A.C.S.E_短編その2

Last-modified: 2009-02-18 (水) 21:22:44

 ぶーんぶーんぶーん、と。

 

 右へ左へ上へ下へ時に袈裟がけ不意打ち突き上げ。
 黒い髪に赤い瞳の人間が手にした古ぼけたモップを振るう。

 

 表情は至極無表情で、スイングも特別フォームが美しかったり、気迫がこもっているとか、大したものでは無い。ただモップが振り抜かれる度に、強引に引き裂かれた空気が悲鳴の如き風切り音を発する。スイングの到達点にあるモノ達は一つの例外なく問答無用でぶっ飛ばされて、地面とベーゼかアイキャンフライだった。たまに壁にめり込んで無機物とフュージョンとかもある。
「………………………………」
 無言でスイング。モップに捕えられた人間が飛んだり跳ねたりするのをぼんやり眺めながら、シン・アスカは突き進む。相対した輩はほぼ確実にシンに向かって何かしら理想っつーか願望っつーかまあぶっちゃけ妬みを吐き出しているのだが、そういうのをひっくるめて右から左へ聞き流し受け流し、シンは機械的にモップを振るう。
 やっている事はクリスマスと正月と変わりはない。ただシンの態度は前の二回とは大幅に違う。普段通りのシンならば、その直情的な性格も手伝って、血気盛んに挑んできた相手にはそれを凌駕するほどの血の気で対応するのが常である。
「………………………………」
 ならば何故今回はこうも無表情。そして無口なのか。
 その理由は、たった一つのシンプルな答えである。

 
 

「……………………………………飽きた」

 
 

 シン・アスカ。何時の間にか定着した二つ名は”生徒会の狂犬”。
 現在2月10日時点での戦績。977戦977勝0敗。

 

 ぶっちゃけ、いい加減うんざりだった。

 
 

///

 

 しんどいよ。
 楽しいけど。

 

///

 
 

「何が厄介かって、一回ぶっ飛ばしたヤツが当たり前のよーに復活する事なんですよ」
「知らねーよ」
「あ゛ー……これほどまでにシグナム先輩(人手)が恋しい事があっただろうか」
「会長か副会長に頼めばいーだろ」
「俺が殺人幇助になるじゃないですか」
「じゃあ諦めろ」
 ですよねー、と呟いてシンは力無くがっくしと机に突っ伏した。体力には自信があるが流石にこうも連戦だと疲労がぐんぐん蓄積する。当初はこういった”雑務”もシンの目的――強くなることには都合がいいと一人ほくそ笑んでいたものの。どうやら楽観視し過ぎていたようだ。
「…………言ってくれりゃ、あたしも少しくらい手伝うっつの…………」
「えー、なんかいいましたー」
「なんでもねーよこの軟体動物が」
「ひでぇ……」
 確かに全身を弛緩させて机に突っ伏している様は軟体動物に見えるのだろうが、何も疲れている相手にそんな事言わなくてもいいじゃないかと、シンは思ってみたりする。
 ぐったりするシンとは対照的に、ヴィータは書類を捌いてゆく。基本シンは身体を動かす方の雑用が主であるし、そっちの方が優秀だ。なので事務仕事は簡単なものしか手伝わない、というか手伝えない。ついでにシンは今休憩時間なので、何となくヴィータをぼんやり眺めてみた。相変わらずの見かけによらない優秀っぷりだった。

 
 

 眼前の人を見ていてふと去年の文化祭を思い出す。文化祭ではシン自身にとってあまり思い出したくない記憶も多々あるが、それは別として、目の前の先輩に見えない先輩はその時確かメイド服になっていたような。メイド喫茶の手伝いとかで。
 次、クリスマス。サンタ風味でデコレーションされていた。
 次、正月。レイと初詣に行ったら巫女服姿の先輩が涙目でお守りを売っていた。
 何か事あるごとにこの先輩は理事長の罠で着せ替えらている訳で。あの面白い事最高主義の理事長がバレンタインなんてイベントを見過ごす筈もないだろう。だが前述したイベントと違って、ピンとくる服装が無い。
(バレンタインといえば……チョコ、なんだっけ ……でもこれは服じゃ…………あ、)
 おもむろに立ち上がり、脇に立てかけていた古ぼけたモップ(スローターダガー)を手にとって、上へ――天井へと到達させる。
「何やってんだ?」
 突然天井をガンガンとモップでつつき出したシンに対し、ヴィータが不審げに問う。聞かれたシンは至極真面目に、
「いや、どっか開いてチョコ降ってくんじゃないかなと思って」
「はあ? 意味わかんねー……」
 溜息を吐きながら、ヴィータは手にした書類を束ね、トントンとそろえ直し、棚へ仕舞うために席を立つ。ヴィータが席を立ったので、シンは一番可能性の高いヴィータの席の上を少しだけ強めにつついてみる。変化はなし。
「……俺の考えすぎかなぁ。理事長ならやりそうな気がしたんですけど」
「たりめーだろ。いくらはやてでもそんな訳わかんねーこと……」
 最後に、未練も断ち切る意味も込めて少し強めに突いてみた。変化なし、やっぱ気のせいかとシンがモップを手元に戻して溜息をつく。
 音がした。何かを固定していた、そう金具みたいなものが外れる音。それはまさにシンの想像通りで、パカーンと天井の一部が開いて、そこにたんまーりと蓄えられていたモノがびしゃしゃーと、真下へと降り注いだ。
「………………」
「………………」
 場を沈黙が支配する。シンもヴィータも降り注いだものを見て、次にぱっくり穴を開けた天井を見て、それから互いに視線を合わせた。

 

「「あった――――――――!!」」

 

 寸分のズレも無く、二人の叫びがシンクロする。
「つーかあたしの机が――ッ! あとこれチョコじゃないだろ! 何か白いし!!」
「あ、これチョコじゃなくてヨーグルトですよ」
「何で!?」
「たぶんまだバレンタインじゃないから、不発に備えて代わりの物を詰めといたんじゃないでしょうか。うわ、よく見たら中に冷蔵庫備え付けてある。流石理事長。こういう無駄な事に関しては本当に抜かりがない」
 上にぽっかり空いた穴から中の様子――機構を窺う。どうも巧妙に天井に偽装されたフタが開くのに連動して小型冷蔵庫のフタもオープンして中身を下へ降らせる方式らしい。
しかもよく見たら保温庫にもなる冷蔵庫だった。たぶん当日は保温庫モードにしてチョコを詰めるつもりだったのだろう。
 落下地点はシンの予測通り見事にヴィータの席。書類とかがヨーグルト塗れで悲惨な事になっている。ヴィータが席を立った時に試してみて正解だったようだ。
 もしまだ席に居る時にフタが開いていたら。
 ヨーグルトを見て、ヴィータを見る。頭の中で組み合わせてみる。

 

「……うわ、犯罪だ」
「本気で死なす」

 
 

///

 

「……それでそのタンコブですか」
「ああ。先輩の攻撃は受け切ったんだけど、ヨーグルトで滑った…………覚えてろよあの狸……」
「あ、あはは。でも理事長がやったかどうかはわからないんじゃ――」
「そのあと理事長室に呼び出されてな」

 

『――シン・アスカ君。私は今とても残念な気持ちで一杯です、何故でしょうか』
『とりあえずあんなもん作る予算あるなら部活動とかそういうのに回しやがった方がいいんじゃないでしょうか』
『夢と希望を詰めに詰めた素敵なシカケの成就が、どこぞの馬の骨もといKY野郎に疎外されてしまいました』
『とりあえずそのイントネーションズレまくった標準語を止めやがってください。話はそれからでございます』
『裏切ったな! 私の期待を裏切ったな! カメラ三台完備で備えとったのに!!』
『やかましいわ! そんなくだらん事する余裕あるなら仕事しろこのダメ理事長!! 傍らで書類に生き埋めになっているリインさんが見えてないとは言わせないぞ!?』
『くだらんゆうたか!? 強気でおませなちびっ子が白くてぐちょったのに彩られたり人肌程度のちょこれえとに塗れたりしてそんないただきますしたい状況がくだらんゆうたか――――!!!!!』
『ぶっちぎりでくだらねえよ!!』
『ウチの子に何の不満があるんや――――――!!』
『会話をしろォ――――!!』
『私は怒ったぞ――! 野良犬野郎(シン・アスカ)――――――!!!!』
『タヌキの癖に吠えるんじゃねえ――――!!!!』

 

「こんな感じで」
「…………………………………………ああ、うん、はい」
 話を聞き終えた後、エリオは未だもうもうと黒煙の上がる理事長室をちらりと見て、頭を数回振って、酷く疲れた顔で溜息をついた。たぶん見なかった事聞かなかった事にしたんだろう。実に正しい対処法である。

 

 ――場所は高等部の屋上。時刻は昼休み。

 

 シンは購買のサンドイッチを復讐者の如き暗い目をしたまま頬張りつつ、エリオは持参の弁当を広げていた。多分副会長(フェイト)が作ったのだろう。
 基本シンは”編入”してきた後からずっと昼休みは屋上に陣取っている。元はいわゆる不良な方々が占拠していたのだが、さくっと殲滅した後はシンの縄張りになったようで、誰もやってこない。たまに生徒会関係者が顔を出すくらいだ。
 今日エリオがいるのはたまたま、高等部に用があって来ていたエリオとばったり遭遇したため。こういう偶然や切羽詰まった用事がなければ昼休みは基本シン一人が常である。
「何というか……ヴィータさんって結構苦労してますよね」
「ああ。常識人なのが運の尽きってのが、相変わらずこの世界おかしいよな」
「でも人気あるみたいですよ。周囲(初等部)でもファンクラブの会員居ますし、僕も色々とお世話になってます。皆が憧れるのも少しわかるかなって、最近」
「あアルケミックチェーンだ冗談だけど」
「ヒッ冗談でも一瞬反応しちゃうから止めてくださいよ! そういうのじゃなくて人間として尊敬できるって意味だからー! 誤解しないで――――!!」
「そんな『近くに潜んでいるかもしれない相手』に伝えるように叫ばなくてもわかってるって冗談だよ。まあでも」
「へ?」

 

「本当に手出すなよ、あれオレの獲物だから」

 

 口の中に入れていた鶏の唐揚げをよく噛んでしっかり飲み込んでから、エリオは油の切れたロボットみたいな動作で首を稼働させてシンの方を向き直った。ちなみにここまで瞬き無しである。
「…………………………………………はい? 今何て?」
「見ろよこのタマゴサンド。中身全然入ってない。これだから購買は……」
「そうですねー……あの、今何かさらっと凄い事言いませんでした?」
「え? 何が?」
 あれ僕の聞き間違い? でも目の前の人何かブッチぎった事今口走ったよね? 今間違いなくツッコミ所だったよね? とエリオが目を白黒させる。シンはエリオが何を言いたいのかなんて当然さっぱり理解できず、軽く首を傾げて見せる。数十秒ほどしてエリオは何か諦めた様子で弁当箱に向き直った。一体何だったのだろうかとシンはさらに深く首を傾げてみたりした。

 
 

「あ。」
 そういえば。初等部の方でも騒ぎが起こっていると噂が流れていた気がする。クラスの連中の話を耳にしたり、ヴァイスがそう言う話をしていたような。それに今日理事長もそういう事を言っていた気がする。
「そういえばさ。初等部でも最近何か騒ぎ起こってるのか? 詳しくは知らないんだけど、何かそう言う話聞いた話がする」
「あ、ああ。それですか。何か最近――」
 エリオは顔を上げて、再度シンの方を向く。そして何気なしに、

 

「魔法少女が出るんですよ」

 

 言う。その言葉に対しシンの首が数百メートル離れた位置に立つ初等部へ向けてぐりんと可動した。
「…………数百メートル先が何時の間にか異世界に」
「…………魔導師なぎ倒すモップな時点でここも十二分に異世界ですよ」
 エリオの呟きは無視した。
 事情を説明すると長くなるから面倒だから。実際この辺の事情を知っているのは割と少数だった。”提供者”であるレイと白ワカメは別として、この学校では後はヴィータと理事長しか詳細は知らない筈だ。
 むしろ隣の学院の方が知っている連中が多い……会長の交渉(殴りこみ)を幾度となくやり過ごす辺り、スカリエッティとナンバーズも大分しぶとい連中である。
「ああ、そうだ魔法少女で思い出したんですけど、シンさんって妹居ます?」
 少し詰まる。そして少し逡巡した。本当のことを言っても、たぶん余計な気遣いをさせそうだと判断する。だから少し濁して、あたりさわりの無い様に。
「…………まあ居る。けど、近くに住んでない」
「あ、そうなんですか? 例の魔法少女なんですけど、シンさんに結構似てるんですよ。髪の色とか、目の色とか、あとちょっと雰囲気も――後獲物が釘バットなんで絶対シンさんと関係あると思うんです」
「いや、違うぞ。俺の妹とは別人だ。マユは髪も目も俺とは違うし。てかちょっと待て。魔法少女なのに武器が釘バットて何だそりゃ」
「あれ、でも名前「エリオ君が他の女の子の話をしていると聞いて」――ヒィ!!」
 鎖で雁字搦めにされて連行される(引き摺られる)エリオに、別れの挨拶代りにひらひらと手を振った。返事は期待してない。というかあそこまでぐるぐる巻きにされたら喋るどころか身体を動かす事もままなるまい。

 

「…………モノ好きなのも居るんだなー」
 数百メートル離れた初等部の校舎をぼんやりと見つめながら、呟いてみた。

 
 

///

 

 そんな風に狂犬が眺めているとも知らず、初等部の校舎、その屋上にて一人の”少年”が、濁った瞳で空をぼけっと見上げていた。纏った無気力感は生命活動に影響を与えそうなほど濃密で深刻である。
 本来初等部の屋上は危険という事で、中等部や高等部と違って解放されてはいない。故に少年は不法侵入、その証拠に綺麗に分解された鍵がドアの傍に転がっていた。
 何故不法侵入してまで屋上に来たのかと言えば、一人になれるから。そして、”半身”と会話しても不審に思われないから。
 手に入れた孤独を謳歌していた少年は相も変わらず空を見上げている。

 

 ――その身は正体不明で絶対無敵。

 

 白と桜色の2色で構成された、フリルとレースがふんだんにあしらわれた衣装(コスチューム)。腰まで届く艶やかな黒髪と、透きとおった真紅の瞳。それは、言い訳無駄に、人々がそう呼ぶ通りの存在だった――すなわち”魔法少女”なる存在。
 何の因果か機能不全を起こした半身のせいでそうなったとはいえ、負け犬なりに放っとけないんだから仕方がない。今日も色々と偽りながら頑張ります。

 

 ――一度でも名乗ったのが運のつき。誰が呼んだかラディカルマユ。

 
 

「天国の妹、マジゴメンナサイ。でもね、お兄ちゃん実名名乗る勇気が無かったよ……」
『あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃァァァァ――――――!! もう駄目! この身機能停止しちゃう!! 傑作すぎて死ぬ! ひー! ひィー!!』
「ああ、何をどうしたらこんな惨劇になるんだ………………」
 それはさながら絶望を身体中で表現するかのように。
 ”少年”が、その場に力の限り軟体動物の如くぐんにょりと項垂れた。
「あるたーどー……後いくつだっけ…………」
『んー、パスキューメタルの総数が全31個でー、今12個だから後19個じゃね』
「多い……っ! 何という、何という遠い道のり…………っ!」
『ひゃひゃハ。まあ地道にやってくしかねーんじゃねーの、っとぉ。ブレイズロッドから入電。お嬢ちゃんがマスター探してるってさ』
「……あ、やば。俺日直だった」
『はっはー。タダノショウガクセイは大変だねー』

 

 負け犬は今日も行く。
 世界の理不尽に対して、逃げる事なく真正面から挑んでいる。

 

「うるさい黙れ沈黙しろ駄デバイス」
『ヘタレに言われても痛くも痒くもねえなあ』

 
 

///

 

 ――こちとら一人暮らしなんだよ。

 

 自宅に帰って今日も疲れたし明日もどうせ忙しいから早めに風呂入ってさっさと寝ようとか考えるのは、特におかしな事では無いとシンは思う。
 んで別に考えなしにバスルーム手前の脱衣所に繋がるドアを開けるのに躊躇なんてする筈もない。だってシン・アスカは一人暮らしだから。鍵は付いているけど使った事は一度も無い。一人暮らしで誰に気を使えというのだ。友人とか生徒会関係者が遊びに来た事はあったが、泊まりがけは一度も無かった。
 ……前置きが長くなったが、要はシンがすぱーんと遠慮なく躊躇いなく脱衣所の扉を開けたら誰か居た訳だ。腰まで届く金髪は濡れているせいかきらきらと輝くようで。身体に巻かれた面積小さめのバスタオルから覗く肢体は白く透き通る。出るところは出ていて引き締まる部分は引き締まっているというのか、無論贅肉なんてものとは無縁なのだろう。タオルが薄いせいか身体のラインもよく把握できた。
 とまあ同年代の男子が出くわしたら一生脳髄に焼き付けそうな光景を視界に捉え、シンはというと身体中から冷や汗を吹き出していた。もう頭の中でガンガン鳴る音を聴覚が実在の音声として捉えそうだ。生存本能さんが力いっぱい警鐘を叩き鳴らしていらっしゃる。

 

 ――風呂場無防備潜伏奇襲途中で寒くなった未だ帰ってこないだろうとちゃっかり風呂に入ったそこにちょうど出くわした

 

 思考の奔流、僅か0.05秒。
 湯上り姿を異性に見られたせいで顔(覗いている肢体も)が真っ赤になるより数瞬も速く、シンはドアの脇にあったバスタオル(大き目)を引っ掴んで相手にぶん投げた。
 相手がタオルのお化けと化している間に目当てのブツを脱衣所から引っ掴み、即座にドアを閉めシンの手元へと跳ねたモップをつっかえ棒にしてドアを外から施錠する。
 そこから更に数瞬して、絹を裂くような悲鳴がドアの向こうの脱衣所から聞こえてきた。今になって羞恥ゲージが全開になったらしい。
 窓を閉めておいてよかったと切に思う。この部屋は防音性が意外にいいから、今の悲鳴は他には漏れまい。ていうか漏れないでくれ。もう通報は嫌だ。
「とりあえず何やってんですか」
『お、お風呂に入る時なら丸腰かなって……』
「的中かよクソッタレ! でも全然嬉しくねえ何だこの心臓に悪いイベントは!!」
 選択肢謝ったら即デッドエンドォ! と叫びながら八つ当たり気味に地面に打ち付けたスリッパ(右)がスパーン! と実に気持ちのいい音を打ち鳴らした。
 とうとう家まで来たよこの人とシンは心中だけで呟き、気持ちを落ち着けるために深呼吸を繰り返す。ギリギリだったが”それ”はシンの手元にある。
 上手く事を運べばこの状況を無傷で乗り切る事も可能な筈だ。たぶん。
「さて、副会長(フェイト・T・ハラオウン)。気が付きませんか。そこ(脱衣所)から何かが無くなっている事に」
『え? ――――あっ!』

 

「そう。アンタのデバイスと着替えは預からせてもらいました。二月の寒空の下半裸で帰宅するという屈辱を味わいたくなければ、全面降伏する事をオススメしますよ、副会長」

 

『ひ、酷い! 酷いよシン!』
「命かかってんだから仕方ないでしょうが」
『わ、私の下着とかを、ヘンなルートに流してひと儲けしちゃったり!?』
「誰がするか」
『じゃ、じゃあまさか――そんな事や、あんなことを……へ、へんたいー!』
「ほら見ろこの様だ! 一回あんたとは腹割って話したいと思ってたんだよ! 普段からあんた俺をどういう目で見てるんだ!?」
『え…………うん…………』
「そこで口ごもるなぁ――――!!」
 ぜーはーぜーはーと肩で息をしながらシンはがっくりと膝をつきそうになるのを何とか堪える。圧倒的にこっちが有利な筈なのに何故こうもペースを奪われるのか。
「会長と副会長はこれだから……これだから…………っ!」
『と、とにかく服はいいからバルディッシュを返して。そうしたらバリアジャケット着れるから』
「いやデバイス返す位なら服も返しますけど……もしかして俺の目的が服の方だと思ってやがりますかアンタ」
『違うの?』
「当たり前でしょうが。てかむしろ目的はデバイスの方なんですが」
『…………特殊な趣味してるんだね、シン』
「ちょっと手にしたカゴを窓から投げ捨てたい気分になったんで実行してきますね」
『待って――!』
 ついでに自分も飛び降りてこの場から逃げたらどれだけ楽だろうか。そんな事しても倍返しでデッドエンドなんだろーなーうふふと暗く笑ってみる。虚しくなって直ぐ止めた。
「そもそもですね。何で風呂場に潜伏してたんですか。理由もなく命狙われるなんて俺は御免ですからね」
『だ、だってなのはがチョコ用意して、嬉しそうな顔で『シン喜んでくれるかなぁ。いつもお仕事頑張ってくれてるから労ってあげなきゃね』って言うんだよ!? 私知ってるんだよこれフラグっていうんだよね!? なのはは渡さないよ!?』
「フラグちげえ。どう考えてもただの善意ですからね。あとそれ絶対義理――」
『Get Set』

 

 ――あれ、なにこの身体中を走り抜ける悪寒

 

 手元を見る。丁寧に畳まれた服の上に置いてあった筈のインテリジェントデバイス・バルディッシュ(待機状態)が無い。何か嫌な予感がして窓を見た。微妙に開いている。
 シンがフェイトを封殺できていたのは、一対一だったから。けれどもし。”もう一人”居たのならば、ワイヤーか何かでこっそり回収したデバイスを、風呂場の窓から投げ入れるなんて連携プレイも当然可能だろう。不本意ながらシンの意識はフェイトに振り回されっぱなしだったし。おそらく隙だらけだったろうから。
 手狭なベランダでは金髪ポニーテールの見知った顔がベランダに引っかけた縄梯子を今まさに降りようとしているところだった。そいつは何故か頭にヘッドライトを付けていて、その頭で輝く灯がチカチカとある法則性のもと明滅する。いわゆるモールス信号で。

 

 ――キ・ニ・ス・ル・ナ・オ・レ・ハ・キ・ニ・シ・ナ・イ

 

「いや気にするわ。つうか結局こうなるのかよ…………!」
 溜息と同時に魂が抜けていくようだと、くだらない事を考えながら大きく後ろに跳んだ。シンの目の前の――脱衣所のドアが金色の大剣によって木端微塵に粉砕される。
 当然鍵代わりにしていたモップが弾け飛ぶ――それは空中で強引に軌道を変え、シンの手の中へと飛来した。そっちを右手で掴み、左手の中で赤い光を撒き散らせながら出現した二本目のモップと即座に連結させる。
 瞬間、長大なモップ(スローターダガー・プラス)と金色の大剣(ライオットザンバー・カラミティ)が衝突し、干渉スパークの余波が部屋の内部を蹂躙した。

 

「――という訳で、ちょっとかっKILLね」
「……とりあえず瞳にハイライトを戻してくれませんか、副会長」

 

 迸った雷撃をまともに浴びた電化製品はオシャカなんだろうなーとか、現実逃避気味に考えてみたりした。

 
 

///

 

 二月十四日。バレンタインデー。
 朝の七時。時間が時間だけに未だ登校してくる生徒もまばら。学校の中にもまだそう多くの人間は居ないだろう。
 そんな祭り(色んな意味で)の当日の初等部屋上に、人間が一人佇んでいた。高所故の強風で、その長い黒髪、服に施された無数のこれ無くても困んねえだろ的な装飾がゆらゆらとたなびいている。服装はとにかくフルリがこれでもかと配置され、白とピンクという配色もあってとってもファンシーな代物である。
 ただしその華奢な右手がしっかと握っているモノは野球で使うバットに曲った釘をたくさんぶっ刺してデコレートした――いわゆる釘バットなる”凶器”だった。バットの表面も、そこに刺さった無数の釘達も、擦り傷、ささくれ、あと無数の赤茶の染みと、”本来の用途”で無茶苦茶使い込まれてます的なある種の貫録すら漂わせていた。
 その人物の容姿と服装は(本人としては不本意ながら)凄まじく”合って”いたが、その獲物がその見事な組み合わせをぶち壊しかねない程の違和感を発揮している。というかぶち壊している。右手に握ったものが無かったらただの”痛い人”だが、その獲物のせいで”危ない人”にクラスチェンジ。
「パスキューメタルは人間のストレスに反応してエネルギーを生成する物質だ。ならば阿鼻叫喚で有名なこの日のここでは、通常とは比べ物にならない数と規模が発生する筈……ていうかわんさか出てください本当お願いしますもう俺これ嫌なんです速く終わらせておさらばしたいんですわんさか出ろー……! できれば今日で十個くらい……!!」
『あっはっは。必死必死』
 後半から明らかに精神の余裕が消え、見苦しいほど必死な声で嘆願するよう呟く少年に、酷く軽いノリの声が応えた。この場には、いつかの昼休みの様に”少年”一人しか居ない。
 なのに声が二つ。
「必死にもなるだろ……大体何で機能不全で、武装の外装はともかくバリアジャケットがこんなんなるんだ」
『まあ細かい事気にすんなよ。この身が髪の長さも声も変えてやってんじゃねーか』
「そこじゃねえ。そこじゃねえんだ問題は……」
 絞り出すような声と共に、がっくりと項垂れる――が、思いのほか直ぐに、その曲がりに曲った背筋がしゃんと伸びた。
「だが、今日がチャンスだって事に変わりはないんだ。”俺”は今日風邪で欠席って事にしてあるから、こっちに専念できる。早期発見して潰して、なるべく目立たないように騒ぎを広めないように、ひっそり確実に…………!」
 ぐと握り拳を作って、無意味に空を見上げて宣誓してみたりした。
 騒ぎが起こる前に潰してしまえば、生き恥じが広まる事も無いだろうと負け犬なりに頑張って考えた結果だった。だが確かに効果的でもあった。目撃者が少なければ、規模も合わせて縮小する――既に大分広まっている今となってはあまり効果も無いかもしれないが。
 とまあとにかく言っている当人はそんな感じでやる気になっていた――のだが、

 

「待ちなさ――――――い!!」

 

 怒号が響き渡った。朝七時の屋上、しかも一般開放されていない屋上という時点で既に相手は真っ当な立ち位置の人物ではあるまい。
『決心してるとこ悪いが、もうケチが付いたぜマスター! 残念でしたぁ!!』
「ちくしょう…………ッ!」
 開始前から泣きそうだった。
 伸ばした背筋が曲がりそうになるのを堪えながらも、少年は何事かーといった感じで声の方へ振り向いた。右手の釘バットは油断なく構えられている。
(――ど)
 衣装自体は似通っている。要はフリルの嵐。ただし白とピンクの”こっち”と違い、その少女の衣装は黒と白で統一されていた。更に布地は少女の全身を覆うのではなく、腹部や肩等、各所で肌色が露出したどこか攻撃的な雰囲気を漂わせた意匠(デザイン)。ゴスロリとでもいうのか。ただ金髪碧眼と少女が元から西洋寄りな特徴を容姿に多々持ち合わせているため、その服装は少女にとてもマッチングしていた。
 ただし。右手にトンボ――運動部の皆様方に日々蹂躙されるグラウンドの癒し的存在そう地面をひっ掻いて慣らすアレ――を握っていなければの話だが。

 

 まあ格好と獲物は正直どうでもよくて。問題はその”人物”である。
(どっからどう見てもバニングスそのものだ――――――ッ!!!!!)
 言葉にしなかっただけ上出来といえよう。一応ラディカルマユ(聞くだけで色々挫けそうになる)は謎の人物なので、お嬢様とクラスメートだったりはしない。だから相手を知っているような対応はご法度なのである。
 だがこれは一体何の冗談かと思う。一応髪と声と服装で誤魔化している白とピンクと違い、相手さん(黒と白)は本当に服装が変わっただけなのだから。
 登場=正体バレイベント等という事態でも巻き起こしたいのだろうか。
『一応、御嬢様はブラストアリサと名乗る御積りの様だが』
『名前だけでもバレバレだろそれ!!』
 特殊なラインで語りかけてきた向こう側の”獲物”に対し、こちらも念話で応対する。
『……で、何やってんだテメー』
『私は御嬢様に対する否定の返事を持たない』
『答えになってねーぞー』
 釘バットとトンボの会話はさておいて。
 白ピンクの方はもう何か実は折れてるんじゃなかろうかという意思を、それでも目一杯振りしぼって出現した黒と白の少女に改めて向き直った。
「あ、あんたは――」
『マスター。普段のノリで喋るとバレるとは思わんかね』
「ごほーん! あ、あなたはいったい何が目的なんですかー!!」
 この言葉づかいに慣れたという事実に心の中で涙を流しつつ、少年は少女に問いかける。
「……事情を知ってるのはあんただけじゃないって事よ。まあ今まで頑張ってくれた事には感謝するわ。でもね、ここは私の”世界”なの。見ず知らずの相手に任せるには、大事なモノが多過ぎるのよね」
 だから、と一拍置いて、少女が手にしたトンボをブォンと振るう。空気を切り裂いたそれが、少年に突き付けられる。
「あんたがやってる事、これからは私がやるわ。いいわね。わかったら今まで集めたブツを渡しなさい」
「よ、よくない! いきなりそんな事言われても――」
『まったく面倒事を――と言いたいところですが! バリジャケをヘソ出しにした点についてこの身はテメーに惜しみない賞賛を送りたい気分。つーかでかした。イェア』
『やはり貴様は処分した方が良い様だ。御嬢様の今後の為にも』
『やれるもんならやってみせろやこーの死に損いが』
『欠陥品風情が。私の全霊を持って――その身昇華してくれる』
 主同士が言い争う横で、獲物達も地味にボルテージを上げていたりするが、主の二人はまるで気が付いていなかった。
「そう、じゃ仕方無いわ。悪く思わないでね。私も譲れないのよ。放っとくとまた”あいつ”が出張ってくるに決まってるんだから――任せっぱなしって、癪なのよね」

 

 ――ブレイズロッドと、少女が手にした獲物(トンボ)の名前を呼ぶ。

 

「”命令(オーダー)”をあげる――――”ブチのめしなさい”」
『”畏まりました、御嬢様(ヤー、マイマスター)”』

 

 少女の目から光が消える。透き通った碧の瞳に、ぽうと宿るは茜色。夕焼けの色の焔が、瞳の中だけでなく少女の周囲でも燃え上がった。
 その外見に見合わぬ無駄の無く淀み無い動作で、少女がその場で舞踏の様に回転する。円となって巡る茜色が――次の瞬間爆裂した。
「や……やってやるよ、チクショ――――――!!!!」
 全身に漲るのはやけくそ以外の何物でもないエネルギー。魔法少女ラディカルマユと名付けられた少年が、早朝の屋上で吼えた。

 
 

///

 

 二月、季節的にまだまだ寒い時期だ。それも深夜から朝方にかけては防寒具無しでは生命は存続できないであろう。そんな時期に体力を使いきってかつ汗だくで暖房も付けず毛布や防寒具も無く、その上床で寝ればどうなるかなんて解りきった事ではある。
 脇に差し込んだスティックの様な電子機器から、ぴぴぴっと音がした。それを知覚したシンはのろのろとした動きでそれを脇から抜き取り手に取る。電子機器の小さな液晶画面にはいくつかの数字が羅列されている。

 

『45.7℃』

 

「大変だ酷い高熱……死んでるだろこれ!!」
 手にした体温計を手首のスナップを利かせてブン投げる。壁にぶち当たり、カシャンと音がして体温計が地面に落ちる――と同時にバッターンとマンガみたいなノリと勢いでシンの身体も地面に堕ちた。
「……………………ごほっ、げほ……バカな、この俺が……一回のノリツッコミで体力の限界だと……! ごほっ! げほっ!!」
 悪役みたいに呟いてみても身体が絶不調なのに何ら変わりはない。激しく咳きこんだ後に、シンはずるずると地面を這う。ベッドに辿り着いてそのままダイブ。

 

 身体がだるい。
 寒気がする。
 咳の嵐。
 頭がぼーっとする。

 

 疑う余地も無く、風邪だった。

 

「………………うーん。割と本気でやばいんじゃないか、これ……ろくに動けないぞ。でもなあ。今日休むってのはな……」
 ポケットに入れっぱなしだった携帯を取り出した。ボタンを押しても反応が無い。電撃でイカれたらしい。慌てる事なく手にした携帯を放り投げ、枕元の棚から予備の携帯を取り出した。とりあえず今日は学校に行けそうに無い。さて誰に連絡したものかとふわふわした意識で検討してみる。
 無難にクラスメートの鈴村に電話してみた…………出ない。それから数十回ほどコールし続けるも一向に出る気配が無い。留守電に切り替わる前に切った。首を傾げる。それから適当な知り合い数人にかけてみたが結果は同じだった。
「………………」
 何か起きてるんだろうか、学校。何せイベントデイ当日である。学校が空間ごと隔離されてるとか起きてても不思議じゃない。というかその位発生しそうだから困る。
「……しょうがないか」
 ふらつきながらも立ち上がる。とりあえず着替えて、最低限要るものをそろえて、立てかけていたモップを取って玄関へ

 

 ――向かう途中でぶっ倒れて、そのまま意識を失った。

 
 

■■■

 
 

 助けて、と言われたから、仕掛けてきたのはそっちだろと答えて、持っていたキョウキを振り下ろした。数回ほどそれを続けていたら、悲鳴だかうめき声だかよくわからない声も聞こえなくったから、手を止めた。
「何だっけ、アンタ達の文句。魔導師でもない癖に、だっけ? その割には見下してた相手に随分いいようにやられてるよな」
 手にしたものを振るう。付着した液体が周囲に散った。
 ――最初は確か目つきが気に入らない、だっただろうか。それから何かと周囲が慌ただしくなっていった気がする。
 ほら見た事かと、その時思った。文字通り、住んでる世界が違ったんだから。溶け込めるはずが無くて当たり前だ。殴りかかってくるヤツは増えていって、元からそれなりに上手かった”殴り返す事”はもっと上手くなっていった。
 特に加速がかかったのは”魔導師”を片付けてからか。あんまりにも意気揚々と得意げに、自分の能力を語って聞かせてくるからものだから、自慢話をきっちり全部聞いてから、全力で持って殲滅してやった。それが――いわゆる”非保有”が、魔導師を”倒せた”事がいたく気に入らなかったらしい。
 とはいえそのほとんどが口先だけで、全然大した事なかったから何の問題も無かったが。
「――その辺にしとけよ」
 校舎裏の、昼間でも薄暗い場所には不釣り合いな、女の子の声だった。怪訝気に振り向くと――何か小さいのが居た。赤い髪を二本の三つ編にし、青い瞳はその気性の強さを示すように吊り上がっている。
「………………………………しょと、あ、違う。制服が高等部だ」
「おい今何て言いかけた」
 こめかみに青筋を浮かび上がらせながら、サイズは初等部、制服は高等部な女の子が犬歯を剥き出しにして静かに吠えていた。
「で、アンタ誰だ。つうか何の用だよ?」
「生徒会だよ。バカが騒いでるっつうから出向いて来たんだ」
「…………ああ、なるほど。てっきり通りすがりのゲートボール部か何かかと思った」
「てめーさっきから喧嘩売ってんのか」
 別に嘘を言ったわけでは無い。女の子が担ぐようにして持っているのがどう見てもゲートボールで使うアレにしか見えなかったからだ。だが”生徒会”という事から、そのハンマーは恐らくデバイスなのだろう。というかよく見るとゲートボールで使うにしてはやや装飾過多かもしれない。とりあえずトゲは必要ないだろう。
「しっかしまあ、ずいぶん派手にやってんな。最近騒ぎになってんぞ、お前」
「文句あるかよ。正当防衛だ」
「ふざけろこのタコ。程ってもんがあんだろ」
 生徒会――よく知っている訳では無いが、優秀では”収まりきらない”集団だとは聞いたことがある。主にもめ事の解決もしているらしいから、いつかは来ると思っていたが、思ったより速かったようだ。
「だったらどうするっていうんだよ」
 手にした長柄のそれを、女の子につきつける。それを見て、女の子は怯むのではなく呆れた様な表情で溜息をついた。
「……やっぱり、そっち方面でしかわかんねーやつみてーだな」

 

 女の子が笑う。それは笑顔の筈なのに可憐さとは程遠い。獰猛な、狩猟に慣れた獣のそれを思わせる。酷く攻撃的なモノだった。
 次に何をするかと思えば、女の子が手にしたハンマー(デバイス)を放り投げる。くるくると宙を回ったそれ(デバイス)が、少し離れた地面に刺さった。
 胸の前で組んだ拳をボキボキ鳴らす。笑みが一層深くなった。

 

「”言い訳”無しだ、かかってこいよチンピラ」

 

 ――それは”能力”なんて関係なく、”叩きのめしてやる”という意思表示。

 

「…………――――!」
 手にしていたそれを放り投げる。
 地面を蹴って一気に駆けた。距離が一気に近くなる。踏み込んで、腰を捻って、体重と遠心力で味付けした拳を、相手の顔面目がけて突き出した。
 何だかんだで、場数を踏んでいるのだ。相手の実力がどれくらいか、何となくはわかるようになっていた――培われた感覚が、手加減できる相手でないと告げている。
 だから全力で。そしてそれは正しかった。
 あっけなく避けられる。顔をほんの少し逸らしただけで。空を切った拳は何も無い空間を突き抜けて、名残の様に揺れている三つ編みに掠っただけだった。
 軽いステップで拳をやり過ごした相手が、更に距離を詰め――懐に潜られる。視界が強制的に上方向へ移動する。衝撃を知覚する。顔を蹴り上げられたのだと判断する。意識が混濁する。身体の制御が放棄される。直ぐには立て直せない。
 あの小さな背丈のどこからこれだけの力が生まれているのか、身体が後ろ側にくの字に曲がりかける。今度は腹部、一撃、二撃、続けて衝撃が撃ち込まれる。今度は身体が前側にくの字に曲がる。右の拳で、自分の胸の辺りに居る相手を殴りつけようとする。軽やかに回避される。それが狙い通り。打ち込んだ拳を引きながら開く――引き戻す途中にあったそれを、宙で揺れる三つ編みにされた赤い”髪”を、掴み、力の限り”引っ張った”。移動中だった相手の身体が、ビンと不自然に固定された。止まった”的”目がけて、力一杯左の拳を打ち込む。拳が相手の顔面に突き刺さる。同時、カウンター気味に打ち出された蹴りが、側頭部に叩きこまれる。視界で白が散った。意識が砕ける。右手を離してしまった事に舌打ちする。
 互いに後ろ方向に数歩だけよろめいて、これ以上下がるまいと足を地面に打ち下ろす。地を蹴って、前へ倒れ込むように踏み込んだ。
 殴って、蹴られて、蹴って、殴られて、叩かれて、打ちつけて、叩き込まれて、ねじ込んで、引っかかれて、噛んで、噛みつかれて。
 最初は技巧交じりだった攻防も、時間と回数を重ねていくうちに、どんどん原始的なモノになっていった。手足を振って相手にぶつける。それだけ。ただそれだけの繰り返し。
 戦闘というには余りにも汚くて、子供のケンカというには余りにも荒々しい。

 

 ――たぶん。オレはその時、

 
 

■■■

 
 

 ――酷く昔の事のように感じる。

 

 夢から醒めてまず思ったことがそれだった。
 実際には一年も経っていないのだが、思い返してみれば随分長い時間だったように感じている。たぶん内容が濃すぎた所為だと、シンは結論付けてみた。
 一つ目標が出来たから、前までとは違う観点で改めて強さを求めて過ごしてきた。少しは強くなれたかと自問しても、結果はあまり芳しくない。ただ色々とぶっ飛んだ事に連続して遭遇したせいか、大抵の事では心が揺らぐ事が無くなった気がする。
 少なくとも”前”――MSに乗って流されるままに生きて、結果として全部無くなった時よりは心に余裕という物が出来たんだろうか。

 

 でも、目を開けたとたん見知った顔とはいえ、目と鼻の先の距離に人が居たら吃驚してもいいと思うのだ。おまけに夢の中でとはいえ殴り合っていた相手だし。

 

「……………不法侵入は立派な犯罪ですよ。先輩」
「うっせ」
 ごんと、額のあたりに鈍い衝撃。小突く様な頭突きをしてヴィータが視界から消えた。別に高速移動をした訳では無く、単にベッド脇から立ち上がっただけだが。
 額をさすりながら、シンは上体を起こす。知人達にいわせればじゃれていると形容されているどつきあいだが、実際ヴィータがシンに打撃を与える時は常に本気である。最近は滅多にないが逆の時も同じく。良くも悪くも遠慮が無くなっているという事なのだろう。シンもその事についてあまり悪い気分はしない。本気で防御しないと痛いで済まない事態になるのは考えものだが。

 

 ただ今の頭突きはほとんど痛くなかった。手加減してくれたのだろうか、珍しいと心中で呟いて――そこでようやく、シンは自分の置かれている状況の異常さに気が付いた。
(あれ、そういや俺ってぶっ倒れたんじゃないっけ)
 シンがおぼろげな記憶を手繰り寄せると、朝に学校に行く前に意識がぶっつり途切れて視界が暗転したところまでしか覚えてない。
 状況を確認するためにシンは首をぐるぐる巡らせる。まず時計が『19:00』となっていた。半日ほど意識を失っていたらしい。失態だった。舌打ちをして頭をガリガリと乱暴に掻き毟る。そこで服装が変わっている事にも気が付く。朝の時点では制服の上にジャンパーを羽織った格好だった筈だ。それに玄関付近で倒れたからベッドで寝ているのもおかしい。シンの身体には自動操縦装置なんてモノは付いてやしないので、当然誰かが着替えさせて運んでくれた事になる。
「とりあえずあたしも今来たとこ…………なんでシーツで身体隠してんだ」
「お、俺の意識がないのをいい事に……!」
「…………………………ぐ、っ……! ちげ、えよ……! レイのやつがバカが倒れたっつうから様子、見に来ただけだっつの…………!」
 こめかみに青筋が浮かんで、顔が真っ赤になって、拳を握りしめ――そこで考えなおしたように握った拳をもう一方の掌で抑え込んで、全身をぷるぷるさせながら、ヴィータが絞り出すように呟いた。
 わあすっごい我慢してるーと、思ったけど口には出さなかった。たぶん言っていたら噴火していただろうし。
「まあ、冗談ですけどね」
「覚えとけよこの! 治ったらきっちり取り返してやるからな!!」
 その言葉を聞いて、ああと納得する。さっきの頭突きもそうだったが、要は
(こっちが病人だから手加減してるのか…………変なとこで律儀だなこの人……)
 多分指摘したら怒るんだろうなとか考えてみた。勘違いすんなと真っ赤になって憤慨するのが目に浮かぶようだ。
 ……少し眩暈。朝に比べたら熱も多分下がっている。随分とマシになっていた。それでもまだ身体はだるく、意識もはっきりしない。飛んだり跳ねたりは出来そうにも無かった。その必要があるとも思えないが。
「あ、そうだ。今日って学校大丈夫だったんですか? 俺サボちゃったんですけど」
「ああ、それな。何か魔法少女同士が朝からバトル始めてて、そっちに人流れてったから普段ほど――ていうかこっちはほとんど忙しくなかった」
「すげえ。もう理解できねえ」
「結構見応えあったんだよなー。敵対から強敵の出現、その果ての共闘と合体攻撃とか。流れ自体はありきたりだけどあたしはああいうの嫌いじゃねーな、うん」
「先輩。ちょっとタイム貰っていいですか、脳が悲鳴上げてるんで」
 頭痛が帰ってきちゃったよ……と呟きながら頭を抱えるシンを見て、ヴィータはおおマジで弱ってるとぽそりと呟く。話自体はそこで打ち切られ、ヴィータは何を考えたか台所脇にかけてあるエプロン――シンが使っているソレ――を手に取った。
「サイズ的に無理」
 条件反射でそう言っていた。案の定ヴィータには長すぎて大きすぎて、床に付くわぶかぶかだわという有様である。何を思ったかヴィータは引きずったまま数歩歩いてみて、それからシンに向き直った。
「ムカツクから切っていーかコレ」
「いいわけがねえ…………ああ、もう。つうか何始める気ですか」
「前から思ってたけど、おまえ余裕無くなると敬語はがれるクセあるよな。まそれは今どうでもいいか……見た感じ寝てばっかで何も食ってねーんだろ。何か用意してやるよ」
「…………先輩って料理できましたっけ?」
「一応はやての手伝いくらいはしてっからな、カユくらいは作れんだよ」
 ――ああ。えっへんと胸を張っているその姿の何と頼りない事か。何か子供がお手伝いしたからもうボク(ワタシ)料理マスターだーとかそんな感じの空気を感じるから困る。

 

「…………台所爆発させないで下さいよ」
「お前、ほんっっっと覚えてろよ」
 ギッ! とシンを睨みつけ――でも手は出してこない――てから、ヴィータが今度は台所のテーブルに置かれた鞄を開け何かを探している。
 何気となしにそれを見ていると、ヴィータが鞄から薬と思しき包みを取り出しているのが見えた。市販品ではなく、紙で包んだ――病院とかでもらえるあれだ。凄まじいまでの寒気がシンの身体と間隔を駆け巡る。それが病院とかで処方されたものならいい。
 普通はそう考える。だが少し待ってほしい。ヴィータは”八神家”の人間である。その人間が市販品では無く調合品と思しき薬を持っている。
 もうわかるよね。傷薬でバイオハザードを引き起こしたり、栄養剤で植物を怪獣に変えたり、擦り傷の治療に来た人を超強化兵士に変えたりしたあの人です。

 

シャマルせんせ~
『は――――い☆』

 

 殺されるあれは薬物でなく毒物だ間違いないというかそれすら超えた何かだ服用しちゃダメゼッタイ。シンの脳内で弾ける様に思考が加速する。
 大体通常時でも死にそうになるのに、こんな風に病気で体力が落ちた状態で摂取したら果たしてシンの身体はどうなってしまうのだろう。
 思考の中に無数に誕生する選択肢。無限に近いそれらの中で”普通に死ぬ”が一番マシってのはどういう事だろう。
 身体が上手く動かない? それがどうした。今選択を誤ったら一生動かなくなる。もしくは変な風に動き出すかもしれない。考えるだけで寒気がした。
「とりあえず薬飲むのにも何か腹に入れなきゃ」
 とまあそんな感じで、シンに背を向けて独り言を呟くヴィータ――の細いというか小さい腰に、アメフトのタックルみたいなノリで突っ込んだ。
 身長差、体重差、体格差的に考えて割と、というか普通に危険な行為ではある。だがヴィータは見た目こそミニマムだがぶっちゃけシンと同じくらい強い。突然の不意打ちにも自然とその身体は重心をコントロールし、前方向へ傾きそうになる姿勢を制御する。
 そこまでの防衛行動をヴィータは無意識に行う。行える。ただそこまでは”無”意識だ。衝撃と物体は知覚していても、それが”何(誰)”かは認識していない。数瞬経って意識が追い付いてきて、ヴィータがようやく――自分の腰に、しっかとシンがしがみついている状況を把握した。
「――――――ひゃわあああああぁぁぁぁ!?」
 素っ頓狂な悲鳴が二人しか居ない室内に響き渡った。ヴィータは飛び上がろうとしたのだが、身体が浮かない。シンが本気で抑え込みにきているのである。
 わかりやすく表現すると、”がしっ”でなく”ぐわしっ”と。
「裏切ったな! 俺の信頼を裏切ったな!! 毒殺とは粋な事やってくれやがりますねコンチクショウ――――っ!!」
「バっ、ちょっ、離せこの――! 何してくれてんだてめ――――!!」
 シン自身、高熱の余波で少し意識が混濁していたのか――やたら力強く叫びながら、離すどころか動き完全に封じてくれると更に力を強める。とはいえ本調子では無いのか普段よりは力が弱い。恐らくヴィータが”本気”で抵抗すれば、簡単に引き剥がされて壁に叩きつけられるくらいはされるだろう。ただシンを”病人”として認識しているせいか、振りほどく事に躊躇いが生まれる。軽くゆすった位では剥がれそうになく、かといって力いっぱいやれば病人を叩きつける事になる。
 そんな訳で、二人揃って顔を真っ赤にして(片方は高熱の名残、もう一方は何ででしょうね)ぎゃーぎゃ騒ぎながら揺れたり跳ねたりじたばたと、何やら奇妙な膠着状態が発生してしまっていた。
「ぅひゃっ! ……ってめ、いい加減にしろおおぉぉぉ!!」
「誰が離すかこんな所で死んでたまるか! 俺には! オレにはまだやる事――――」
 最後まで言い切る前に、シンの身体からがくんと力が抜けた。ヴィータに”しがみついている”のではなく”すがりつく”。急激に無言になり、がっくりと項垂れているせいで表情も判別できない。
「……おい。オイ、どうした」
 その状態を不気味に思ったのか、怪訝気にヴィータがシンに問う。
 それからたっぷり五秒間。そして

 

「ぎぼぢわ゛るい…………」

 

 ブツッ、とヴィータのこめかみで音がした。全身から立ち昇るのは魔力光。色は赤。その気性の激しさを示す色。
「ね」
 むんず、とシンの首根っこを掴んで、身体から引っぺがす。抵抗はほとんどなく、いとも容易くシンの身体が持ち上がる。
「て」
 魔法でブーストされた身体能力をフルに発揮し、シンの身体を、遅いを圧倒し速いよりも数歩手前の速度で。かつその速度の負荷をシンの身体に伝えないように、絶妙のコントロールで、
「ろこのバカヤロ――――――――!!」
 ベッドへとぶん投げる。ばっふーんとベッドに、スピードの割には圧倒的に柔らかい着地でシンの身体が墜落した。身体だけでなく、精神も沈み込むような感覚。

 

 意識が、

 
 

■■■

 
 

 ――たぶん。オレはその時、

 

 膝ががくがくと震えていて、力の入らない左腕はだらりと垂れ下がっている。左目は血が入ったのか瞼が腫れているのかろくに視覚情報を脳髄に提供せず、右目も何とか視覚の役割を果たしている状態だ。口の中は錆びた鉄の味――を感じるだけの余裕が精神に無い。身体に付いている赤茶の染みは、果たして”こちら”のものか”向こう”のものか。
 相手も似たような状態。一歩踏み出した。力無く、ただ身体を前に傾けたから足が出た、そんな一歩。相手も一歩前に出だ。一歩ずつ、緩慢に、のろのろと、しかし確実に。二人は距離を詰めていく。
 最後に残った物を全部、振り絞って足を地面に打ち下ろす。
 相手は地面を蹴った。
 腰を捻る、右腕を振りかぶる。
 腰の捻りで右脚がしなる。
「うぉらああああぁぁぁァァァl!!!!」
「っだらああああぁぁぁァァァ!!!!!」
 突き出した拳を叩き込む。
 振り抜いた脚を叩き込む。
 互いに防御する事も、体勢を立て直す事も考えていない。残った総てを注ぎ込んだ一撃。保身を棄ててただ対象を叩き伏せる捻じ伏せるためだけの一撃。肉を打つ音。何かが弾ける音。何かが噴き出す音。
 顔面に杭の様な拳を喰らって、女の子は撃ち抜かれたように吹き飛び、地面で二度ほどバウンドして、更に土を削りながら転がって、壁に激突して停止した。
 顔面に鞭の様な蹴りを喰らって、その場の地面に、倒れ込むのではなく叩きつけられる。蹴りの衝撃と地面との激突が脳髄の中間で弾け合ってぶつかりあって、神経を削り取った。

 

 ――とても嬉しそうに笑っていたんだと思う。

 

 笑いが止まらなかった。ただ笑う力が残っていなかったので、掠れた雑音に成り下がったモノが、口の中から流れ続ける。咳きこんだ、息が苦しい、ハイが酸素を欲している。でも可笑しくて可笑しくて楽しくて楽しくて堪らなくて心躍って止まらない潰された芋虫みたいに地面に這いつくばって身を悶えさせながらただひたすらに笑い続ける。
 ずっとずっと苛々していて。向かってくるのは口先ばかりで中身の無い連中ばかりで、そういうのを相手にすればするほど心の中に何か重い物が蓄積されていくようで。セカイにお前は必要ないと常に囁かれているみたいで、毎日毎日息苦しくて。
 それを全部忘れたみたいに、吐き出したかのような気分だった。
 影が落ちる。元々薄暗い場所だった事もあって、視界がほとんど塗りつぶされる。見下ろすように誰かが立っているのだと理解した。誰かは考えるまでも無い。元々この場には二人しか居なかったから。ただ驚いていた。立てるとは思わなかったから。手加減なんて一切してない、本当に、  すつもりでやったのに。
 でも結果として相手は立って、”オレ”は地面に這いつくばったままだった。

 

「お前が何考えてんのか、何悩んでんのかは、あたしにゃわかんねーけどな」

 

 暗くて、後視界もほとんど消失していてよく見えなかったけど、随分と酷い有様だとおぼろげに判断する。これで”大人気ない”だとか言って子供扱いしたらまた顔を真っ赤にして怒るんだろうなとか無駄な事を考える。是非やりたかったけど、言葉にした筈のそれはただの雑音で、ようやく”息を吸うのを止めて随分経っている”事に気が付いた。

 

「どうせなら正々堂々暴れろよ。あいにくな、ウチは人手が足りてねーんだ。悩む暇も無い位の忙しさだったらいくらでも約束してやる」

 

 それで俺の何もかもが解決したかと言えば、当然そんな筈は無い。これはただのきっかけで、結局自分が見つけて背負いこんでしまったものは、自分で折り合いをつけるか解決しなければいけない。

 

 ただ、どっちに歩けばいいのか、そもそも歩いていいかもわからなかった状態からは、抜ける事が出来そうだと思った。抜け出したいと思った。抜け出す理由が出来た。

 

 だから、差し出された手を握る。

 

 よろよろと立ちあがって、何かちっこいのがええ感じに生意気に笑ってた気がしたので立ち上がった反動で相手をひょいと引っ張る。相手もさほど余力は無いようで、あっけなく体勢を崩して地面に顔面からべしゃっと落ちた。
「あーすいませーん」
「…………あー、うん――――――ぶっ殺す」
 倒れたものの、直ぐに、少し緩慢な動作だったが立ち上がる。真っ赤な顔で、ちょっと涙目になっていた。それがたまらなく愉快だった。身体が限界だと悲鳴を上げて、事実少し動かすだけでも酷く苦痛で、でもそう言う顔を見るのが、そうさせるのがとってもとっても愉しくて、精一杯強がって、喧嘩を売る。

 

 それが、今もずっと続いている。

 
 

■■■

 
 

 ――結局その後は、乱入してきた会長に二人揃って殺されかけた。

 

 喧嘩はダメなのとか言いつつ、仲裁の一撃で半径二十メートル位のクレーターを生み出すのはどうかと思う。とりあえずさっきまで命削り合ってた相手と抱き合って震えるくらいは怖かった。というか今でも少しトラウマだがと、シンは寝過ぎたせいか未だぼんやりした意識で恐怖体験を思い出してみる。

 

「あーもしもしザフィーラさん? 何かさ、目が覚めたら深夜になっててさ……ああ、うん。ちょっと風邪引いてた。寝てたら治ったけど。まあそれはいいとして、何か横で赤いのが寝てるんだけどさ、どーすんのこれ」

 

 と、八神家の最後の良心に連絡を取って、処遇の相談をしたはいいものの。返答が来る前にやたらハイテンションな女性二人の叫びが聞こえ、次いで盾の守護獣の絶叫。そこで電話は切れてしまい、以降何度かけても繋がらなくなった。
「酒入ってるな、あれは……さらばザフィーラ」
 溜息を吐いて携帯を放り投げる。聞こえてきた音声だけで、ろくに会話のできる人間が残っていないだろう事は容易に予測できた。
「しかしまあ、ベタな事するな、この人…………」
 ベッドの淵に突っ伏す様に埋もれている赤い髪を見る。多分ある程度落ち着くなり様子を見た後に引き上げようと思っていたんだろうと、シンは思う。んでそのまま寝てしまったに違いない。
 さてどうすっかなーと呟いた。時間が時間だけに他の連中に頼むのは気が引ける。とはいえこのまま放置しとくのもさすがに無理だ。ベストなのは八神家に送り届ける事なのだろうが、一応見舞いに来てくれた相手を魔窟に放り込めるほどシンは鬼畜ではないのだ。
 ――白状すると巻き込まれるのが嫌なだけだが。
「うーん……」
 手持無沙汰なので、びろんと投げ出されている赤い三つ編みの片方を弄んでみる。根元の方で髪が首筋を撫でるのか、突っ伏した赤い塊(顔が隠れてるのでそう見える)がむうむうと唸り声の様な寝言を上げる。
 頭を小突いてみる。起きない。
 肩を揺すってみる。起きない。

 

「うっわ、隙だらけでやんの」
 溜息混じりに呟いて、両手で髪の房を持ってぺしぺしと本体(頭)を叩いてみた。起きやしねえ。

 

「…………………………”どこまで”やったら、起きるのかなぁ」

 

 呟くつもりは無かったのに、思った事が口から出た。たぶん今シンは笑っている。間違いない。鏡が無くても何となくわかる。愉しいから。楽の感情とは程遠い、もっと汚くて攻撃的で嗜虐的に笑っていると自覚する。
 ぱ、と髪から手を離す。
 物事には順序があるしルールもある。物事には大小関係があって、小さい方は、弱者は、ジブンより上のモノを手に入れる事が出来ないと思うのだ。もう力が総てと言うつもりは無いが、それが必要な時も確かにある。だから欲しいものがある(いる)のなら、まずそれを越えないといけない。あと、それはとても価値のあるものだから、欲しがる連中がたくさん居るんだろう。そういうのは根こそぎ叩き潰してやらないといけない。
 たぶんもう止まらないと思う。”誰”に拒まれても、止まらないし止まれないし止まりたくない。だから強くなる。強くなりたい。強くなってみせる。圧倒的に絶対的に。誰も何も邪魔なものぜんぶぜんぶ薙ぎ払って、
 屈服させて。
 奪い取って。

 

 ――――てにいれる。

 

「……うん。ちょうちょ結びにでもしてくれようか」
 ただそれは当分先の話になりそうなので、とりあえず暇潰しも兼ねてアートでもしようかと、シンは目の前にびろんと投げ出された赤い髪の房へと再度手を伸ばす。
 その途中がっばと勢いよく赤い塊が持ち上がった。青い瞳が虚ろな目でぼんやりと虚空を見つめている。
「あ、起きました?」
「んー………………さむい」
「そりゃあそうでしょうね……潜るな潜るな布団にもぐるな」
 寝ぼけているのか、もぞもぞと暖を求めて潜航を開始しようとするヴィータの首根っこを引っ掴んで引っぺがす。体調はもうだいぶ良くなっていて、それくらい簡単にできる程度にはシンの身体は回復していた。
 猫みたいに首根っこ掴まれたヴィータが不満気に唸る。完全に寝惚けていた。
「ちょっと先輩。いい加減起きてくださいよ、おーい。ていうかどうします? 先輩の家今魔窟なんですけど……あ、寒いんなら風呂でも沸かしますか。貸しますけど」
 んぅと唸りながらヴィータが頷いた。何処に頷いたんだろうかとシンは首を傾げてみる。とはいえ確実に起きていないので、どうしたものかと考えて、まあ何か飲ませたら起きるかと立ち上がって台所へ歩き出、

 

「おふろー…………」
「――オイこら脱ぐな、脱ぐな脱ぐな脱ぐなあああぁぁ――――ッ!!!」

 

 それは後で正気にかえって俺が変態扱いされるフラグ――! と訳のわからない内容のシンの叫び声が、深夜の部屋に木霊した。それを発端としたのか、またバカ騒ぎが始まっていく――窓をブチ破って(3Fに)来訪する酔っ払い理事長とか――それは確かに突拍子もないが、積み重なってしまえばもう当たり前の”日常”だ。

 

 大変だけど。楽しいから止められない。

 

 ――台所の棚の、隅に、何時の間にかこっそり小箱が置かれていたりするのだが、本当にこっそり微妙な位置だったので発見されるのにそれなりの時間を要した。

 
 
 

突拍子の無い世界で
少し歪んだその願いを
愚かなまでに真っ直ぐに

 
 

///

 
 

 一週間後。

 

「あんなわかりにくいとこ置いてあったらそら気が付きませんて。義理程度普通に渡してくれればいいのに」
「……くたばれ! くたばれ!! くたばれ!!!」
「いでででででで!! 耳がっ、千切れ……っ! くっ、ミニマム背丈がこんな形で猛威を振るおうとはダブル(両耳)――――ッ!?」