クルーゼ生存_第42話

Last-modified: 2013-12-22 (日) 02:42:06

「次は、この天井か」
 シン・アスカは長い柄の付いたスプレー缶を廊下の天井に向けた。そこには赤黒い染み
が散っている。プシューとムース状の薬剤を吹きつけ三十秒待って、モップでふき取る。
 ミネルバの医務室の前から始めて、モビルスーツデッキまで、遠い道のりだ。暴れるス
テラを抱いて走ったときには、森からミネルバへの道のりに比べれば、艦に入ってからは
すぐに思えたものだったが。
 怪我をしているとはいえ連合軍の捕虜を上官や艦長の許可を得ず、艦内に連れ込んだこ
とへの処分がこの掃除だ。ステラの左足の傷は貫通していたが、大人しくしてないためか
なり出血した。それがシンが彼女を抱えて走ったところの床、壁、天井に染みとなって残
っているのだ。
「よし、ふき取った。次は消毒」
 別のスプレーを吹きかける。これで一箇所完了。
 ミネルバの清掃担当が廊下を壁や天井ごと掃除する機械を使えば簡単に済むのだが、こ
れはシンに与えられた罰だった。普段は自室の掃除をレイと交替でしかしないので、色々
教えてもらって道具も貸してもらってのお仕事だ。
 たしかにステラ――連合のエクステンディッド――を勝手な判断で艦内に連れ込んだこ
とは、もっと重い罰を受けてもしょうがないくらいだ。
 シンは新たな染みにムースをかけながら、ステラの容態を思った。彼女は暴れて暴れて、
必死で押さえ込んだ。ザフトで訓練を受け身体能力はコーディネーターでもトップクラス
を自負するシンが、本気で押さえ込まなければ、医務室が破壊されそうな勢いだった。医
師が艦長と連絡を取って彼女を怪我をした捕虜として受け入れること、麻酔薬使用の許可
が出てやっと落ち着いたのだ。ばたばたさせる足から血が飛び散って、医務室は野戦病院
さながらだった。
 本来こういう細かい作業は向いてないと自他共に認める性質で、隊長から言い渡された
時は不服顔を見せたシンだが、やっているうちにこれだけステラは血を流したのだ、そし
て血を流させたのは自分だと思い、妙に心が静かになった。ステラとガイアを捕獲しなけ
ればならなかった。自分のとった行動は正しい。その結果として、血のりがへばりついた
床だ。
 医務室のステラの姿が思い出される。ベッドに拘束されて点滴を受けていた。『ひどい
じゃないですか、ステラの、捕虜の人権を無視してこんな』と言ったがオーサー医師に『こ
れはヴァレンティナと私の身の安全を図るためでもあり、もちろん艦長の許可を得ている。
彼女は怪我をしてなければ営倉に入るべき捕虜だ。そして君が必死で抑えなければいけな
いほど暴れた体力。アーモリーワンでガイアを奪ったときにはナイフでザフト兵を5名殺
害している。猛獣を扱うように注意しなければならないのだ』。こう言われたら、引き下
がらざるをえなかった。医務室のスタッフがスイッチの入ったステラに対抗するのは無理
だと、ディオキアや昨日の体験で分かっている。彼女はここのロドニアの施設の出身かも
しれない。連合のほかの施設かもしれない。しかしとにかくナチュラルに、コーディネー
ター並みもしくは以上の能力を持たせるために薬物を投与され訓練された存在。ラボの中
で見た子供の標本、脳――ステラがああなっていたかもしれないのだ。
 あの施設の中身は、ミネルバの調査部隊とディオキア基地の部隊が共同で調べている。
ナチュラルの最新科学が詰まっているはずで科学者には興味津々だろうが、彼はそういう
ことには興味がなかった。ただ人体実験という事実が呪わしいだけで。
 そういうえば気分を悪くして倒れたレイは、軽いパニック障害と言われたようだった。
精神安定剤をもらって、一日休暇をとるようにオーサー医師から隊長に連絡が行ったと聞
く。さきほどシンが部屋を出たときにはいつもの冷静な顔に戻っていたが、精神的なこと
だから医者の言うとおり休んだほうがいいと思った。スタンバイシフトからも外されたか
ら、彼は部屋で休んでいるかレクルームで心の休まるディスクでも見ているだろう。
 小さな飛沫が思ったより飛び散っていて、居住区からモビルスーツデッキに降りるエレ
ベーターに着いた頃には軽く汗がにじんでいた。流石にエレベーターは昨日清掃班が仕事
をしておいてくれていた。プラントが人工的に管理され、リサイクルが徹底された国なの
で、基本的にプラント人は清潔と整理整頓が好きだ。それは戦場でも発揮される。
 モビルスーツデッキに降りると、インパルスの横にガイアが横たえてあった。メカニッ
クたちはシンが切り取った手足も回収したようだった。
 ここも血痕はふき取られていて、シンに命じられたのは念のための消毒作業だった。床
を消毒剤で拭いていくだけだが、エクステンディッドの体液に、免疫力がナチュラルより
高いコーディネーターが用心しているのだ。半時間ほどかけて入り口からエレベーターま
でを消毒剤で磨き上げたシンに、メカニックの待機室から手が振られた。友達のヨウラン
だ。
 もう一人のヴィーノは仕事中かオフなんだろう。
 荷物をまとめて部屋に入ると、ヨウランが詰めたい飲み物を手渡してくれながら「ご苦
労様」と言った。
「はいはい、疲れました。俺が無謀で馬鹿だとよくわかったよ」
 空いている椅子にふんぞり返って答えたら、エイブス班長の声がして、居住まいを正す。
「アレッシィ隊長からお前の掃除任務のことは聞いてる。ご苦労。で……あのエクステン
ディッドの様子はどうなんだ? 血を流してた金髪の女の子としかこちらにゃあわからん
かったが」
「ここに来る前に医務室に寄ったときは寝てました。ただ血液に普通ナチュラルにもコー
ディネーターにも、人類にはない物質が存在しているとは聞きました。怪我は貫通創なの
で、治りは早いだろうと」
「あの子、あそこのラボの出かもな。コンピュータ類を漁れば資料が出てくるだろう。ひ
どいところだぜ、まったく。子供達を完全に実験動物扱いして、出入所記録を少し見たが、
まったくなんてところだ」
 班長が顔を歪める。ヨウランが好奇心丸出しで聞いた。
「それって、子供の標本が沢山あったっていう」
「そうだ。あそこから生きて出た子供は、あの金髪の子みたいに実戦に投入された子だけ
だろう。他は実験が上手く行かないと殺されて標本にされてたようだ。人間ってのは、宇
宙で一番タチの悪い生き物だって言うがホントだよ」
 シンはぞっとして掃除でかいた汗が干上がるのを感じた。
「でも、でも同じナチュラルにどうしてあんなひどいことができるんですか!?」
「プラントの人口は2000万人もいないが、地球には70億人のナチュラルが住んでる。
人の命を軽々と扱う奴もいるさ。それに、お前達は二世だから考えたこともないかもしれ
ないが、俺達コーディネーターだっていきなりジョージ・グレンが生まれたわけじゃない。
歴史の闇になってるが、彼を生み出すために遺伝子操作の人体実験がいくらも行われたは
ずだ」
「えっ!?」
 二人が驚愕した。そしてシンは「そういえば、裏切り者のアスラン・ザラがなんだそう
いうことを言ってたような……」とつぶやき、メイリンのお腹の子供の父親だった青年の
顔を思い出した。。
 待機室にいたほかのメカニックたちも興味を示していた。
「一世なら一度は考えたことがある。実際、ジョージ・グレンが自分が作られた存在であ
ると明かしてからコーディネーター製造が合法化されるまでは違法、闇の存在だったわけ
だ。俺が生まれたときは、俺は違法な遺伝子改造で生まれた子供だった。医者の腕にもば
らつきがあって、正常に発達しなかった胎児だってたくさんいたらしい。お前さんたちの
両親はコーディネーター製造が合法化されて、技術が飛躍的に発達した時代の生まれだろ
う。ほら、シンの赤い目なんて、高い遺伝子操作料を払って作られたもんだ」
 シンも自分の自然界にありえない目の色が、遺伝子技術の粋を集めたものだとわかって
いる。それが高価だっただろうということも。ただ二世なので、『親からの遺伝で』この
色になったというところはナチュラルと変わらない。二世以下は自然に『自分たちはコー
ディネーターと言う種族である』と思うが一世はナチュラルの親から生まれる分、どこを
どういじって自分が生まれたのか、気にする人も多いのだ。
「そっか。プラントを作った年長の世代は、違法に生まれてきたコーディネーターだった
んだ」
 感慨深げにヨウランが言う。彼はプラント生まれの二世だから、素直に尊敬してきた先
人たちの親が、犯罪に手を染めて子供を作ったのだと考えたことはなかった。
「今の最高評議会議員だって、前の戦争のあと少しは若返ったが、半分は違法に生まれた
一世だろう。ま、違法コーディネーターもここの施設のエクステンディドも人間の欲から
生まれたことに変わりはないな」
 渋い表情でエイブス班長が唸るように言った。

 
 

 レクリエーションルームの並ぶ廊下を歩いていたアビー・ウィンザーは、『使用者:レ
イ・ザ・バレル』という部屋の前で足を止めた。不正な使用を防ぐためにドアと壁が透明
になっている部屋を見るに、地球の海のディスクを見ているようだ。
 彼女はドアをノックした。インターホンから落ち着いた声が流れる。
「飲み物が飲みたいんだけど、御一緒していいかしら」
「……どうぞ」
 声の後ドアのロックが開いた。
 アビーが自動販売機に向かうとレイが立ち上がって
「何がいいですか?」
 と聞いてきた。
「きっちりした教育を受けてるのね。でも私は男女同権のプラントの女ですから、お気遣
いなく」
 こう答えてミルク入りのコーヒーを注文した。ミネルバがカーペンタリアに入港してか
ら艦の自動販売機の飲み物も天然物に変わっている。ディオキアの基地で地球産の食物に
なれたアビーは、ふとプラントに帰っても食事や飲み物に満足できるだろうかと思った。
 ソファに座って、コーヒーを口に運ぶ。テーブルの上の紅茶がレイのものだろう。
 持って回ったことは苦手な性格なので、ずばりと切り出した。
「私がこの艦のモビルスーツ管制に異動になったのは、前任者が体調を壊したからだけれ
ども、ディオキアにもたくさんいるオペレーターからなぜわたしがというと、事情がある
らしいの」
 レイは軽く眉をしかめたように見えた。
「ザフトの情報部が人事に絡んでいる。そのセクションはあなたの後見人だったデュラン
ダル議長の直轄の部署なの」
「……それは、デュランダル議長とは確かに個人的な知り合いですが、公には自分は一介
のパイロットですから人事については何も知りません。当たり前でしょう」
「確かに。でもあなたに話をすれば、あなたが必要だと判断した情報は議長に伝わる。そ
うよね?」
「それは、否定しません」
 アビーはレイをなかなか正直な少年だと思った。プラント一の権力者と懇意でも鼻にか
けないところは、好感が持てる。
「父が取材を受けた心理学者が、いまザフト情報部の議長直属の部署にいるの」
 そう言ってコーヒーを飲む。レイの端正な顔には感情が見えない。
「その人が父親にした取材は、地球の王家の出である身がプラントの平凡な市民であるこ
とへのギャップはあるのかということだったそう」
「アビー・ウィンザー、地球の王家というと、今は大西洋連合の旧グレートブリテン及び
北部アイルランド連合王国ですか」
「ええ。歴史の勉強が得意だったようね。父はコーディネイトされたので、本家から血族
扱いされてないと聞いているけれど」
 アビーもいまはユーラシアに亡命したという一族に興味はない。王家の遺伝子という一
般的にありがたがられるものをわざわざ改変させた祖父母には、一度会ってみたいものだ
と思うのだが。
「ミネルバは艦長人事からしてデュランダル議長が噛んでいる船でしょう。元被後見人の
あなたも乗っているし、モビルスーツ隊の隊長はフェイス。セカンドシリーズの運用艦と
いうことだけでなく議長が特別に気にかけているのだと推測できるわ」
 アビーの言に、レイの額が少し曇ったようだった。
「そういう見方をする人もいるでしょう。ただ新造艦、最新鋭機にはそれにふさわしい人
材を配さないといけないし、ミネルバの乗員はあなたを含めてその条件を満たしていると
思いますが」
「あら、お上手ね」
 こう言われるのがレイは一番嫌だろうと思う台詞をアビーは口にした。
 そして立ち上がる。
「お邪魔さま。今日はオフだからゆっくり体を休めてくださいね」
 コーヒーのカップをリサイクルボックスに入れて、彼女はレクルームを出た。
 これからオフなので部屋に向かいながら、彼の金髪と自分のはほぼ同じ色だったと思っ
た。この金髪碧眼は母方の遺伝なので、母がコーディネイトされる時に使われた遺伝子と
レイ・ザ・バレルの両親のどちらかがコーディネイトされる時に使われた遺伝子が同一な
のだろうと推測した。

 

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