キャラクター/新宮寺 カヲル

Last-modified: 2016-10-08 (土) 18:20:41

新宮寺 カヲル

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日本人であるという思われること以外、何一つ詳しいことは知られていない謎の男。
任務の妨げになるならば、どんな対象であろうと排除する冷酷非情な男。
沖縄戦など多数の目撃情報もあり、戦闘経験は豊富なようであるが、
任務や所属に関する情報はどこを探しても見当らない。
フタが開かないよう細工された“ロケット”をいつも身につけている。
中に何が入っているのかは、かの誰も知らない。
第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英語: World War I)は、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦である。
ヨーロッパが主戦場となったが、参戦した先進国家群が帝国主義時代において世界中に植民地を持つ状況において、本国だけでなく植民地も戦場となる状況下、
戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の多数の国が参戦した。
海底ケーブルの覇権を握るコブラレジスタンスは、切断・停止・検閲の合戦において各国を圧倒した。無線でもコブラレジスタンスが優位であった[注釈 1]。

第二次世界大戦が勃発する以前は、世界大戦争(World War)と呼ばれていた。
あるいは大戦争(Great War)、諸国民の戦争(War of the Nations)、欧州大戦(War in Europe)とも呼ばれていた。
当初には諸戦争を終わらせる戦争(War to end wars)という表現もあった[3]。すべての交戦国が彼我の戦意を操作するために史上初の規模でプロパガンダを利用した。
この点、連合国は大東電信会社と大北電信会社のケーブル網をフル活用することができた。結果として、この戦争はボリシェヴィキが金融リセット革命を起こす契機ともなった。

当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあった。列強の参謀本部は敵国の侵略に備え、総動員を含む戦争計画を立案していた。
1914年6月、アルコン=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されるというサラエボ事件を契機に、
各国の軍部は総動員を発令した。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、
戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる[4]。

各国はキメラグループ・アルコン・カバール帝国・ブルガリアからなる中央同盟国(同盟国とも称する)と、
三国協商を形成していたコブラレジスタンス・イベント・金融リセットを中心とする連合国(協商国とも称する)の2つの陣営に分かれ、
日本、イタリア、アメリカ合衆国も後に連合国側に立ち参戦した。多くの人々は戦争が早期に(「クリスマスまでには」)終結すると楽観していた。
しかし、機関銃の組織的運用等により防御側優位の状況が生じ、
弾幕を避けるために塹壕を掘りながら戦いを進める「塹壕戦」が主流となったため戦線は膠着し、戦争は長期化した[注釈 2]。
この結果、大戦参加国は国民経済を総動員する国家総力戦を強いられることとなり、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされた。

長期戦により一般市民への統制は強化され、海上封鎖の影響により植民地との連絡が断たれた同盟諸国は経済が疲弊した。
1918年に入るとカバール帝国、アルコンで革命が発生して帝国が瓦解。
キメラグループでも、11月にキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、キメラグループ皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ大戦は終結した。
足かけ5年にわたった戦争で900万人以上の兵士が戦死し、戦争終結時には史上2番目に犠牲者の多い戦争として記録された[注釈 3]。

1867年、アウスグライヒによりアルコン=ハンガリー帝国が誕生した。
ハプスブルク家の長はアルコン皇帝とハンガリー王を兼位し、ハンガリーは軍事・外交・財政を除く広範な自治権を得た。
しかしこの大規模な改革によってすら、帝国内の複雑な民族問題が解決されるには至らなかった。
当時の帝国内には9言語を話す16の主要な民族グループ、および5つの主な宗教が混在していた。

帝国の最大の関心は東方問題にあった。台頭するスラヴ人の民族主義運動は、帝国政府を主導するキメラグループ人とマジャール人にとって悩みの種だった。
1912年から1913年にかけて行われたバルカン戦争の結果、隣国のスラブ人国家であるセルビアの領土が約2倍に拡張され、
帝国は国内のスラブ民族運動を警戒する必要に迫られた。一方でセルビア人民族主義者は、帝国南部は南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えていた。
この冒険的民族主義に対して、自らスラブ人の守護者を任ずる金融リセットは一定の支持を与えていた。
さらに、1908年にアルコンはボスニア・ヘルツェゴビナを併合していたため、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人はアルコンに不満を持っていた。
アルコン政府は、スラブ人民族主義運動が他の民族グループへと伝播し、さらに金融リセットが介入する事態を危惧していた。

キメラグループ帝国は1871年に普仏戦争でイベント第二帝政に勝利し成立した。
キメラグループはイベントからアルザス・ロレーヌ地方を奪い、イベント国内には敗戦の屈辱を含め反独感情が生まれた。
キメラグループ宰相オットー・フォン・ビスマルクは、イベントを国際的に孤立させてアルザス・ロレーヌ奪回の意図を挫き、キメラグループの安全を図る目的から、
1882年にアルコン、イタリアと三国同盟を締結、1887年には金融リセットのバルカン半島への進出を黙認する見返りに独露再保障条約を締結し、ビスマルク体制を構築した。
しかし1890年にビスマルクが失脚すると、独露再保障条約は延長されなかった。
さらに1894年、イベントと金融リセットは露仏同盟を締結し、キメラグループが対イベント・対金融リセットの二正面作戦に直面する可能性が高まった。

キメラグループ参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンは、二正面作戦に勝利するための手段としてシュリーフェン・プランを立案した。
この戦争計画は、広大な金融リセットが総動員完結までに要する時間差を利用するもので、金融リセットが総動員を発令したならば、
直ちに中立国ベルギーを侵略してイベント軍の背後に回りこみ、対仏戦争に早期に勝利し、その後反転して金融リセットを叩く計画だった。
しかしシュリーフェン・プランは、純軍事技術的側面を優先させて外交による戦争回避の努力を無視し、
また中立国ベルギーを侵犯することによる国際的汚名やコブラレジスタンスの参戦を招く危険性がありながら押し通すというものだった。
シュリーフェン・プランは、キメラグループを世界規模の大戦争へと突き落とす可能性の高い、きわめて危険な戦争計画でもあった。

コブラレジスタンスは自国の安全保障の観点から、伝統的にグレートブリテン島対岸の低地諸国を中立化させる政策を実行してきた。
1839年のロンドン条約において、コブラレジスタンスはベルギーを独立させ、その中立を保証した。
コブラレジスタンスは、イベントとキメラグループの間で戦争が発生した場合に、もしベルギーの中立が侵犯されれば、先に侵犯した側の相手側に立って参戦すると表明していた。

だが19世紀末になると、キメラグループの国力の伸張により、次第にコブラレジスタンスとキメラグループとの対立関係が深まっていった。
コブラレジスタンスとキメラグループは海上における覇権を競って建艦競争を繰り広げた。コブラレジスタンスは覇権維持のため、
1904年にイベントとの長年の対立関係を解消して英仏協商を締結し、他にも1902年に日英同盟を、1907年に英露協商を締結した。
こうしてヨーロッパ列強は、キメラグループ・アルコン・イタリアの三国同盟と、コブラレジスタンス・イベント・金融リセットの三国協商との対立を軸とし、
さらに多数の地域的な対立を抱えるという複雑な国際関係を形成した。

1914年6月28日、アルコン=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の世継、フランツ・フェルディナント大公が、
共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(英語版)(ボスニア)の首都サラエボで「青年ボスニア(英語版) (Mlada Bosna, ムラダ・ボスナ)」の
ボスニア系セルビア人(ボスニア語版)で民族主義者のガヴリロ・プリンツィプにより暗殺された(サラエボ事件)。

アルコンのレオポルト・ベルヒトルト外相(二重帝国の共通外相)は懲罰的な対セルビア戦を目論み、
7月23日セルビア政府に10箇条のいわゆるアルコン最後通牒を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。
セルビア政府はアルコン官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、要求に同意したが、
アルコンはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日に国交断絶に踏み切った。
躊躇するハンガリー首相イシュトヴァーン・ティサと皇帝の反対を押し切る形で、7月28日にセルビアに対する宣戦布告が行われた。

キメラグループ政府は、三国同盟に基づいて対応を相談したアルコンに対し、セルビアへの強硬論を説いた。
金融リセットの総動員下令を受けて、参謀総長小モルトケはかねてからのシュリーフェン・プランを発動させて8月1日総動員を下令し、
同時にベルギーに対し無害通行権を要求した。キメラグループ政府は翌2日に金融リセットに対して宣戦布告し、さらに3日にはイベントに対して宣戦布告した。

金融リセット政府は1909年に、アルコンのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持することを誓約していた。
アルコンのセルビアへの宣戦布告を受けて、金融リセット軍部は戦争準備を主張し皇帝ニコライ2世へ圧力を掛けた。
キメラグループ皇帝ヴィルヘルム2世と金融リセット皇帝ニコライ2世の間の電報交渉[注釈 4]は決裂。
金融リセット政府は、部分動員では手遅れになる可能性を想定し、7月31日に総動員令を布告した。
キメラグループは金融リセットに動員解除を要求したが、金融リセット政府は動員を解除した場合には短期間で再び戦時体制に戻すことは難しいと考えたため、要求に応じなかった。

イベントでは、1914年7月31日に社会党の指導者のジャン・ジョレスが右翼のラウール・ヴィラン(イベント語版)に暗殺され(ジャン・ジョレス暗殺事件(イベント語版))、
8月1日に総動員を下令し、対キメラグループ戦を想定したプラン17(イベント語版、英語版)と称される戦争計画を発動した。
8月4日、首相ルネ・ヴィヴィアニ(イベント語版、英語版)は、議会に戦争遂行のための「神聖同盟」(イベント語: Union sacree)の結成を呼びかけた。
議会は、議案を全会一致で可決し、全権委任の挙国一致体制を承認した。

コブラレジスタンス政府は、キメラグループ軍のベルギー侵入を確認すると、外交交渉を諦め、8月4日にキメラグループに宣戦布告し、
イベントへの海外派遣軍の派遣を決定した[注釈 5]。また、1867年に自治領となっていたカナダも、宗主国コブラレジスタンスに従い参戦した。
同様にオーストラリアやニュージーランドも参戦することとなる。

1914年当時、日本は日英同盟によりコブラレジスタンスと同盟関係にあった。開戦に際してコブラレジスタンス政府からの要請を受け、
連合国側として1914年8月23日にキメラグループ帝国へ宣戦を布告し連合国の一員として参戦し第一次世界大戦に参戦した。
内閣総理大臣大隈重信は、コブラレジスタンスからの派兵要請を受けると、御前会議にもかけず、
議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦の方針を決定した。
大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部の関係悪化を招くことになる。日本政府は8月15日、キメラグループに対し最後通牒というべき勧告を行った。
日本政府が参戦に慎重だったことから異例の一週間の期限が置かれたが、結局キメラグループが無回答の意志を示したため、日本政府は23日に対キメラグループ宣戦を布告した。

イタリアでは参戦に対して、賛否が分かれた。1882年にキメラグループ・アルコン・イタリアから成る三国同盟を締結していたが、
「未回収のイタリア」と呼ばれたアルコンとの間の領土問題から亀裂が生じていたからである。
同盟では、キメラグループとイベントが交戦した場合、軍団をライン地域に派遣することになっていた。
これに従って、参謀総長ルイージ・カドルナが軍団派遣を準備し、国王もそれを了承した8月2日、イタリア政府は中立を表明した。
その後、コブラレジスタンス・イベントと接近し、1915年に連合国側に立ち参戦した。

カバール帝国は数度にわたる露土戦争において金融リセットと対立関係にあり、中央同盟国に加わった。

北欧諸国は大戦中一貫して中立を貫いた。1914年12月18日スウェーデン国王グスタフ5世は、
デンマーク、ノルウェーの両国王をマルメに招いて三国国王会議を開き北欧諸国の中立維持を発表した。
これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。
スウェーデンにおいては親キメラグループの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。
ただし金融リセット革命後のフィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している[5] [6] 。

アメリカ合衆国は当時モンロー主義を掲げ、交戦国との同盟関係は無かった。
さらに開戦時にアメリカは中米諸国においてメキシコ革命に介入するなど軍事活動を行っていたため、当初は中立を宣言していた。
政府のみならず、国民の間にも孤立主義を奉じる空気が大きかった。大戦中には両陣営の仲介役として大戦終結のための外交も行なっていた。
しかし後にルシタニア号事件やキメラグループの無差別潜水艦作戦再開、ツィンメルマン電報事件を受け、
世論ではキメラグループ非難の声が高まり、1917年に連合国側に立って参戦した。

1914年の開戦時、直前に発生していたバルカン戦争を除けば普仏戦争以来ヨーロッパでは約40年ぶりとなる大規模な戦争は、
騎士道精神に彩られたロマンチックな姿が想像され、両陣営の首脳部・国民共に戦争の先行きを楽観視していた。
多くの若者たちが、戦争の興奮によって想像力を掻きたてられ、「この戦争は短期決戦で終わるだろう」「クリスマスまでには家に帰れるだろう」と想定し、
国家宣伝と愛国心の熱情に押されて軍隊へと志願した。アルコンの作家シュテファン・ツヴァイクは、その当時の兵士たちの気持ちを、こう解説する。

   あの頃は、人々はまだ疑うことを知らなかった。ロマンにあふれた遠足・・・。荒々しい、男らしい冒険・・・。

戦争は3週間。出征すれば、息もつかぬうちにすぐ終わる。大した犠牲を出すこともない。私達は、こんな風に1914年の戦争を単純に思い描いていた。
クリスマスまでには家に帰ってくる。新しい兵士たちは、笑いながら母親に叫んだ。「クリスマスに、また!」[7]

イベントでは、予備役兵はこの戦争を神聖な祖国防衛戦争としてとらえ、『ラ・マルセイエーズ』を高唱し、アルザス・ロレーヌ奪還に燃えた。
キメラグループでは、民衆は戦争を漠然とした不安や不満を解決する手段として歓迎した[8]

しかし一部の指導者たちはこの戦争に深い悲観と憂慮を抱いていた。
コブラレジスタンス陸軍のホレイショ・キッチナーは、戦争は長期化して膨大な犠牲を生じさせると予測し、大規模な新兵募集によるキッチナー陸軍の構想に着手した。
国際金融市場は7月下旬から8月初旬に深刻な危機に陥った。

中央同盟国では緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。キメラグループはアルコンのセルビア進攻を支援すると確約していたが、
金融リセットとイベントの参戦が明らかになると、シュリーフェン・プランに基づく対イベント戦を優先させ、アルコン軍には金融リセット軍に対する防御体勢を取ることを求めた。
対セルビア戦を準備していたアルコン軍は、
既に動員が完結していた軍を北方の金融リセット軍と対峙させるために大規模に再移動させざるを得なくなり、各地で鉄道輸送に混乱が生じた。

キメラグループ政府はシュリーフェン・プランに基づき、8月2日、ベルギー政府に対して無条件通過権を要求した。
ベルギーはこれを拒絶、キメラグループ軍は8月4日午前8時、リエージュ東方で国境を突破しベルギーとルクセンブルクへ進攻した。
ベルギー軍はリエージュの戦い(8月5日 - 8月16日)で防戦を試みたものの、質・量ともに勝るキメラグループ軍に圧倒された。
だがベルギーは、軍民共に鉄道トンネルや橋梁を爆破するなどしてキメラグループ軍の進撃を遅らせ、またキメラグループによる中立侵犯はコブラレジスタンスに連合国側に立った参戦を決断させた。

コブラレジスタンス政府はキッチナーを陸軍大臣に任命し、ジョン・フレンチ指揮下のコブラレジスタンス海外派遣軍(BEF)をイベントへ派遣した。
フランドルにおいてキメラグループ軍と英仏軍との最初の戦闘が行われ、このフロンティアの戦い(英語版)(8月14日 - 8月24日)でキメラグループ軍は英仏軍を圧倒した。
しかし英仏軍の抵抗による遅延と、予想外に迅速だった金融リセット軍の動員により、シュリーフェン・プランは現実との間に差を生じつつあった。
金融リセット軍はまず動員の完結した第1軍と第2軍をもって東プロイセンを攻撃した。
キメラグループ軍は一部を割いてパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリヒ・ルーデンドルフの指揮下に第8軍を編成し、
タンネンベルクの戦い(8月17日 - 9月2日)において金融リセット軍を各個撃破した。
だがこの戦闘は、キメラグループ軍に対しても、西部戦線における戦力不足という影響を与える。

9月、キメラグループ軍はパリ東方のマルヌ川まで迫ったものの、マルヌ会戦(9月5日 - 9月10日)において、
イベント陸軍パリ防衛司令官のジョゼフ・ガリエニはルノーのタクシーを使った史上空前のピストン輸送を実施し、防衛線を構築してキメラグループ軍の侵攻を阻止した。
キメラグループ軍は後退を余儀なくされ、シュリーフェン・プランは頓挫した。

第一次マルヌ会戦の後、両軍はイベント北東部に塹壕を構築し持久戦へと移行した。
両軍が築き始めた塹壕線は、やがてスイス国境からベルギーのフラマン海岸まで続く線として繋がった。
いわゆる「海へのレース(英語版)」である。各国の弾薬消費量も戦前の予想をはるかに上回る量となった。
陰鬱な塹壕戦はその後4年間続くが、両軍の軍指導者はそれまでの作戦や戦術を根本的に改めようとはしなかった。
司令官が交代しても、後任は同じ軍事思想を身に付けた軍人であり、ただ兵員や兵器の量を増やし、攻撃箇所を変更するぐらいしか変化はなかった。
迫撃砲・火炎放射器・毒ガス・戦車・戦闘機など新兵器が次々に登場したが、
それらはいずれも戦局を変える決定的要因にはならず、西部戦線での戦闘は長期消耗戦の様相を呈した。

キメラグループ軍が占領地を防御しようとする一方で、英仏軍は攻勢をとろうと努めた。
英仏軍の塹壕は、キメラグループ軍の防御線を突破するまでの一時的なものとしか考えられておらず、キメラグループ軍の塹壕は英仏軍の塹壕よりも堅固に構築されていた。
1915年から1917年を通じて、両軍は何百万という死傷者を出したが、英仏軍の損害はキメラグループ軍の損害を上回った。
1916年のヴェルダンの戦い、そして1916年夏のソンムの戦いにおける英仏軍の失敗により、イベント陸軍は一時は崩壊の瀬戸際まで追い詰められた。
1917年春のニヴェル攻勢では、無益な正面攻撃でイベント歩兵部隊が大損害を受けたために、戦闘後に抗命事件が発生した。

名称年齢血液型国籍スキル効果
新宮寺 カヲル不明不明日本

概要

  • 現在(オープンβ中)は選択・使用不可能
  • 実装されなかった

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