運命のカケラ_26話

Last-modified: 2009-07-21 (火) 07:22:02

「大丈夫。戦い方、思いついたから」

 

 溶けかけた手袋とバルディッシュの柄が、フェイトの手の中でぎゅぅと悲鳴のような音を立てた。
 
 

 

 
 
「フェイト、本当に――」

 

 アルフが心配そうにしているのを見て首を傾げ、ああと納得する。バリアジャケットの消耗は確かに激しいが、逆に言えばそれだけだ。疲労感は取り込まれる前と変わらないし、毒や怪我といったマイナス要素も存在しない。
 全身に改めて意識を張り巡らせると、ぼろぼろだったバリアジャケットが静電気と魔力光を散らして傷一つない状態へと再構成された。破けていたマントは大きく風をはらんで広がり、溶けかけていた手甲やシューズは元通りの金属光沢を取り戻す。それら全てはフェイトが光に包まれていた2,3秒の間の出来事だった。

 

「ね? 私は大丈夫だから。早く終わらせよう?」

 

 再構成の済んだバリアジャケットを示して見せる。奥歯に物が挟まったような表情ながらも一応頷いてくれたアルフに笑い返し、フェイトはバルディッシュの柄を撫でた。モノクロの世界、モノクロのボディの中で唯一静かに自己主張する先端部の宝玉は変わらず、猫の目のような輝きを放っている。

 

「ごめんね、バルディッシュ。大丈夫?」

 

 フェイトの無口な『もう一つの相棒』は、音声で答える代わりに入力信号のログを表示してみせた。取り込まれていた間、デバイスと人とのコミュニケーションで最も重要な生体由来魔力の入力を示す折れ線が、見事なまでにゼロフラットになっている。つまり、その間バルディッシュにとってはフェイトが『存在していなかった』ということだ。勿論、現在は正常な値が刻々と記録されていたが。
 言葉でなく行動、明快なデータで示すバルディッシュにこの上ない『らしさ』を感じ、フェイトは満足げに頷いた。

 

「んー、まあフェイトがいいなら……で? どーすんのさ、あのドロドロ」

 

 ばりばりと頭をかき回したアルフがフェイトに並び、眼下の『ドロドロ』を見やった。思考らしい思考すらせずに性質に近いところで動いているのか、距離をとった上でこちらから手を出さなければ『ドロドロ』側から仕掛けてくることはないようだ。
 しかし、手を出さないというわけにはいかない。アレを、アレが、アレは――何なのだろう? わからない。わからないが、どうするべきかということについては、フェイトは奇妙なまでの確信を持っていた。

 

「簡単だよ。量は多いけど低密度だから」

 

 ばち、とフェイトの周囲で火花が散る。バリアジャケットとして変換され切らなかった魔力――先天的特質として、フェイトはほぼ無意識で魔力を電気に変換できてしまう――が漏れているのだ。魔力を魔法としてまとめ、現象へと変換するプロセスにはやはり多少の損失が存在し、出力を上げれば自然とその損失も増える。今は瞬間的な出力が必要な為、ある程度の損失は覚悟の上だ。
 がきん、とバルディッシュが鎌首をもたげ、先端に魔法陣が展開された。ゆっくりと回転する魔法陣を固定しなおすフェイトの後ろから、アルフは続きを促す。頭を使うのが得意な方ではないのは知っているが、時々もう少し考えて欲しいとも思う。

 

「だから……?」
「叩けば飛び散る、それだけ。だから」

 

[Thunder Smasher]

 

 ぼん、と空気を押しのけ帯電させながら黄色の光が走った。触手が一斉に立ち上がり、赤色の魔法陣――に良く似た何かを展開する。バケモノそのものとしか言いようのない全体の魔力量に比べて防御に回せる量は薄いらしく、サンダースマッシャーの火線が食い込んだ魔法陣状の障壁は一瞬の拮抗の後、それを維持していた触手ごとはかなく砕け散った。
 ビルの間を満たす泥へと光が突き刺さり、盛大に黒い水面が波打った。煙を上げて飛び散った黒い粘液の一部、ごく細かい塊までバラバラになった分はそのまま蒸発するように消えていく。
 その様子を見て、フェイトは取り込まれる寸前とアルフに助け出された直後に感じたことが間違っていなかったことを確信した。『感触』通りに、あの黒いモノも一応魔力かそれに類するエネルギーの集合体らしい。こちらからエネルギーをぶつければ、総量からすればごく一部だろうとも減らすこと自体はできているのだ。

 

――そう、できる。だから。

 

「だから、なくなるまで、消す」

 

 言葉と同時、バルディッシュに新たな魔法の構築を命じる。体内から膨れ上がる意思のまま空中に放たれた無形の魔力が、次々に魔法陣を描き出しそれぞれの中心から10に届こうかというスフィア――球形に高密度魔力を固めた浮遊砲台がフェイトの周囲に出現した。
 スフィアに与えた魔力量、フェイトに残された魔力量、そしてフェイトが生産できる魔力量。それら全てを加味したところで到底あの黒いモノの総量には届かない。そんなことはわかっている。
 それでも、あれを消さなければならない。無理だけれど、消さなければならない。
 わけのわからない衝動に急かされるまま、フェイトはバルディッシュの先で黒いモノを指し示した。モノクロの世界に満ちるモノクロの物体へ、万遍なくスフィアの照準を設定する。

 

「ちょっとフェイト――」
「スフィアセット、フルオートファイア、行って!」

 

[Photon Lancer]

 

 アルフの制止も耳に入らず、フェイトはスフィアと共に一斉射撃を開始した。無数の黄色い魔力弾が吐き出され、黒い水面に突き刺さっては弾けた。攻撃に反応して触手が立ち上がるが、どうせ同じだ。光弾は軌道を変えず、結果的に触手へと殺到した。影と光が互いを食い合うように光は薄れ、黒いモノが溶けていく。
 思ったとおりだった。高速発射でとりあえず面を抑えてしまえば、回避するだけの速度も強引に受け止めるだけの防御力もない黒いモノは何もできない。ただ、フェイトの攻撃で少しずつ削られていくしかない。少しずつ、だ。
 同じ量がぶつかりあい、同じ量が消えていく。ただそれだけであって、その小さな結果を積み重ねた最終的な結果もまたはっきりと――
 いつの間にかフェイトの横に回り込んできていた触手が魔力弾を叩き込まれて吹き飛ぶと、耳のすぐ側でアルフの声が響いた。何を言っているのかよく聞こえないが、アルフはやはり頼れる――と思っていたがどうやら何かが違うらしい。妙に切羽詰った声と腕を掴まれる感触に、フェイトはようやくアルフの声に意識を向けた。

 

「――フェイト!!」

 

 途端、詰め物が取れたかのようにびりびりと鼓膜が震えるのを自覚する。それだけの声量だったにしてはさっきまでほとんど聞こえていなかったのが不思議だが、とりあえずアルフがそこまで必死なら話を聞かなければならない。
 魔力を消費し尽くした順にスフィア達が散り消えていくのを横目に見ながら、フェイトは構えを解かずにアルフに聞き返した。

 

「何? アルフ。早くアレを消さないと――」

 

 黒いモノが態勢を整えるのはフェイトの予想よりも遥かに速かった。弾幕が緩んだ途端、
眼下で一斉に赤い魔法陣が咲き始める。失策を後悔する暇もなく、路面を埋める黒いモノのあちこちで、ギリギリと絞り上げるような音を立ててエネルギー弾が生成され始めた。
 その生成速度とフェイトの全力に匹敵する砲門数を前にして、真っ向からの防御などする気になるわけがない。

 

「――下がって!」
「どぉあったぁ!?」

 

 先程までのフェイトの攻撃をそっくりコピーでもされたかのように撃ちまくられるエネルギー弾のスプレーに、アルフとフェイトは慌てて後退した。面どころか空間をまるごと制圧する弾幕は複雑な機動を描いて飛び回る二人を追いまわし、街灯や街路樹、さらにビルまでも削り取っていく。

 

「アルフはそっち、私がひきつけるから――今!」

 

 フェイトの指示からまったく遅れず、空を蹴ってアルフが右手方向、黒いモノから離れる方向に流れていく。力を抜いて半ば落下するように飛ぶアルフと対照的にフェイトは派手に動いて見せた。
 視界なのか別の何かはわからないがとりあえず囮行動は成功したらしい。対空砲火の大半はフェイトへと振り向けられた。ビルの壁面に沿って飛び上がるフェイトに弾の軌道が追いすがり、砕かれたガラスや粉々になったコンクリートが舞い散って――急激に旋回したフェイトを追い切れずにそのままビルの壁面を砕いて終わる。派手に飛び回りつつも距離を詰め、攻撃の大半を自分にひきつけ続けながらフェイトはちらりと視線を横向けた。
 黒いモノは目立った動きも見せず、漫然とエネルギー弾の射出を繰り返す。攻撃の密度も速度も圧倒的なのに、その攻撃がやけにパターンにはまっているのが不思議だった。無論、
そちらのほうがありがたいことではあるのだが。

 

<街路樹側、ちょっと大きいけどバインドで絞れる?>
<いや、フェイトあんた、あー……わかったよ! わかったって!>

 

 何かを言いかけたアルフのやけっぱち気味な『声』が響き、フェイトはタイミングを取るために身体を黒いモノに正対させた。飛び回りながらも意識を振り分け、少しずつ魔力をバルディッシュの先端に集めていく。薄く光を放ち始めた魔力の塊がばぢ、と音を立てた。

 

<1,2ぃ……3っ!!>

 

 『声』と同時に黒いモノの周囲に光粒が集まりだし、瞬く間に光粒は黒いモノの端を絞り上げるような、直径20mはある光輪の形をとった。

 

「どぉっせぇぇぇいぃ!!」

 

 ビルの上からアルフの叫び声というか絶叫――『声』ではなく――が響いた。
 フェイトの背中側、フェイトを挟んで黒いモノの反対側に位置するビルの屋上に立ったアルフが、眼光だけで殺すと言わんばかりの表情で掌を振り上げ、次の瞬間にはその手を振り下ろしながら思い切り拳へと握りこむ。
 その気合をそのまま取り込んだように光輪がすぼまり、黒いモノの端近くに急激に食い込み絞り上げ、そして。

 

「ぃぃぃよいしょぉ!」

 

 床に落ちたグリスの塊をヘラですくい上げるように、ぶづんと粘着質の音と共に黒いモノが引きちぎられた。しぶといことに2,3m程の小塊に切り離されても機能は失われないらしく、くびられて路面に落ちてもまだ本体へ戻ろうとうごめき始めるが――それをさせない為にフェイトがいる。

 

「撃ちぬけ!」

 

[Thunder Smasher]

 

 今日2度目の射撃が小塊を貫き、輝く魔力を撃ち込まれた泥がごっそりと抉られた。目に見えて動きの鈍った小塊へ、もう一度右手に握ったバルディッシュの先端を向けて。
 唐突に、きつく握りこんでいたはずの手の中でずるりとバルディッシュの柄が滑りだした。

 

「っ――」

 

 慌ててバルディッシュを左手で掴みなおした次の瞬間に、左手に回した分の力が足りなくなったかのように重い疲労感とめまいが頭にのしかかった。最初に平衡感覚が吹き飛び、続いて身体の感覚が遥か遠くへ連れ去られる。
 自分がどこにいるのか、どんな姿勢になっているのかもわからなくなり、フェイトはノイズの入った視界で必死に『基準』を認識しようと目を凝らした。かろうじて情報が入ってくるのが視界であった故の本能的な行動だった。
 ざらついた細長い黒が、古い映像のように途切れ途切れになった視界の中で徐々に面積を増してくる。フェイトを取り込んだ時と同じ、液体が伸びた触手だ。それをかわす術は今のフェイトにはない。
 ならばせめて魔法を、と思ってもそれも無理な話だ。ぐるぐると回る意識と存在するかも定かでない身体感覚の中では精密な魔力回路など構成しようもない。無意識のうちに魔力を電気質のエネルギーに変換できてしまうフェイトの場合、なおさら制御は難しかった。
 それでもただ食われるわけにはいかない。電撃がアレに効果があるのかはわからないが、
せめて。
 そう思って身体の芯から魔力を搾り出そうとした時、ばちんとスイッチを入れられたように視界が元の状態を取り戻した。滲んだ形が戻り、色が戻り、ノイズが晴れる。視界の周囲にあるものから順に脳が処理を行い、それが何であるかがフェイトの意識に認識されていった。
 触手。こちらに向かって伸びてきている。思ったよりずっと長く伸びるらしい。
 モノクロの世界。立ち並ぶビルの窓には明かりも人影も映っていない。相変わらず黒いモノの結界の中なのだから当たり前か。
 アルフ。触手に拳を叩きつけ、フェイトの前に滑り込むように飛んできていた。相変わらず左腕は力なく下がったままだが。

 

「――アルフ? っ!!」

 

 身体の感覚が戻った、と自覚する暇もない。殴り飛ばされた触手が形を取り戻す前に、フェイトとアルフは弾かれるようにその場から飛び退った。
 バリアジャケットの上にフィールドを重ねて空気抵抗を減らす余裕もない。加速に見合っただけの重みで全身に絡みつく風の唸りがやんだ頃、フェイトはアルフに続いて黒いモノから二百メートルは離れたビルの屋上に着地した。
 足で立った途端に抜けそうになる膝を苦労して支えなおし、フェイトはどうにか平然とした風を装った。表情を平静に保つのは慣れている。慣れている、はずだ。

 

「ふぅ……ありがとう、アルフ」
「フェイト! ジュエルシードなんかもういいからさぁ!」
「ジュエ――?」

 

 聞き覚えがある割に意味を思い出せない単語。なんだったろうか、としばし首を傾げ、フェイト達を探しているのか右往左往している黒いモノの触手を見下ろしてようやく思い出した。

 

「そんなもの!――」

 

 どうでもいい、と言おうとして、ふとフェイトは酔いから覚めるように認識を取り戻した。同時に自分の言い掛けていた内容に戦慄する。

 

「――……」
「フェイトってば! ……本当に、ヤバいんじゃないのかい?」

 

 自分は『フェイト・テスタロッサ』で無ければならないというのに、何故それを忘れていたのかという後悔で背筋が寒くなった。
 喉までせりあがってくる嫌悪感を口元に手を当てることでやりすごし、フェイトは誰に対してかも何に対してかもわからないままにごめん、と呟いた。
 アルフは何も言わない。困惑した顔のまま、所在なさげにフェイトをただ見ている。
 フェイトは何も言えない。何を言えばいいかわからない。
 耐え難い空気のまま数秒が過ぎた時、ずしんと腹に響く振動が起きた。

 

「何だい、何が……」
「アルフ、下!」

 

 アルフが周囲を見回している間に、フェイトは屋上の縁から身を乗り出していた。二人を見失っていた黒いモノがどうやってか二人を見つけたらしく、ビルの1階部分にまとわりついている。
 大きく広がった黒いモノは局地的な洪水のようにビルを丸ごと取り囲み、ゆっくりと形を変え始めた。同心円状の波紋がじわじわと歪み、やがて全てが統一された方向に動き出す。

「渦、だよねアレ。何して――お、おぉ?」

 

 渦をまく黒いモノに絡みつかれ、メキメキとビルの建材が軋みを上げ始めた。見た目にはゆっくりとした運動でも、膨大な量の流体が揃って動くエネルギーは相当なものになる。その総和は、硬度では比べようもないコンクリートや鋼鉄すらも捻り砕いてしまうほどだ。
 見ていると吸い込まれそうになる黒い渦から視線を外し、フェイトはなんとなく自分の掌を見た。

 

――震えてる。

 

 恐怖を覚えるのは初めてではない。初めてではないはずなのに、今のフェイトの身体はこの恐怖を知らない、と喚きたてていた。それこそ理性で押さえつけなければ、今すぐにバルディッシュを放り出し、頭を抱えてうずくまってしまいたいほどに。
 しかしそれは、許されない。ただのフェイトなら許されたかも知れないが、フェイト・テスタロッサには許されない。

 

「のわっ!」

 

 がくん、とビルそのものが傾き、フェイトは無言で、アルフは慌てて空中に逃れた。

 

「……最後、かな。アルフ、フォローだけお願い」
「え」

 

 アルフの返答は聞かない。そもそも聞く余裕がなかった。
 角砂糖がコーヒーに沈むように少しずつ高さを減らしていくビルを油断なく観察しながら、フェイトは真下に向けてバルディッシュを構えた。バルディッシュの柄がいつもより滑りやすい気がして仕方ない。
 そんな状態でも疲労は――問題ない。少なくとも、身体を浮遊させ続けた上であと一撃を入れるくらいは。
 魔法陣を力場として、身体を固定。先程までと同じようにバルディッシュを構え、空になりそうな身体の奥から更に魔力をかき集める。

 

――鋭く。鋭く、鋭く。

 

 小さな光球がバルディッシュの先端に灯り、ドリルのように回転を始めた。術式自体は何の変哲もない、魔力を射出するだけの砲撃魔法のままだ。しかし通常の直射型魔法――フェイトならばサンダースマッシャー――ならば注ぎ込まれる魔力の量に従って増すはずの光球の直径はさほど大きくならず、代わりに魔力光がどんどんその密度を増していく。
 単純な破壊力ではアレを丸ごと吹き飛ばすくらいでないと意味がない。そしてアルフはもとより今のフェイトでは、いや、万全の状態であったところでそんな破壊力を生み出すことは不可能だ。

 

――もしかしたら、『母さん』なら――

 

「…………」

 

 頭に浮かびかけた益体もない望みを振って散らし、バルディッシュを両手でしっかりと構え直した。ビルの構造材が限界近くなったのだろう。屋上まで割れ目が走り、傾きはいよいよ危険な領域に迫ってきていた。
 鋭く、とにかく鋭く研ぎ澄ます。『そこ』まで貫くことができるように。
 自分のやらなければいけないこと。ジュエルシードの捕獲。
 ジュエルシードの場所。黒いモノの中。物理的な意味で、だ。
 特徴に気づかなければまったく見分けがつかないが、気づいてみれば割と簡単にわかる。黒いモノの中に、不自然に動かない部分があった。その部分だけが発する妙な魔力の波打ち方から考えて、恐らくそここそがジュエルシードを取り込んでいる――そして内側に取り込みきれていない――場所なのだろう。
 抑えきれなくなりそうな魔力球の圧力に歯を食いしばって耐え、更に魔力を注いで密度を高める。
 これを外したら、どうなるのだろうか。体力も魔力も正真正銘残り全てを使う以上、撃った後すぐ、自分は気絶するだろう。反撃に抵抗することなどできようはずもない。そうなれば。
 アルフは――死ぬまで自分を守って戦うだろう。逃げてくれれば嬉しいが、それは流石に望めそうにない。
 その後、自分は――わからない。あの黒いモノの中に取り込まれて、そのまま消化でもされるかも知れない。
 そしてそのまま――

 

「――っ」

 

 怖い。どうしようもなく怖い。
 今横で緊張した顔をしているアルフが死ぬのが怖い。自分が死ぬのが怖い。
 何もなくなるのが怖い。ジュエルシードが手に入らないのが怖い。『母さん』の役に立てないのが怖い。『母さん』に迷惑をかけるのが怖い。自分の中に何もないのが怖い。こんなに怖くて、痛くて、辛いのに――あんなものがあるから。あんなものを見せるから。

「あ――」

 

 全ての恐怖を眼前の黒いモノに結びつけ、フェイトは獣のように吼えた。

 

「あ゛あ゛ぁああああああっ!!」

 

 一閃。魔力球への外圧を解いた瞬間、細く細く絞り込まれた光が黒いモノへと突き立った。弾き飛ばされた空気の残響だけがビルに跳ね返り、遠い音と共にバルディッシュの先端から魔力の残滓が薄く流れていった。

 

「…………」

 

 そのまま、数秒。フェイトもアルフも、そして黒いモノも動きを止めたまま、時間だけがゆっくりと過ぎていった。
 唐突にのたうつ泥の中心がぼこりと膨らみ、そこから青白い光が漏れ始める。限界まで膨らんだ泡が弾け、ぶちぶちと赤い拘束帯を引きちぎりながら内包されていたもの、ジュエルシードが姿を現した。
 黒いモノとジュエルシードは互いに干渉しているのか、光が赤く染まったり泥のようだった黒いモノが結晶状になったりと目まぐるしく変化を繰り返している。

 

――徹った?

 

 ちらりと可能性を考えた瞬間、ぷつりと糸が切れたように全身から力が抜けていく。
 今度は、抗う余裕もない。体力も魔力も根こそぎどころかマイナスへ突き抜けているような状態だ。
 それでも。
 魔法の制御も身体の制御も意識すらも全て手放して落下を始めながらも、フェイトは『やらなければならないこと』だけを考え、口にしていた。

 

「アルフ……ジュエル、シー、ド――」
「っ、ああ、ええい……ちっくしょ!!」

 

 フェイトがかすれて暗くなっていく視界の中で捉えたのは、言葉に反してこちらに向かって飛んでくるアルフと莫大な光を放出して弾ける黒いモノの姿だった。

 

 次元管理局に所属するいくつかの独立艦隊――単艦でも『艦隊』だ、言葉は奇妙だが区分としてはそれでいい――の一つ、L級八番艦アースラ。最新型とはいかないがまだ新しいほうの船である。数十年クラスの旧式艦と比べれば、その設備や装備の規模、特に居住環境には雲泥の差があった。
 とはいえ、まだまだ個室とまではいかない一般乗務員用の部屋と比べれば、艦長室の環境はやはり相当良好なものだった……はずだ。過去形なのは比喩というわけではない。今現在、艦長室は快適というよりも珍妙な空間と化していたからだ。
 緑色の植物を編んだモノでできた床。その上に敷いてある謎の薄いカーペット。
 木を組み合わせて作られた、段になった細いテーブルには小さな木の鉢植えが並んでいる。
 トドメに何故か水の流れている、デザインの意図がよくわからない管状のオブジェ。
 知らないうちにそんな異常空間と化していた艦長室の中、リンディに呼び出されたクロノとユーノは赤いカーペットの上に膝を折り曲げて座っていた。全体重が膝から下にかかる慣れない座り方は、少々居心地が悪い。
 そして服装だけはいつも通り、艦長服を着ているリンディは、艦橋からのコールを受けている最中だった。航行で問題が発生したらしい。

 

「はい、ええ……次元断層ですか。はい――これですね? 規模は?」

 

 言いながら空間ウィンドウを撫でる指。深緑の瞳はそれより早くデータを撫で、それに伴う艦長としての判断の経路を示すように忙しなく動き回っている。
 リンディの正面に表示されているものの隣、向かって右側には映像通信用のディスプレイが開いていた。その中心にはつぶらな瞳と尖ったクチバシ、黒と白の羽毛が印象的な通信相手の航法管制官が大写しになっている。
 ラヌア・レ・ゴバ・ゴアナ航法管制官。クロノ自身も何度か『会話』したことがある。鳥類に似た小柄な身体を持つ器用な種族で、何故直立二足歩行をするようになったのかわからなくなりそうな短い脚や氷の上を腹ばいで滑るのに丁度よさそうなでっぷりとした胴体、更に鳥に似てはいても飛ぶのに適さないヒレ状の羽など、ユーモラスな外見からは想像もつかない技術への適応性を見せる。彼は特に計算能力に秀でていたために航法管制官の道を選んだらしい。
 彼らは音声言語を持たない代わりに頭上に浮かぶ文字や模様で意思を表示する。勿論念話も可能で、声がないからと言って特に不自由はしていないようだった。少々背が低すぎるせいで不便なことはあるようだが、これは意思疎通とはまた別の肉体的問題になる。
 管理局内には多くはないながらもそういった『非人間型』の局員も存在し、それぞれの場所で技能を発揮している。特にそれなりの人口――正直に言ってしまえば脅威となりえる戦力――を持った民族出身者などの場合に政治色の強い人事が発動されることはあるものの、人員配置の政治的理由などというものは少々の例外を除けば現場の人間には関係のないことだった。
 何より問題を起こさずに仕事が出来る存在ならば、一緒に働いている人間としてはそれでいいのだ。
 ただその少々の例外、昔は管理局の方針に反対していた種族からや、絶滅寸前の民族の出身者の扱いといった問題が中々根深かったりするのが難しいところではあるのだが。

 

「ここで……ふむ。こちらのルートでは?」
『先のルートと比較して浮遊物の分布が多いこと・航路自体の安定流域から離れていることを理由に、推奨できません』

 

 声という手段がないせいか、彼らは非常にジェスチャーが大きい。バタバタと首だけでなく手羽を振り回してまで否定の仕草を示すゴアナ航法管制官の姿は、言ってしまっては悪いがかなり和むものがある。
 高い位置にある書類に手が届かず跳ね回っていた小さな後ろ姿をクロノが思い出している間にも、航行中の規定にのっとり、個人ごとの念話を使わず船の機能を使って続けられていた会話は一区切りついたようだった。

 

「わかりました、ゴアナ管制官。あなたの案を採用します。対応した艦内シフトの修正案を立てるまでは現在のシフトを継続してください」
『了解』

 

 頭上の黄色く輝く文字と羽先から長く伸びた指の爪を振る管制官の姿を最後に通信ウィンドウが閉じると、リンディはさてととため息をついた。
 機械か何かの具合を確かめるように顔のあちこちを引っ張ったり撫でたりした後、おもむろに先程と同じ真剣な表情を作ってみせる。つられて背筋を伸ばしたクロノに対し、ユーノは変わらず気の抜けた具合だった。

 

「それで、あちらでよく流通しているお茶を淹れてみたの。私はもう試したんだけど……折角だから二人にも試してもらおうと思って」
「……茶、ですか」

 

 知っている単語に少々安心する。眠気に頭が鈍ったときなどは、泥のように濃く淹れた黒茶は確かに効果的なのを知っていた。ごと、と火から外して置かれた鉄製の容器がドリップ用の器具なのだろうか。今も湯気を立てているのだから恐らくそうなのだろうが。

 

「向こうでは何種類かお茶があって、黒茶に似たのも勿論あるのよ? でもこれは、植物の葉を使って、それも熱処理だけして淹れるらしくて……ふふ。ちょっと違うの。この器も湯のみって言って専用品なんだから」

 

 ほら、とリンディが自分の前の器――ユノミと言ったか――に少しだけ注いで見せた茶
を覗き込んで、クロノは目が点になった。
 それは、クロノの持つ『茶』のイメージとはまったく重ならない外見をしていたからだ。
人口着色料を使った飲み物や野菜、果物の類ならともかく、こんな色の『茶』は見たことがない。

 

――鮮やかな緑色……だと……!?

 

「へぇ、緑色なんだ。透き通ってて綺麗ですね」

 

 平然とのたまうユーノを信じられない気持ちで見ながら、クロノは耳の上あたりに汗がにじみ出し始めたのを自覚していた。
 リンディもユーノの言葉に珍しいでしょう、などと頷きながら、楽しげに3つの湯呑みに順に茶を注いでいく。濃さを均一にするためなのだろう。香りはさほど強くなく、透き通った茶の底にこまかくなった葉が沈んでいるのが見えた。

 

「よし、と。後はちょっと渋みが強いから、これを――」
「!?」

 

 言いながらリンディが取り出した物体を見て、クロノは目を剥いた。いや、リンディが黒茶を飲むときの習慣からして想像はついていたが、未知の物体と理解の外の習慣の組み合わせの恐ろしさに戦慄した。
 一瞬の躊躇すらなく、湯のみの一つに砂糖と生クリームがどばどばと注がれていく。茶が完全に見えなくなり、ようやくリンディは満足したのか二つの器の蓋を手元から押しずらした。
 大量の固形物を叩き込まれた湯のみは白と緑が微妙に混ざり合った色合いのクリームが最上層を獲得し、液体の運動につられてかゆっくりと自転している。風車のように回る白と緑のストライプは、クロノがめまいを起こしそうなほどお茶には不似合いな色合いをしていた。

 

「こうすると甘みが増していい感じなのよ。どう? 二人も――」
「あ、僕お茶は砂糖とか入れないのが好きなんです。最初は基本で味わってみたいですし、すみません」

 

 二人も、とリンディの声が響いた瞬間、ユーノは不自然なほど朗らかな声で嘘を挟み込んだ。資料分析で缶詰になっていたとき、黒茶に結構多めに砂糖を入れていたのをクロノは知っている。そうやって回避するのか、と感心しかけた時、ふとクロノは気づいた。

 

「あら、そう? 残念……」

 

 悪意のない、しかしとても残念そうな――そう、楽しみを共有できないことを残念がる、純粋な視線がこちらに向いていることに。そしてその瞳の奥に、わずかな期待の光が瞬いていることに。
 そして、彼女の『お利巧な息子』たるクロノはその期待を裏切る厳しさを持たない。いや、持てない。仕事でも義務でもなんでもない家族の純粋な期待を裏切るには、クロノはそれ相応の理由が必要なタイプだった。ましてそれが唯一の――残された唯一の――家族となれば、尚更だ。

 

「う、あぁ。うん」

 

 しかし、それとこれとは別問題だ。というよりも、得体の知れないものを飲まされること自体は別にいい。味覚の問題だ。化学反応を起こしているのでもない限りはまあ、付き合ってもいいと思っている。
 問題なのは『一人で』飲むことになりそうだ、という部分だ。具体的にはユーノが回避するのが気に入らない。道理も何もない。そうそう事がうまく運ぶわけもないということを、この隣で余裕の表情、自分はもう安全だというツラをしているクソガキに教育してやらねばならない。
 未だかつてないほどクロノの脳は高速で回転をはじめ、そしてわずか2秒後には戦略的勝利への道筋を見出していた。

 

「ほら、頭脳労働は糖分を消費するだろう? この前魔法まで組んでもらったりして疲れる仕事ばかりだろうし、やっぱりユー……彼にも飲ませてあげたらいいんじゃないかな、母さん」
「んな!?」
「あら、そういえばそうね……よし。じゃあユーノ君、たまには甘いものも必要だと思ってどうぞ」

 

 目を剥いたユーノが何も言えないでいるうちに、いやむしろ何も言わないことが前提にされているような勢いであっという間に砂糖とクリームが追加され、ユーノの前にあったお茶を基にしてお茶のようなモノが完成する。
 開きかけていた口を呆然と閉じて数秒後、クリーム面から視線を外したユーノはきっとクロノの方へ横目を向けてきた。
 何をしようとも何を言おうとも、もう遅い。リンディ謹製のお茶は『既に存在してしまった』のだ。それを覆すことなど、誰にもできはしない。

 

――僕も道連れか!?
――そうそう毎度出し抜けると思うなよ?

 

 ユーノの視線に念話でなく目線で答えてニヤリと笑うと、クロノは暖かなクリームで一杯になった湯のみに口を付けて一気に傾ける。
 液体だか泡だかわからない感触ととても言葉で表現仕切れない味わいは、まるで息子には理解しづらい母親の愛のようだった。

 

――制御行動、成功。対象物内包エネルギー完全解放の阻止を確認。対象物の自己構成、および移動を確認。プローブによる追跡を行う。外部処理停止、損害確認開始。
――自己診断ルーチン開始。構成要素としていた圧縮変性魔力の2割を消失、被害大。回収対象の追跡を続行するために、緊急手段1の行使を提案……反対意見1。手段の身体的強度の考慮――反対意見の要素は生体加工によって対処可能。よって反対意見を却下、提案を許可。リモートモジュールを再起動、中継プローブ選定……経路確立完了。該当生体の掌握行動を開始。

 

「どうしてなんだろ」

 

 膝を抱えていた手を伸ばして、ぶつり、とまた一つ花を千切る。病室で眠りについたなのはは、いつも通り『ここ』で眼を覚ました。自分以外に誰もいない、花以外に何もない、ただ風が静かに吹く小さな花畑。
 その風に手の中の花弁を流すと、風に絡まるスカートを手で抑える。今のなのはは病室で着ていたパジャマではなく、白いノースリーブのワンピース姿だった。
 なのはは座ったままため息をついて上を向く。見上げた先、遥か頭上に広がる空間には闇以外に何もない。花畑以外には何も無いのだから、下を見下ろしても似たようなものだ。狭い円形の花畑を外れれば地面すらない。
 狭い狭い、なのはだけの箱庭。いつからか、なのはは本当の意味でなのはしかいないこの場所でこそ安心してしまうようになっていた。
 それがいいことではないのは知っている。だが怖い。怖いから、怖いものがいない場所を見つけて安心してしまう。
 安心してはいけない。けれど人の本能として安心を求める。恐怖から遠ざかれる手段を求める。人格も完成しきっていないなのはには意志で抗おうとしても、抗いきれるものでもなかった。

 

――いいの?

 

 静かな『声』が響き、なのはは目を見開いた。誰もいないはずの場所に響いた『自分以外の自分』の『声』に、慌てて周囲を見回す。
 そんななのはの慌てぶりを他所に、真正面の闇から滲み出すように小さな人影が現れた。
暖色のシャツとミニスカートを身に着けた背格好はなのはとよく似て――むしろなのはそのものの姿をしている。
 両手をだらりと下げて闇の中に立ち、人形か何かのように生気の薄い『なのは』は、ガラス球のような瞳でなのはをじっと見下ろした。
 その瞳には感情がまったく見えず、代わりにただ一色の純粋な叱責があった。
 ここにいてはいけないのに、と。

 

――ワタシは、ここでこんなことをしようと思っていたんじゃないのに。

 

「……っ」

 

 その一言でこみ上げた吐き気をどうにか飲み込み、なのはは意識して眼に力を入れた。そんなことはわかっている。わかっていてもどうにもならないのに。どうにかしようとしているのに。

 

「っ、そんなのわかって――」

 

――あ、わかってるんだ? それなら、それでいいじゃない。

 

 言いかけたなのはの頭にまた別の『声』が響く。自分そっくりな声質で、けれど自分とも人形のような『自分』とも違う響きの篭った明るい『声』。
 こつん、と背後で靴音がいきなり響き、闇をかすかに揺らした。

 

――魔法があるワタシが必要で、魔法のないワタシじゃない。ここでこうしてるワタシが必要なんじゃなくて、ちゃんとみんなのために戦うって決めたワタシが必要なの……どっちも『あなた』じゃなくて、『私達』が必要。わかってるんだよね、本当は?

 

 振り向いた先、他と変わらない闇の中で白いスカートがゆらゆらと揺れる。今の自分には望んでも手に入らない姿。学校の制服を基礎イメージとした白い衣――バリアジャケット。『魔法』の姿。

 

――ワタシはいい子じゃないといけないのに、今の『ワタシ』はこんなところでびくびくしてて……みんなに迷惑かけてばっかり。

 

 振り向いたなのはの背後――先程までの正面から、また静かな声が響く。一つは静かに、
もう一つは楽しげに。両極端な『自分』は花畑の外、決してなのはの手が届かない場所からなのはに言葉を突きつけ続ける。

 

――ほら、今だってそう。何もできないでしょ。

 

 自分が望むその姿を持つ自分そっくりのナニカはこちらに向けた背中で後ろ手を組み、楽しげに身体を揺らしていた。くる、と爪先を立てて回ると、スカートと前垂れが浮き上がって脛や膝が露になる。
 うつむき気味の目元は陰に隠れてわからないが、半端に振り返ったその口元は間違いなく笑みの形に歪んでいる。くる、ともう一度回転して正面へと向き直ったその自分が、楽しげに言葉をつないだ。

 

――ふふっ。なーんにもできない子は、いらない子なんだもんね?

 

 必要ない。そう告げられた瞬間、なのはの顔がこわばった。無意識に身構えるなのはにも構わずその『自分』は言葉をつなぎながらうつむいていた顔を上げる。

 

――大丈夫だよ。『私達』がちゃあんとワタシをやるから。

 

 半月のように裂けた笑いが見えたその瞬間、『自分』を突き破るようにして牙の生え揃った大きな顎が現れた。どす黒い赤色の巨大なトカゲというか、恐竜のようなサイズの尖った三角形の頭。
 自分の夢の中にある自分以外の夢。それが自分の眼前に迫り、顎が閉じあわされる様子を眺めながら、どこかで見たことのあるような形だな、とやけにのんきな感想がなのはの頭をよぎった。
 夢は夢だ。しかしただの夢ではない。『ここ』は夢だが夢だけではなく、よって今引き裂かれようとしている事実も夢の中の出来事というだけでは済まない。しかしそれでも、なのはは動く気になれなかった。動いても何も変わらない。牙も爪も何も持たないなのはが喚こうが叩こうが逃げようが『結果』は同じだし、時間にしたところで1秒と変わらない。

 

――『私』が言ってた通り、これでもいいのかな。

 

「――あ」

 

 一瞬にしてなのはを捕らえ、噛みあわされた顎の間でめぎりと肋骨が軋む。胴体の左右から押し込まれる尖った牙の先端は柔らかい皮膚と布地を容易に変形させ、圧力によって変形は裂け目へと変わっていく。痛い痛い痛い痛い痛い痛駄目やだ――ずがん。

 

「!?」

 

 受け入れようとしていた心理も痛みから逃れようとした本能も身体の軋みも、降ってきて弾けた衝撃が全てまとめて跳ね飛ばした。バケモノの顎の圧力が緩み、持ち上げられかけていたなのはは放り出されて花畑に落ちる。

 

「ったぁ……――!!」

 

 尻餅をついて目を開いた視界を塞ぐのは赤色の壁。塗装とは違う、それそのものが発色しているのだとわかる深い金属色。落下の際に巻き上げられた花や土が、放物線の頂点から滑り落ちはじめている。
 念を入れるように水平に回転した赤色の金属壁が、今はただの肉片と化したバケモノを更にすりつぶした。つながっている部分にひきずられて転がるバケモノの首からは得体の知れない何かの液体が漏れ出し、無残に散らされた花たちが放つ光をどす黒く染めている。
 今更ながらに寒気が起きた。あのままでいたなら、自分もああなっていたのだ。身体に影響があるかはわからないが少なくとも、自分の『中身』は。
 両手で自分自身を抱きしめながら首を傾け、降ってきたモノに沿って視線を上げる。
 赤色の上には直線的な形をした白い部分があり、そこから細長く立ち上がった白は更に幅広の赤へとつながり、その上に青い部分が来る。一番上の白い部分にある赤い二つの光がなのはを見下ろし、ぼうと光っていた。
 それが何であるかもわからないうちに、なのはの背後で再び甲高い咆哮が轟いた。振り向いた先の闇から滲み出すように、先程と同じ翼を持ったトカゲのようなバケモノが牙をむき出して迫ってくる。滑るような低空飛行の軌道は真正面からなのはを捉えていたが、しかし。

 

「わっ!?」

 

 唐突に上から降ってきた赤く光る壁に胴体を叩き落され、刺し貫かれた。ぞぶり、と生生しい音を立てて壁が引き抜かれ、断末魔の悲鳴を漏らすバケモノをもう一度地面ごと刺し殺す。
 細く長く、赤い光と空気の歪みを纏った金属製の壁を見上げてなのはは目をこらした。視線の先にある『柄』やそれを握る『手』――これは壁などではない。人間が持つものをそのまま巨大化させたような剣、いや刀だ。
 なのはの前で2度突き立てられた巨刀がまた引き抜かれ、次の瞬間には突風と残光だけを残して消え去った。目にも留まらぬ速度で刀が振るわれ、頭上で赤い軌跡が伸びるたびに『何か』が弾けて吹き飛んでいく。ぼたぼたとあちこちに落ちているのは――恐らくバケモノの欠片だ。その量の割に不思議となのはの周囲には落ちてこないのは――刀の持ち主が『そのように斬っている』からなのだろうか。
 また数度刀が振るわれて風切音が途切れた、暫く後。周囲に静寂が戻ってきた頃になって、なのははようやく目の前にそびえる『これ』が巨大なヒトガタだということに気づいた。
 あまりにも巨大で、あまりにも近かった故にそれがわからなかったのだが、形を認識することでようやく全体像が見えてくる。なのはの左右に置かれているのは足、そして正面遥か頭上にあるのが胴体。なのはの背後から飛んで来るバケモノを、ヒトガタが撃墜し続けていた状態だ。
 なのはがそのことを認識するのを待っていたかのようにヒトガタはゆっくりと開いていた両足を踏みなおした。ずしん、と重々しい足音を響かせて身体を起こし、右手に握った刀を血払いするように振り払う。かすかな振動音を立てて、赤い光をまとった刃が闇の中に幅広な残影を滲ませた。

 

「これ、って――」

 

 昔士郎に連れられて見に行った、『御岩』と呼ばれる巨大な一枚岩を前にした時のような感覚がなのはの脊椎を駆け上がった。あまりにも目の前の存在が『強すぎて』、ふとした瞬間に自分の存在が消えてしまいそうな不安感。そして同時に、これにすがっていればいい、という根拠のない依頼心。恐れと頼りの二つのココロが胸の中で交じり合い、それらはやがて羨望の形になっていった。
 これと同じような大きさがあれば。
 これと同じような刃があれば。
 これと同じような鋼で出来た身体があれば。
 これと同じような、ゆるぎない存在であれば。

 

「そうだったら、私も……?」

 

 呟いたなのはは、小さな振動音に気づいて足元を見た。間違いなく揺れている――発生源を探して視線を走らせるうちにも、揺れはどんどんと大きくなってくる。しばらくして気づいた。どこから揺れているというわけでも、どこが揺れているというわけでもない。あえて言うなら揺れているのは『この空間全て』だ。
 どうしたらいいかわからなくなって、ヒトガタにすがるように顔を上げる。
 ヒトガタは無言のまま足音を響かせてなのはへ向き直ると、先程までとは打って変わって静かに、ゆっくりと跪いた。ますます大きくなる振動にも構わず――むしろ振動が起きているからなのかもしれないが――黒光りする左掌をなのはへと差し伸べる。
 困惑するなのはは答えを探すように視線を巡らせ、そして驚いた。闇の中に浮かんでいる光を放つ場所、つまり今自分とヒトガタがいる花畑が徐々に暗く、毒々しい光沢を持つ黒色へと変質してきているのだ。周囲の闇に食われるように暗くなった花畑はどろりとその形を失い、どことも知れない闇の底へと消えていく。見上げてみれば、闇しかないと思っていた天上も同じように『変質』している様子が見て取れた。
 ぼろぼろと泥が水を含んだように崩れ落ちて――いや、腐れ落ちていく空間。静かな闇と柔らかな光が爛れ膿みどろりと垂れ落ちた後には、まるで乾ききった死体のような無味乾燥な石塔が現れては闇を突き抜け、その果て無き天蓋へと突き立っていく。なのはのものだった場所が、違うものになっていくのだ。

 

「…………」

 

 『蝕まれる』事によって徐々に輝きを、そして面積を失いつつある花畑の中央で、なのはは無言で『彼』を見上げていた。
 鋭角的な造形をもつ、鎧のような姿。その背中に広がるくすんだ赤色の翼。血のように赤い眼とそこから流れる血涙のような赤い紋様。
 右手に携えた巨大な刀に、そればかりか全身にこびりついた返り血のようなさび付いた色の染みは、まるで西洋の物語に登場する魔界の悪鬼のようだ。人で言う眉の部分に突き出たひさしによって目元には影が落ちており、その中で濁った血色に光る瞳、トゲのように尖った指一本がなのはの身長よりも大きいという巨大さ、今しがた見せた暴力的とすら言える破壊力。どれもがなのはの恐怖を誘うには十二分であり――しかし、なのはだけには一切危害を加えようとはしていなかった。それどころか飛び散る返り血からすらも守ろうとしていたのだ。他でもない、あれだけ苛烈に容赦も躊躇もなく死を振りまいたこの巨人が、だ。
 無論、なのはに恐怖を感じさせない理由はそれだけではない。なのははこの姿を、いや、
正確にはこの姿に似たものを知っていた。一つから分岐した姿であり、そしていくつもの存在でもあったもの。それは。

 

「レイジ……ううん。シン君、だよね?」

 

 鋼の巨人は答えない。小さな姫君にかしずき左掌を差し伸べたまま、『時』を待つように動きを止めている。それ以外に自分ができることはない、とでも言うように。全てをなのはに任せる、とでも言うように。

 

「私に?」

 

 藍色の瞳はまっすぐに向けられた眼差しを受け止められずに視線を落とし、鋼の掌を見つめる。小さな傷が無数に刻まれている黒鉄の上でふらつき、揺れる視線はまぶたに遮られた。
 目を閉じたまま、数秒。なのはの口から発されたのは、消え入りそうなほど小さな声の不安げな問いだった。

 

「いいの、かな。私が……私なんかが。ねえ――いいの?」

 

 血色の瞳は答えない。跪いたままのヒトガタは何の答えも反応も示さないままだ。周囲の地面だけでなくその額にある尖った角の周囲で空間が虫食いのように歪み変質し、泥のようになって滴り落ちていく。空間すら変質し流れ落ちていくその場にあって、ヒトガタの装甲は何の影響も受けていなかった。
 そう、『彼』にはこの侵食は関係がない。なのはがずっとここに立ったままでいて、そのまま侵食に巻き込まれて腐り落ちて消えていっても『彼』はずっとこうしているのだろう。
 『彼』はそういうものであり、この場所はなのはの夢の中であってもなのはを必ずしも必要としない、『そういう』場所なのだ。
 その場に満ちるのは轟音と振動。この小さな世界が崩れていく、かろうじて繕われていた表面が引き剥がされ粉々になっていく兆候。
 ますます強まる振動の中、やがておずおずと伸ばされた細い腕が、鋼の指先にそっと触れた。