リジェネ・レジェッタは焦っていた。
いや、焦っていたというのは、適切な表現ではないかもしれない。
ここ最近の彼は何時も通り「落ち着いた」態度を崩さずに振る舞ってきたし、他者と接していても、また一人で居る時でも、不機嫌な素振りは一切表に出さなかった。
だから、「焦っていた」という言葉は、現在の彼には当てはまらない。
当てはまらないはず、なのだが……。
「……」
薄暗い廊下を、彼は今、歩いている。
側に並ぶ者はなく、唯一人である。
「……」
無言で、彼は足を進める。
明確な行き先があるわけではない。
彼と、彼の仲間たちが推し進めている計画は、今のところ順調である。
些細な問題はいくらかあったが、それは計算違いというものではなく、手順が前後した程度のものであり、障害としては微細で、何ら全体に影響はない。
「リボンズ……」
彼は足を止めると、ぽそりと、仲間の名前を呟いた。
この計画の、リーダーの名を。
そう、計画に支障はない。
ないが、だからこそ、彼は不満だった。
「リボンズめ」
リジェネ・レジェッタは焦っていたのではない。
「このままでは……」
戸惑っていたのだ。
自身が介入する余地が全くない、この現状に。
◆ ◆ ◆
世界的に有名なアイドルグループ、『イノベイター』。
リボンズ・アルマーク、リジェネ・レジェッタ、リヴァイヴ・リバイバル、ヒリング・ケア、ブリング・スタビティ、デヴァイン・ノヴァ。
この六名から成り、新曲を発表すれば一瞬で世界中からダウンロードされ、コンサートを開くと報告すれば、これまた一瞬で前売りチケットが完売になってしまう。
超が付く程に売れっ子の彼らが、活動を休止したのは、それ程前の話ではない。
表向きには、充電中という扱いにしている。
表向きというからには、無論、裏には裏の理由があるわけだが。
「このままでは、いけない」
彼らは、実は人間ではない。
正確には、人間であって、人間でない。
通常の人間を超えた身体能力、知的能力、そして同種間での特殊な「通信能力」を持ち、遺伝子操作とナノマシンによって、老化現象さえもコントロールされている。
男と女による生殖行為によって生みだされたわけではなく、つまりは、完全なる「人工生命体」である。
「何故だ……? リボンズのやり方は、明らかに彼の思惑が色濃く反映され過ぎている。なのに、何故躓かない?」
イノベイターと、彼らの部下達は、リーダーのリボンズ・アルマークの指揮の下、とある計画を進めている。
遥かな昔、一人の科学者が手掛け始めた、壮大な計画。
地球圏という、全宇宙からすればあまりに小さな揺り籠から、人類を解放するという……。
「どうにかして、この手に主導権を握らないと」
計画が達成されれば、リボンズ・アルマークはイノベイターのではなく、人類の、いや、地球圏に生きる全ての生物の「リーダー」と成りおおせるだろう。
計画の辿りついた先については、リジェネは、特に何らの不満は抱いてはいない。
彼もまたリボンズと同じイノベイター、目指す物もまた同じである。
それは別に構わないが、リジェネにとって、どうしても譲れない部分がある。
「計画成就は、リボンズによってではない。このリジェネ・レジェッタこそ……」
手柄争いでは、ない。
功名心でも、ない。
そんなものは、所詮他者と比較することによって集団の中での優位性を見出したい、というだけの卑小な欲に過ぎない。
リジェネが望んでいるのは、そのようなものを、さらに超えたところにある。
少なくとも、リジェネはそう思っている。
だからこそ、リボンズの主導で計画が進んでいることに、そこに自分が介入―――つまりは横槍―――を入れる隙を見出せない状況に、戸惑いを覚えるのだ。
リボンズはどうにも自分の趣味に走り過ぎる、計画を歪めかねない、という疑念もある。
「よう、眼鏡の大将じゃねえか」
「!?」
不意に背後からの声を受け、リジェネは振り返った。
そこには、一人の男が立っていた。
赤茶けた髪、日焼けした肌、服の上からでも鍛えられたのがわかる身体、そして、猛禽類を思わせる目つき。
「アリー・アル・サーシェス……君か」
「どうも」
立場的にはリジェネは、アリーの上に立つ。
だが、アリーは畏まるでもなく、また卑屈になるでもなく、飄々とした態度を決して崩さない。
それは、リジェネに対してだけというわけではなく、リボンズに対してもそうだし、他のイノベイターにもそうである。
「考えごとかい? 眼鏡の大将」
「……そういうわけではないけどね」
さん付けでもなく、様付けでもない。
かと言って呼び捨てでもない。
だからと言って、敬意を払ってないわけでもない。
そんな、微妙で曖昧な「大将」呼びを、リジェネはあまり好きではなかった。
最初の頃は止めるようにいちいち口頭で伝えていたのだが、どうしてもアリーが止めない為、今はもう放置している。
それに、アリー・アル・サーシェスがどういう人間であるか、それを考えれば、特に拘るべき問題でもない。
些細なこと、である。
「そうかい、ならいいけどよ」
「何か」
「ん?」
「君の眼から見て、何かおかしいように見えるのかい?」
リジェネはアリーに問い返した。
アリーが勘の鋭い男であるということは、熟知している。
が、だからと言って、胸の内を読まれてしまうようでは、計画の介入など出来はしないだろう。
「いやあ、そういうわけじゃあねえけどさ」
「なら……?」
「いや、ま、何つうか、こっちに来てからどうも、静かなもんで」
「静か?」
「眼鏡の大将、前はもちっとスマートに喋ってた覚えがあるんでな」
「え!」
「それに、こうして俺が声をかけるまで気づかなかったしよ」
「……!」
「俺、少し前からいたんだがな。いくら薄暗いと言っても、なあ」
リジェネは息を飲む寸前で、それを押しとどめた。
アリーが言わんとしていること、つまりは、「今のアンタにゃ余裕が感じられない」ということに他ならない。
自分自身では上手に隠しているつもりだったが、そうではなかったのか。
アリーがそう思っているということは、意思を交換出来るリボンズは、他のイノベイターは……。
「まあ、こうして文字通り地下に潜ってりゃあ、気も塞ぐってもんだな」
アリーは右の掌を、天井に向けて伸ばしてみせた。
その指先はまだハッキリ見えるが、さらに先になると、薄ぼんやりとしか視界に入らない。
「リボンズの大将はお仕事中ってことだが」
「……ああ、彼の合流はもう少し後になる」
「色々と仕事があって大変だね、リーダーってのは」
「そうだね」
「俺も傭兵の長やってるから、まあわかるんだけどな」
「……」
「とにかく、大将が早く来てくんねえと、あの金ピカ野郎とか、三つ子の馬鹿共が目障りでしょうがねえ」
「諍いは起こさないようにして欲しいね」
「そりゃ、向こうの問題だな。俺は何時だって喧嘩は売らねえ。買うだけさ」
「……」
下手な冗談だ、とリジェネは思った。
が、口には出さなかった。
「まあ何にせよ、気楽に行こうぜ? 眼鏡の大将」
「気楽に、ね」
「ああ、気楽にだ」
アリーは首を左右に振ると、コキリ、と両の肩を鳴らした。
「でねえと、他人が躓く前に、自分が躓いちまうからな」
「な……」
「何でも、焦ったら負けさ」
じゃ、とアリーは小さく右手を挙げると、鼻歌を口にしつつ、リジェネの前を通り、廊下の角の向こうへと消えていった。
「……」
リジェネは動かなかった。
否、動けなかった。
アリーの姿が見えなくなっても、彼の鼻歌が聞こえなくなっても。
「焦っては……いない」
絞り出すように、リジェネは呟いた。
「この、リジェネ・レジェッタは……」
じわりと、額に汗が滲むのを、リジェネは自覚した。
「……」
リジェネは再度、アリーがやってきた方向に視線を移した。
そこには、静謐と闇の細長い空間のみが、あった。
プリベンターとパトリック・コーラサワーの心の旅を他所に、リジェネの「焦り」は続く―――
【あとがき】
コンバンハ。
雨にも負けず風邪にも負けず、冬の寒さにもノロウイルスと年末進行にも負けず、シリアス展開はギャグへの味付け、そんな職人に私はなりたいサヨウナラ。
年内に何とかもう一回投下を目指して。