No36 アドミラル・ヒッパー/元ネタ解説

Last-modified: 2020-03-21 (土) 03:03:32
所属Kriegsmarine
艦種・艦型アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦
正式名称Admiral Hipper
名前の由来Franz von Hipper(1861-1914) ドイツ帝国海軍提督 第一次世界大戦で数に勝る英国海軍相手に戦果を挙げた。ユトランド海戦では3隻の巡洋戦艦を撃沈している。
愛称Kipper(イギリス)
起工日1935.7.6
進水日1937.2.6
就役日(竣工日)1939.4.29
除籍日(除籍後)不明(1945.5.3着底 1948年浮揚 1952年解体)
全長(身長)205.0m
基準排水量(体重)14050英t(14275.46t)
出力La Mont式重油専焼缶12基Blohm&Voss式蒸気タービン3基3軸 133631PS(131802.9shp)
最高速度32.6kt(60.37km/h)
航続距離20.0kt(37.04km/h)/6800海里(12593.6km)
乗員1382~1599名
装備20.3cm60口径SK C/34連装砲4基8門
10.5cm65口径SK C/33連装砲6基12門
3.7cmSK C/30機関砲x12(6x2)
2cmC/30機関砲x8
53.3cm三連装魚雷発射管4基12門
艦載機x3
装甲舷側:70~80mm 甲板:12~30+20~50mm 砲塔:50~150mm 艦橋:50~150mm
建造所Blohm + Voss, Hamburg
(ブローム・ウント・フォス社 ドイツ連邦共和国ハンブルク市)
  • ドイツ海軍が建造したアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦一番艦。
    もともと列強各国の条約型重巡洋艦への対抗を考えて計画が持ち上がり、さらにフランスがイタリアのザラ級に脅威を感じて建造したアルジェリーと互角に戦えること、
    新戦艦ダンケルク級戦艦の30ノットを振り切れる快速、大西洋での通商破壊可能な航続距離が求められていた。
    当初ギリギリ1万トンの条約内に収まるよう設計されたが、性能的に物足りず、条約を思い切り違反した14000トンクラスとして再設計された。
    しかし1935年に日本が脱退したのを受けて軍縮条約はご破綻となり、英国の宥和政策により大型巡洋艦の規制が緩和されたためアドミラル・ヒッパー級は晴れて堂々と建造されることになる。
    武装に60口径8インチ連装砲4基8門を備え、4インチ高角砲と3連装魚雷発射管を左右に2基ずつ、更に爆雷投下軌条も設置可能と攻撃力重視の構造を取った分、
    最大装甲厚3.2インチと防御力が低い。
    このため地上支援の沿岸砲撃では反撃により大打撃を受ける恐れがあり、更に外洋航海能力も燃費が悪化したため難しかった。
  • ヒッパーは1935年7月6日、ハンブルク造船所で起工。1937年2月6日に進水し、1939年4月29日に竣工した。竣工後、西部海軍区に配備。
    • そして直立型艦首をクリッパー型艦首に改修する工事が行われた。1939年8月、バルト海に展開し警戒任務に従事した。
  • 間もなく第二次世界大戦が勃発。1939年9月4日、ヴィルヘルムスハーフェンに停泊しているとイギリス軍のブレニム爆撃機が編隊を組んで殴り込みをかけてきた。
    ただちに対空戦闘が行われ、ヒッパーは第107飛行中隊のブレニムを撃ち落とした。しかし火だるまとなったブレニムは僚艦エムデンの艦首に突っ込み、初の戦死者を出す結果となってしまった。
  • しばらくは待機を続ける日々が続いたが、ノルトマルク事件発生に伴い、ノルウェーを保護下に置く必要が出てきた。
    1940年4月7日、巡洋戦艦グナイゼナウ及び第二駆逐隊と合流。ノルウェー攻略作戦ことヴェーゼル演習に参加し、山岳猟兵のトロンハイム揚陸を目指した。
    翌日、味方駆逐艦ベルント・フォン・アルニムと英駆逐艦グローウォームが交戦。リュトイェンス司令の命により艦隊から分離、支援に向かった。
    グローウォームは海に転落した乗員を救助すべく、単艦で活動していた。これが仇となり、アドミラル・ヒッパー到着後、ひたすら防戦を強いられる事となる。
    操舵不能になり形勢不利となったグローウォームは、破れかぶれの突撃を始め、午前10時13分にアドミラルヒッパーの右舷艦首に衝突。
    40メートルに渡ってヒッパーの舷側をひっかき、500トンの浸水が生じたが、グローウォームは爆沈した。その後、海面に漂う生存者38名を救出。その後、トロンハイム攻略作戦に参加した。
    トロンハイムは無事攻略され、以降はドイツの港として機能。作戦を完遂したアドミラル・ヒッパーはヴィルヘルムスハーフェンに寄港。2週間ほど修理に費やす。
  • 6月4日、グナイゼナウに率いられてキールを出撃、抵抗を続けるノルウェー北部の街ハルスターを砲撃するユーノー作戦に参加。しかしハルスターは空っぽで、作戦会議の結果英軍が撤退したと判断された。
    8日に敵船団を捕捉し攻撃開始。英警備艦ジュニッパーを撃沈、駆逐艦ハンス・ロディと協同でイギリス兵員輸送船オラマを撃沈した。他にも病院船がいたが、こちらは見逃した。
    艦隊司令のマルシャル中将は近隣に潜む英空母を撃沈したいと考え、主力のシャルンホルストとグナイゼナウを引き抜いて索敵。アドミラル・ヒッパーは陸軍支援のためトロンハイムに向かった。
    グナイゼナウと分離してトロンハイムへ回航。グローリアス以下2隻を仕留めたグナイゼナウと現地で合流すると、再び出撃。敵を求めて活動したが、英潜水艦の雷撃でグナイゼナウが損傷したため反転。
  • 7月、北海に進出して通商破壊を実施するも戦果は無かった。
  • 11月30日、キールを出撃して通商破壊に従事。12月25日、Uボートが探知した船団を捜索中、フィニステル岬西方約1100キロで西アフリカに向かう英船団WS5Aを発見。
    アドミラル・ヒッパーは直ちに船団を襲撃したが、敵の護衛は強大で、英空母フューリアスまで付いていた。幸いにして空母は航空機輸送中だったため、当面の敵は重巡や軽巡で構成された護衛部隊であった。
    しかし数の不利は覆しがたく、砲撃戦の末アドミラル・ヒッパーは撤退。しかし無傷で戦闘を切り抜け、重巡ベリックと輸送船エンパイアトルーパーに命中弾を与えた。
    • 続いて単独航行していた汽船ジュムナを撃沈した。更なる獲物を求めて遊弋するも機関が故障したため、ブレストへ帰投。
  • 1941年1月5日、イギリス軍機の空襲を受ける。
  • 2月1日、ブレストを出撃。11日、アゾレス諸島南東沖で英貨物船アイスランドを撃沈。翌日、護衛無しで航行する恰好の獲物、SLS64船団を発見。
    アドミラル・ヒッパーはその爪牙を無防備な羊たちに向けた。船団の間を何度も行き来し、30分以上に亘って蹂躙し続けた。この戦闘で7隻の貨物船を血祭りに上げ、3万2800トンの大戦果を得た。
  • 1942年5月、トロンハイムに進出。同年7月、ティルピッツとともに援ソのPQ17船団攻撃に向かったが、空軍機とUボートが先に撃滅したので反転し帰投した。
    9月10日、哨戒任務中にイギリス潜水艦タイグリスから雷撃を受けるも、外れる。9月24日から28日にかけて、バレンツ海で機雷を敷設する駆逐隊を護衛。作戦後、機関の修理作業に着手。
    11月5日、僚艦とともに北極海で通商破壊を実施。二日後、艦載のアラド水上機がソ連籍タンカーと護衛艦を発見。これを撃沈すべくZ27が急派された。
  • 12月30日、リュッツオウとともに北極海で索敵していたところ、ベア島沖でJW51B船団と遭遇し護衛の英艦隊と交戦。バレンツ海海戦が生起した。
    • この戦闘で英駆逐艦アケティーズと掃海艇ブランブルを撃沈し、駆逐艦オンスローとオビディーエントを撃破したが、反撃を受けて第三缶室を破壊される。出力が低下し、28ノットに減速。
      敵の正確な砲撃がアドミラル・ヒッパーを襲う。回頭して回避運動を行うが、左舷に2発の命中弾を受けて航空機格納庫が炎上。何とか喰らいつこうとするアドミラル・ヒッパーに、陸上の司令部より「冒険するな」との命令が下る。これをアドミラル・ヒッパーは攻撃中止と受け取り撤退したが、実際は大局的な指示で、決して退却の意味ではなかった。
      こうして優勢な戦力を保持しながら貧弱な護衛しか持たないJW51B船団をみすみす逃す結果となってしまい、作戦は失敗。1943年1月3日、ナルヴィクへ入港。
      記録的な猛吹雪によりノルウェーとドイツ本国との連絡が完全に絶たれ、しばらく報告が出来なかった。翌月、ドイツ本国に帰投する。
      • バレンツ海海戦の結果に激怒したヒトラーにより建造・修理は潜水艦に注力される事になり、水上艦の出番が激減した。出番を失ったアドミラル・ヒッパーはキールでカモフラージュを施し、
        係留されるだけの日々を送った。
  • 1944年3月1日に再就役し訓練任務に従事。バルト海に回航されるが、翌月1日に予備役へと編入される。英軍の機雷封鎖により動きたくても動けない日々が続く。
  • くすぶっているアドミラル・ヒッパーに転機が訪れる。1944年7月、東部戦線が遂に崩壊し、ドイツ陸軍は潰走。今やバルト海沿岸に叩き出されようとしていた。
    この危急に、ヒトラーは大型艦の戦闘任務復帰を認める。戦場に戻る事が許されたのだ。他の残存艦とともにティーレ中将率いる第2戦闘部隊へ編入されたヒッパーは陸軍の撤退支援を開始した。
    10月初旬、ソーヴ半島で交戦する友軍を撤退させるため出撃、先に艦砲射撃を実施し弾切れとなって後退するリュッツオウ及びプリンツ・オイゲンに代わり、砲撃を喰らわせた。
    そこへソ連軍機が現れ、砲撃の妨害をしてきたが、技量不足が深刻で激しい爆撃の割には全く命中しなかった。彼女らの献身的な支援により撤退作戦は完了した。
  • 1945年1月29日、難民輸送船ウィルヘルム・ガストロフ等を護衛してキールを目指したが、道中でソ連の潜水艦に雷撃されて輸送船全滅。
  • 1945年4月3日、キール軍港内で英軍機の空襲を受け大破。同月9日にも空襲を受け被害が拡大する。5月3日にハイケンドルファードック内で自沈した。その後、船体は英軍に鹵獲される。
    終戦後の1946年に浮揚され、1948年から翌年にかけて解体された。

小ネタ

  • アドミラル・ヒッパーに限った話ではないがこの時期のドイツ海軍は量の不利を質で補おうと新機軸を多数導入した。
    特に機関部はドイツ科学の結晶を投じていたが整備性が悪く、ヒッパー級は機関不調で全力運転できないという本末転倒ぶり。
  • これが改善されるのは情けないことにフランス侵攻後に世界有数の軍港であるブレストを占領し、そこの優秀な整備員たちに修理させてからだった。