所属 | Vichy Marine→Marine nationale(1944) |
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艦種・艦型 | ド・グラース級軽巡洋艦→航空母艦(1942)→巡洋艦(1946) |
正式名称 | De Grasse |
名前の由来 | François Joseph Paul de Grasse(1723-1788) フランス海軍中将 アメリカ独立戦争で数々の戦いに参加し勝利を収めたが、セインツの海戦でロドニー提督に敗れ捕虜となったが帰国を許されている。 |
起工日 | 1939.8.8 |
進水日 | 1946.9.11 |
就役日 | 1956.9.3 |
除籍日(除籍後) | 1973 1974.1.25除籍(売却後解体) |
全長(身長) | 188.4m |
基準排水量(体重) | 8000英t(8128.4t)→9380英t(9530.5t)(1956) |
出力 | ボイラー4基蒸気タービン2基4軸 110000PS(108495.2shp)→105000PS(103563.6shp)(1956) |
最高速度 | 33.8kt(62.59km/h) |
航続距離 | 18.0kt(33.33km/h)/6000海里(11112km) |
乗員 | 950~983名 |
装備(1938) | 155mm54口径M1920連装砲3基9門 100mm45口径M1933連装高角砲3基6門 M1925 37mm機関砲x8(4x2) オチキス13.2mm機関銃x8(4x2) 550mm三連装魚雷発射管2基6門 艦載機x2 |
装備(建造時) | 127mm50口径M1948連装両用砲8基16門 ボフォース57mm機関砲x20(10x2) 艦載機x2 |
装甲 | 舷側:100mm 甲板:68mm 砲塔:100mm バーベット:30mm 艦橋:95mm 隔壁:20~60mm |
建造所 | Arsenal de Lorient,Lorient (ロリアン海軍工廠 フランス共和国ブルターニュ地域圏モルビアン県ロリアン市) |
- ド・グラース級は前級ラ・ガリソニエール級の改設計型として作られたフランス海軍の大型軽巡洋艦。
ダンケルク級(あるいはリシュリュー級)高速戦艦1に軽巡洋艦3、大型駆逐艦6という基本編成で高速の機動部隊を作り、
通商破壊を行う水上艦を迎撃したり、あるいは自ら通商破壊を行うというコンセプトに基づいている。 - ド・グラースは1937年度計画で予算を貰い、同型艦2隻も翌年建造計画が認可された。
1939年8月に起工されたものの、翌月始まった第二次世界大戦の影響で建造計画に支障が出る。- 当初計画では前級同様6インチ三連装砲塔3基と55センチ三連装魚雷発射管を両舷に備え、10cmと3.7cmの高角砲、13mm機銃で武装していた他、カタパルト2基を備えて水上機も運用する格好だった。
- 1940年6月、フランスがドイツに敗北した時点で工事は中断された。
この時点での完成度は28%でしかなかったという。
しかしドイツ海軍にとってフランス海軍の存在は非常に魅力的だった。
先だってのノルウェーにおける一連の作戦で多くの艦艇を失ったドイツ海軍を一気に立て直すことのできる戦力を持っていたし、
そのコンセプトである水上機動部隊は対英戦の主軸である通商破壊にうってつけだったからである。
しかし一応主権が守られたフランスの海軍は対独協力という名目を守りつつのらりくらりと協力を拒んでいた。
ドイツはド・グラースの完成を求めてフランス人工員の他、ドイツからも人員や物資を送り込んだが、
フランス人のサボタージュ(サボる、の語源)により工事は遅々として進まなかった。
1943年頃にレジスタンスが本船に爆弾を仕掛けドイツに嫌がらせを行おうと偵察をした時点で、完成度は30%を超えていなかったとされる。
(このテロ計画は結局、ドイツが同年中にド・グラースの完成を諦めたこともあって取りやめになった)
また、建造場所のロリアンはUボートブンカーが存在していたため、連日連合軍による猛爆撃に晒されていたが、
ド・グラースのドックは少し離れていたこともあり、誤爆すら受けずに生き残っていた。
後に連合軍がフランスに上陸し、陸路でロリアン占領に向かった際にも砲爆撃を受けたが特に損傷していないという幸運な船でもある。 - 終戦後、建造を再開することとしたが、もはや水上機動部隊の時代でも無くなっていたため、設計を全面的に見直すことになった。
1950年ごろに設計案がようやくまとまり、5インチ連装両用砲8基と57mm連装機関砲10基を備える防空巡洋艦として就役、戦後フランス海軍の一翼を担い、60年台には世界一周航海を無事完了させている。
その後ミサイル巡洋艦化する計画が持ち上がったが、第二次大戦の船体にミサイルを搭載するには不都合が多く、核実験の司令部施設を搭載して各種実験の指揮に携わった。 - 1974年に除籍、解体される。
数奇な運命を辿った本級は最後の最後まで30ノットオーバーで突っ走ることが出来、最後の核実験任務の帰りだった72年に33ノットを出している記録が残っている。