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選挙の歴史

Last-modified: 2013-08-22 (木) 15:47:53

 日本で始めて選挙が行われたのは、大日本帝国憲法が制定された1889年(明治22年)でした。

 その翌年に民主化の第一歩として衆議院議員選挙が行われましたが、この選挙で投票できる人は直接国税を15円以上納めている満25歳以上の男性に限られていため、全人口の約1%(45万人)にしかすぎないうえに、投票方法が記名式(きめいしき)だったので、誰が誰に投票したかがわかってしまう仕組みでした。
 しかし、こうした選挙権制度に対して批判が多く少しづつ制度が改正されていきました。
 1925(大正14)年に、25歳以上のすべての男性が選挙権を持つことが出来たのですが、女性が選挙権をもつことは出来ませんでした。1945(昭和20)年、第二次世界大戦が終わり、長い長い歴史を得て満20歳以上の男女すべての日本国民が選挙権を持てるようになったのです。

 そもそも選挙は、西暦紀元前の古代ギリシアですでに行われていました。しかし、選挙が行われたのはごく少数の公職で、大臣・役人・裁判官など大部分の公職はくじ引きで決定されていたといいます。これは、市民がすべて平等であり公職の選定にはくじ引きが最も公正であると考えられたからです。そして市民全員が参加する民会を最高の議決機関とする直接民主制が採用され、くじ引きで選出される政治家のチェック機能とし、投票によって一定数に達すると追放するといういわばマイナス選挙の制度でした。この制度は良い政治家も追放することが多かった為、必ずしもうまく機能することはなく、全盛期の政治家ペリクレスは、選挙で選ばれた将軍としてアテナイを支配したのでした。

 日本に近代的な選挙制度が導入されたのは、明治以降欧米の政治制度が導入されたことによりますが、江戸時代にも投票(入札)による選挙が一部において村役人や町役人の選任のため採用されていました。当時の入札では、選挙活動のようなことは一切禁止されていたので、投票を依頼したものが罰せられた記録も残っています。
 幕末のころから坂本竜馬の『船中八策』や福沢諭吉の『西洋事情』にみられるように、欧米の議会制や選挙制についての知識が少しずつ知られるようになりました。

 1871年に廃藩置県が行われ、旧藩主に代わって新進気鋭の地方官が配置されるようになると、欧米流の民会を試みる地方がでてきて、とくに兵庫県令の神田孝平は著名な外国通であり、兵庫県の「民会議事章程略」が「日新眞事志」に紹介され1873年12月19日、選挙制を含めた民会制定のモデル規則となりました。また、名主や年寄が廃止され、戸長が置かれることになり、その選任は従来の任命に代わって投票による場合が多くなりました。このように明治初期に地方レベルで選挙制の導入が試みられたのです。
 
 1878年7月に大久保利通の建議にもとづく三新法と呼ばれる郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則により地方制度が整備され、府県会規則は、議員の選挙規則が規定され、初の全国的公的選挙制度の成立といえました。また、初めて”選挙”という用語が法的に使用されたのもこの年でした。

 1890年から帝国議会が開設されることになり、日本で初めて国民参政の道が開かれました。帝国議会は、政府と民党の対立が深まり、予算案をめぐって激突し、衆議院が修正案を議決したことから、松方内閣は1891年12月に衆議院を解散。総選挙にあたり品川内相は、官憲の刀で選挙に干渉し民党を弾圧。このため全国各地で衝突がおこり、多数の死者や負傷者が出ました。これを選挙大干渉といいます。選挙の結果は干渉にもかかわらず民党が勝ち、批判の前に品川内相らは辞職の道を選択。しかし、買収などの腐敗行為も横行し、第2回総選挙から干渉と腐敗という歪んだ選挙が始まってしまいました。
 普通選挙の実現と腐敗選挙の続発は、有権者教育や、選挙浄化運動の必要性を感じさせ、後藤新平は「政治の論理化運動」を提唱、田沢義鋪は「選挙粛正運動」を提唱。1928(昭和3)年の初の普通選挙は、選挙干渉と選挙腐敗が激しく国民の批判が高まったため、選挙粛正の気運が盛り上がり、選挙革正審議会が設置され、その答申にもとづき1935年選挙粛正委員会令が公布され、官民協力の形で選挙粛正運動が全国的に展開されました。

 
 その後、選挙権の納税要件が、一般に予想された10円より高い15円と決められたことは、当初から選挙拡大の動きをひきおこしました。議会ごとに選挙法改正案が提出され、1892年には大井憲太郎などを中心に普通選挙同盟も結成、選挙権拡大への運動が広がったのです。1900年選挙法が改正。納税要件が10円に引き下げられ、選挙区が大選挙区制となり(市は独立の選挙区)、秘密投票制となりました。
 大正期に入ると、護憲連動や第一次世界大戦後の先進諸国の普通選挙実現などの影響で普選運動が盛り上がり、尾崎行雄・犬養毅らが先頭となって、大正デモクラシーと呼ばれる風潮が巻き起こりました。こうした社会背景のなかで平民宰相といわれた原敬首相は、1919年(大正8)選挙法を改正し、納税要件を3円に引き下げるとともに、小選挙区制へ改革。1924年、総選挙で普通選挙を公約した護憲3派が勝利を収め、加藤高明内閣のもとで1925年普通選挙法が成立しました。
 選挙区制は、世界でも類例がない中選挙区制(大選挙区単記非移譲式投票制)が採用され、選挙運動や選挙費用について規制が強化。取り締まりのための治安維持法が制定されました。

 一方、婦人参政権を求める動きも大正期になって欧米の影響を受け活発化しました。その後、戦時色の強まるなかで、大日本婦人会など新体制運動に組み込まれたのでした。すでに明治期から岸田俊子・景山英子らが政治的に活動したり、「青踏」のような女性の目覚めの動きがみられましたが、1919年平塚雷鳥・市川房枝・奥むめおらが「新婦人協会」を設立し、婦人参政権獲得運動を展開しました。1923年には婦人参政同盟が結成され、翌々年の1925年には婦選三案が衆議院に提出されるなど運動も活発化しました。

 1946年11月3日新憲法が公布され、戦後日本の新しい体制が確立。華族制度の廃止により、貴族院に代わる第二院として、新たに参議院が設置されました。憲法では国会議員は公選によると定められているので、衆議院と異なる特色をもった代表を選出する方法が求められ、全国区と地方区の2本立てや被選挙資格を満30歳以上にするなどが規定された参議院議員選挙法が1947年2月に公布。同年4月20日第1回参議院議員選挙が行われ、文化人など異色の議員が選出されました。また、同年4月には初の統一地方選挙も実施。戦後第1回総選挙で用いられた大選挙区制限連記制は、異党派投票やアベック投票などの批判がありましたが、1947年3月、会期末の国会に突如中選挙区制への改正案が提出され、野党の反対による乱闘国会のなかで成立しました。これ以後、鳩山内閣のときの小選挙区制への改正の動き、田中内閣のときの小選挙区比例代表制組み合わせ案への改正の動きがありましたが、いずれも野党の激しい反対で実現しませんでした。1950年、それまで衆議院・参議院・地方選挙が別々の法律で規定されていましたが、公職選挙法に一体化されたのでした。

 参議院の全国区制については、かねてから選挙区が広すぎる、金がかかりすぎる、候補者を選ぶのが難しいなどの批判がありました。これに対し多くの改革案が出されていたのですが、自民党が拘束名簿式比例代表制案に党議をまとめ、社会党も同趣旨の案をまとめたので実現の可能性が高まりました。1982年国会の会期を94日間という異常な長期延長を行い、反対を押さえて改正案が成立。日本に初めて比例代表制が導入されました。1983年6月、参院選で史上初めて政党に投票する拘束名簿式比例代表制の選挙が行われ、予想以上にミニ新政党が健闘しました。 
 
 その後、公益事業の民営化や減税、金融ビッグバンといった市場経済重視の諸改革を断行。1990年まで11年強、後継のジョン・メージャー政権を含めれば18年近くに及ぶ長期政権を維持したことは、日本人の記憶にもとどまっているはずでしょう。

 第45回衆議院議員総選挙が2009年8月18日に公示され、閣僚の度重なる不祥事や辞任劇、更には麻生太郎首相本人の失言や判断のブレが目立ち、内閣支持率は長期低迷。自民党にとっては、最悪のタイミングでの選挙となりました。対する民主党は、鳩山由紀夫代表や小沢一郎代表代行の政治献金に関する疑惑が残るものの、自公連立政権への不満の受け皿として支持を拡大し、悲願の政権交代の実現に向けて王手をかけたのでした。

 国民の現状不満と将来不安は日増しに高まっていますが、現在の選挙政治へと至っています。