No336 竹/元ネタ解説

Last-modified: 2023-06-13 (火) 13:38:52
所属大日本帝國海軍→Royal Navy(1947)
艦種・艦型松型駆逐艦
正式名称竹(たけ)
名前の由来竹 イネ目イネ科タケ亜科のうち、木のように茎が木質化する種の総称
起工日1943.10.15
進水日1944.3.28
就役日(竣工日)(1944.6.16)
除籍日(除籍後)1945.10.25(1947.7.16イギリス海軍に引き渡し後解体)
全長(身長)100.0m
基準排水量(体重)1262英t(1282.3t)
出力ロ号艦本式重油専焼缶2基艦本式蒸気タービン2基2軸 19000shp(19263.5PS)
最高速度27.8kt(51.48km/h)
航続距離18.0kt(33.33km/h)/3500海里(6482km)
乗員211~248名
装備(建造時)40口径八九式12.7cm連装砲1基単装砲1基3門
九六式25mm機銃x20(4x3+8x1)
61cm四連装魚雷発射管1基4門
爆雷投射機x6
爆雷投下軌条x2
装備(1945)40口径八九式12.7cm連装砲1基単装砲1基3門
九六式25mm機銃x24(4x3+12x1)
61cm四連装魚雷発射管1基4門
爆雷投射機x4
回天1隻
装甲なし
建造所横須賀海軍工廠 (現 米海軍横須賀基地) (日本国神奈川県横須賀市)
  • 太平洋戦争の開戦後、日本海軍が量産した駆逐艦。
    艦隊型駆逐艦の甲型(陽炎型、夕雲型)、防空型の乙型(秋月型)、次世代艦隊型の丙型(島風型)に対し、丁型駆逐艦とも呼ばれる。
    生産性を最重要視した戦時量産型であり、同時に日本海軍が最後に量産した駆逐艦でもある。
  • 日本海軍はアメリカとの戦争において、漸減作戦と艦隊決戦を大きな軸に据えて軍備を整えていた。
    これは空母や潜水艦、駆逐艦などの攻撃で敵の数を減らした後に戦艦部隊の艦隊決戦に持ち込み、この艦隊決戦にて勝利を収めることで戦争全体の決着をつけるという、日本海海戦の再現を狙ったかのようなプランである。
    このため、駆逐艦には高い速度や航続距離、強力な雷撃能力などが求められ、必然的に大型化・高性能化が進んで行った。
  • しかし、いざ太平洋戦争が開戦すると、軍部の思惑は大きく外れることになる。太平洋戦争で実際に展開されたのは艦隊決戦ではなく、島嶼部を舞台とした上陸戦であり、そのための兵員・物資の輸送作戦であり、航空機や潜水艦の脅威から輸送部隊を守るための護衛作戦であった。
    これらの環境において駆逐艦に求められたのは「水上戦闘能力」や「単艦の高性能」ではなく、「対空・対潜能力」と「数の力」であった。前述のように艦隊決戦志向で進化した日本の駆逐艦は、全く異なる要求を突きつけられて苦しむことになり、当初の予想を遙かに上回るペースで損傷・喪失を重ねていくことになる。
  • とりわけ1942年後半から始まったガダルカナルの戦いにおいては、制空権をアメリカに握られた状態で低速の輸送艦による増援・補給が行えなくなり、高速の駆逐艦を利用した「鼠輸送」(連合軍呼称は「東京急行」とも)を常用せざるを得なくなった。しかし制空権を奪われた状態で損害が相次ぎ、仮に成功してもペイロードの小さい駆逐艦ではまともな量の兵員・物資を揚陸出来なかった。
    これらの作戦だけで日本海軍は10隻以上の駆逐艦を喪失し、その数倍に及ぶ損傷艦を出してしまう。しかし日本海軍の駆逐艦は大型化・高性能化の代償として生産性が犠牲になっており、さらに対空・対潜が重要な戦局においては水上戦特化の甲型や丙型はニーズに合わず、乙型も1隻の建造に1年以上必要+高コストで大量生産は不可能という状況では、このハイペースな喪失を埋め合わせることは到底不可能だった。
  • ここに至り、日本軍はより戦局と国力に適した新型駆逐艦の設計・建造を決定する。
    それは対空・対潜能力や輸送任務を主体とし、何よりも生産性が高く数を揃えやすいという、従来の方針とは全く異なる駆逐艦であった。これが後の松型駆逐艦である。
    コンセプトとしてはアメリカ軍の「護衛駆逐艦」に近いが、日本ではあくまで「駆逐艦」として扱われた。
     
  • 松型駆逐艦は生産性を最重要視され、既存駆逐艦とは大幅に異なる設計となった。
    曲線構造を極力排した直線的な艦形、安価な鴻型水雷艇のタービンを流用した機関、特殊鋼ではなく調達しやすい高張力鋼や普通鋼の積極使用、さらには溶接技術も積極的に採用している。
  • 主砲は従来の連装砲ではなく、両用砲として使用可能な12.7cm高角砲を採用。連装モデルを1基と、新設計した防盾付の単装モデルを1基搭載している。
    魚雷は当初、射線数を稼ぐため新型の6連装53.3cm魚雷発射管を搭載する予定だったが、計画中に各地の戦線から「53.3cm魚雷は威力不足だ」という報告が上がったため、日本海軍の標準装備と化していた九二式61cm魚雷四連装発射管を1基装備している。予備魚雷は搭載していない。
    • なお、この魚雷発射管は、重雷装艦から取り外したものを再利用したとも言われる。
      この他にも爆雷やソナーも装備され、対空機銃が多めに配置されるなど、対空・対潜戦闘を重視した構成であった。
      また、輸送任務に対応するため、「小発動艇」と呼ばれる小型の上陸用舟艇を2隻搭載している。
  • 生産性より性能を求められた数少ない要素として、機関のシフト配置が挙げられる。
    これはアメリカやフランスで多くの艦艇に採用されていた方式で、従来1か所ずつであった機械室(スクリューを動かす機械・発電機)と缶室(機械室の動力となるボイラー)を左舷用と右舷用で前後2つに分けて配置している。
    従来の集中配置に比べて余分なスペースと建造の手間は必要になるが、最大のメリットは片方の缶室・機械室が破壊・浸水などで使えなくなっても即座に航行不能にならず、もう片方だけで最低限の航行が可能になることである。これにより艦自体の抗堪性・生存性が劇的に向上した*1
  • 速度は27-28ノット、航続距離も3,500海里と、これらに関しては従来の艦隊型駆逐艦に大幅に劣っている。
  • 内装の簡略化なども含めて建造期間は大幅に短縮され、6-9か月程度の短期間での建造に成功した。
    資料によっては「橘型」とも呼ばれる後期型では、さらなる簡略化やブロック工法*2も採用され、工期のさらなる短縮に成功した。
  • 排水量1,000t以下の二等駆逐艦に与えられていた樹木の名前が採用されたこともあり、しばしば「雑木林」と揶揄された。
    しかし皮肉なことに、艦隊型駆逐艦の集大成たる甲型でもなく、高速と重雷装を兼ね備えた丙型でもなく、生産性と対空・対潜任務への適性を両立した「雑木林」こそ、日本海軍が最も必要とした駆逐艦だったのだ。
  • 最終的に松型18隻、橘型14隻の32隻が竣工。このうち18隻は終戦時にも航行可能な状態で残存し、復員輸送などにも活躍した。
    また、橘型で採用されたブロック工法などの技術は戦後の造船業にも大きく貢献し、日本の復興を後押しした。
 
  • 1943年10月15日に起工、1944年3月28日進水、同6月16日竣工。
    訓練部隊の第十一水雷戦隊で訓練を積んだ後、輸送作戦や損傷・沈没艦の救援任務などに従事する。
  • その後日本海軍はレイテ沖海戦で壊滅的な損害を被るも、事前の航空戦などを含めてアメリカ軍の空母機動部隊に壊滅的な損害を与えたと判断。レイテ島で決戦を行うべく、輸送作戦「多号作戦」を開始する。しかしその戦果はほとんどが誤認であり、壊滅したはずの機動部隊によって大きな損害を受けることとなった。
  • 竹はまず第3次多号作戦(旗艦島風)に参加。しかし途中で輸送任務を終え帰還中の第4次部隊*3と合流し、ここで両部隊は警戒部隊の一部を入れ替えることになる。竹は「初春」と共に「長波」「朝霜」「若月」と入れ替わる形で第4次部隊に移動、そのままマニラにとんぼ返りする。
    しかし、まさにマニラに戻ったその日、第3次部隊はアメリカ軍機動部隊の猛攻を受けて「朝霜」を除き全滅。竹は命拾いしたのである。
  • 続いて第5次多号作戦にも参加したが、この時は途中でアメリカ軍の空襲を受けて死傷者を出し、ジャイロコンパスを破壊されるなどの損害を受ける。輸送艦も3隻のうち2隻が撃沈、1隻が揚陸設備を破壊される損害を受けたため、やむなく輸送を断念して引き返した。
  • 修理もそこそこに第7次多号作戦に参加。この作戦が竹の最大の晴れ舞台となる。
    竹は同型艦「桑」と輸送艦3隻を率いて出撃。無事オルモックに到着し、物資の揚陸や第3次作戦の沈没艦の生存者の収容などを開始する。
    しかし、そこにアメリカ軍の駆逐艦「アレン・M・サムナー」「クーパー」「モール」が現れた。いずれも当時最新鋭の大型駆逐艦「アレン・M・サムナー級」である。日本軍を発見した3隻はまず桑を砲撃し、桑は10分とかからず屠られてしまう。
    残された竹は必死の反撃を開始し、魚雷を発射。既に1本をトラブルで誤投棄しており、1本も故障で不発したが、2本の魚雷が無事放たれ、うち1本がクーパーを直撃。クーパーは船体をV字に叩き折られて轟沈。戦時量産の「雑木林」がアメリカの新鋭大型駆逐艦を撃沈した瞬間であり、同時にこれは日本駆逐艦の雷撃による史上最後の撃沈戦果として歴史に刻まれることになる。
    さらに砲撃戦となり、竹は被弾しながらもモールに複数の命中弾を与える。予想外のダメージを受けたアメリカ軍駆逐隊はやがて退却。輸送作戦も無事完遂され、竹は最大30度傾斜という大損害を受けながら、松型のシフト配置も奏功して自力でマニラへの帰投に成功した。
  • 無事帰投した竹だが損傷は激しく、本土に戻って本格的な修理を行うこととなった*4。1945年の1月初めに呉*5に戻って修理を受けるが、修理の延長や追加装備の工事などもあり再び出撃出来るようになったのは4月末頃。さらにその頃には戦艦「大和」とはじめとする残存艦艇の多くが「坊ノ岬沖海戦」にてアメリカ軍に葬られて連合艦隊は実質滅亡、特攻作戦に傾倒した軍部は竹をはじめとする松型の残存艦に特攻兵器・人間魚雷「回天」を搭載する*6
    その後は本土決戦に備えて残存艦艇の温存策が取られ、竹は周防大島(屋代島)にて偽装係留され、そのまま終戦を迎えた。
  • 終戦後は特別輸送艦として復員任務に従事。パラオやサイパン、旧満州などから多くの兵士を本土に送り届けた。
    1947年7月16日、復員輸送の任務も無事に終えた竹は戦時賠償艦としてイギリスに引き渡され、解体されてその生涯を終えた。

*1 従来の甲型駆逐艦などでは缶室や機械室への浸水が行動不能・喪失に直結したケースが複数存在した
*2 船体を複数のブロックに分けて同時に建造し、最後に繋ぎ合せて完成させる工法。戦後の造船業でも標準的な手法となっている
*3 諸事情により第4次の方が第3次よりも先に実施された
*4 この際、フィリピン海峡航行中にコブラ台風に遭遇。同台風で米軍がファラガット級2隻・フレッチャー級1隻の計3隻の駆逐艦を喪失したのに対し、竹はオルモックでの夜戦による損傷によって片舷航行を余儀なくされながらも無傷でこれを突破している
*5 本来は佐世保で修理を行う予定であったが、艦長の判断で呉回航に変更された
*6 これらの工事は資料亡失などにより、実施状況などが明らかになっていない