所属 | Marine nationale→Vichy Marine(1940) |
---|---|
艦種・艦型 | ヴォークラン級駆逐艦 |
正式名称 | Vauquelin(8/52/X53) |
名前の由来 | Jean Vauquelin(1728-1772) フランス海軍将校 七年戦争でアメリカに渡りフレンチ・インディアン戦争を戦った。ノイヴィルの戦いでイギリス艦隊に追われていた時、残っていた唯一の護衛艦で囮となり、追撃してきた敵艦を返り討ちにした。 |
起工日 | 1931.3.20 |
進水日 | 1932.9.29 |
就役日 | 1933.7 |
除籍日(除籍理由) | 不明(1942.11.27自沈処分) |
全長(身長) | 129.3m |
基準排水量(体重) | 2402.5英t(2441t) |
出力 | メーカー不詳重油専焼缶4基Rateau-Bretagne式蒸気タービン2基2軸 64000PS(63124.485shp) |
最高速度 | 36.0kt(66.67km/h) 41.0kt(75.93km/h)(最大) |
航続距離 | 18.0kt(33.33km/h)/3650海里(6759.8km) |
乗員 | 指揮官10~12名 乗組員210~224名 |
装備(建造時) | 138mm40口径M1927単装砲5門 M1925 37mm機関砲x4 オチキス13.2mm機関銃x4(2x2) 550mm魚雷発射管三連装1基連装2基7門 爆雷投射機2基 |
装甲 | なし |
建造所 | Ateliers et Chantiers de France, Dunkirk (フランス造船所 フランス共和国オー=ド=フランス地域圏ノール県ダンケルク郡ダンケルク市) |
- フランス海軍が1920年代後半から配備を始めた大型駆逐艦シリーズの1隻。
紹介文にスーパー駆逐艦とあるように、2500t級と駆逐艦としてはかなり大型のもの。
138mm砲5基を備え、更に前級までの550mm三連装魚雷発射管1基に、連装魚雷発射管2基を追加している。
(参考比較:天龍型軽巡洋艦 14cm単装砲4基、53cm三連装魚雷発射管2基) - フランスは第一次大戦後ドイツから賠償として譲り受けた大型駆逐艦S-113に触発され、大型の駆逐艦開発に興味を示した。
(S-113は排水量2000tで15cm単装砲4基と60cm連装魚雷発射管2基(片舷4射線)を備える非常に強力な艦だったが、完成直前に終戦となっている。)
当時のフランスはジューヌ・エコール(新生学派)と呼ばれる新戦略に基づいた海軍戦略に行き詰まりを感じていた。
これは海軍力で勝るイギリス等に対抗するため小型の水雷艇などを多数用いて戦艦の数的不利を覆し、更に通商破壊でもって敵国を経済的に追い詰めることを主眼においたもので、
主導的立場を取ったオーブ提督の言葉を借りれば「その目的は敵に最大限の苦痛を与えることであり、敵主力艦の撃破は重要ではない」というもの。
このためフランス海軍は水雷艇を多数配備していたが、これを撃破するための水雷艇駆逐艦、すなわち駆逐艦の登場により優位性が薄れていた。
第一次大戦中は外洋航海能力が水雷艇よりも高い駆逐艦が水雷艇の仕事も兼ねるようになり、フランス海軍は日本から樺型駆逐艦を購入し、アラブ級駆逐艦として数の不足を補った。 - さて大戦後フランス海軍は他国の海軍と比較すると、水雷艇やそれを補佐する装甲巡洋艦を多く持っていたものの、
その間に当たる駆逐艦と、新しく生まれた軽巡洋艦と呼ばれるカテゴリの艦船が不足していた。
そこで海軍再建と発展にあたりこれらの艦種を拡充する必要性に迫られたが、ここで前述のS-113を手に入れていたフランス海軍はふと考えた。
「大型駆逐艦を作れば軽巡洋艦の主だった任務は可能ではないか?」
そこで2000t級の駆逐艦としてシャカル級を誕生させるとともに、諸外国のような1200トン級の駆逐艦をあくまでもこれまでの拡大発展として水雷艇と置き、新艦隊計画をスタートさせた。 - 前置きが長くなったが、こうした目的をもってシャカル級から6隻ずつ建造しつつ、小改良を加えたのが一連の大型駆逐艦である。
- シャカル級(1926年から就役、130mm単装砲5門、55cm三連装魚雷発射管2基(片舷3射線))
- ゲパール級(1929年から、138mm単装砲5門に強化)
- エーグル級(1932年から、138mm砲を改良)
- ヴォークラン級(1933年から、魚雷発射管を三連装1基と連装2基に増設(片舷5射線))←今ここ
- ル・ファンタスク級(1936年から、魚雷発射管を三連装3基に(片舷6射線)、機関を新型に)
- モガドール級(1938年から、138mm砲を連装4基8門、魚雷発射管を三連装と二連装で2基ずつ10門)
- 1940年6月にフランスは降伏し、ドイツは実質的な傀儡政権となったヴィシーフランス政府に対連合国への宣戦布告などを要求していたがのらりくらりとかわされた上、
1942年11月8日に北アフリカ西側に連合軍が上陸したトーチ作戦ではフランス政府は抵抗も見せず降伏したため、
ドイツ軍はフランスを完全な制圧下においた上で海軍戦力を接収しようとアントン作戦、ならびにリラ作戦を実施する。
しかしフランス海軍はこれに抵抗し、ヴォークランを含め多数の艦艇を自沈させた。
中には乾ドックでそのまま沈んだものもおり、トゥーロンの港は浮いた重油で2年間海水浴もできなかったという。