《第23話:決意の日》

Last-modified: 2021-02-02 (火) 17:44:32

 11月18日。
 キラと瑞鳳が共に桟橋で語り合っていた頃、黄昏時、医務室にて夕立が目覚めた。
「うぅ~、頭ガンガンするっぽい~……死ぬ~……」
 目覚めて、まるで耳元で45口径46cm三連装砲を一斉射されまくったかのようにズキズキガンガンする頭と、不快感と倦怠感をこれでもかと詰め込まれたように重い身体に悶絶した。
 紛れもなく二日酔いの症状。
 だが、彼女が好き好んでアルコール飲料を飲みまくったわけではない。そもそも日頃からお酒やお茶や珈琲などには一切合切目もくれずジュースを愛飲する少女にとって、これが艦娘人生初の二日酔いだった。
 忘れてはならない。戦場において【狂犬】と謳われ畏れられる彼女は、ドジっ娘でもあるのだ。
 というのも今朝ことだ。キラがデュエルを回収すべく福江島へ発ち、まだ響と瑞鳳が目覚めていなかったタイミングで起床した彼女は、寝ぼけ眼のまま水を求めて医務室備え付きの冷蔵庫を物色、うっかり間違ってお酒――よりにもよって無色透明で癖がないのに度数はデタラメに高いウォッカ――をラッパ呑みしてしまったのだ。
 何故ウォッカがこんな所にあったのかは謎であるが結果、辛うじてベッドに戻った夕立は昏倒した。艦娘故に急性アルコール中毒の心配はないが、普段から飲み慣れていない上にウォッカを呷ったのだから、残念ながら当然の帰結だった。
「師匠、水とコーヒー貰ってきたよ。二日酔いに効くんだって」
「……えぇ。夕立コーヒー苦手っぽい……苦いもん」
「知ってる。だからほら、ミルクと砂糖たっぷり入れてもらったの」
 そんなわけで今に至る。
 つい先ほど目覚めた響が持ってきてくれた水を一気に飲み干し、ついでほとんど真っ白なカフェオレがなみなみ注がれたステンレス製マグカップに恐る恐る口をつけると、夕立は実際の具合以上に元気になった気がした。
「……あ、イケるっぽい? なんだかお菓子みたい」
「ほぼ牛乳と言っても過言じゃないけど、苦味がアクセントになって良いよね」
「うん、これなら。でもオレンジジュースには敵わないっぽい!」
「それも知ってる。でも飲めるものが増えたら、由良さんとのお茶会ももっと楽しくなるんじゃないかな」
「……むむぅ。……なら、頑張ってみる」
 他愛のない会話。
 まだまだ頭がズキズキするけれど、こんな風に自分を師匠と慕う少女と話したのは久しぶりで、それでやっと平和な鎮守府に帰ってこれたことを実感する。今更だけど響は無事に瑞鳳と分離できたらしく、その透明感のある蒼銀色の長髪に気付くと、湯気の立ち上るマグカップがより一層暖かく感じられた。
 分離したばかりでまだ身体は本調子じゃないだろうに、まったくこの弟子ときたら。だったらこの二日酔いにも甘苦い珈琲にも打ち勝ってみせなければ師匠失格だろう。
「ありがと響。あとごめん、無理させちゃった」
「без проблем。してないよ、無理なんて。わたしもわたしで、したいようにするって決めたから。なにせわたしは師匠の弟子だから」
「む、それだと夕立がいつも好き勝手やってるみたいな――……みたいな……、……やってる、っぽい。うん。困ったっぽい。言い返せないっぽい」
 それにしても、最近はずっと行動を共にしていたからだろうか、いつしか師匠と呼ばれても自然体でいられるようになっているなと夕立は思った。
 師匠と呼ばれるのは恥ずかしい。でも元はといえば、横須賀で響が弟子入りを申し出てきた際に遊び半分で「じゃあこれからは夕立を師匠と呼ぶっぽい!」などと宣ってしまったのが原因なのだ。それがまさか律儀に師匠と呼ばれるうちに訳もなく気恥ずかしくなるなんて想像できなかったし、健気に自分に付いてきてくる響を邪険にできなかったしという自業自得で、半ばコミュニケーションの一環と割り切って「師匠はやめて!」と言うようになっていったが、どうやらとうとう慣れてきてしまったようだ。
 それはそれでなんだか寂しく思えるやら何やら。
 でもいずれ、何もかもが変わっていくのだろう。夕立はチラリと横目で響の顔を盗み見た。
 少し前までの氷のような無表情とはまた違って、雰囲気が落ち着いているように見受けられる。最近になって少し表情豊かになったし、あのレ級を倒してからはなんというか、地に足をつけたような力強さをも感じられる。そのキッカケは間違いなくキラと瑞鳳だろうし、また己ではないことに些かライバル心が燃え上がったりもしたが、ともあれ彼女はこの短期間で随分と変わった。
 それなら。
(あたしも、変わったりするのかな?)
 それなら自分も、これから色々変わるのだろうか。いつか苦手なものを美味しく飲めるようになるのだろうか。響には内緒だけど、夕立は彼女のことを弟子であると同時に、未来のライバルでもあると認識していたから、そう思い至るのは自然なことだった。
(ううん、変わるのはいつだって自分の想い次第だもん。変わろうとする力だもん。じゃあ夕立だって負けてられないっぽい)
 自分が変わった未来を想像してみれば、変わろうとする気力が漲ってきた。例えば由良の好きな苦~い緑茶をお揃いで……うん、悪くない。悪くないどころかとっても素敵なことで、これまでどうしてそんな発想を持てなかったのか不思議になるぐらいで、今日からさっそくチャレンジしてみようと思った。
 だけど、金輪際もう絶対にお酒は飲まないとズキズキ痛む頭に誓うけれども。っていうか本当に、なんでここの冷蔵庫にお酒なんかが……と内心愚痴りながらマグカップを傾けた夕立であった。
「……そういえば瑞鳳さんとキラさんは? いないっぽい?」
「わたしが起きた時には、もう。でも心配ないと思う」
「勘?」
「うん。……あ、キラと言えば。ねぇ師匠、さっき提督から聞いたんだけどね」
「ぽい?」
 その時、夕立用のものとは違って黒々とした液体で満たされたマグカップを両手でくるむように持っていた響が、朗らかに言った。
「呉からしばらくこっちに出向してくるらしいよ、由良さん」
「えっ!? ホントっ!?」

 
 

 舞った。宙を。夕立のマグカップが。

 
 

「……」
「……、……ごめんなさい」
「……、……ううん。わたしも、ほら、タイミング悪かったなって」
 不幸中の幸い、ぬるかった。ほとんど常温で火傷はしなかった。
 しかし被害は甚大だ。
 空中から散布されたカフェオレと、それにビックリしてぶちまけられたブラックコーヒーによる鮮やかなコントラストが、少女二人を頭から彩った。医務室の寝具も一部大変なことになっている。遅れてカランカランと空虚な金属音が部屋中にこだまして。もうどうやっても手遅れで手の施しようがないと確信できると、心は焦りを通りこして不思議と落ち着くのだなぁと夕立と響は知った。
 そんなこと、知りたくなかったけれど。
「……べたべたするっぽい」
「……お風呂、行こっか」
「……ベッド、どうしよう?」
「……置き手紙を書いとこう。歩ける?」
「頑張る。響も辛かったら無理しちゃダメっぽい」
「うん」
 なんとも情けない面持ちで、びしょ濡れな検査衣姿の二人は医務室を出てフラフラと歩を進めた。
 目指すは、佐世保鎮守府大浴場。
 食堂と同じく鎮守府再建に伴いリニューアルされたそれは艦娘用宿舎の隣にあり、なんでも一流ホテルと同等の設備を揃えたとっておきのレジャー施設……らしい。らしいというのは、まだ誰も利用したことがないからだ。完成したのは佐世保艦隊が全て福江基地に移ってからで、一足先に鎮守府に戻ってきた少女達も大怪我を負っていたから、今までは濡れタオルで身体を拭くだけであったのである。
 そう考えてみると、鎮守府再建作業中でも福江基地でもずっとシャワーだけだったから、なんと例の隕石が墜ちて以来初のまともな入浴になる。それを新品な大浴場の一番風呂で叶えられるのなら、原因は別としてなんだかウキウキしてくるものがあった。
(一番が大好きな白露お姉ちゃんには悪いけど、ここの一番は夕立達がいただくっぽい! でも本当の一番は響に譲ってあげるっぽい)
 もはや二日酔いの頭痛なぞ何処吹く風。そうして歩くこと数分、二人は目的の場所に辿り着いた。
 そして同時に、ばったりと、海水でズブ濡れになっていたキラと瑞鳳と再会した。

 
 
 
 

《第23話:決意の日》

 
 
 
 

 どうしてこんなことに、とキラは天を仰いだ。
 どうして、何故。考えても既に意味のないことと知りながら、心は答えを探して彷徨うばかり。そして仮にそれを知ったとしても、自身が今置かれた状況が求めていたものと異なるならば、答えなんてものはなんの価値も持たなくなるのだ。解決策でなければ、他の情報はまるで無意味とでも言うように。
 袋小路。こればかりは本当に、彼にはどうしようもできない問題だった。
「男湯が整備中って、どういうことなの……」
 佐世保鎮守府大浴場。
 その男湯には、使用不可の札が掛けられていた。女湯しか稼働していなかった。
 だというのに、ここには、

 
 

「嘆いていても仕方ないよキラ、こうなっちゃったら。……わたしも、その、自分で提案しといてだけど恥ずかしいし……」
「……でも、今更だけどキラさんだけ目隠しってなんか不公平っぽい? っていうか夕立だけ裸を見られたのってやっぱり不公平っぽい。もう響も瑞鳳も見られちゃうべきっぽいっつーか見られてしまえ」
「夕立っ!? ダメだかね!? 絶対ダメだからねそれ取るの! 取ったら爆撃するからねっ!?」
「師匠……やっぱり気にしてたんだね……」

 
 

 冷たい海に落っこちたキラと瑞鳳。
 コーヒーを頭から浴びた響と夕立。
 すぐにでもお風呂に入らなくちゃならない四人の男女が集ったわけで。
 キラとしては当然、勿論、唯一の男性として他三人に先に入るよう言った。けれど一緒に落ちる原因になってしまった瑞鳳は、それを頑として認めなかった。夕立も早くお風呂に入りたがっていたものの、キラを放って先に入る提案には難色を示した。
 正確に言うなら、この大浴場以外にも入浴施設は存在する。隣に新たに建築された艦娘用宿舎内にもお風呂はある。だがしかし宿舎はまだ開放されておらず、現状で入浴できる場所はここだけなのだ。鎮守府再建作業中にお世話になった仮説シャワーはとっくに撤去されていた。
 主張は平行線。そこで妥協案として響が四人纏めて入るよう言い出して、非常事態ならば仕方がないと渋々可決した。
 というわけで今、タオルで目隠しをされたキラは、広々とした女湯中央に設置された大きな浴槽のすみっこで体育座りしているのであった。
 どうして、何故と問われればこれが答えだった。本当に考えても既に意味のない、解決策もなにもあったもんじゃない無意味な答えだった。
(でも、まぁ。海に落ちた一個人としては、混浴を許してくれた三人には感謝しかないんだけどさ)
 正直に言えば、とてもありがたい事だ。
 でも他人の与えてくれる優しさにそのまま乗っかっている居心地の悪さというか、なんだか様々なプレッシャーで肩身が狭いのもまた正直なところで。なにより緊急時だった廃墟の時とは違って、提督達にバレたら色々ヤバいのだ。
 まぁ最大の問題は、そんな環境下であっても「もっと浸かっていたい」と我儘になってしまう最高の湯加減と、それに屈してしまうばかりの己の意思力の弱さだなと、キラは脱力して檜の香りのする縁にもたれかかる。
 この状況下で己の不幸を嘆くのは少し、身勝手と自己憐憫が過ぎるというか、贅沢だと思う。
「姉さんもキラも、どうして落ちちゃったの? 海になんて」
「え? ……え、えーと、それはぁ……」
「? なんか言えないことしたっぽい?」
「してませんッ!!」
「……なんかその反応、怪しいっぽい」
「してないから! なんもなかったから!」
 女三人寄らば、とはよく言ったものだ。
 こうなればイレギュラーな男なんかは蚊帳の外、もはや置物同然。偶然にも響と夕立が来てくれたおかげで気楽になったのも確かで、これもまた二人に感謝である。
(混浴か……、……もし、なんて考えても意味ないケド。もしも二人だけだったら、どうなってたのかな……)
 もしも夕立のうっかりがなければ、瑞鳳と二人っきりになっていた可能性があった。お互いにお先に譲り合って、なし崩しにそうなったかもしれない可能性が。
 決して瑞鳳と二人っきりが嫌なわけではないのだが、なんというか、どうなるのか想像がつかなかった。それにやはり、一人でゆったりいられるのは気楽で良い。考えようによっては夕立こそが、此度のキラにとっての救世主だったのかもしれない。
「Это подозрительно。師匠、わたしは徹底調査を提言するよ」
「満場一致で可決っぽい。さぁ瑞鳳さん覚悟! 洗いざらいゲロるっぽい!!」
「これいじょーなく潔白だよぅ!? っていうかゲロるなんて言わないの!」
 入念に身体を洗っているらしき三人の雑談をBGM代わりに、ぼーっと熱く心地よい湯の感覚に浸る。
 三人が服を脱いでいる間にササッと身体を洗い、結果的に誰よりも先に入ることになったこのお風呂。最初は傷に染みて飛び上がりそうになったものの、慣れてしまえば逆にどんどん回復しそうなぐらいで、この世界に来てからの疲れが全てふっ飛びそうな気さえした。
 誰が言ったかは知らないが、命の洗濯とは言い得て妙である。
 思えばこれが佐世保に来て初の入浴だ。16歳の頃からシャワーだけの生活に慣れきっていたが、やはり良いものだ、これは。かつての母艦アークエンジェル内にも温泉を再現した施設があったが、これが本物というものか、過程はどうあれ折角の機会なのだから堪能しなければ嘘だろう。
 そういえば、と思う。月面都市コペルニクスに住んでいた頃、テレビかなにかで日本は温泉大国だと聞いたことがあった。聞いて、なんとなく行ってみたいなーと淡く思ったりもしたなぁと。
 それがまさかこんな形で実現することになるとは、夢にも思わなかったが。改めて、この四人で一緒に入るなんて空前絶後で、誰にも言えない秘密で貴重な経験だと肩を竦めた。
(……それにしてもコーヒーを頭からなんて、なんだかバルトフェルドさんとカガリを思い出すな。ドネルケバブっていったっけ、あのサンドウィッチみたいなの。……今度、瑞鳳にリクエストしてみようかな)
 ひょんなことからアフリカのとある都市での出来事を思い出して、少し口元がほころんだ。
 初めて地球に降下してすぐの頃。奇しくも身近な女性が頭から飲食物を浴びてしまったことで、今みたいに思いも寄らない事態に進展したものだ。
 あの時も本当に色々、大変だった。
 チリソースとヨーグルトソースをぶっかけられたケバブを食すことになったり、銃撃戦に巻き込まれたり、巡り巡って敵軍の将にたいして美味しくもないコーヒーを振る舞われたり。今となっては笑い話にできるけど、当時は毎日が死に物狂いで苦しくて。でもあの日に会った男との会話が、ただ戦うしかないと思っていた日々に大きな変化をもたらしたのだ。

 
 

 そこで唐突に、キラの思考が明後日の方向へ飛躍した。

 
 

『エヴィデンス01。実物を見たことは? 何でこれを【くじら石】と言うのかねぇ……これ、鯨に見える? これどう見ても羽じゃない? ふつう鯨に羽はないだろう』
『ええ、まぁ。……でも、それは外宇宙から来た、地球外生物の存在証拠ってことですから……』

 
 

 ――ドキリとした。
 今の今まで忘れていた。その存在を。
 あの日、あのアフリカの都市で出逢った敵軍の将――アンドリュー・バルトフェルドとの会話で一度だけ話題に上がった、C.E.唯一の異形の存在を。あの世界の有り様を決定付けた、しかし後に忘れ去られていった化石の存在を。
 エヴィデンス01。俗称【くじら石】。木星圏から回収された、鯨に翼が付いたような奇妙な生物の化石。地球外生命体のエビデンス(証拠)
 いたじゃないか。深海棲艦じゃないけど、C.E.の宇宙にも正体不明のモンスターが。
「くじら……なんで、鯨なんだ……?」
 ゾワリと、寒気がした。
 考えたことがなかった。
 考えたってどうしようもないことだと、ハナから答えなんて見つからないのならばそのまま受け入れるしかないのだと、あえて考えなかった。
 それに背格好なんていちいち観察して気に留める余裕なんてなかったし、初めて遭遇したものが人型だったこともある。でも、
(深海棲艦の駆逐級って、みんな鯨みたいな姿だったじゃないか……)
 今になって思い返せば。
 深海棲艦は軽巡級、重巡級、戦艦級と格が上がるにつれて人型に近づいていく。しかしその身体の所々には確かに、駆逐級のような怪物の面影と意匠があった。あの戦艦レ級の尻尾の先の砲架(ドラゴントゥース)も、そうだ。
 なんの確証もない思いつきだが。
 まるで、鯨から人型へと、変化していってるみたいじゃないか。まるで、鯨と人とが、融合していっているみたいじゃないか。
 そしてC.E.が唯一知る異形であるエヴィデンス01と、この世界に実在している異形である深海棲艦は共に、鯨のような容姿で。
 子供染みた妄想、こじつけだとしても。短絡的に関連付けて考えて、しまいたくなる。例えば、両者の起源が同じ……だとか。
(いやいや、まさかそんな……、……でもこの宇宙で絶対なんて言い切れないし……。もしかしたら僕らの地球でモンスターが現れなかったのは、ただの偶然だったとも考えられる……?)
 一度疑問に思うと益体のない思考は止まらない。
 C.E.の学者先生が認知したものだけが宇宙の全てじゃないのだから、現にこの世界じゃ魂やら霊やらが当たり前なのだから、そもそも異世界という概念が実証されているのだから、もしもと言い始めたら無限大だ。考えれば考えるだけ深い沼に嵌まっていく確信があった。
 ならば、そうだ。ならば考えないでいようとしていた今更の疑問にも、向き合わなくちゃならなくて。
 考えたことがなかった。
 深海棲艦って、艦娘って、なんなのだろう?
 ソレに近い存在になった自分は、一体何者なのだろう?

 
 

「――どうしたのキラ? 難しい顔をして」

 
 

「……響? いや、なんでも……、……って」
 そんな青年を我に返らせたのは、例によって響だった……のだが。
「いやちょっと待って。どうして君、そんな近くに来てるのかな……?」
 その声が思っていたよりも近くから、それこそすぐ隣から聞こえてきたものだからキラは内心、心臓が口から飛び出るような心地だった。とりとめのない妄想なんかに耽っていたせいで気付かなかった自分も大概だが、この少女はどうして自分の隣なんかに来ているのだろう?
 思いも寄らない事態再び、である。
 すんでのところで自制できていなければ今度こそ飛び上がっていたかもしれない。そうなればきっと大惨事だったろうから偉いぞ僕と自分を褒めながら、動揺を当たり障りのない微笑みの裏に隠したキラは、とりあえず体育座りしたまま声がした方向の逆へほんの少し移動した。マナー違反承知でタオルを腰に巻いているが、絶対の防御とはなり得ないのだから。
 すると、
「……」
「……っ」
 近づいてきた。
 目隠しで見えていなくても気配でわかる。肩と肩が触れあう距離で、響はキラの隣にいる。もとより浴槽の隅にいたのだからこれ以上移動できなくて、身動きが取れなくなった。
 ……どうして?
 どうして、何故。考えても既に意味のないことと知りながら、心は答えを探して彷徨うばかり。そして仮にそれを知ったとしても――
(いやいやいや思考停止してる場合じゃない。だけどちょっと待ってほしい、話が違う、理屈に合わない。いや話も理屈も元々ないけどそんなもの。でもこう、あるじゃないか常識ってやつが。いや常識ってなんだ?)
 などと、まったく予想外の事態にすっかり狼狽えまくりな青年であった。
 ここには素っ裸な男と、同じく素っ裸な女性がいるだけだ。深海棲艦とか艦娘とか関係ない、それがたった一つの真実だ。近くにいるということは、それなりに、いろいろとまぁリスクがあるわけで。恥ずかしいと公言しておいてそのリスクを冒すようなことを、どうして自ら。
 ともあれ、その真意は問わなければならない。
 問わなければならないと、少女のささやかな意思表示に全然気付けない男が、訊けば。
「あの、響?」
「……だって。見られるのは恥ずかしいけど、それだけだから」
 少しだけ震えた、でも凜としてよく通る声が返ってきて、
「隣にいたいって、思うから」
「……なっ……?」
 ――クラリと、した。
 もうさっきまで考えていたことなんて吹き飛んだ。
 それは、言葉そのままの意味で受け取っていいものなのか……とか。自分はそう想われるような人間じゃない……とか。一種の防衛本能のようなものか、一瞬そんな風に思って躊躇ったりもしたけれど。けど胸の内から久しく感じたことのなかった情動が、押さえようもなく込み上げてきて。
 そのたった一言だけで、なにもかもが報われたような気がした。
 自身という存在を受け入れられ、求められる。これは喜びだ。人間にとってこれほど嬉しいものは他にない。ただでさえ湯で暖まっていた身体が、火がついたように熱く感じられた。
「えっと……その、ありがとう……?」
「ん……」
 それはどうも響も同様だったらしく、隣からブクブクと泡を吹き出す音が聞こえた。見えないけどなんとなく彼女も耳まで真っ赤になってるような気がして、後の瑞鳳曰く、的中していたらしい。
「わっ。二人のあんな顔、はじめて見た」
「今ならブラックコーヒーも飲める気分っぽい……」
「夕立もすごい顔」
「っていうか、あたしこんなに頭痛いのにこんなの見せつけられるなんてアリエナイっぽい……理不尽っぽい……」
「そ、そっちのがよっぽど理不尽なんじゃ?」
 少し離れたところから瑞鳳と夕立の声。
 ……あんな顔とかすごい顔とかなんなんだと気になったけれど訊いたら訊いたで藪蛇になりそうな、余計に居たたまれない雰囲気になりそうな気がして、口を噤むしかないキラだった。
「むぅ~! 響にそんなコト言わせて、瑞鳳さんともなんかあったっぽくて……これは、こっちもじじょーちょーしゅー不可避っぽい? 民主主義は死んだ、夕立の独断で今夜はカツ丼で決まり。最高に素敵なパーティの予感?」
「か、カツ丼?」
「あれ、キラさん知らないっぽい? えっとね、こーいう時のお約束なんだけど、薄暗くて埃が舞ってる取調室で――」
 ……否、黙っていても居たたまれなくなりそうだ。
 こうなったらもう強引に話題を変えるしかない。
 得意気な様子で取り調べとカツ丼の関係とはなんぞやと語る夕立には悪いけど、何か話題はないかと考えたキラだったが、しかしすぐに考える必要はなかったと思い直した。そう、そうだ。再会が予期せぬものだったからタイミングを逸していたけれど、本当なら開口一番に言わねばならなかったことが、響と瑞鳳に言わなければならないことがあった。
 ならば強引にでもと、ヤケクソ半分で声を少し張り上げた。
「……コホン。……響、それと瑞鳳も。言うの遅れちゃったけど……おめでとう……はなんか違うかな。でもとにかく二人とも、元に戻れて良かった」
 祝意だ。
 空気を変えるために言った感アリアリになってしまったのが残念だが、意図はどうあれ紛れもなく本心だ。
キラ本人も明石の助手として二人の分離作業を手伝ったけれども、実際に大浴場の前でばったり再会した時は、実をいうと安堵のあまりにへたれこむ寸前になっていたのだ。響と瑞鳳が無事に元に戻れたことを実感して、背筋が震えもした。
 こうして二人に「元に戻れて良かった」と言える、そんな瞬間をずっと切望していた。
 瑞鳳と桟橋に座っていた時にも思ったことだが、今という瞬間は定められたものではなく、儚い奇跡の連続によって成立しているものなのだから。
「うん。キラも怪我が治ってくれて良かった。ありがとう、助けてくれて……護ってくれて」
 その想いが通じたのか、響も相槌を打ってくれて。
 さっきまで茶化すような感じだった瑞鳳も夕立も、一拍置いて神妙に頷くような気配を感じた。ついで口々に、今更と露とも思わずに全員が無事でいられたことを祝福した。もしかしたら彼女達も、それを言葉にする機会を伺っていたのかもしれない。あなたが無事で良かったという喜びはいつだって、ちゃんと言葉にしてまっすぐに伝えるべきものなのだ。
 キラは、言えて良かったと思った。結果として浴場内の雰囲気は変わった、けどそんなものがどうでもよくなるぐらい、良かったと心から。
 そうして青年がひっそり余韻に浸っていると、隣で少女がゆっくりと立ち上がる気配がして。

 
 

「でも、違うよキラ。元には戻らないんだ」
 響が、さっきまでと打って変わってしっかりとした声色で響が、キラの言葉を否定した。

 
 

「……え?」
 出逢ってから初めて、少女は青年へ「違う」と言った。明確に、否定した。
 それにキラは頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた……が、続けざまに起こった事態に、彼は放心するしかなかった。
 するりと、目隠しのタオルが、取られたのだ。
 唐突に開けた視界。タオルを取った張本人たる響の顔が、ポカンと口を開けたままのキラの顔の――それこそ鼻と鼻が触れあうような、互いの吐息を感じられるような近さに、あって。
 まるで満点の青空の蒼を映した氷のような瞳と、蒼銀をそのまま鋳溶かしたかのように輝く髪……それは紛れもなく彼が思い描いていた響そのものだったけれど。でも、以前のどこか眠たげというか無表情そうな雰囲気は影をひそめていて、代わりにその顔立ちは力強い意思に彩られていて、湯煙の中でさえ鮮やかで、言葉もなくただただ見蕩れた。
 美しい、と。
 つい先程に「隣にいたい」と言われた時と同じぐらいに、さっきまで考えていたこと全てが吹き飛んで頭が真っ白になった。
 そんなキラに向けて響はハッキリと、静謐なれどまるで世界中に知らしめるようにして、言った。
「わたしはもう昔のわたしにも、無理をしてた私にも、戻らない。キラのおかげで、瑞鳳姉さんのおかげで、夕立師匠のおかげで、進みたい道が見えたんだよ」
 それは宣誓だった。
「もう後ろを振り返るのはヤメだ。もう逃げない……ねぇ、キラ。わたしね、キラにお願いしたいこと、あるんだ」

 
 
 

 
 
 

 宣誓の直後、浴場内に二階堂提督からのアナウンスが響き渡った。
 佐世保の現状と、世界と呉の動向、これからの方針について全て話す、準備が整い次第に食堂へ来てほしいという旨だった。
 その鎮守府全体への呼び出し放送を聞くと、響は言った。
『提督の話のあとで、格納庫まで一緒に来てほしい』
 それから数十分後。
 夕食のカツ丼を食べながら提督の話を聴いた後に、キラと瑞鳳と夕立は、先頭の響の後についていって物静かな鎮守府の廊下を歩いていた。目的地の艤装格納庫は佐世保工廠の隣、食堂からは随分と距離があった。
 外はもうとっぷり暮れていて、薄い雲々の間隙から差し込む月光が響の長髪を爛々と照らし、キラは思わず息を呑んだ。瑞鳳は隣の男をチラリと見上げては慌てて俯き、夕立はなにか面白いものを見つけたかのようにうっすら笑った。だが響が真剣な声音で語り始めれば、皆揃って真面目な面持ちになった。

 
 

 ここからは完全無欠にシリアスモードだ。

 
 

「キラは明石先生から【改二】については聞いた?」
「いや……それはまだ。とりあえずバージョン2とか、マーク2みたいなものって教えてもらっただけかな」
「改二になってる艦娘と、なってない艦娘の違いはまだ?」
「うん。いずれ話すって」
 改二。
 忙しくてそれどころじゃないという事情が大きかったが、それは確かにキラが今まであまり意識していなかったものだった。明石から断片的に聞いた限りでは、近代化改修を施した艦娘を改、艤装に大規模改装を施して飛躍的にパワーアップした艦娘を改二と呼ぶ……と理解しているが、それだけだ。
 この佐世保艦隊には、改二になっている艦娘と、なっていない艦娘がいる。
 例えば第一艦隊一番隊【金剛組】は全員が改二となっているが、第三艦隊三番隊【阿賀野組】は全員が改止まりの非改二である。例えば夕立は白露型駆逐艦四番艦改二式で、その妹の【阿賀野組】所属の春雨は白露型駆逐艦五番艦改式だ。
 そして響は【榛名組】で唯一、改二になっていない艦娘だった。
 流石にキラもこの艦隊の一員となって日が長く、改二とそうでない者の戦闘力の差は肌で理解していた。だからこそ響の凄まじさが際立つのだが、それを知った時、キラは奇妙な話だと思った。
 大規模改装とやらでパワーアップするのならば、何故、全員に施さないのか? 強さを求める響が改のままであるのは何故? それには複雑な事情があると明石は言って、故に「いずれ話す」と説明は先送りにされてきた。
 それが今、彼女の口から語られようとしているのか。
「……響、さっき君は言ったね。ヴェールヌイの封印を解きたいって。それが改二と関係あるってことかな?」
 思い出す。響は浴場で、お願いしたいことがあるという懇願に続けて、こう言った。
Верный(ヴェールヌイ)の艤装。あれの封印を、解きたい……だからわたしの手を握っていてほしい』
 ヴェールヌイとは何なのか不明だが、その件の艤装を直接目にするべく今、こうして四人で格納庫へ向かっているのだ。
 改二についての説明は、それの前提として知っておくべき知識なのだろうとキラは確認した。

 
 

「Да。そうだよ、ヴェールヌイの艤装はわたしにとって、改二みたいなものだから。それを含めて、いい機会だからわたし達艦娘について、もうちょっと突っ込んだ話をするよ」

 
 

 響は振り返ることなく、歩みを緩めることなく、言葉を紡ぐ。「説明するのははじめてだから辿々しくなっちゃうかもだけど」と可愛らしく前置きして。
「もう聞き飽きたろうけど、艦娘は艦艇の生まれ変わり。その前世と言うべき艦艇は大抵、何度も改修と改装を繰り返して戦った……だから就航時と沈んだ時とは結構、構造が違ったりするんだよ。例えば……キラも会ったことあるよね、木曽の姉妹艦の北上、黒髪で三つ編みおさげの」
「あぁ……うん。なんかクラゲみたいな」
 呉所属の艦娘だ。防衛戦の援軍として駆けつけてきてくれて、挨拶だけした記憶がある。
「クラゲ……言い得て妙かも。……彼女、北上って艦艇は元々普通の軽巡洋艦だったけど、後に重雷装巡洋艦へ、高速輸送艦へと改装されていったんだ。でも艦娘としてこの世に生を受けたら、船体と艤装は就航時の、ただの軽巡洋艦のものになっていた。改装がリセットされた状態で生まれたわけだね」
 その現象は全艦娘共通だと言う。
 榛名も木曾も鈴谷も夕立もみな、改装がリセットされて生まれてきた。
 とはいえ一部例外もある。例えば空母に多い傾向なのだが、最初は戦艦や商船として建造されながらも後に空母になった艦は、最初から空母艦娘としてこの世に生まれた。戦える艦として最初期の姿が、艦娘の最初の姿なのだ。これには瑞鳳が該当するのだという。
 ちなみに瑞鳳の普段着である弓道着は松葉色だけど、それは囮として沈んだ当時の迷彩カラーが再現されたもので、艦娘としての生まれた時に纏っていた弓道着は紅白色だったとか。
「わたしも同じ。艦艇の響は戦後に賠償艦としてロシアに渡って、ヴェールヌイ、デカプリストと名を変えていってウラジオストックに――ロシアの海に沈んだ。だけど艦娘のわたしはこの日本で、響として生まれた。そういうものなんだ」
 彼女が名を変えていったというのは、キラにとっては初耳だった。
 ヴェールヌイ。ロシア語で【信頼】を意味する言葉。それがなんなのか、どうして響と、そして改二と関係あるのか解らなかったが、合点がいった。ヴェールヌイとは響のロシアでの名前なのだ。キラがヤマトの性を捨て、キラ・ヒビキと名乗りはじめたのと同じように。
「響がロシアに行ったのは知ってたけど、名前は知らなかったっぽい。瑞鳳さんは知ってた?」
「うん。私は前に教えてもらってたから」
 夕立と瑞鳳が各々感想を口にすると、ここで初めて、響が振り向いた。
 振り向いて、ここからが本題だと頷いて言った。
「それでね、改装がリセットされるだけじゃないんだ。生まれた時は記憶も、完全じゃないんだよ」
「え」
「艦娘はみんな最初、頭に靄がかかってるみたいで、艦艇だった時代を鮮明には思い出せないんだ」
 人間の大人が子供時代を鮮明に思い出せないのと同じだと、なんなら子供でも昨日の出来事全てを思い出せないのと同じだと、瑞鳳が補足した。前世の記憶といえども、記憶には欠落があるのだ。
 どんな凄惨で悲惨な記憶も、時が経てば風化する。そう、キラだって例外じゃなく、全てを覚えてなどいないのである。
 でも、ともキラは思う。てっきり艦娘の記憶はもっと鮮明なものだと思い込んでいたのだ。それこそ何月何日にどんなことがあったとか、そういうのを全部。しかし意外ではあれど考えてみれば納得でもあった。そんなものを鮮明に覚えていたらきっと、正気を保てないだろうから。忘れられることは、ある意味では幸せなのだ。
 そうキラが一人で考えたタイミングで、響は再度振り返って、言った。

 
 

「でもある日、パッと思い出すんだ、全てを鮮明に。あの戦闘で機銃を何発撃ったか、波はどんな感じだったか、乗組員の誰が何を想って何を言ったか……そういうの全部、いきなり頭に流れ込んできて。それが改二になれる条件なんだよ、キラ」

 
 

 直前の考えを真っ向から否定するような彼女の言葉を聞いて、それを想像して、キラはサッと青ざめた。吐き気がした。さっき食べたカツ丼を廊下にぶちまけそうになって、必死に堪えた。
「……ッ!? それって……!」
「悪夢だよね。前触れなく思い出すから、みんな苦しくて。発狂しちゃう娘もいる。でも幸い、なのかな。それは一時的なものだから、一度思い出せば落ち着けられるんだけどさ」
 キラがアークエンジェルで過ごした戦争の記憶は風化している。あの日々を鮮明に覚えていたら堪えられないという確信がある。なのに。……そして仮にあの艦が、アークエンジェルが艦娘になったら、あの戦闘の日々を――キラ・ヤマトの行動と想いも全部ひっくるめて、覚えてるとでもいうのか。
 なら、きっと自身よりもずっと長く、自身よりずっと辛い環境にいたであろうこの少女達は……
「そんなの悪夢なんてものじゃ……!」
 地獄だ。この世の地獄に違いない。
 そんなものを経験したというのか、彼女達は?
「……じゃあ瑞鳳も夕立ちゃんも……なの?」
「私は幸運な方なのよ。思い出すのが遅ければ遅いほど、心構えができる。艦娘としての人生の記憶が、艦艇の記憶の濁流を中和してくれるの。すぐに思い出した娘は……言っちゃ悪いけど、不幸よね……」
「はやく済んじゃえば怯えないでいいってメリットはあるっぽい。どうせ通過儀礼みたいなものだし」
「話を戻すよ。全てを思い出す、それが改二の条件って言ったね? それは同時に、在るべき己の姿を、理想の自分の姿を見いだすことができるってことでもあるんだ」
 自身の全てを知ることで、自身の理想を知ることができる。
 戦いの記憶、敵の命を奪った記憶、敵に攻撃された記憶、沈んだ記憶――それらこそが、未来を紡ぐ鍵となる。
 例えば、木曾。木曾は元々軽巡として生まれて軽巡として沈んだが、艦娘としての大規模改装を経て重雷装巡洋艦の船体を実現させた。つまり雷巡艦娘、木曽改二だ。
 例えば、鈴谷。彼女も元はただの重巡洋艦でそれ以上でも以下でもなかったが、鈴谷改二は多数の艦載機を使役できる航空巡洋艦という理想を掴んだ。
 榛名も瑞鳳も夕立も同じように、己の過去と向き合って、己の在るべき理想の姿を思い描き、実現した。
「自分で設計図を描いて、己の記憶を込めた霊子金属で新規パーツを製造して、それを元に大規模改装を執り行う。……ちょっとした改修とは訳が違う、己の魂そのものに手を入れて、新しい自分に生まれ変わるみたいなものかな。それが改二になるってこと」
「そうか……すごい大事なこと、なんだね」
 そこまで言って、キラは一つの違和感を覚えた。
 ヴェールヌイは響の改二としての艤装。その封印を解くとはつまり、既に……?

 
 

「響、君は……もう全部、思い出してるの?」
「この世に生まれてすぐ、全部を思い出したの。意識が芽生えた直後、だったよ……うん、瑞鳳の言う通り、わたしは不幸だったんだと思う」

 
 

 世界中で多くの艦娘が次々と顕現していった時期、響が艦娘としての生を受けたのは、その終わり頃のこと。
 おそらく全艦娘の中で最初に思い出したのが響だった。心構えもなにもあったもんじゃなくて、狂乱して、何度も地面に頭を叩きつけたのだという。そんな彼女を偶然にも最初に発見して介抱したのが、瑞鳳であった。
「響の性格って、絶対アレのせいなのよ。自意識が確立する前にあんな……」
「言ったってどうしようもなかったことだよ、姉さん。後悔しようにもできないしね。おかげで今があると思えば安いものだったと思うようにしたよ、わたしは」
 そういった事情で響は全てを思い出した。改二の条件を満たした。だが、思い出したからといってすぐに改装とはならなかった。そもそも時期が時期だけに、大規模改装という概念自体が存在していなかったのだ。
 響の改装の話が持ち上がったのは、彼女が夕立と出逢う前の時期だった。
「日本産の霊子金属じゃ、なんか相性が悪かったみたいでね。あの頃を想って引いた設計図は形にならなかった。だからわたし自身がロシアに渡って、ロシア産の霊子金属を使って製造した。それが――」
 響は歩みを止めて、目の前にあるものをジッと見つめた。
 既に艤装格納庫に到着していた。響と瑞鳳と夕立の艤装はまだ修理中で、他の艦娘達はみんな福江島にいるから、広々とした空間はすっからかんのがらんどう。白々とした蛍光灯で照らされているだけの、いっそ寒々しい空間の奥にポツネンと、まるで孤独の象徴の如くソレはあった。
 埃の積もったブルーシート。それを一気に引き剥がした響の顔を、他の誰もが知ることはなかった。
「――それが、ヴェールヌイの艤装。生き残ったわたしがロシアにいたという証。コイツを【私】の艤装に組み込もうとして、失敗した……だから封印した」
 白銀色。
 何色にでも染まる純白ではない、きらきらとした雪原の色。蒼穹を映した氷――響の蒼銀よりもずっと白くて透明感のあるその金属塊は、なにもかも反射して拒絶するかのような、不可侵そのもののように思えて。
 そのくせ、なんだか少し寂しそうな気さえして。そのくせ、ちょっとしたことで白を失いそうな儚さがあって。
 途端に、衝動的に、キラは目の前の小さな背中を抱きしめた。そうしてやりたくて堪らなくなったのだ。
「……失敗って?」
「組み込んで繋がった途端に、また記憶が雪崩れ込んできたの。……あれは、ヴェールヌイだったわたしの想い、痛み、叫び。寂しくて悲しくて、いなくなりたくて謝りたくて。自分のことが大っ嫌いなわたしでさえ、耐えられなかった」
「響……」
「キラさん、本来ならそんなことありえないはずなのよ。またアレを思い出すなんて、私だったらそんなの……。明石先生が言うには、きっと無意識かもしれないけど響とヴェールヌイが別人だって意識があったからじゃないかって」
 瑞鳳の補足に軽く頷き、響はどこか遠くを見るようにして言葉を綴る。
「一度思い出したといっても、所詮わたしの思い出は風化していたんだって思い知らされた。わたしはきっと、赦されることはないだろうって、頭がどうにかなりそうで……いつまでも弱いまま、記憶に怯えたままなんだって」
 改二への改装に、失敗した。
 艤装を一度分解し、ただの響として再構成した。白銀色のパーツはこうして格納庫の最奥にしまい込んで、遠ざけた。文字通りの拒絶だった。
 そして、
「でも、強くならなきゃ護りたい人は護れないから。強くさえなれれば、いつかきっと乗り越えられるって」
「……それで、夕立ちゃんに弟子入りを?」
「師匠には感謝してる、すっごく。……けど、ずっと勘違いしてたんだって気付いた。立ち向かってるつもりで、前に進んでるつもりで、本当は逃げてたんだと思う、自分から。自分自身を見据えて受け入れてやらなきゃ、どれだけ強くなれたって意味なんてないのにね……」
 そして響は仮面を被って己を偽り、ひたすらに力を求めた。
 結果、彼女は改のままでありながら、師匠の夕立に劣らない強さを手に入れた。
 けれどもそれは単純な肉体だけの強さであって、心の脆弱さは変わってなんかいなかったのだと、響は頭を振った。求めていた本当の強さは、過去を乗り越える強さは、ひたすらに力を求めているだけでは届かないどころか見当違いであったのだと、今ここに至って自覚した。
 ストライクに乗ってレ級と戦った経験が、彼女をそこへと至らせたのだ。響はあの日、真理を見たのだ。
 故に。
「だからもう戻らない、逃げない。……やっと気付けて、やっと覚悟が決まったんだ。姉さんと師匠とキラが、わたしをここまで導いてくれてくれたから。……ありがとうって気持ちを、形にして伝えたいんだ」
 この想いは決して、砕けない。
「そっか……。一応確認するけど、無理はしてないんだよね? 改二の力が必要だからとか、そういうのじゃない?」
「……大丈夫……とは言えないかな、やっぱり。正直言って怖いよ。確かにヴェールヌイの性能は、これからも戦っていくなら頼りたいって思う。でもさキラ、たったそれだけで決心がつくほど、わたしは強くないよ」
「じゃあ……」
「わたしは、わたしを信じてくれる仲間を信じる。歪かもだけど、それならきっと前に進めるって思ったの。けどきっと、それでもちょっとだけ足りないから……だから」
 ズビッ、と鼻を啜る音が聞こえて、キラは夕立の背中はさすってやりながら考えた。
 話を纏めると響の改二艤装――ヴェールヌイは【マッチング】すると地獄のような記憶が雪崩れ込んでくるのだろう。それに堪えられるという確信、勇気を得たのだろう。
 ならば、自分が彼女のためにしてあげられることはなんだろうと考えた。キラと響は、その有り様が少し似ている。己が嫌いで赦せないという想いが共通していて、共感している。
 なればこそ応援したい、手伝いたい。彼女の願いを叶えたい。
 その為にできることは何かと考えたキラだったが、しかしこれもまた、考える必要はなかったと思い直した。
Верный(ヴェールヌイ)の艤装。あれの封印を、解きたい……だからわたしの手を握っていてほしい』
 手を握っていてほしい。隣にいたい。そう言っていたではないか。
 それが彼女の希求だ。勇気の根源だ。ならばいくらでも握っててやろう、抱きしめてもあげよう。自分の隣にいたいと言ってくれた彼女の一途な想いに応えたいと、キラ自身も強く望んだ。
 彼もまた、彼女達の隣にいたいと願う人間なのだから。
 繋がる想いは、かけがえのない力になる。それを人は絆と呼んだ。
「わかった、だったら僕達は全力で応援する。それでさ、みんなを驚かせてやろう」
「ふふ、いいねそれ。みんなの視線を釘付けにするのは悪くないかな」
 果たして、決意は結実する。
 もう一つ、瑞鳳の願いも共に。二つの想いと力は芽吹き、皆を守護する一対の翼となる。
 それはやがて呉から吹きすさぶ新たな風に導かれ、佐世保の海へと舞い降りるのだった。

 
 

 ちなみに夕立の夕立による夕立のための事情聴取は深夜にしっかりと執り行われたことを、ここに記しておく。

 
 

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