所属 | 大日本帝國海軍 |
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艦種・艦型 | 陽炎型駆逐艦 |
正式名称 | 嵐(あらし) |
名前の由来 | 嵐 荒く吹く風、暴風 |
起工日 | 1939.5.4 |
進水日 | 1940.4.22 |
就役日(竣工日) | (1941.1.27) |
除籍日(除籍) | 1943.10.15(ベラ湾夜戦/Battle of Vella Gulf 1943.8.6沈没) |
全長(身長) | 118.5m |
基準排水量(体重) | 2000英t(2032.1t) |
出力 | ロ号艦本式重油専焼缶3基艦本式蒸気タービン2基2軸 52000shp(52721.2PS) |
最高速度 | 35.0kt(64.81km/h) |
航続距離 | 18.0kt(33.33km/h)/5000海里(9260km) |
乗員 | 240名 |
装備(建造時) | 50口径三年式12.7cm連装砲3基6門 九六式25mm機銃x4(2x2) 61cm四連装魚雷発射管2基8門 爆雷投射機x1 爆雷投下軌条x2 |
装甲 | なし |
建造所 | 舞鶴海軍工廠 (現 ジャパン マリンユナイテッド社舞鶴事業所) (日本国京都府舞鶴市) |
大日本帝國海軍が建造した、陽炎型駆逐艦十六番艦。1939年の海軍軍備充実計画の第112号甲型一等駆逐艦として建造が決定。1939年5月4日、舞鶴工廠で起工する。
1940年2月3日、嵐と命名され横須賀鎮守府に配備。同年4月22日に進水し、1941年1月27日に竣工した。練習兼警備艦として横須賀航空隊に編入。
3月31日、姉妹艦が続々竣工したため第二艦隊第四駆逐隊に転属。戦争の足音が迫る11月5日、南方部隊に配属される。同月29日、寺島水道を出航し馬公へ向かった。
1941年12月8日、大東亜戦争が開幕。南方部隊の一員としてマレー及びフィリピンの攻略を支援する。1942年1月18日からはオランダ領インドネシアの攻略に従事。
帝國陸海軍は破竹の勢いで勢力を広げ、連合国軍は蹴散らされる一方だった。2月24日、スターリング湾を出撃するとジャワ南方機動作戦に参加。この作戦は敗残の連合軍船舶を掃討するものであった。
この作戦で嵐は僚艦と共同で、オランダ貨物船2隻、イギリス掃海艇1隻、イギリス駆逐艦1隻、イギリス貨物船1隻、アメリカ砲艦1隻を撃沈し、オランダ船2隻を拿捕する活躍を見せた。
南方作戦が概ね完了した4月17日、横須賀へ帰投。翌日、ドゥーリットル空襲に遭う。嵐は重巡愛宕等とともに緊急出動し、索敵を行ったが敵艦隊は発見できなかった。21日、索敵中の祥鳳と合流。
次に嵐はミッドウェー作戦に参加。5月27日、機動部隊を護衛して柱島を出撃。旗艦赤城の護衛を任されるが、敵艦載機の奇襲を防ぐ事は出来ず、赤城は大破炎上。もはや救う事もままならない状態だった。
6月6日、乗員を救助したあと、3000メートルの距離から魚雷を発射し雷撃処分に付した。9日、第二艦隊に編入されアリューシャン方面に進出。味方を支援するためアッツ島南方を遊弋した。
7月7日、作戦中止に伴って柱島に帰投した。だが嵐に休息の時間は無かった。29日、ガダルカナル島へ送る一木支隊を乗せた船団を護衛して出撃。
サイパンとトラックを経由して、兵隊を送り届けた。ところが、8月8日にそのガダルカナル島へ米軍が襲来。この危急に16日、増援部隊150名を乗せてタイボ岬に揚陸した。
帰り道の19日、ツラギの上陸しようとする米軍部隊を攻撃し、舟艇1隻を撃沈。同時にルンガ岬を砲撃した。これには米軍も黙ってはおらず、B-17爆撃機2機による空襲が行われた。
この空襲で僚艦の萩風が損傷、かの艦を護衛しながらトラックに帰投する。日米のガダルカナル島争奪戦は激化の一途を辿り、嵐は鼠輸送に奔走した。
9月5日、軽巡龍田とともにミルン湾撤退作戦を実施。その途中でギリギリ埠頭を砲撃し、停泊中のイギリス貨物船アンシュルンを仕留めた。
10月26日、南太平洋海戦に参加。命中弾を受けて大破した翔鶴から旗艦を継承した。が、翌日すぐに瑞鶴へと渡している。
ガダルカナル島への輸送作戦が過熱し、ドラム缶による輸送まで始まった。12月11日、第四次鼠輸送のため親潮と照月とともにショートランドを出撃。
だが、その道中に僚艦照月が撃沈され、乗員140名を救助してショートランドに連れ帰った。13日には野分を曳航する舞風を護衛。
年が変わって1943年1月10日、ショートランドを出撃。いつものように鼠輸送を行っていたが、途上で大破した初風を発見。護送しつつショートランドに引き返した。
1月14日、姉妹艦とともにガダルカナル島近海に殴りこみを行う。が、翌日にヘンダーソン飛行場から発進したドーントレス9機から爆撃を受け、至近弾により舵が故障。
航行不能となったため舞風に曳航してもらって、ショートランドまで帰った。その後、トラックまで後退して本格的な修理を受けた。
19日よりガダルカナル島撤退作戦が始められ、嵐も参加。ソロモン海北部で作戦の支援を行った。無事に撤収が済んだあと、嵐は主力艦を警護して横須賀に帰投する。
修理を終えた3月、翔鶴の訓練艦として内地に留められた。7月10日、瑞鶴等からなる第三艦隊を護衛して呉を出撃。再びソロモン方面へと進出する。
19日、ラバウルへの兵員輸送を担当する水上機母艦日進を護衛。ラバウルへ送り届けたあと別れ、ショートランドに向かった嵐だったが、間もなく日進が撃沈される。
その報せを受けると反転し、日進の乗組員を救助した。27日、レカタに兵員を揚陸させる。
8月6日、船団を護衛してブインに向かった嵐。ベラ湾に差し掛かったところで米駆逐隊の襲撃を受ける。レーダーによって統率された敵は夜間でも完璧な連携を見せ、あっという間に魚雷3本を喰らって戦没した。
1943年10月15日、除籍。