台風の直撃を受け、艦隊が大被害を受けた。後の世に言う第四艦隊事件である。
最上は軽傷で乗り切ったが、激浪に耐えられる船体にするため翌年7月28日より大改装を受ける。1937年12月、連合艦隊第七戦隊へ編入。
1939年1月31日、呉工廠で全主砲塔を20.3cm砲に換装する工事が行われ、艦種が重巡洋艦に変更された。この重巡洋艦化は極秘事項で、臣民や列強国の海軍はおろかアメリカの情報網ですら掴めなかった。
のちのミッドウェー海戦で、炎上した三隈を低空撮影したアメリカ側が愕然としたエピソードがある。12月に無事完工。

開戦

日米間の緊張が高まっていく1941年11月7日、第一開戦準備発令。南九州沖に展開していた最上はマレー攻略部隊に編入される。11月20日、誰の見送りも無く出航し、前線基地の海南島へ進出。
12月4日、マレー上陸部隊を乗せた船団を護衛して三亜を出撃。もはや後戻りは出来なかった。

 

1941年12月8日、真珠湾攻撃を以って大東亜戦争が勃発。最上はマレー半島東方沖で開戦を迎えた。同時に上陸成功の報を受ける。
翌日、イギリス軍の擁するプリンス・オブ・ウェールズレパルスを基幹とした敵艦隊が出現。得意の夜戦を仕掛けるため闇夜に紛れて接近したが、見失う。
気付いた時には既に敵艦隊は遁走していた。残念だった、と艦橋要員が口を漏らした。
続いて25日からボルネオ攻略作戦に参加。終了後、カムラン湾で休息を取り、現地で新年を迎える。元旦から最上は水上機を飛ばし、南支那海の偵察を行う。
1942年1月16日、南支那海に進出し、ABDA艦隊の誘引を目論む。この日は荒天だったようで敵影は見えなかった。
2月10日、南方作戦の大本命パレンバン上陸作戦に従事。敵艦隊襲撃に備えてパレンバン沖を警戒する。しかし敵の抵抗は無く、順調に作戦は進んだ。
ところが14日に突如として英軍機が現れ、爆撃を見舞う。三隈との間に大きな水柱が立ったが被害は無かった。
2月17日、西部ジャワを攻略する船団を護衛してカムラン湾を出撃。3月1日、バンタム湾に上陸する輸送船団を護衛していたところ、
ABDA艦隊の生き残りである重巡ヒューストンと軽巡パースが殴り込みをかけてきた。最上は姉妹艦三隈とともに迎撃し、まずパースを撃沈する。
続いてヒューストンを砲雷撃戦で航行不能にし、戦果を挙げていなかった駆逐艦敷波に止めを刺す機会を与えた。
このバタビア沖海戦は日本側の完勝に終わり、ABDA艦隊は壊滅したが最上はとんでもない失態を犯していた。最上が放った魚雷六本が流れ弾となり、輸送船佐倉丸と第二掃海艇を撃沈。
さらに陸軍特殊輸送船龍城丸に直撃して大破着底させた挙句、乗船していた今村軍司令官を海に放り出し、救命胴衣だけで約3時間も泳がせてしまったのだ。
この失態に海軍側が謝罪、寛大な今村司令官は笑って許し、公にはならなかった。このため一部では敵魚雷艇による攻撃と信じられていたとか。ちなみに沈んだ龍城丸は引き揚げられて再就役している。
海戦後、最上は艦載艇を残してバンタム湾から出る。艦載艇は海面を漂う敵兵の救助を行ったが、敵潜水艦接近の報が入ったため、早々に切り上げる事となった。
最後に階級が高そうな老兵を救い出し、撤収。ちなみにその禿げ頭の老兵はただの理髪師だった。
3月9日、T作戦参加のためシンガポールを出撃、サバン島攻略作戦に従事する。20日からはアンダマン諸島攻略を支援し、インド洋に睨みを利かせる。
その勢いで4月1日、ベンガル湾へ進出。5日、帝國海軍機動部隊のセイロン島攻撃に合わせてインド洋にて通商破壊。三隈と協同で三隻の輸送船を沈めた。
人命を守るため、船員の脱出を見届けてから撃沈。この対応に乗員が不満を覚えたのか、救命ボートで漂う白人やインド人に搭載機が威嚇射撃をし、海中へ飛び込ませている。
この搭乗員は後に艦長からこっぴどく怒られたとか。マドラス港の灯台が見えた所で通商破壊終了。シンガポールへ踵を返した。
4月20日、久方ぶりに呉へ帰投。艦体や兵装の整備、軍需品の補給、乗員の交代等が行われた。

 
ミッドウェー海戦~

5月26日、グアム島アプラ港へ到着。燃料や水、日用品を山のように補給。あまりの多さから、向こう半年は内地に帰還出来ないだろうと推測された。
同月28日にミッドウェー作戦参加のためグアムを出港。道中で熱射病患者を7名出すハプニングがあったものの6月4日、作戦海域に到着。本隊と別行動を取る。
最上ら第七戦隊の役目は、ミッドウェー島に陸戦隊6000名を上陸させる事だった。その矢先、カタリナ飛行艇に発見される。
翌日、主力空母がまとめて全滅。これを受けて連合艦隊司令部は巡洋艦による夜間のミッドウェー島砲撃を企図し、第七戦隊に艦砲射撃を命じた。
栗田建男中将は速力を32ノットに上げ現場に急行したが、そのせいで護衛の駆逐艦を置き去りにしてしまう。対潜要員不在のまま突き進んだ結果、最上たちは米潜水艦4隻が潜んでいる海域に足を踏み入れた。さっそくタムバーに発見され、追跡を受ける。夜間だった事が災いして第七戦隊は追跡に気づいていなかった。
このまま魚雷の餌食になるかと思われたが、幸いにも雷撃が出来ない位置・距離だったため難を逃れた。日の出まで後2時間のところで作戦中止の命令が届く。北西に向けて退避を始める第七戦隊。
そんな中、旗艦の熊野がタムバーを発見。全艦左へ回避運動を取ったが、四番艦の最上だけが遅れた。転舵で速力が低下した三番艦三隈の左舷中央部に衝突し、最上は艦首を潰してしまう。
この損傷で速力が12ノットまでしか出せなくなる。夜が明ければミッドウェー島から敵機が飛来するのは明白。栗田中将は逡巡の末、三隈と最上を残し、足早に離脱してしまった。
現場の指揮は損傷が軽微だった三隈に一任され、あとで追いついた駆逐艦2隻も指揮下に入れた。そして傷付いた最上をかばうように、のろのろと退避を開始する。
衝突した最上の艦長は山船頭(操舵が下手糞な者を罵る言葉)と言われてしまった。衝突後もタムバーに追跡されていたが、ミッドウェー島に近すぎる位置だったため実は味方ではないかと考えて雷撃を控えていた。
6月6日朝、遂に海兵隊の航空機が飛来した。命中弾は出なかったもののSB2Uヴィンディケーター爆撃機の一機が三隈に体当たりし、火災を発生させた。さらにB-17の編隊が出現し、二回に渡って爆撃を仕掛けてきた。
最上には機銃掃射が浴びせられ、艦橋付近で体をさらしていた7名が撃たれた。のち2名が戦死する。
翌日朝七時、さらなる攻撃を受ける。ホーネットエンタープライズから飛来した敵航空隊が最上と三隈、駆逐隊を攻撃。ここで最上らはウェーキ島への撤退を始める。
ウェーキ島には味方の航空隊が進出しており、彼らの助力を得ようとしたのだ。損傷して抵抗が出来ない最上よりも、活発に反撃してくる三隈に攻撃が集中。
それでも3発の命中弾を受け、艦載機が爆発して炎上するが幸いにして航行不能にはならなかった。火の手が迫る前に魚雷を投棄し、誘爆を回避した。
戦時治療室は負傷した乗員であふれ、血だまりが至る所に出来ていた。艦が傾くと血で滑る程だったという。既に抵抗する術を失っていた最上にとって機関は死守すべきものだった。
閉じられた防水扉で艦橋と機関科が分断されていたが、艦内電話で励まし合い、機関を維持し続けた。だが発電機室からの連絡が途絶し、続いて後部機関室に命中弾が出て17名が戦死する。
それでも各員は部署を離れず、最後の最後まで職務を全うした。彼らの命がけの覚悟が最上を生還させる要因となったのだ。
集中攻撃を浴び、三隈が航行不能になると最上が護衛役となった。やがて、最上をかばう形で三隈は沈没する。
6月8日午前4時、最上はようやく第二艦隊と合流。恐怖の時間に終わりを告げた瞬間だった。戦死者の遺体を水葬する準備が始まった。艦長は涙ぐみながら弔辞を述べた。
過酷な戦闘で医療施設が全壊したため負傷者59名は熊野へと送られた。

6月14日、最上は命からがらトラック諸島へ逃げ込めた。工作艦明石から応急修理を受け、8月5日に明石等とともにトラックを出港。同月11日に佐世保へ到着する。
工廠の岸壁に横付けされ、最上は技術陣に囲まれた。あまりの損傷の大きさに驚嘆の声が漏れたという。

 

12月24日から翌1943年4月30日まで、佐世保工廠で航空巡洋艦への改装工事を始める。改装するに当たって参考としたのはスウェーデンの航空巡洋艦ゴトランドであった。
空襲で破壊された第四、第五砲塔を下ろし、代わりに飛行甲板を設置。水上偵察機11機を運用できる能力を獲得したが、11機全てを搭載する事は無かった。
出渠後の5月24日、東京湾で東亜丸と衝突。6月10日を以って第三艦隊第七戦隊へ編入。
9月18日、米艦隊と艦隊決戦を目論むZ作戦が開始される。翔鶴型や金剛型を含むこの大艦隊に最上も参加し、敵を求めて東進する。
ところが米艦隊とは遭遇せず、しかも敵の主力はハワイでのんびりしていた事から見事に空振りとなってしまう。10月24日、艦載の零式三座水偵1機が行方不明になる。
11月3日、最上はトラックを出港。ソロモン水域での艦隊決戦を企図してラバウルへと向かった。道中、B-24に発見され、ラバウルに入港するまで追跡された。
5日、ラバウルは米機動部隊の空襲を受ける。反撃で2機を撃墜するも、被弾して小破。乗員18名が死亡した。損傷を修理するためトラックを経由して呉工廠に入渠。

 

1944年3月8日、第三艦隊に所属しタウイタウイ泊地へ進出。泊地内で訓練を行う。6月19日、一大決戦のマリアナ沖海戦に参加。しかし第七戦隊には戦闘が生起せず、何も出来ないまま日本機動部隊は壊滅。
沖縄へと敗走した。瀬戸内海西部で訓練中の9月8日、第五缶室の給水ポンプが故障するトラブルに見舞われる。

米軍のフィリピン進攻が現実味を帯びてきた事で、捷一号作戦の準備が始められた。本作戦には高速力が求められる事から、最上は不参加になるはずだった。
しかし西村司令官は艦砲の威力を説き、最上の参戦を要望。低速の最上は、本隊の足手まといにならないよう単独で突入するとまで言い放ち、司令部を説き伏せた。
参加が認められた最上は艦隊集結点のリンガ泊地へ進出し、本隊と合流した。本隊の偵察機は全て陸上に供出したため、最上は唯一艦載機を持った艦となった。

 
レイテ沖海戦で迎えた最期

1944年10月22日、フィリピンに襲来した米軍を迎撃する捷一号作戦に参加。西村艦隊の一員としてレイテ湾突入を目指した。
24日午前8時55分、米小型機の接触を受ける。戦いの幕が切って落とされた。接触から約30分後、27機の敵機が襲来。最上は主砲で迎撃するが、急降下爆撃と機銃掃射を受け死傷者8名を出す。
敵機の攻撃はすぐに止んだ。最上は直ちに水上機2機を偵察に出し、敵情を探った。12時頃、偵察機が帰投し通信筒で最上と戦艦山城に報告。
持ち帰った情報によるとレイテ湾には戦艦4隻、巡洋艦2隻、駆逐艦2隻、輸送船80隻以上が停泊しているという絶望的な内容だった。さらにリマサウ島付近には魚雷艇14隻以上も確認された。
西村司令は最上と駆逐艦3隻に魚雷艇の掃討を命じた。その後はしばらく平穏な航海が続いた。午後3時、最上は再び水偵を発進させて夕闇のレイテ湾偵察を命じたが、未帰還となった。
午後4時、ミンダナオ海に入り約2時間後に日没を迎えた。最上は魚雷艇を掃討するため、駆逐艦3隻とともに本隊から分離。敵魚雷艇の巣窟と化したリマサウ島へ向かった。
掃討隊は最上を中心として速力23ノットで航行、遂にリマサウ島西方へ到達した。日付が25日に変わると、駆逐艦山雲の前方に魚雷艇3隻が現れた。
単縦陣を取り戦闘態勢を整えたが、すぐにスコールへ突入。視界不良のため最上は発砲出来なくなる。魚雷艇群は最上に雷撃を仕掛けたが、雷跡の発見が早かったため左へ回避。
この天候下では不利と判断した最上艦長は「突入をやめ本隊と合流」と西村司令に打電。反転してリマサウ島から離れた。
すると右30度に艦影が現れる。敵味方確認のため最上は識別灯を点けた。間髪入れずにその艦から砲撃を受け、後部に命中弾を喰らう。
砲戦準備を整え、反撃に転じようとしたが念のため再度識別灯を点ける。これに呼応して相手も識別灯を点け、正体が判明。なんと味方の戦艦扶桑だった。
同士討ちを免れ、本隊と合流した最上は扶桑・山城と並んで殿となり航行。午前2時、敵魚雷艇と遭遇し交戦。ただちに照射射撃が始められ、16分間の戦闘が始まった。
放たれた魚雷は一発も命中せず、西村艦隊は事なきを得た。次に増援として敵駆逐艦2隻が出現。増援を認めると最上は無照射砲撃で先制攻撃。敵艦は慌てて煙幕を張った。
それから10分後、敵方より吊光弾が打ち上げられ、魚雷艇群が迫る。最上目掛けて雷撃してきたが、右へ転舵して回避。しかし前方の扶桑が被雷し、艦隊から落伍してしまう。
続いて敵駆逐隊から放たれた雷跡を認めると、西村司令の命令で右90度の回頭を行う。お返しに一斉砲撃をしたが有効弾は出なかった。
敵の攻撃が激しさを増し、護衛の駆逐艦が次々に被雷して沈没。山城も魚雷を受ける。この時点で敵弾を受けていないのは最上と駆逐艦時雨のみであった。
午前3時50分、スリガオ海峡北口で待ち構えていた敵巡洋艦隊から砲撃を受ける。応戦する最上だが、レーダーは粗末なもので敵艦と島の違いが分からなかった。
仕方なく敵艦発砲の閃光を頼りに砲撃と魚雷4本を発射。最大戦速で煙幕を張りながら南への離脱を図った。しかし敵弾が何発も命中し、火災発生。被害が拡大する。
やがて艦橋に3発の命中弾を受け、艦橋要員が全滅。一気に無力化されてしまう。だが信号長の気転で人力操舵に切り替え、撤退を続ける。
南下中、前方より重巡那智を含む別働隊が現れる。那智は急な回頭を行ったため、操舵手がいない最上は避けられずまたしても衝突。幸いな事に大事には至らなかった。
しかしいよいよ火勢が強くなり、弾薬に引火して連鎖的に誘爆。消火作業が困難になる。これ以上の引火を避けるため、全魚雷の投棄を図ったが間に合わず5本に引火してしまう。
最上の命運ここまでかと思われたが、誘爆により生じた風が火災を下火にした。すかさず消火活動を再開し、遂に鎮火に成功。
良いニュースは続き、操舵装置が復旧。艦橋での操舵が可能になった。夜明けが近くなった午前5時20分頃、北方から砲撃を受ける。回避運動むなしく10発以上の命中弾を出し、満身創痍となる。
スリガオ海峡南口で魚雷艇3隻を交戦、2本の魚雷が伸びてきたが無事に回避して撃退に成功する。夜が明けると駆逐艦曙と合流。護衛されながらコロン島への退避を始める。
午前7時27分、爆撃機4機から空爆を受ける。この攻撃は回避したが、ついに機関が停止。漂流するだけの存在となってしまう。
身動きが取れない最上の下へ爆撃機17機が現れ、最期の時を迎えた。2発の直撃弾を受けて大火災が発生。弾薬庫に注水がされるも復旧は絶望的だった。
艦長から総員退艦の指示が下り、駆逐艦曙に乗員を移乗させた上で雷撃処分。1944年10月25日午後1時7分、パナオン島ピニト岬の南東でその身を沈めた。