シロ ◆lxPQLMa/5c_00話中編3

Last-modified: 2009-01-08 (木) 22:39:22

アカデミーからは今日も教官の怒声、生徒の掛け声、規律正しい号令が聞こえてくる。
怒声を浴び、号令に従い、掛け声をあげシン・アスカの時間は流れていく。彼の時間は訓練・座学・実
践の繰り返しであっという間に過ぎ去っていった。

 

               ***

 

その日はある程度の自由行動が許された休日だった。いつものシンであればそんなことお構いなしに
訓練に明け暮れるが、今日はどうもそのような気分になれず、自分でも不思議に思いながら、それなら
と久方ぶりに遠出をしてみようと思い立った。

 

シートにまたがりキーを回せばエンジンをむき出しにしたそのマシンは歓喜の咆哮を上げた。少年は
アイドリングもそこそこにグリップを回し込む。そして彼には不釣り合いにも映るその巨大なマシンの
望むままに自身の思うままに走り出した。
痛いくらいの風がちょうどよかった。
高速度を出すことによって切り替わる意識。その研ぎ澄まされた感覚に浸り、気の向くまま風の向く
まま適当に走り続ける。エンジンのかき鳴らす爆音が、風さえ置き去りにする音がひどく心地よかった。

 

瞬く間に流れていく景色。

 

どれだけの時間そうしていたのか、ふと気がつけば人気のない、全く見覚えのない地区へと迷い込ん
でいた。今まで訓練漬けで周辺の地理の事など気にしたことがなかったため、プラント内の事をほとん
ど知らなかったことに今更ながらに気付きため息をつく。
「さすがにまずいよな。」

 

せっかくだしこの機会に少しあたりを見てみようと思い立ち、先程までとは違いバイクをゆっくりと
走らせる。走りながらその街並みを特に感想を抱くこともなく眺める。そうしてしばらく走っていると
視界が開け、シンの眼前に墓地が広がった。

 

目をぱちくりさせる。
「俺・・・辛気臭いのかな?・・・それとも呼ばれているのかな?」
口を出る言葉も多少皮肉めいてしまう。
(全く・・無意識にこんなとこに来るだなんて・・)

 

 そう思っていながらもバイクを止めよく見てみると、墓地のなかに人の姿はまばらでどうにも閑散と
した雰囲気が漂っていた。さすにカラスはいないが墓地が纏うどこか物悲しげな空気がそこにはあった。
 バイクよりキーを抜き取る。
 少年は自分でもよくわからない想いに引きずられるように、バイクから降りて墓地の中に踏み入る。

 

 踏みしめられた草がカサリと音を立てた。

 

 いくつもの墓石が立ち並ぶ様を見ていると、いままで置き去りにしてきたいくつもの思いが去来する。
 「俺の家族はここにはいないけど・・・・そういえば・・墓、建ててやれなかったんだよな・・・」
 物悲しさが漂う墓地を一歩一歩確かめるようにゆっくりと歩く。ここの静謐な空気がそうさせるので
あろうか、久しく忘れていた感覚がシンを包む。
 (父さん母さん・・・マユ。)
目が引かれるように動き・・・自分の両手をみつめていた。

 

 少し歩くといくつかの墓石には花が添えられているのがわかった。
 (ここ、戦争で死んだ人もいるのかな。)
 とりとめもなく思い浮かぶままに思考を紡ぎ歩いていくと、周りのものより丹念に手入れされている
お墓が目に入った。
 その墓石には“ニコル・アマルフィ”と刻まれていた。丁寧に手入れをされている様を見れば、その
人物がどれほどに愛されていたのか、そして今も想われているのかが思いやられた。
 (せめて俺もこんな風にしてやるべきだったのかもしれない・・・けど・・・)
けど・・・それは本当の意味でのお別れ。家族が死んだことをもう一度見つめなおさなくてはならない。
それができるほどにはまだ・・・強くもなく、時間も足りなかった。

 

 そうして画一的なデザインの墓石が立ち並ぶ道を、墓に刻まれた名前をぼんやりと見つめながら通り
過ぎる。
 その間・・・誰とすれ違うこともなかった。

 

                     ***

 

 しばらく散策して一息つこうとベンチに座る。そのまま目をつぶり俯いてただ風と草の匂いだけを感
じていた。
 結構な時間が過ぎてもそのままで俯いていると、一人の女性が話しかけてきた。その女性は透き通る
ような緑の髪と紅い瞳をもった女性だった。

 

 「こんにちは、あなたもお墓参りに・・あ、ごめんなさいね。ここにいるんだからそれしかないよね。」
その女性は申し訳なさそうに言う。
 いつもなら人と関わりなどもとうとしないが今はなぜか応えを返していた。
 「いえ・・俺の家族はここにはいないですよ。ただそれでもここにいれば少しでも・・家族との距離
が縮まったような気がして。それで・・・。」
 そこまでいってはっと気づく。それはシンにとって唾棄すべき弱い考えだった。だからそれを自覚し
て表情が固まる。
 (でも・・今日だけ、今日一日ぐらいならいいよな。)
きっとここの雰囲気のせいだ、とそう心の内で言い訳をした。

 

 「そっか・・私も息子が死んでね・・・・もしよかったらおばさんの愚痴に少し付き合ってもらえな
いかな?」
 「・・・俺でいいなら。」
少し戸惑ってそう答える。
 「ありがとう。」
どこか儚げで・・・どこかおぼろげ、そしてどこか翳りが見える、そんな笑顔だった。

 

 1つのベンチに並んで座る。
 「私の息子の名前はね、ニコル・・・ニコル・アマルフィっていうの。」

 

 (・・・さっきの! じゃああの花は・・・そっかだから・・)

 

 「本当に優しい子だったわ。とても戦争なんかする子じゃなかった。
優しかったから“他の人に辛い思いなんか・・させたくないんです”って、あの子は私たちの反対を押
し切ってザフトに入隊していったわ。
 よく手紙をくれてね、私たちを心配させないように弱音はひとつも書かれていなかった。
アカデミーの中でも年が低くて、体も小さくて不利なことばっかりだったのに。
立派な成績で・・・自慢の息子なの。でも戦争が激化して既定の授業数をこなさないうちに生徒たちは
戦争に駆り出されていった。」

 

 「あなたを見たら思い出しちゃって。」
女性は首を倒して横から見つめてくる。
 「俺はその人のように優しくなんてありませんよ。」
 「ふふっ、そんなこと言っても私にはわかるんだから。」
人差し指をたててにっこり微笑む。

 

 「家族のためにここにいたんでしょ。祈る場所もないから。私の息子の遺体もここにはないわ。ただ
墓石があって名前が刻んであるだけ。でも・・・この場所に来ることがきっと繋がりを求めていること
だと思うんだ。」
 そういって寂しげな笑みを見せる。
 (遺体がない・・か・・・この人も・・・。)
 「私もあなたも繋がりを求めてここに来たのよ。ふふ、似た者同士ね。
あなたの瞳は・・・優しいわ。」
そう言ってその顔に浮かんだふんわりとした微笑みがシンを包み込んだ。

 

 この人の言葉はどこか心に沁み入ってくる。その温かさに身を任せてしまいたくなる。
でもそれに逆らうように口は動く。
 「そんなことないですよ。誰も・・・近寄っても来ないし。」
 「私の息子も紅い瞳だったの。その私が言うんだもの間違いなんてない。あなたは優しいわ。」
 「・・・・・・あんた変わってるな。」
これが少年の精いっぱいの抵抗だった。

 

 今日は変な日だ。自分でもわかるくらい感傷的だ。心の柔らかい部分が顔を出す。年上の人だけど口
調が保てない。

 

 「・・なあ今まで人に話したことなんてなかったけど・・あんたも俺の愚痴聞いてくれるか・・」
 女性が静かにうなずいだのを横目で見る。そして一拍置いて語りはじめる。ここに来てから誰にも話
す事のなかった胸の内を。

 

 少年の眼がここでない過去を映す。一つ深呼吸をして心の中から言葉を引き出す。
 「・・・。俺の家族は、フリーダムに殺されたんだ。ここじゃなんか英雄扱いだから言えなかったけ
ど。いや、別に誰かに言うつもりもなかったんだけどさ。とにかくあんまり居心地も良くなくて・・・。」

 

 そこで一度言葉が途切れる。そうすればその途切れたタイミングに合わせたかのようにため込んだ感
情が溢れだした。

 

 ポケットに突っ込んだ携帯電話を握りしめるその手に力がこもる。
少年は携帯電話を握りしめる。愛しそうに・・大切そうに・・・苦しそうに。

 

 いままで頭の中で反芻することはあっても、やはり口に出せばその憎しみは鮮やかに色づいた。
 「・・・俺は・・・あいつが憎い!守ると言って現れたくせに・・ふざけるなよっ!守るどころか俺
の家族をあんな・・あんな姿にしやがって!!!」

 

 感情が高ぶり視界が滲む。あの時の悲しみ、恐怖、絶望は今も変わらずシンの中に巣くうっている。
あの青と白の姿はいまだにシンを紅い記憶に縛りつけていた。

 

 “フリーダム”その単語に反応して女性の肩がびくりと揺れた。
 フリーダム、それは“ニュートロンジャマーキャンセラー”を搭載した強力無比な核動力MS。
そしてそのキャンセラーを作り上げた人物こそユーリ・アマルフィ。ニコル・アマルフィの父親にして
この女性の連れ合いである。
 ユーリ・アマルフィは工学エンジニアであり、MSの設計局や工場が集中するマイウス市の代表でも
ある優秀な人物であった。

 

 女性はシンの悲しみ、怒り、苦しみを見て静かに目を閉じる。
 夫が息子の死に嘆き苦しみ、その果てにニュートロンジャマーキャンセラーの開発に踏み切った時の
葛藤は今だってありありと思い出せる。そこにあったのは悲しみと平和への想い・・・でも夫の行いが
この少年の家族を奪う一つの原因となった。
 (あの人の罪は妻である私の罪でもあるわ。)
苦しむシンを見て、その姿があの時の夫の姿と重なる。
 (どんな理由があっても、どんな形であっても関わった者として逃げることなんてできない。きっと
この出会いは運命だったのね。私は・・・どんな運命でも受け入れます。)

 

 女性はベンチから立ち上がりシンに真正面から向き合う。
閉じていた眼を決意で固め、意を決して口を開く。

 

 「聞いて・・・もらえるかしら。」
シンは滲んだ涙を見られないようにごしごしと目をこすって返事を返す。
 「?ええ・・・」
 「あの人はね・・ううん、私の夫はね、息子が死んだとき、本当にほ・・んとうに悲しんで禁断の技
術に手を出してしまったの。」
声に少し嗚咽が混じる。

 

 「息子の望んだように戦争を終わらせるために平和を望んでそれを作った。」

 

 (そして・・・それは・・・同胞を殺すためのものになり下がった。)

 

 「MSフリーダムに搭載された“ニュートロンジャマーキャンセラー”それを作ったのは・・・私の、
夫です。」

 

 「!!!!!なっ!!!!!!」
ガタッ
驚きの余り反射的にベンチから跳ね上がる。

 

 「ザフトによってプラントのために作られたフリーダムは奪われ、あろうことか牙をむいたわ。」

 

 (そしてそれは連合の核兵器にも搭載された。・・・主人の・・・あの人の想いは汚された。)

 

 「そしてあなたの家族を・・・御免なさい・・御免なさい。」

 

 それは懺悔だった。だがそれは罪の告白という一点においてのみ。彼女は自分が救われるのではなく
被害者を前に責任をとろうとしていた。この会ったばかりの少年のために、言わなければ気付かない事
実を打ち明けた。

 

 「!!あ、な!・・」
漏れ出る言葉は意味を成さない。何一つまとまらない。
 突然の告白に頭が真っ白になる。
 (あの機体、あの機体を・・あ、の、忌々しい機体をーーーーーーーー!!!) 
途方もない怒りが腹の底から脳天に向かって吹き上がる。
 (こいつらの・・・こ い つ らのせいでえええ!!)
 拳がその心を表すようにミシミシと握りしめられる。鍛えられた強靭な握力がその途方もない怒りを
握りこむ。周囲一切の音が消える。かわりに聞こえてくるのは内側の音。それは歯をぎりぎりとかみし
める音、バクバクと早鐘の如く鳴り響くうるさい心臓の音。
 少年は怒りという感情をめちゃくちゃに詰め込んだ燃える瞳を女性に向ける、全身から敵意を放ち睨
みつける!

 

 だが、そんな瞳を向けられてなお彼女は言い訳をするでもなく黙って向き合っていた。
真正面から少年と女性が向かい合う。
 シンの瞳から目をそらすことなくそのすべてを受け止めようと、覚悟をもって。それは我を忘れそう
なほどの少年にも感じられる強固な覚悟。

 

 その覚悟が理性の飛びかけた少年をわずかに繋ぎ止める。
 「なんで、あんたは・・・」
 この人は俺の事情を自らの責任として受け止めている。自分が直接悪いわけでもないのに・・。おれ
は・・・どうなんだ?

 

 (・・・くそっ俺は・・俺はーー!!!!)
感情が高ぶりすぎて涙がこぼれる。

 

千切れた右手              変わり果てた両親 
   看取ることもできなかった突然の別れの連続           フリーダム 
 会えない友達    お墓      花  愛していた家 子供          戦争 火 
       煙 涙    怒り    人殺し        惨め 諍い

 

 怒り・・・怒り・・・・・・・・・途方もない怒り!!!

 

脳内を情報が感情がむちゃくちゃに飛び交う。

 

 しばしの間シンと女性が言葉もなく立ちすつくす。浅黄色に囲まれた墓地の真ん中、2人の間を風が
吹き抜け髪の毛を揺らす。
 「っぐ・・」

 

 ―――揺れる

 

 「あんたがっ!・・あんたが謝ることじゃないだろ!!あんたの旦那の事は知らないけど・・あんた
の事は信じられる人だって俺はわかったから。その人の事も・・・信じるから・・だから、だから・・」

 

 「だから、泣くなよっ!!」

 

 涙でグシャグシャの顔からそんな言葉が飛び出した。その言葉は少年自身がぶつけようとしていた罵
詈雑言とはほど遠いものだった。

 

 その言葉を聞いた女性の瞳からも涙がこぼれ落ち、少年の答えに泣き笑いでこたえる。
 「ほら、やっぱり優しい・・じゃない。」
こらえきれず両手で顔を覆った。

 

 2人の間をまた暖かな風が駆け抜けた。それは2人の涙のように優しく暖かだった。

 

 泣きながら笑いながら、ほころんだ彼女の顔をまっすぐ見てられなくて、自身の泣き顔を見られたく
なくて少年はフンと鼻を鳴らして赤らんだ目をそらした。
 子供を失った親、親を失った子供、もしかしたらこの出会いは必然だったのかもしれない。

 

               ***

 

 少年の内で噴き上げた怒りは対象をかえ少しばかり形を変えた。
 (フリーダムは、奪われた機体だと!どこまであんたは不幸を振りまく・・この人のためにも俺のた
めにも必ずおまえを・・・)

 

 決意を固めるシンに不意打ちのように声がかかる。
 「ねえ、うちに遊びに来ない?」
 「えっ?」
予想外の問いかけにシン本人は気付いていなかったが、そこには年頃のあどけない素顔がのぞいていた。

 


 (場違いだ。)
少年は今頭を抱えたい気分だった。
 現在目の前には子供でも知っているような高級な材質を使っているであろうドアがある。

 

 (俺はさっき何て答えたんだ?)
ついさっきの事なのによく思い出せない。
 手を引かれ強引に連れて行かれる中、なされるがままで反抗しなかったのは・・・きっと俺自身もっ
とこの人と一緒にいたかったから・・・。

 

 表情はムスッとしているはずなのに、この女性は変わらず微笑ましそうに見てくるのがシンにはなん
だかむず痒かった。

 

 「お、おじゃまします。」
他人の家に上がるなど本当に久しぶりのような気がした。
 「別にそんなに緊張しなくていいのに。」
女性が少し困ったように話しかけてくるけど、そんなわけにいくはずなかった。
 (なんだこのばかでかい豪華な家は?!・・・そういえば高官なのか。世界は広い・・・広すぎるだ
ろ。俺の知らなかった世界だ。)
 「狭くて汚いけど上がって頂戴。」
 (どんな感覚だ!社交辞令かもしれないけど、じゃあ俺の今までいたところって何?ってことになる
だろ!)
 少し引きつった表情で、靴下に穴が開いていなかったことに安堵しつつ、恐る恐る家に入っていく。

 

 「ちょっと待ってて今お茶でも入れてくるわね。」
そう言って部屋を出ていく。
 (この高級そうなソファー・・・座っていいものなのか?鑑賞専用のソファーなんて聞いたことない
し大丈夫だよな。)
 シンが庶民の感覚全開でその広い豪華なリビング(だと思われる)を見まわしていると一つの写真が
目に入る。
 (ああ、この人が俺の先輩にあたるのか。)
 「本当に小さいみたいだな。俺より小さい・・よな?」
気になっていた人物を写真越しにでも見たことでつい口に出ていた。

 

 写真をしげしげと眺めていると
 「お待たせ。」
女性がお盆にお茶といくつかのお菓子を乗せて危なげなく入ってくる。そして写真の前にいるシンを見

 「どうかな、イメージ通りだった?」
 「いや、俺のイメージよりさらに・・」
 「ふふっ。」
 「あんたにそっくりだな。でも息子って言ってたろ?」
シンがそう問いかけた瞬間、こらえきれないといった様子で女性は声をあげて、それでも上品さを損な
うことなく笑いだした。
 「よく間違えられたけどそれでも男の子よ。もしあの子が聞いていたら何ていったか。きっと“シン
ー!なんてこと言うんですか!”なんて言って怒られるわよ。」
息子の声真似をして笑いだす。
 「あははは。」
 「なっ!嘘だろ・・・・・・ごめん・・ニコル・・さん。」
さすがに男として女の子に間違われる心情を思い素直に謝る。謝らないわけにはいかなかった。
 「あははは・・・・ははは・・・」
どうにも彼女の笑いはしばらく収まってくれそうもなかった。

 

 「ごめんね、一人で大笑いしちゃって。」
目尻に浮かんだ涙を指でぬぐいながら、先程の余韻を何とか抑え込む様子を見せ語りかけてくる。
 「別に・・」
 いつものように不愛想を装おうとしているが、勘違いをしたことでどこか照れのようなものが垣間見え
る。その頬はわずかに上気し唇を尖らせていた。

 

 女性にはそれが少年の本当の顔だと理解できた。
 「こんなに笑ったのって久しぶりだったから、ほんと御免なさい。馬鹿みたいよね。」
 「いや俺が勘違いしたのが原因ですから・・でもニコルさんって確かに戦争なんかよりピアノでも弾
いてる方が似合ってるような雰囲気ですね。」
 恥ずかしさをごまかすようにとっさに言った事だったが相手は自分の予想とは違う反応を見せた。
 「・・・うん、そうなの、勘がいいのね。あの子のピアノの腕前ったら名人級だったのよ。ずっとそ
のままで、いつか音楽で人を癒せる人になると思ってた。きっと、その夢をかなえると・・信じていた
わ。」
昔を思い返しているのか声がとぎれとぎれとなる。

 

 そうすると彼女は何かを思い立ったようで、回想から復帰してはっと顔をあげると、唐突に提案して
くる。
 「ねえ、せっかくだからあの子の部屋も見ていってほしいな。年の近い友達が来たってきっと喜ぶと
思うし。」
 「俺が行ってもいいんですか?」
 「もちろん。あなたに来てほしいの。」
そう答えた彼女の顔は満面の笑みだった。

 

 すぐにシンを急かして立たせて、彼をひきずるように廊下を突き進む。シンは飾ってある高級品に気
を使いながら慎重に引っ張られて行く。当然のように廊下もシンの感覚からは規格外である。

 

 女性はその部屋に入る前に立ち止まると一拍置いて祈るように目を閉じた。きっとその場所は彼女に
とっての“特別”なのだろう。会ったばかりではあるがその事はシンにも容易に想像できた。
 ガチャリ
そんな音をたててドアが開き中の様子が見えてくる。

 

 ニコルの部屋に入ってまず目についたのは、丁寧に手入れされた年季を感じさせるグランドピアノで
あった。
 「おおー。」
そう驚きの声をあげ、全体を見回して昔の自分の部屋と比較するが、そのあまりの違いに頭をひねる。
 (同じくらいの年齢のはずなのに・・・なんで?)
 そこは見慣れないものだらけだった。まんが本もおもちゃも一切ない。そんな部屋の中をシンは一つ
一つしげしげと珍しそうに見てまわり始めた。
 そんなシンとピアノを優しげに見つめながら女性はそばにあった椅子に腰を掛ける。

 

 シンの様子を見ているとまるで“兄の部屋に初めて入った弟のようだ”と感じててしまう。キョロキ
ョロと珍しげに見ている彼のあまりに微笑ましい様子に、あの日から自身にとって悲しみを呼び起こす
だけになってしまったはずの場所でつい顔がほころんでしまう。こんなに泣いたり笑ったりしたのは本
当に久しぶりの事だった。
 (シンが来たからだね。この子は心を偽らず感情でぶつかってきてくれるから。)
コーディネーターではなかなかいないのだ、こんな子は。

 

 唐突にもたらされた心地よい感覚に浸りながらとつとつと思い出話を始める。
 「あの子ってば見た目と同じでとっても控えめだったから、わがままも言わない暴れたりもしない素
直ないい子だったけど・・ちょっとお母さんとしては物足りなかったかな。ふふ、ほかのお母さんたち
に聞かれたら怒られるかもしれないけどね。」
 シンが“そんなもんか?”といった表情でこちらを見てくる。
 (彼の母親はどうだったのだろう。)
お互いの息子について語り合ってみたいとかなわない望みを抱く。

 

 「そしたらある日・・・うん、あれはコンサートにはじめて連れて行った帰りだったかな。普段おと
なしいあの子がすごく興奮した様子でどうしても欲しいってピアノをねだってきたの。どうしてもやり
たいんですって。私も夫も喜んでね、応援の意味も込めて“課題曲を弾けるようになったらピアノを買
ってあげる”って言ったんだけど・・。」

 

 当時の様子を思い出しているのだろう、その表情には幸せが浮かんでいる。
 「そしたらあの子すっごい張り切っちゃって。すぐにピアノを教えている先生のもとに通い始めたの
よ。」
そう言って椅子から立ち上がり歩きはじめる。

 

 「でもね、このピアノ見ればわかると思うけど、

 

 (わかりません。)

 

 これは私たちが買ってあげた新品ってわけじゃないんだ。実はなんとその先生から譲り受けたものな
のです。」
彼女はそのピアノの前まで歩いて愛おしそうに指先で触れる。
 「その先生も先生の先生から譲られたものだって言ってたな。・・・きっとまた誰かに受け継がれてい
くんだろうね。」
それがちょっとだけ寂しい、そんな心情が垣間見える顔だった。
 その横顔が“なんとかしてあげたい”そんな思いを伴ってシンの胸に焼きついていた。

 

 「このピアノを貰ってからは毎日のように暇さえあればピアノに向かっていたんだから。
全く・・御飯だよって呼んでも“あとちょっと、あとちょっと”ってなかなか来てくれないの。」
ぷんぷんですよ、と幸せそうな顔で私怒ってるんですとアピールしてくる。

 

 (あれじゃあ怒られても怖くないな。)
ちょっと失礼かなと思いつつもどうしてもそう感じてしまう。
 「こんな小さいころ初めて曲を弾けるようになった時にね、“お母さんお母さん”って満面の笑顔で駆
け寄ってきて私を引っ張っていったんだよ。私の・・一番の思い出なの・・あんな積極的だったのはほ
んと珍しいんだから。」

 

 そう話す女性の言葉の端々に、その表情に、隠しきれない愛情があふれていた。
声もしぐさも違うのに女性のその姿が記憶に残る自身の母親のそれと重なる。胸を締め付けられるよう
な、うらやましいようなさびしいような、いくつもの思いが絡み合った複雑で不思議な感覚に襲われる。
 その感覚の思いもかけない強さに思わず俯くとふと目に入るものがある。
 「・・この楽譜は?」
ピアノの上に乗せられていた数枚の楽譜。
 女性の表情が唐突に曇る。
 「それは・・・あの子が最後に練習していた約束の曲なのよ。」
 「約束?」
 「うん・・・・必ず帰ってきて、みんなで・・みんなで・・」

 

 「・・・一緒に演奏しようって・・・。」

 

そう言って女性は泣き崩れた。

 

 心配させまいと気丈に笑う息子の顔が忘れられなくて、自分たちの前ではいつだって笑顔でいたその
顔が悲しくて。
 約束は炎に消えて、結局戻ってきたのはこの楽譜と息子の着ていた小さな制服だけだった。最愛の息
子は最後の時まできっと約束を果たそうとしていたのだろう。

 

それがわかってしまったから・・・
        あの時の気が狂いそうになるほどの悲しみが時を経て再び彼女を蝕んだ。

 

 静かな部屋に女性のすすり泣く声が控えめに響く。どうしていいか分からず唯近くで立ちつくす。こ
んな時に動けない自分が情けなくて殴り倒してやりたいと思いながら、そんなことしか思い浮かばない
自分がひどく惨めだった。
 「ごめんね、泣き顔ばっかり見せちゃって。」
 「別にかまわないです、俺もずいぶん見られたから・・それよりあなたが家族をどれだけ大切に思っ
ていたかわかったから、なんかニコルさんが他人のような気がしなくて・・・」
 女性には少年が自分を励まそうと一生懸命語りかけてくるのが分かった。その必死さがダイレクトに
伝わってくる。
 「うん・・うん・・」
 指で涙をぬぐいながらその眼はどこか嬉しそうだった。さっきとは違う温かな涙が女性の頬を濡らす。
彼女を蝕んでいた毒は今日を境にその苦味を薄れさせていった。彼女の悲しみは生涯残り続けるだろう、
それでも人はきっとその悲しみさえも自分のものとして強くあれる。
そう信じさせるような涙だった。

 

               ***

 

 玄関を超えて庭先の門の前で名残惜しそうに何度も言葉を交わす。
 「また遊びに来てくれるかな。来てくれなかったら・・私寂しくて死んじゃうかも。」
 「そんなこと言わなくても・・・また来ます。」
少年が浮かべたのは困ったような、でもどこか嬉しそうなそんな顔。
 「じゃあ今度は・・・」
メールアドレス、電話番号等、連絡先を何度も確認して、指きりげんまんまでさせられて彼女はようや
く解放してくれた。

 

 自身の姿が見えなくなるまで見送ってくれた女性に最後まで手を振りながら、少年は頭の中で今度い
つ来れるか、予定に空きがないかとスケジュールチェックをしていたが、彼はそのことに全く違和感を
感じてはいなかった。
 女性に大きな影響を与えたように少年も女性から大きな影響を受けていた。出会いがまた少年を変え
ていく。変化はとどまることを知らない。これからも少年は変わっていくだろう。

 

 シンが去った門の前でしばらく立ち尽くす。
 自分の右手の小指を見つめつぶやく。
 「温かい・・・。」
空を見上げれば何時か家族で見ていた星空が変わらず彼女を照らしていた。
 (そうだった・・・空はこんなに奇麗だったんだ。)
その輝きにまた温かな涙がこぼれる、どうにも今日は眠れそうになかった。

 

 今日はいろんなことがあった。もう夜の闇に沈み始めた街並み。少し冷たい夜風を浴びながら、それ
でもまだ夢を見ているような心地で一歩一歩熱に浮かされたように歩く。歩きながら頭に浮かぶのはや
はり先ほどの女性だ。あの人から久しぶりに母親というものを感じた。
 (とても・・・温かかった。)
 余韻がいつまでも後を引いて少年を放さない。いつもの自分が不愛想をなかなか崩してくれなくてあ
んな返事しかできなかったが、本当はこちらの方こそ後ろ髪を引かれるような思いだった。
 指切りしたその右手の小指をじっと見つめる。
 「温かかった・・。」
 自然と目をつぶりあの温かさを反芻する。優しい優しい、涙が出そうなほどに優しい暖かさだった。
それは暗雲より差し込んだ陽光の如く。またも暗闇へと向かいかけていた心は繋がれた手によってひき
とめられた。

 

 ただ・・・一つ気になることが、指切りげんまんの最中人に見られていないかとひどく焦りを感じて
いたが、彼女はそれに気づいてなおわざと長々やっていたような気がする。
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ふう。」
 (何考えてんだか・・・考えすぎだよな。)
その答えは世界でたった一人の中に。

 

 首を持ち上げれば満天の星空が彼を出迎えた。
 「星、こんなにたくさんあったんだな。」
 今までずっと見ていたはずなのに、今はじめて見たような気がしてシンの顔に一瞬、ほんの一瞬だが
微笑みが浮かんでいた。

 


 今はまだ漠然とした、でも確固とした小さな願いが生まれる。

 

 “力はあの温かさを守るために”

 

意識に上ることはなかったがそれは少年の心の深い場所に刻まれていた。

 

 豪華な町並みを抜けてだんだんとその景色は見覚えのあるものへと移り変わっていく。その家路へ向
かう長い道のりを彼女とのやり取りを思い出しながらただぼんやりと歩く。
 そうしていればいつの間にやら長い道は終わっていた。

 

 いつもの門がガチャンと音を立て少年の帰りを歓迎する。その門を見上げ、その先にある星をもう一
度見る。

 

 しばしそうした後、振り返り部屋に向かう道すがら、ふと過去に思いを馳せ遠い目を向ける。

 

 「・・・バイク・・忘れてた。」

 

 墓地の前で独り寂しくたたずむレンタルバイクが夜露の涙と共にその存在を主張していた。誰もいな
い中庭にしゃがみ込みシンは結構本気で頭を抱えた。

 

       プロローグ 中編2 「炎の涙・血の涙 ~あなたの手、わたしの手~」 了