所属 | United States Navy |
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艦種・艦型 | フレッチャー級駆逐艦→護衛駆逐艦(1949)→駆逐艦(1962) |
正式名称 | USS Fletcher (DD/DDE-445) |
名前の由来 | Frank Friday Fletcher(1855-1928) アメリカ海軍提督(最終階級 海軍大将) ベラクルス(メキシコ)の占領を指揮し、その功績によってMedal of Honorを授与された |
愛称 | Lucky 13 |
起工日 | 1941.10.2 |
進水日 | 1942.5.3 |
就役日(竣工日) | 1942.6.30 |
退役日(除籍理由) | 1969.10.1 同日除籍(1972.2.22売却後解体) |
全長(身長) | 114.8m |
基準排水量(体重) | 2050英t(2182.9t) |
出力 | Babcock&Wilcox式重油専焼缶4基General Electric式蒸気タービン2基2軸 60000shp(60832.2PS) |
最高速度 | 36.5kt(67.59km/h) |
航続距離 | 15.0kt(27.77km/h)/6500海里(12038km) |
乗員 | 273名 |
装備(竣工時) | 5inch38口径Mk.12単装両用砲5門 21inch五連装魚雷発射管2基10門 1.1inch機関砲x4(4x1) 20mmエリコン機関砲x3 爆雷投射機x6 爆雷投下軌条x2 |
装備(1945) | 5inch38口径Mk.12単装両用砲5門 21inch五連装魚雷発射管2基10門 ボフォース40mm機関砲x10(5x2) 20mmエリコン機関砲x7 爆雷投射機x6 爆雷投下軌条x2 |
装甲 | なし |
建造所 | Federal Shipbuilding and Drydock Company,Kearny, New Jersey (フェデラル・シップビルディング・アンド・ドライドック社 アメリカ合衆国ニュージャージー州ハドソン郡カーニー町) |
勲章 | 不明 WWII (15 stars) 不明 Korian war (5 stars) |
フレッチャー級とは
- アメリカ軍の駆逐艦、フレッチャー級駆逐艦のネームシップ。
- 元々は1600トン級の駆逐艦として計画されたフレッチャー級だが、軍からの要求や軍縮条約の失効により、2000トン超の大型駆逐艦として建造された。
- 1990年代の日本での架空戦記ブームの頃までは「アメリカ駆逐艦は日本の駆逐艦に比べ対空・対潜を重視しており、そのかわり対水上、特に雷撃は日本ほど重要視されていなかった」とされていた。
しかし、これはほぼ誤解に近い。そもそも雷装からして、フレッチャー級は5連装2基と上には島風しかいないのだ。- 米軍の雷装軽視説は、当時日本の酸素魚雷が過大評価されていたことにもよる。
- 実際には、製造ロットを重ねるごとに装備品による重量増大とトップヘビーが問題化しつつあったにも関わらず、ギアリング級の建造中に終戦を迎えるまでついぞ魚雷発射管を減らそうとはしなかった。
戦後の過大評価を差し引いたとしても、ヨークタウンやワスプと言った名だたる大艦をほぼ通り魔的に海底を引きずり込む日本の魚雷は米軍にとって警戒の対象であり、
圧倒的優勢の末期に至ってさえアレン・M・サムナー級の「クーパー」が、アメリカではせいぜいDEレベルの「竹」に雷撃で撃沈されている。
しかし逆に言えば米軍が雷撃を頼みにしない理由などなかった。 - 敢えてフレッチャー級が明らかに日本駆逐艦に負けていた点を上げるとするなら凌波性である。
台風や日本海低気圧などが原因で海上が荒れやすい日本では並型駆逐艦(峯風型・神風型・睦月型)の時点で高い凌波性を求められた。
これに対して米海軍はホンダポイント海難事件などを起こしているにも関わらず艦艇の凌波性に関する改善は後回しにされがちだった。
結果、レイテ後の時期にコブラ台風によりフレッチャー級1隻を含む3隻の駆逐艦を喪失する自体になった。
上記の日本の「竹」が損傷で応急修理を受けた状態で大した問題もなく切り抜けて帰還してきたのと対照的である。
- フレッチャー級の能力の真髄は太平洋戦争で遺憾なく発揮され、日本軍を相手に奮戦している。
アーレイ・バーク司令の指揮下で活躍した第23駆逐戦隊リトル・ビーバーズや、サマール沖海戦で栗田艦隊を死闘を繰り広げたタフィ3の駆逐艦等が有名である。
また、大戦末期には特攻部隊相手の対空戦闘でも活躍した。 - 戦時急造艦として各部の共通化・標準化が進められており、生産性も高い。
さらに拡張性も悪くなかったようで、戦中から戦後にかけて様々な改修が行われている。 - 汎用駆逐艦の傑作たる本級はアメリカ軍の駆逐艦の基本形となり、同型艦が175隻も建造された。
- もちろん大量に作られたので戦後、余剰となったフレッチャー級は他国にも貸与・売却されている。
計14ヶ国にフレッチャー級は売却されており、大戦により海軍戦力を大幅に喪失したかつての枢軸国にも貸与された。
日本もその内のひとつであり、戦後、創設間もない海上自衛隊にも配備されている。
ありあけ型護衛艦として「ヘイウッド・L・エドワーズ」「リチャード・P・リアリー」の2隻が貸与、「ありあけ」「ゆうぐれ」として活動した。
冷戦中期までに大半の艦は退役したが、それでも最後のフレッチャー級が退役したのは21世紀に入った2002年であった。
- もちろん大量に作られたので戦後、余剰となったフレッチャー級は他国にも貸与・売却されている。
- 175隻のフレッチャー級が建造されたが、そのうち17隻は太平洋戦争にて戦没した。
多くは日本軍の特攻機による撃沈であり、日本海軍の水上艦艇との交戦、触雷、さらにコブラ台風による波浪でも戦没している。 - 後継型にアレン・M・サムナー級が、さらに最終型にギアリング級がある。
- 戦後になり退役・解体された艦も多いが、それでも4隻のフレッチャー級が現在、記念艦として今も尚現存している。
フレッチャーの戦歴
- フレッチャー級最初の艦となった本艦は1942年5月3日に進水。
太平洋艦隊に配属され、ガダルカナル島を巡る戦いなどに参加した。 - 1942年の第三次ソロモン海戦およびルンガ沖夜戦の最中、本艦において画期的なシステムが構築された。
新型レーダーを装備していた本艦の艦内では、レーダーによって得た情報を海図室で集積し、ここと艦長・砲撃担当・雷撃担当らを電話で繋いで連絡を取ることで、レーダー情報を素早く艦内に共有し、極めて効率的な情報運用が行われたのだ。
これは現代海軍における必須システムであるCIC(Combat Information Center:戦闘指揮所)の先駆けとも呼べるシステムであった。 - 対日戦では多くの作戦に参加し、無事終戦を迎えた。
- 戦後の1946年に一度退役したが、その後護衛駆逐艦として再就役。朝鮮戦争に参加し、空母の護衛や艦砲射撃、偵察任務などに従事した。その後は対潜水艦戦の訓練などを務めた。
- 1968年8月に退役・除籍。その後スクラップとして売却され、静かにその生涯を終えた。