第一話 名も無き花咲く頃
バスが来るまで大分ある。
アーガイルさんと私は黙ったままバス停で立っていた。時折車が目の前を走って行くだけで、私達以外には誰もいなかった。
刺繍セットを持ってくれば良かった。始めたばかりでまだまだ下手だけれど、時間潰しにはなる。
朝顔の刺繍が蔦になってしまったりとハプニングだらけだけれど、少しずつ形になって行く様が楽しいのだ。
「――良かったら街に着いたら一緒に食事でもどうかな?」
化粧ポーチにどんな刺繍をしようかとあれこれ想像していたら、不意にアーガイルさんから声を掛けられた。
さも手慣れているかのような口調。こういう事になれているのだろう。
「すみません。遅くなると家族が心配しますので。そのお気持ちだけ受け取っておきますね」
また今度誘って下さいね、などと付け加えてアーガイルさんの誘いを丁重にお断りした。
アーガイルさんは察知したらしく、次の機会にでもと私から視線を外しつつ言った。
まだバスは来ない。私は再び刺繍の図案を思案し始めた。
ハートや星は子供っぽいから却下。大好きなすみれの花にしようか。
難しいけれど、上手く出来れば素敵かもと私は考えた。
――春すみれ咲き 春を告げる
古いオールディーズを口ずさむ。それは子供の頃に聞いた物だった。
そうこうしている内に私とアーガイルさんは眩いライトに照らされた。
港発慰霊碑経由市街地行きのバスは三分遅れでやって来た。
俺がオノゴロに着いた頃には既に日は落ちていた。
懐かしのオーブ。あの頃とは全てが同じままでは無かったけれど、それは俺も同じだ。
少しだけ大人になって、色々な経験をした。あの頃の俺に帰る事は出来ないのだ。
潮風が鼻をくすぐる。彼処では感じる事が出来なかった匂い。何となく嬉しくなってにやにやと笑ってしまった。
空には幾千もの星が瞬いている。星に導かれるように市街地行きのバス停に向かおうとしたその時だった。
「君は未成年ね。こんな時間にそんな大きな荷物を持って何処にいくの?」
妙齢の女性に声を掛けられた。腕には補導員の腕章がある。
「確かに俺は未成年です。ですが、俺は戦争から帰って来たんです。はい、身分証」
俺はIDカードを差し出す。補導員はIDカードを確認し納得したようで、俺に市街地行きのバスの出発が近い事を教えてくれた。
猛ダッシュしバス停に着いたその時に丁度バスが来た。
バスは慰霊碑を経由して市街地に向かう。時間帯のせいか乗客は俺一人だった。
ぼんやりと景色が流れて行くのを見つめていると、オーブを離れていた頃が夢の様に思えた。
二度とあのような経験はしないだろうし、してはいけない。
――それよりも。
考えなければならないのはこれからの事だ。
俺は彼処では不相応の好待遇を受けていたが、結局はまだまだ子供でしか無い。
今までの貯金を切り崩したりバイトしながらカレッジに通う事になるだろう。
何を学ぶかは決めてはいない。まずはそこからだ。
そんな事を考えているとバスが停車した。どうやら慰霊碑についたようだ。
眼鏡の男と髪の長い女が乗り込んできた。
男は俺の横を通り過ぎ、女は一番前の席に座ろうとした。
さらさらと揺れる漆黒。陶磁器のように滑らかな白い肌。
俺は覚えている。即座に立ち上がり叫んだ。
「――カズ!」