所属 | 清朝新式海軍→中華民國海軍(1912) |
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艦種・艦型 | 肇和級防護巡洋艦 |
正式名称 | 應瑞(Ying Swei) |
名前の由来 | 應瑞 中国語で幸運な約束という意味 |
起工日 | 1910.12.12 |
進水日 | 1911.7.13 |
就役日(竣工日) | 1913.4(1911.12.2) |
除籍日(除籍理由) | 不明(1937.10.25沈没) |
全長(身長) | 98m |
基準排水量(体重) | 2460英t(2499.5t) |
出力 | Yarrow式石炭重油混焼缶4基Parsons式蒸気タービン3基3軸 6000shp(6083.2PS) |
最高速度 | 20.0kt(37.04km/h) |
航続距離 | 10.0kt(18.52km/h)/4500海里(8334km) |
乗員 | 238~331名 |
装備(1930) | 6inch50口径単装砲2門 4inch50口径単装砲4門 14ポンド単装砲2門 オチキス3ポンド単装砲8門 ヴィッカース1ポンド機関砲2(2x1) 21inch単装魚雷発射管2基2門 |
装甲 | 甲板:19~26mm 艦橋:76mm |
その他ゲームとの性能違い | ゲーム内では軽巡洋艦だが、実態は防護巡洋艦 |
建造所 | Vickers-Armstrongs Limited,Barrow-in-Furness,Cumbria (ヴィッカース・アームストロング社バロー=イン=ファーネス造船所 イングランド国北西イングランド地域カンブリア州バロー=イン=ファーネス市) |
中華民国海軍の肇和級防護巡洋艦2号艦。ゲームでは應瑞級となっている(進水・竣工はこちらが先だが、起工はあちらの方が早いのが理由だろうか)が肇和級が一般的な呼び方。*1
読みは「インウェイ」。「応瑞」と書かれることもある。
清国がイギリスのヴィッカース社に発注した。1910年12月12日起工、1911年7月14日進水、1911年12月1日竣工。そして1913年4月に中国へ引き渡された。
軽巡洋艦としては規模が小さかった。長さが105mしかなく(参考までに、進水時期が比較的近い日本の天龍型は約142m)、排水量も2500tほどであった(天龍型は約3200t)。
機関はホワイトフォスター製の水管缶を4基とパーソンズ式直結タービン3基の3軸推進で、最大速力は20kt。1930年に改装されるが、追加された兵装は高角砲2基だけだった。
当初は肇和級は三隻の予定だったが、「飛鴻(フェイフォン)」は辛亥革命の影響もあり注文がキャンセル、ギリシャへ売り渡された。→エリ
1920年、應瑞は訓練巡洋艦Tung Chi(トンチ)・輸送艦Ching An(チンアン)と共に南京の練習艦隊に加えられていた。1923年には北中国の北京政府側に付いた肇和とは違い、共和国軍の艦隊に残った。
その後1926年、蒋介石を主導者とした国民党軍による北京政府に対する戦争、通称「北伐」が実行され、應瑞も上海制圧戦に参加することとなる。
日中戦争が勃発すると、彼女はNing Hai(ニンハイ:寧海)・Ping Hai(ピンハイ:平海)・Yat Sen(イーシェン:逸仙)らの僚艦と中国軍の中央艦隊に配属される。この艦隊は揚子江の河口の江陰に駐留していたが、1937年8月14日、大日本帝国海軍の航空母艦である龍驤・鳳翔・加賀の3隻所属の航空部隊による空襲が始まり、同年9月に寧海、平海、逸仙が立て続けに擱座あるいは大破着底して戦闘続行不能になってしまった。
残された應瑞は南京への撤退を余儀なくされるが、彼女もまた、爆撃による損傷を負っていてこれ以上の継戦は無理だと判断され、沿岸砲台として転用されることが決定した。
そして同年10月初め、南京は空襲に晒される。10月24日、應瑞は爆撃に遭い、翌日に沈没。26年の歴史に終わりを告げた。