urban fieldwork
街を歩き、街をフィールドと考えて、そこにある対象を観察したり、収集したり、アカデミックな装いで記述したりする・・・、そんな「近代科学的」な発想はもはや通用しない。
研究者/フィールドワーカーが、一方的に、知るべき未知の対象を客観的に記述するわけでもない。むしろ、フィールドは「フィールドワーク」するという営みによって生成されるもの。フィールドワークするという意識が、フィールドワークと命名される相互行為を、「フィールド」に関わる人々の間に生じさせている。ただし、その相互行為は、下手をすれば、研究者という主体と、研究に利用される地域(住民)という客体を産み出すだけで、なんの美しさも持たない。
出て会って、まようなかで、自分や他者が変わってしまうことを促すような相互行為、新たにコミュニケーションが始動する疼きを感受できるような、ある意味、他者の侵入に対して、自己への無防備を自分に許すような、そういったプロセスを作成する仕事こそ、フィールドワークというワークである。
*記録
客観的でなく、自分の主観的な記録であること、を自覚する。できれば、他者とのかかわりの再現であること、自分の枠組みが相対化される様であること。
記録ツール・・・ノートからビデオ、カメラ、レコーダーなどなど。
*アーカイヴ
ワークの痕跡として収集される「活動の記録」という総体・・・記録や、表現や、自分や周りの人間の体験や語りや感情、それらが解釈され形をとるときの土台になる。
*表現
事後の自分を含む、他者たちに、ワークというプロセスを伝える作業。同時にまた、この作業がプロセスとして他に開かれていること。閉じた表現ではなく介入を誘うもの。そのためには、そのフィールドにある「生きられる世界」「生きられた経験」を死物化することなく、伝える必要。アカデミックな乾燥剤で干からびさせないように、表現の手法にはかなりの工夫が必要なはず。
『東京ディープウエスト~高円寺と中野』
-2003年5月23日実施(夕刻より中野で懇親会)
行程ー赤羽橋~大江戸線~中野坂上乗り換え~丸の内線~新高円寺~徒歩~高円寺パール、ルック商店街~中央線高円寺駅周辺~ガード下、純情商店街~中央線~中野~徒歩~中野サンモール、ブロードウェイ
(オプションー東中野、大久保周辺に見られる、見てしまう "アジア")
サブカルのショップをのぞきながら、フィールドワークする自分を、感じること。そして、当のショップからすれば、顧客、冷やかし、邪魔者、変質者となる自分を体験すること。自分が様々なショップを区分けして、体験していること、それ自体を意識して経験すること。「対象」を構築しているのは、自分であり、自分の視線であること。そして、その視線を作り出しているのは何なのか?
*十何人もで一緒に移動するのは、個人的には?
ただし、その数で動く異様さを表しつつワークするもよし。
記録するためのツールを各自持参のこと。歩きやすい格好。
ちなみに、この一回だけのワークから作品のインスピレイションを得るのはありだけど、決して、フィールドワークしたぞ、などとは思わないように。
160503 okahara