RePlus_閑話休題二幕_中編

Last-modified: 2011-08-02 (火) 13:19:11

閑話休題二幕-中編-
"最早問答は無用である-RePlus If…Ⅱ"

西暦二千八年十二月二十四日
クリスマスイブ

「メリークリスマス!」
「「「メリークリスマス!!!」」」
 パンと空気が勢い良く弾け、クラッカーの小気味良い音がリビングに鳴り響く。
 テーブルの上には、今日と言う日の為に、はやてとシグナムが腕によりをかけた色取り取りの料理の数々が並んでいる。 
 テレビから流れるクリスマス特番は、ジャニーズとベテラン女優が祭りの音頭を取り、若手芸人が場を盛り上げるのが聞こえてくる。
 そして、八神家の家長であるはやてが、テレビに倣うように手に持ったグラスの中身を飲み干すと一年に一度だけのお祭りの開始を告げた。
 シン達未成年組は、当然コーラやオレンジなどのジュースだが、はやてとシグナムは珍しくアルコールを口にしていた。
「っつはぁああああ!この一杯の為に生きてる気がするわ!」
 はやては、グラスに並々と注がれたシャンパンを景気良く飲み干し、シーフードピザを口いっぱいに頬張る。
「主はやて、飲みすぎでは無く、いきなり飛ばし過ぎでは無いでしょうか」
 シグナムは、あまり酒に強く無い癖に、酒量だけは一級品の家主に苦言を漏らす。
 こんな日であるし飲むのは構わないのだが、あまり酔っ払ってもらうとはやての困った癖が出る為にそれは敵わないと思うシグナムだった。
「ノンノン、シグナム!今日は一年に一回の祭りみたいなもんや。仏様もイエスも手と手を取り合って、ラブアンドピースやねんから硬い事言うたあかんで」
「はぁ…」
「あかん、シグナムのグラスがもう空いとる。ティア、シグナムに早よ注いだってや。駆けつけ三杯や!」
 語法が激しく誤っているが、既に盛り上がっているはやてには常識は通用しない。
 本当に足が不自由なのかと疑いたくなる機敏さで、車椅子のままリビング内を動き回りシン達に絡み続けている。
 シンは、取り皿に取れるだけの食料を確保し、リビング隅のソファーへといち早く逃れる。
 流石に長年一緒に住んでいるだけあって、この辺りの動作が卒が無い。
 シンは、自分が安全圏に逃れた事を確認すると、好物の唐揚げを口に運び、テレビから流れてくるクリスマスソングに耳を傾ける。
 歯も浮きそうな歌詞と外人特有の妙に色気のある声が、イブの夜を盛り上げる。
 ふと、窓の外を見れば、昨日の晩から降り続いている雪がいつの間にか止んでいた。
「っつふっぅ!退避成功っと!」
絨毯の上では、ティアナがはやてに捕まり、ふくよかな胸を揉みしだかれている。
 服の上からでも胸がたわむ様子がはっきりと分かり、シンは思わず目を逸らす。
 難を逃れたスバルが、シンの隣へと滑り込みソファへと深く腰掛けた。
「やだっ、もう、はやてさん、やめっ…そこだめっ!」
 シンは、ティアナの耳朶を赤く染め上気した頬を見ていると、なんだか見てはいけない物を見ているような気がして居た堪れなくなって来る。
 それと同時に実は自分は男扱いされた無いのでは不安になる。
 はやての悪癖の一つに、主に女性限定だが胸を揉みしだくと言った癖がある。
 本人曰く「スキンシップの一環や!」と頑として譲らないが、どう考えてもはやて個人の楽しみ以外何物でも無かった。
「ちょっと、アスカ、スバル助けなさいよ!」
「ああなったはやて義姉さんは止められないって…悪いランスター、黙って生贄になってくれ」
「ごめんティア、無理」
「は、薄情者!」
「ほら、ティア、往生際が悪いで!」
「だから、そこは駄目えええ」
 両手を合わせ二人して合掌する。
 シグナムも被害が飛び火して来ては適わないと、そ知らぬ顔でスパゲティを摘んでいた。
 二人は、ティアナの断末魔を聞こえないふりをしながら、夕方近所のレンタル屋で借りてきたDVDを再生し始める。
 弦楽器の荘厳な音が流れ、往年の名曲と共にメインタイトルが画面に映し出される。
「シン君、もうちょっとそっち寄って」
「ん…あぁって・・・ナカジマくっ付き過ぎだ。もう少し向こういってくれ」
「いいじゃん別に!、こっち寒いんだもん」
 スバルの格好は室内だけあって薄着だ。 
 今日のスバルは、いつもの見慣れたジーンズ姿では無く、水色のハイネックのセーターを着て珍しくスカートをはいていた。
 二人の距離は肩と肩が触れ合う程で短く、スバルの熱が直に伝わって来るようでシンは思わず緊張してしまう。

 暫し映画に見入る八神家の面々。
 ティアナもいつの間に、はやてから開放されたのか荒い息を付きながら、はやてお気に入りのクッションを抱え、シンの足元でソファに持たれかかっていた。
 はやては、車椅子に座り、飲み物をシャンパンからワインに変え、シグナムもはやてに付き合うようにワインを口に運んでいる。
 静かな時間が流れる。
 止んでいた雪はいつの間にかまた降り出し、新調したばかりのホームシアターセットから、映画の主人公の声だけが聞こえてくる。
「今日くらいはいいだろう」とシンは、シグナムから何気無くアルコールを勧められる。
 あまり強い方では無かったが、映画と場の雰囲気に呑まれグラスを受け取った。
 琥珀色の液体を口腔に流し込むと、喉が焼けるように痛んだが、次第に気分が良くなって来る。
「大人の味だ、味わって飲めよ」と、頬を染めたシグナムが妙に色っぽかった。
 少しだけ飲んだアルコールの性だろうか、聴覚だけが変に冴え渡っている。
 今なら降り頻る雪の音だって聞こえたかも知れなかった。
 シン達は、終始無言のまま映画に魅入っていた。
 別段映画がそこまで面白い訳では無い。
 只、この静かな空間に声を発する事事態が無粋に思えたからだ。
 床下から感じる暖房とアルコールの熱気が体に回り始め、日々の疲れと共に次第に眠気が湧き出て来る。
 気が付けば、ティアナがシンの足を握ったままクッションを枕にして寝息を立てている。
 隣のスバルを見れば、眠そうに目を擦り、時折コクリコクリと舟を漕いでいた。
「ティアナは寝てしもたん?」
「見たい」
「そうかぁ」
 はやては小声で笑いながらシグナムに目配せする。
 シグナムは無言で頷き、携帯を取り出し、ナカジマ家へと電話をかけ始める。
「スバル、今日は泊まっていきな」
「ふぁい」
 スバルは小さく頷くが、また幾許かもしない内に舟を漕ぎ始める。
「これはプレゼント交換は明日やな。シン悪いけど、ティアナとスバル客間に連れて行ってくれん?」
「いいけど、布団敷いてたっけ?」
「こうなる気がしとってん。一応用意だけはしとるよ」
「そっか」
 シンは頷くと、ティアナを持ち上げ、そのままお姫様抱っこの体勢で客間に運んでいく。
「ん、一人で行けるのか」
 シグナムは、受話口に手を置き、こちらの会話が相手側に聞こえないように配慮する。
「ランスター軽いし、一人でも十分」
「そうか」
 シグナムは以外に力があるシンに驚きながら、電話越しのナカジマ家へと意識を移した。
 客間には、既に二枚の布団が敷かれ、その上に綺麗に畳まれた、はやてのお古のパジャマが置かれている。
 シンは寝入ってしまったティアナを起こさないように寝かしつける。 
 そのまま、リビングへ引き返し、スバルの肩を揺する。
 意識が完全に無かったティアナは仕方無いとしてもスバルは別である。
「ほら、ナカジマ起きろ」
「…うぅ…ん」
「そのままだと風邪引くぞ」
「…ん」
 シンはスバルを起こそうと、肩を揺らすが、スバルは薄目を開け、モゴモゴと口篭るだけでその場から動こうともしない。
 確かに夢見心地の所を起こすのは気が引けたが、シンもはやて達の後片付けを手伝わなければならないのだ。
 油を売っている暇は無い。
「ん…」
「なんだよそれ」
「…だっこ」
 スバルの手が無言で宙に差し出されるを見てシンは、頭を振るいながら嘆息する。
 しかし、その内何かを諦めたようにスバルに向けて自分の背中を差し出した。
「おんぶで我慢してくれ…」
「へへ、やった言ってみるもんだね」
「全く…」
 シンの胸の内は諦念感でいっぱいだったが、スバルの事を歳の近い妹とでも思っているのか表情は柔らかい。
「…」
「…どうしたのシン君?」
「な、なんでもない」
(あ、案外ある)
 スバルの体重よりも、薄手の生地を通して背中に感じる柔らかい何かの感触にシンは大いに戸惑った。
 シンは、平常心平常心と心の中で唱え、雑念を振り払いながら客間に向かう。
 たった五、六メートルの距離がこんなに遠いと感じたのは初めてだった。
「後、分かるよな」
「うん…」
「風呂、もうすぐ沸くけどどうする?」
「…う~ん」
 さっぱりする事より眠気の方が勝っていたのだろう。
 スバルは、僅かながら逡巡する素振りを見せるが、首を左右にふりやがて小さな欠伸を漏らした。
「そっか…一応そのままにしておくから入りかかったら、入ってくれ。やり方分かるだろ」
「うん、ありがと」
「じゃあな、ナカジマ…また明日な」
「うん、シン君、おやすみなさい」
「おやすみ」
 布団に倒れこむスバルを見ながら、シンは二人を起こさないように静かにドアを締めた。

 クリスマスイブの深夜。
 昨日から降り続いている雪のお陰で、庭は一面銀世界の模様を見せていた。
 シンも片付けを手伝い、風呂に入れば特にやる事も無くなって来る。
 深夜のバラエティもクリスマス模様を見せ、水着姿でもサンタの恰好をしたアイドルが、騒がし
く話しながらボーリング大会に興じていた。
「まだ、起きていたのか、アスカ」
「ん?まぁね」
「もう寝るんだぞ。あまり遅くまで起きていてはサンタが困ってしまう」
「うち、煙突ないけど」
「ならば、主はやてに上申して、来年こそ付けて貰おう」
 微笑むシグナムにシンは顔を引き攣らせながら曖昧に頷く。
 シグナムの冗談は、嘘か本当か判断に困る事がある。
 シンは、苦笑いを浮かべながら、湯冷めする前に自分の部屋へと引き返した。
 部屋の中は、暖房が効いていた一階とは違い寒い位にひんやりとしている。
 シンは、暖房のタイマーをかけ、布団に潜り込もうとして、カーテンが開きっ放しである事に気
が付いた。
 恐らくこの分では雨戸も開いたままだろう。
 別に開いたままでも困らないが、明日の朝結露で窓際が水浸しになるのは面倒臭かった。
 シンは、寒いと毒づきながらもベットから這い出てカーテンを手に取る。
 何気無く窓の外を見ると、先刻より勢いをました雪が、中庭と屋根や道路を白く染め上げようと
奮戦していた。
 耳が痛い位にとても静かな夜だ。
 こう言う日は何かが起こるのだ。
 あの時もそうだった。
 シンの人生を変えてしまった忌まわしき事件。
 アメリカ、中国、イギリス、日本、フランス、先進発展途上国問わず、四年前に起きた全世界で
発生した同時多発テロにシンは巻き込まれた。
 シンの故郷のオーブも例に漏れずテロの標的となった。
 正確に言えば、オーブは国家では無い。
 世界を牛耳る政財界の猛者や投資ファンド連合、ヨーロピアン系の貴族崩れが、地球と人類の未
来を考える有志一同と名を変え、東南アジアの島国を買収し、国連すら監察化においた超法規的合
同企業体の総称だ。
 オーブも幾つかの企業本社や研修施設が爆破され、シンが通う学校も標的となった。
 数人の友人と妹と人質に取られ、目の前で名も知らない大人達が撃ち殺されるのも目撃した。
 オーブ内のテロは、モルゲンレーテの直轄部隊である私設武装組織"ブルーコスモス"がすぐさま
制圧したが、世界では今尚テロの痕跡が色濃く残っている。 
 国連主導の元で"テロ根絶"宣言がなされ、全世界は一つにまとまりかけている。
 しかし、化石燃料に変わる代替エネルギーの確保や日々開発される新技術の利権を巡る国家間の
闘争は終わる気配を見せず、世界情勢は混迷を極め、戦争の種火は世界中で燻り、世界はまさに爆
発寸前の火薬庫同然だった。
 そして、シンは逃げるようにオーブを後にする事となる。
 あるはずの無い左腕が軋むように痛む。
 シンは、机の上に置かれた義手を忌々しく見つめ、もう過ぎた事だと自分に言い聞かせるように
深い溜息をついた。
「ナカジマ…?」
 雨戸を閉めようと窓から身を乗り出すと、この寒いのに上着も着ずにシンの部屋を見つめている
スバルと目があった。
 スバルの口が「ヤッホー」と動きシンと目が合うや否や、嬉しそうに手を振りながらその場で飛
び跳ねている。
 シンは頭を抱えながら、自分のダウンジャケットを手に取り、音を立てないように忍び足で、だ
が、なるべく急いで中庭へと下りていった。

「何してるんだよ」
「へへぇ」
 一体どの位その場に立ち尽くしていたのだろうか。スバルの頭には雪が薄っすらと積もり、握っ
た手は冷え切っていた。
 体の様子と反対にスバルは妙に上機嫌で、シンの顔を見つめ笑顔を絶やさない。 
「もう寝たのかと思っちゃった」
「寝る寸前だった…いつから立ってたんだよ」
 何が目的でとは聞かない。
 いつだってスバルは、シンの想像の斜め上を行くのだ。
 長年の付き合いからこそ良く分かる。こう言う時のスバルを相手にする時は、真剣に考えた方が
馬鹿を見るのだ。
 今だって「UFOを探してたら、シン君と目が合った」と答えられたら、どうしようとシンは内
心冷や冷やしていた。
「…えっとね、大した事無いよ。一時間位かな」
 シンは嘆息し、自分のダウンジャケットを無言でスバルに差し出す。
 暫く買い換えていない為、デザインも古く年代物だが、保温性だけは折り紙つきだ。
「…ありがと」
 スバルは、受け取ったジャケットを羽織り、尚もまた降っている雪に身を任せている。
「何してるか知らないけど、風邪引くなよ」

「…見てた」
「ん?」
「見てたんだ…」
 蚊も鳴くような小さな声。スバルが何か喋っているのは分かったが、声が小さすぎて語尾が聞こえない。 
「何を?」
「シン君の部屋」
 今度はしっかりと聞き取る事が出来た。 
「なんでまた?用があるなら来ればいいだろ」
 頭の上に疑問符を浮かべ怪訝そうな顔をするシン。
 スバルは、その顔を見て最もだと思い微苦笑を漏らす。
 互いに知らない仲では無く、いつも無遠慮にシンの部屋に上がっていたスバルだ。
 今更何の遠慮があろうかと言う物で事後承諾の塊のようなものである。
 シンは知らない事だが、スバルは、シンが皆に内緒でひそかに練習しているギターの置き場所も、やんごと無き画像が入ったパソコンの謎フォルダの位置も全部知っていたりする。
 前者は偶然だが後者はティアナとシグナムと共謀しての行動だ。
 いけない事と分かっていても、罪悪感よりも好奇心の方が勝ってしまった。
 顔を赤くしながら、画像と映像データを食い入るように見たのは三人だけの秘密だ。
 そんなこんなでスバルは、シンの好きな本も漫画も女性のタイプも好物も何だって知っているつもりだった。
 もう四年近くもずっと一緒に居るのだ。
 阿吽の呼吸と言わなくとも、スバルはシンが何を考えているのか大体分かるし、親友の気持ちの変化にも気が付かないわけが無かった。
 家族と言っても差し支えない時間が、三人の関係を強固にし、より曖昧にしてしまっていた。
「私…決めてたんだ」
 その先は決して言わせてはならない。
 言えば何かが決定的に変わってしまうような気がして、シンは無意識に恐怖を覚えた。
「もし、このまま、雪が止むまでに、シン君が窓から顔だしたら…自分に素直になろうって…でも、中々気づいて貰えなくて正直に言えばちょっと凹んでた。でも、もう、やめよっかなって思ったら、やっぱり、もうちょっとって思い直して。気が付いたら…シン君がちゃんと見つけてくれた」
 闇が支配する夜でも、月明かりのような儚くも美しい笑みでは無く、スバルの笑顔はまるで太陽のように輝き辺りを力強く照らしている。
 彼女には、果たして"迷い"といった感情はあるのだろうか。
 ただ純粋に己の信じた道を突き進むスバルの生き方は、他の人に見れば滑稽に映るかもしれないが、斜に構える事の多いシンから見れば、スバルの生き方にはある種憧憬のすら感じさせられるのだ
「シン君は・・・誰が好きなの?」
「えっ・・・」
 積もった雪を踏みしだき、スバルはシンへの距離を勇気を持って一歩だけ縮める。
 唐突であるとスバル自身も自覚している。
 今まで必死に秘めて来た思いを何故今このタイミングで告白しなければならないのか。 
 時期的には問題ないが、何分スバルの覚悟が座りきっておらず準備不足は明白だった。
 始まりなどもう覚えていない。
 スバルは気が付けば、シンの事を目で追っていたし、自分自身シンの行動に一喜一憂しているのが良く分かっていた。
「私知ってるよ…ティアがシン君に好きだって言ったの」
「み、見てたのか」
 シンの体が硬直する。
 動揺しているのか、声が激しく上擦っている。
 誰にも見られていないと思っていた告白シーンが、寄りにもよってスバルに目撃されていたのかも知れないのだ。
 動揺もすると言うものだ。
「ティアが喋ったわけじゃ無いよ…その何となくだったんだけど…ごめん今ので確信しちゃった。シン君態度に出すぎだよ」
 このタイミング、この状況下でカマを掛けたと言うのか。
 シンは、普段と様子の違うスバルに既にイッパイイッパイの様子を見せていると言うのに、スバルにはある種の余裕すら感じられる。
 いつもとは違い攻守が完全に入れ代わり、シンの実は弱く脆い心の本丸がスバルによって怒涛の如く攻め込まれ制圧されかかっていた。
「うん…だから、私も自分の気持ち言うね」
「お、おい」
 ゴクリと生唾を飲み込む。
 唇がかさかさに乾き、真冬の深夜だと言うのに全身が火照り汗が止まらない。
「…多分私もシン君の事…好き…この気持ちに嘘は無いよ」
 今尚雪が静かに降り積もる中でスバルが優しく微笑んだ。
 スバルの告白を聞いた瞬間、シンは世界が停止したような錯覚を覚えた。
 いや、比喩では無く本当に世界が止まっていたのかも知れない。
 雪も月明かりも自分の呼吸さえも、神様が悪戯したようにかき回され、動き出す気配すら感じられない。

 変化が無いと思っていたシンの生活は、二人の少女によって春先の雪溶け水のように濁流を伴って変わっていく。
 答えが見つからない。
 どう考えて良いか分からない。
 目の前に起こった現実に翻弄されて、何をどうすれば良いのか分からない。 
 妹や男友達のように接してきたはずのスバルが、異性と言う鎧を身に纏い、恋心と言う名のナイフをシンへと問答無用で付きたてた。
 スバルのナイフは、シンの心臓深くに突き刺さり、外気に晒された傷口が熱を持ち、治まる事を知らない心臓の鼓動は、シンの全身を強く揺さぶる。
 ただ、胸の奥から込み上げて来る甘酸っぱさとティアナに対する後ろめたさ、そして、それとは別にモヤモヤとした正体不明の感覚にシンは戸惑う事しか出来ない。
 何か言わなければならない。
 だが、焦れば焦る程、言葉は口腔を揺らすだけで、脳裏に思い描いた歯も浮くような台詞は記憶の海に消えていくだけだ。
 と言うか、シンは動揺のし過ぎで目が泳ぎっぱなしだった。
「答え…は…その、し、試験終わってからでいいから」
 今更恥ずかしさがこみ上げて来たのだろうか。
 耳朶どころか、全身真っ赤に染めたスバルが、シンの横を猛スピードで駆け抜けて行く。
 どっと疲れたシンは、雪で濡れるのも構わず、脱力したようにその場に座り込む。

『私…アンタの事好きかも』
『…多分私もシン君の事…好き…この気持ちにきっと嘘は無いよ』
 
 雪の中で、シンの目の前に、二枚のカードが浮かびふわふわと忙しく回り続けている。
 手を伸ばせば容易に手に入る幸運に、何故こうまで自分は戸惑っているのだろう。
 恐らくどちらを選んでも、どちらかが悲しむ結果になるからだろう。
 それこそ、両方選ばない限り何にしても角は立つ。
 どちらも選ばないと言う選択肢もあるが、それも可笑しな話である。
 決定権はシンに委ねられているが、そもそも自分に選択の権利などあるのだろうか。
 当然、たった一つの冴えたやり方など思う浮かぶはずも無く、シンは途方に暮れてしまう。
 進路、将来、恋人、家族。
 同時に降りかかってきた幾つもの難題に、シンは目の前の出来事に対処するので精一杯で周りが見えていない。
 見えるはずも無い。
 シンは、他人より悲惨な出来事にあったとは言え、それだけで精神が成熟する程大人では無い。
 こんな短い期間の間に、劇的な変化が連続して訪れれば、機能停止の一つもするだろう。
 シンの脳裏に天使と悪魔がラッパを吹き鳴らしタンゴを踊っているが見え、空色の瞳を持つ義姉がニコヤカに笑いながら、気の早い餅つきを始めていた。
 この時この瞬間からシンの日常は膨らみ加速していく事となる。
 シンの生活には変化の無い変化など既に存在せず、運命の開幕ベルがが鳴ったと言わんばかりに悲喜劇が進んでいく。
 シンは、ティアナの気持ちも、スバルも気持ちも、自分自身の気持ちさえも持て余し、第三者の視線にまたも気が付かない。
 物陰で何かに耐えるようにじっと息を潜めるシグナムに気が付かない。
 気が付かないからこそ、この悲喜劇は加速する。
 彼はそう遠く無い未来、己に待ち受ける運命をまだ知らない。 
 知る余地も無かった。

西暦二千九年元旦

「明けまして」
「「おめでとうございます」」
「本年も」
「「宜しくお願い致します」」
 シンは、結局あれから答えらしい答えを出す事も出来ないまま新年を迎える事となる。
 二年参りで起き抜けのシンを着物に着替えたはやてとシグナムが迎え、そのまま和机の上でおせち料理に舌鼓を打った。
 年末の大掃除も大晦日の晩も初詣も、いつもとなんら変わらぬ日常がそれこそ拍子抜けする程穏やかに流れて行った。
 シンに告白した渦中の二人は、本当にシンの受験が終わるまで待つつもりなのか、普段と変わらぬ態度でシンに接して来る。
 それがシンにとっては、また堪らず、まるで、自分が何かどうしようも無い駄目野郎なのでは無いかと自問する毎日が続いているのだ。
「どうした浮かない顔をして」
「いや、別に…」
 ボウ鱈片手に持ったまま固まっていて、何でも無い訳は無いだろうに。
 シグナムの額から冷たい汗が流れるが、見なかった事にして数の子に手を伸ばす。
 シグナムは、難しい年頃で色々あるものだと静観を決め込み、漬け方が甘かった数の子に眉を潜めた。
「シン、今日は勉強どうするん。休むんやったら、私らちょっと出かけたいねんやけど、留守番頼めるかな?」
「ん、分かった。俺、上で勉強してるから戸締りだけ宜しく」
「はいな。でも、シン熱心すぎへんかな。昨日も初詣帰ってからも勉強しとったやろ。元旦位休んでも受験の神様も罰をあてへんと思うよ」
「休みたいのは山々だけど、落ちるわけにはいかないって言うか。それに、受験の神様は、平等になにもしてくれない。信じるは自分の学力だけ」
「ほほぉ。何か燃える理由でも出来たん?」
「まぁね」
 シンは、栗きんとんを口に放り込み急ぎ早に自室に戻って行く。
 進学に対してあまり積極的で無かったやる気を見せている。
 はやては、何か変な物でも食べたのだろうか、数の子を口に含みシグナムと同じく眉を潜めた。
「…シグナム」
「はい、主はやて…」
「これ、味がせえへん」
「…面目ございません」
 うな垂れるシグナムを見て、はやては、シグナムの方がある意味シンよりも重症だと溜息を漏らした。

 時間は幾らあっても足りない気がする。
 赤本と参考書を何度往復しても、本当に実力がついているのか実感が持てない。
 シンが気が付くと辺りはもうすっかり日が暮れていた。
 特に勉強が捗った気もせず、小腹が空いたシンは、食料を求め冬眠明けの熊のように一階へと降りて行った。
「おかえり。あれ義姉さん着物脱いじゃったんだ」
 いつの間に帰ってきたのか、セーター姿のはやてがリビングのソファーに腰を下ろし正月特番を目を通していた。。
「ああ言うのは、気分で着るもんやねんで。いつまでも着るもんや無い。それに、シンは知らんかもしれへんけどあれ結構重いんよ。肩こって仕方ないんや」
「そんなもん?」
「そんなもんや」
 苦笑するはやてにシンも頷き、冷蔵庫から取り出した牛乳を飲みながら曖昧に頷く。
「あれ、シグナム義姉さんは?」
「ん、部屋ちゃうか。学校のレポート仕上げる言うてたわ」
「元旦なのに」
「元旦なんにね」
「自分だって、勉強の虫じゃ無いか」
「やっぱそない思う?」
 互いに微苦笑しながら頷きあう。
「そう言う訳やから、シグナムにお茶の給仕でもしてやってくれへん」
「執事でもメイドでも」
「よろしゅう」
 実際面倒臭がりなはやてだった。

「義姉さん入るよ」
「ああ」
 シグナムは、薄暗い部屋の中で机に齧り付き万年執片手に原稿用紙と格闘していた。
 シグナムの部屋は、一言で言えば小さな図書館だった。
 数々の専門書が所狭しと立ち並び、学会誌がポストラックにナンバリングされキチンと整理整頓されている。
 今時、ワープロソフトも使わず、直筆でレポートを仕上げる等聞いた事無かったが、シグナム曰くこのスタイルが一番頭が働くそうだ。
 アルバイトの一環で、シンは何度かシグナムの書いたレポートをパソコンで書き写した事がある。ドイツ語だがフランス語だかで書かれたレポートは何が書いてあるのかさっぱり分からなかったが、時折出てくるSEEDやZGMFと書かれた単語は頻繁に目にしていた。
「お茶入れてきたけど」
「…そうか、なら少し休憩しようか」
 シグナムは、近眼と言う訳では無いが何かに集中する時だけ眼鏡をかける癖がある。
 ノンフレームの眼鏡が、蛍光灯の光に反射し鈍く光った。
 シグナムも既に着物姿では無くはやてと同じセーター姿だ。
 シグナムは、ミニデスクを取り出しそこへとシンを促す。

「何してるの?」
「読んでみるか?」
 シグナムはそう言って分厚い原稿をシンへ渡す。
 数センチはある原稿から、万年筆のインクの独特の匂いが漂って来る。
「Superior Evolutionary Element Destined-factor…優れた種への進化の要素である事を運命付けられた因子でいいの」
「概ねな当たってるな」
 シグナムが苦笑しながら紅茶に口をつける。
 実際造語である為直接訳とはしては間違っていない。
 ローズマリーの香りが鼻腔を擽り、シグナムは苦味の底にある甘みを楽しむ。
「義姉さん機械工学部じゃなかったけ?」
「そうだが…知らなかったのか」
「いや、そんなわけ無いって。機械専攻で、何で理工学部見たいな事やってるんだよ」
 足を組んだシグナムは、万年筆を額に当て困ったと言った風な態度を取る。
「そうだな…少し難しい話なるが…一応守秘義務をあるんだが…」
「言い難かったらいいけど」
「すまんな…まぁ大学は企業との関係が密な事が多いから、その辺の機微は研究室に入れば分かるさ」
 シグナムは、苦笑いしながらお茶請けのクッキーを摘む。
 シグナムの薄く引いたルージュが室内灯に照らされ艶まかしく光る。
「まぁ、私の事はいいさ。ところでアスカ、お前最近妙に張り切ってるようだな、何かあったのか?」
「そ、そうでも無いよ」
 嘘だった。
 クリスマスイブの晩、スバルにも告白されてから、シンは迷いを振り切るように勉強に打ち込んでいた。
 二人の想いに真摯に答える為に受験を頑張ると言うより、勉強している間は何も考えないで済む事の方があり難かったからだ。
「謙遜するな。正直に言えば受験に限った事では無いが、お前はあまり物事に真剣になれない節があったからな。心配してたんだよ。私の弟は本当に大丈夫かって。このまま何事もやる気を見せず人生を過ごして行くんじゃ無いかと内心冷や冷やしてた」
「別にそんな事は」
 忍び笑いを漏らすシグナムに、シンは頬を膨らませ拗ねたように視線を切ってしまう。
 その様子があまりに予想通りでシグナムはまた忍び笑いを漏らす。
「最近のお前を見てると、それが杞憂に終わりそうで実は少し安心してる」
「…酷いよ」
 ティーカップを置きバツが悪そうに髪をかくシン。
「別にやる気が無いってわけじゃ」
「分かってるさ。お前の事は本当に良く分かってる」
 シグナムの憂いを含んだ表情にシンの心臓が一度だけトクンと鳴る。
「褒められてる気がしない」
「はは、褒めてるわけじゃ無いが、ほらこっちまでちょっと来い」
 立ち上がり座ったままのシグナムの前へと立つシン。
「もう、あの二人からも貰っているかもしれんが」
 シグナムは、机の引き出しからお守りを二つ取り出す。
 近所の神社の物では無く、刺繍された名前から学業成就で有名な神社だった。
「こっちが合格祈願のでこっちが身体健全だ」
 確かにシグナムの言う通り、シンはティアナと二人からお守りを貰っていた。
 シンは、敵わないなと思いながら、シグナムからお守りを受けとる。
 深緑色の唐草模様と健康第一と書かれた白いお守り。
 手触りと薄ら香る香の匂いは心が落ち着く気がした。
「これ、確か県境の神社の。あんなとこまでわざわざ行ったの。それに結構並んだんじゃ」
「あ、ああ…まぁな。主はやてと一緒にな。案外混んでて時間がかかったが、そんなに対した事じゃ無い。運転したのは主はやてだし、私は隣に乗ってただけだ。ついでに言えば…」
「ありがとう義姉さん。俺、嬉しいよ。白状すれば、ランスターとナカジマにも貰ってるけど、やっぱり義姉さんから貰えるのも俺…嬉しい」
「あ、あぁ…そ、そうか」
 シグナムが言い終える前に、満面の笑みを浮かべ微笑むシン。
 シグナムは、指摘された事が照れくさかったのか、それとも想像上に嬉しがられた事の方か、頬を僅かに朱に染め机に肩肘を付きシンから視線を外す。
「と、とにかく。センター試験までもう直ぐだ、頑張れよ」
「俺、やってみるよ。ありがとう」
 シンは義姉の気遣いが嬉しかったのか、微笑みながらシグナムからお守りを受け取る。
 その様子を見たシグナムは、躊躇うように、しかし、何かを決意した瞳でシンを見つめる。
「アスカ、ちょっとこっちへ来い」
 シンは、シグナムのあまりに真剣な表情に何事かと思うが、素直にシグナムの元へと歩みよる。
「……」
 シンを無言で威圧するように睨みつけるシグナム。
 心無しか利き手が小刻みに震えている。
 義姉のあまりの迫力に一瞬叩かれるかと目を瞑ったシンだが、次に感じたのは痛みでは無く、シンの髪をおっかなびっくり撫でている感触だった。

「義姉さん?」
「黙っていろ…たまにはいいはずだ」
 シグナムは、無言でシンの寝癖の残る髪を撫で続ける。
 はやてのように優しく慣れた手付きでは無く、まるで食器にこびり付いた油汚れを落とすように力任せに手を動かしている。 
「義姉さん痛いって」
「ん…あぁすまん」
 シグナムの手に髪が絡まって何本か抜ける。
 流石に悪いと思ったのか、シグナムは手の力を抜きシンの頭をなるべく優しく撫で始める。
 はやてとオーブに居る両親以外に、あまり頭を撫でられた経験が無いシンは、それだけでむず痒い気持ちになる。
 最初は緊張して硬かったシグナムの表情も、時間が経つに連れ慣れてきたのか次第に柔らかくなりはじめる。
 どれくらい撫でられていただろうか。
 ついさっき温水器が鳴ったのが聞こえたから、随分長い時間撫でられている気がする。
 シンを見つめるシグナムの表情はいつも通りだ。
 理知的で凛々しくて格好良い義姉。
 まだ、子供っぽい所があるとは言え、シンも十八歳を迎えた大人だ。
 遥か昔ならばとうに元服を迎え、成人扱いされている年齢なのだ。
 そんな女性の部屋で二人っきりのままで、ずっと頭を撫でられ続けている状態は、シンにとって精神的に非常に宜しく無かった。
 気恥ずかしいのでは無く、心の底から競り上がって来る"本能"を"理性"で必死に抑え付け、義姉としてのシグナムと向かい合おうとして必死だった。
 薄手のセーターから出た肩口も、足と腰のラインが強調されたジーンズも、憂いを含んだ義姉のいつもの表情も、シンにとって全てが甘い毒でしか無い。
 落ち着かずそわそわとするシンに、言葉こそ発していないが、シグナムの瞳が「どうかしたのか」と雄弁に語っている。 
 シンは馬鹿な想像を無言で振り払い「何でも無い」と首肯する。
 しかし、なんだろうか。
 今日のシグナムはいつもと少し違う気がする。
 全体と通して見れば、いつのもシグナムだが、薄皮一枚の違和感と言えばいいのだろうか。
 掛け続けていた仮面が剥がれかけ、理性で必死に繋ぎとめようしているのにも関わらず、一抹の寂しさと罪悪感が見え隠れしている。
 そんな気がしてならないのだ。
 思わず「義姉さん」と口走りそうになるが、シグナムの白く綺麗な指がシンの唇に当てられ、何でも無いと無言で制された。  
『メールガトドイテイマス』
 スピーカーから間の抜けた合成音声が流れ、パソコンが自動で立ち上がる。
 セキュリティソフトが起動し、シグナ宛てに届いたメールをスキャンし始めた。
「時間をとらせたようだ。もう遅い。勉強するにしても寝るにしても暖かくするんだぞ」
「あ・・・うん」
 シグナムは、シンの頭を撫でる事を止めパソコンの方へと席を立つ。
 シンは、どこか納得出来ないと様子だったが、曖昧な返事を残し部屋を後にする。  
「おやすみ、シン」
「おやすみ、義姉さん」
 部屋を出てドアを静かに閉めた後シンは初めてある事に気が付いた。
「…俺の名前」
 吐く息が白く薄暗い廊下は、出口の無いトンネルを彷彿させる。
 トンネルならばいつかは抜けるが、今のシンの心情は、この廊下のように出口が無く延々と暗闇が続くトンネルのようなものだ。
 西暦二千九年年元旦。
 八神家に来て初めて、シグナムがシンの事を名前で呼んだ日だった。

一月十七日
センター試験当日

 センター試験当日と言っても得にやる事は無い。
 悲しい話だが、勉強はやった分しか自身に帰って来ないものだ。
 そんな訳でセンター試験当日と言ってもシンの様子は、特になんら変わる事は無かった。
 精々朝からシグナム特製のカツ丼をたらふく食わされた結果異常に胃がもたれ、はやてに
キットカットを三袋も持たされた荷物がかさ張った程度だったが、ティアナ、スバル含めた
八神家総出の送り迎えだけは人の目が気になって勘弁して欲しいと思うシンだった。
 中にはクラス単位で送迎する学校もあるようだが、シンの学校は自己責任の名の下に今時珍しく放任主義だった。
「それで出来たのかよ」
「まぁ大丈夫だろ」
「さよか」
 帰り道でに偶然会ったヨコミゾと近所のファミリーレストランに入る。
 本当はすぐに帰ってはやて達に報告するべきなのだが何故か気分が乗らなかった。
「なんか、心配事でもあんのか?」
「別に…」
「沢尻かよ」
 こんな時は何を言っても無駄だとばかり、ヨコミゾは席についても黙ったままだ。 
 仏頂面のシンを見て、ヨコミゾは苦笑しながら、ドリンクバーで作ったペプシとメロンソーダを喉に流し込む。
 黒に何を混ぜて黒なのだが、ペプシソーダの絶妙な色具合は実に食欲を減退させる。
「まぁいいや…今日は久々にお前の顔見れたしな」
 ヨコミゾは、卒業すると同時に大学の寮に入る事が決まっている。
 隣の県にある大学だだが、これまで通り付き合う事はまず無いだろう。
 シンにこれからの未来があるように、ヨコミゾにはこれからの未来がある。 
 出会いと別離は誰にでも平等にある。
 縁その物が無くなる訳では無いが、薄く細くなる事は必然なのだ。
「将来…か」
「ああん?」
 知らずに口に出る。
 あまりに突拍子も無い言葉にヨコミゾは怪訝な顔をするも、シンの真剣その物の顔に自身の気持ちを引き締める。
「何か悩んでるのか」
 この土壇場にとは口が裂けても言えない。
 ヨコミゾ自身、この一年受験とは関係無い世界に身を置いていた身だ。
 最前線で努力していた受験生達とは海より深く、宇宙よりも広い認識のズレがある。
「何かってわけじゃけど…」
「そうか…」
 普段の様子とは違い、どうにも歯切れの悪いシンにヨコミゾは嘆息する。
 しかし、無理に聞き出して仕方が無い上に、明日も試験が控えているのだ。
 中途半端な助言は互いの為に良くないし、シンの一生が左右される日なのだ。
 嫌な言い方だが、ヨコミゾにはそこまで責任は持てないし、シンも困るだろう。
 勝手な思い込みかも知れないが、きっとシンは不安なのだろう。
 形と細別も違うが、ヨコミゾだって新生活を控え不安を抱えている。
 シンとは違い自分は安全地帯にいるだけで切羽詰った状態では無いだけだ。
「会えなくなるんだよな…」
「…今迄通りってのは無理だなよな」
「だよなぁ」
 互いに頷きあい苦笑する。
 二人が今度出合った時、今感じているような気持ちで互いに会う事は決して無いだろう。
 住む世界が変わっていく。
 今迄漠然としていた"将来"と言う未来が実像を伴い、決して逃れる事が出来ない不安となってシン達に圧し掛かってくる時期だ。
 ヨコミゾは、変化を恐れているいるわけでは無く、ただ戸惑っているだけだ。
 しかし、シンは変化を恐れ、手にした平穏が変わっていく事に強い恐怖を覚えていた。
『でも、誰と分かれても誰と出合っても、家族とは最後まで一緒に居れるものじゃ無いか?』
 今も別れ際のヨコミゾの言葉が耳に残っている。
「変わる物と変わらない物か」
 商店街を抜けいつもの誰も居ない道を一人で只歩く。
 見知った道のはずが、人が居ないだけこうも印象が変わるものだろうか。
 まるで、シンの心根を代弁するように薄い靄がかかった様にくすんでいる。
 シンには耐え難い傷がある。
 四年前の世界中で起きた同時多発テロ。
 不幸にもシンと妹のマユはテロリストに人質に取られた。
 些細な行き違いから激昂したテロリストの一人がマユに散弾銃を向けた。
 シンは、テロリストに散弾銃を向けられ、泣き喚くマユを左手を犠牲にしながらも何とか助けた。
 散弾が至近距離で左腕に命中し、シンは肉と骨が嫌な音を立て砕け散る音を確かに聞いた。
 床に夥しい量の血を流しながらも、シンは、千切れた左腕に目もくれず妹を守りたい一心で残った右腕でテロリストを殴りつけた。
 その瞬間、突入の機会を窺っていた特殊部隊がシンの特攻を契機に教室内に雪崩れ込んだ来た。
 煙幕の中で暴徒鎮圧用の電気銃の光が彼方此方で見え隠れする。

「マユ…マユ」
 夢遊病のように妹の名前を呟く。
 勝気でおしゃまで甘えたがりの妹。
 シンが買った新作ゲームを、何度言ってもいつも自分より先にクリアしてしまう妹。
 お菓子作りが趣味で、クッキーを焼いてはシンを実験台と称し良く食べさせてくれた。
「助け…るんだ」
 シンは、床を這いずり必死にマユを探す。
 テロリストも特殊部隊も、シンに瞳には入っていない。
 妹を助けるたい一心で、気絶しそうな精神を気力で振り絞りマユを探す。 
 そして、シンは、教室の隅で耳と目を紡ぎ震えながらじゃがみ込んでいるマユを見つける。
 運命は時に残酷だ。
 ここでシンが気絶し、二人が病院で再会していれば、誰も傷つかず悲劇は起きる事は無かっただろう。
「マユ…」
「お兄ちゃん!」
 弾かれるように視線を上げ、まるで、ヒーローが現れたとでも言うように歓喜の声を上げるマユ。
 しかし、マユの目の前に居たのは、ヒーローでは無く血に塗れ死の気配を身に纏ったシンだった。
「…やだあああああ!」
 シンがマユから与えられた感情は、感謝では無く恐怖だった。
 失血が酷く顔面を蒼白にしながらも、マユをこれ以上怖がらせまいと必死に笑顔を向け手を伸ばした。
 しかし、マユは、瞳の色と同じように、全身を赤く染め薄ら寒く微笑むシンに恐怖を覚え絶叫と共にシンの手を振り払った。
 マユは当時九歳の子供だ。
 体も精神も未熟な彼女に、肉親とは言え体の一部を失い血まみれの人間が手をさし伸ばしているのだ。
 客観的に見ても恐怖を覚えるなと言う方が無理だった。 
 シンは、あれ以来マユを一度も話していない。
 妹を守れた事より傷つけてしまった事の方がシンに取ってはショックだった。
 結局シンは、事件後一度もマユを会話をする事無くオーブを逃げるように後にする。
 空港ですまなさそうに顔を伏せる両親の顔が印象的だった。
『すまない…シン、私達は親失格だ』 
 涙を流す父親を見てシンは、事件後初めて涙を流した。
 何を馬鹿な事をシンは思う。
 父さんと母さんは傷付いたマユを必死に守ってるじゃ無いか。
 俺は何も出来なかった。 
 怖がってるマユを助ける所か逆に怖がらせて、そして、傷つけた。
 兄が妹を守る事は当然の事で、それすら出来なかった自分こそ兄失格であり、しいては家族失格では無いか。
 幾つも感情が束となって内から溢れ出よう暴れるが、喉を震わすだけに留まった。
『ごめん…』
 それは、果たして誰に向けた謝罪なのだろうか。
 シンは、少ない手荷物を持ち日本へと旅立った。
 いつの間にかシンは、八神家の前に立ち無言のまま玄関を見つめていた。
 表札には、八神はやて、シグナム、シンと順に書き込まれている。
 シンもシグナムも八神姓では無いのだが、シンが八神家に来て一周年記念に用意されたものだった。
 自分はこれを見て居たのだろうか。 
 考えに没頭すると周りが見え無くなるのは、シンの悪い癖だ。 
 玄関を空け靴を脱ぐと、廊下の奥からドヤドヤと数人の足音が聞こえ、スバルを先頭にティアナとシグナムが玄関に雪崩込んで来る。
「た、ただいま…」
 シンは、三人の剣幕に押され思わず鞄を取り落とす。
「今何時だと思っているのだ馬鹿者が!」
「ただいまじゃ無いわよ馬鹿アスカ!」
「すっごい心配したんよシン君」
「え…ああ、ごめん」
 三人に気圧されるように徐々に後ろに下がっていく。
 三人に矢継ぎ早に文句を言われながら、もうこれ以上下がれないと言う所で、苦笑いしながら登場した車椅子の義姉に救われた。
(違う…きっと、全部が変わって行くんだ)
 大学受験と将来。
 ティアナとスバルからの告白。
 妹との関係。
 変化はシンの目前にまで迫っている。 
 シンはまだ何一つ解決出来ていない。
 問題は山積み。
 案件事項は未解決過多。
 人生は、シンの処理限界を当の昔に超えている。
 だが、シンは、一つずつ片付けていこうとここに来て漸く決心を固めた。
 差し当たっては、明日センター試験だ。
 人間は現金なものだ。
 決意した瞬間、少しだけ心が軽くなった気がする。
「…さて、明日も頑張るか」
 シンの妙に晴れ晴れとした表情を見て、三者三様の表情を浮かべるシグナム達だった。

 未来は不確定だ。
 自身の何気ない行動一つで、予想も付かない結果が導き出される事がある。
「ええんやね…シグナム」
「…はい、もう決めた事ですから」
「そうかぁ…」
 何かを決意し、酷く重苦しい口調のシグナムを前にはやては深い溜息を漏らした。 
 シンの思惑とは別に運命は静かに動き出そうとしていた。

 前期試験当日
 センター試験も無事突破し、意気揚々とは行かなくとも、それなりの自信を胸にシンは試験当日を迎えた。
 いつもより一時間も早く起き、義手の調整も慎重に慎重を重ねた。
 利き手では無いとは言え、もし、義手が調整不良でも起こそうものなら、例え大事に至らなくても精神的に動揺する事は明白だった。
 兎に角シンは物事を一つずつ片付けていくと決心したのだ。
 まずは、受験、そして、次にティアナとスバルの事だ。
 次に控えている事が、難易度が高すぎる気がしたが文句を言っても始まらない。
 ここで躓くわけには行かなかった。 
「おはよう」
「おはよう、アスカ。今日は早いな」
「本番だし、流石に遅刻出来ないって」
「それはそうだ」
 シンとシグナムは互いに微笑合い、シンは冷蔵庫の中から牛乳を取り出しコップに注ぎ、一気に飲み干した。
 牛乳の冷たさと甘みが喉を駆け抜け、味噌汁のいい香りがシンの鼻腔を擽る。
 いつのも朝にいつものやり取り。
 何ら変わる事の無い日常にシンは安堵していた。
 シグナムが、シンの事を名前で呼んだのは元旦一日だけだった。
 翌日にはいつもの通り"アスカ"と呼ばれ、シンは、何事だったのかと煩悶とした時間を返して欲しかった。
 シグナムは、シンがクリスマスに用意した赤いエプロンを身に付け鍋をかき混ぜている。
 使って貰う為に用意したのに、勿体無いと散々使うのを渋られてた。
 そんなわけでエプロンは、クリスマスから約二ヶ月経って漸く本来の役目に付く事となった。
「少し待っていろ、もう直ぐ出来る」
「分かったよ」
 まるで、朝食が出来上がる頃合を計っているように、ティアナとスバルが到着するのだが、流石にまだ来る気配を見せない。
 はやてもまだ支度中のようで、久しぶりに義姉弟水入らずの時間だった。
「ついに本番だな」
「うん…やれる事はやったし」
「そうか」
 シグナムは、微笑みながら急須から湯飲みにお茶を注ぐ。
 湯飲みから白い湯気が立ち昇る。
「牛乳も良いが冬の朝はお茶だろ」
「かもね」
 シンは、苦笑しながら湯飲みを受け取り舌をつける。
 緑茶の程よい苦味が心地よい。
 今日で自分の運命が決まるかも知れない。
 そう思うとシンは実に不思議な気分になった。
 不幸な事件に見舞われ、家族と別れ傷心のまま故郷から逃げ出して四年。
 このまま、負け犬のように朽ち果てていくだけかと思ったシンだが、心の傷が癒えたとは言い難いが、それなりに人生を謳歌していると言えた。
(俺は…現金なんだな…きっと)
 マユは今どうしているのだろうか。
 シンは、この四年間の間でメールの一通も出した事は無い。
 受験の成否はシンも過去と向き合ういい機会なのだろう。
 最早逃げる事は許されない。
 是が非でも大学に合格して、本当の意味でシン・アスカの人生を始めなければならなうのだ。
 そう考えると、マグマように熱い感情が濁流のように内から溢れ出して来る。
 それは、"やるしかない"まさにその言葉が正しいように、理性や本能よりも強く純粋な願いのように全身を駆け巡る。
「やってやるさ」
 シンは、机の下で知らずに拳を握り締めていた。
「聞いているのか、アスカ」
「えっ!」
 ふと、気が付くとそれこそ息がかかる程の近さにシグナムの顔があった。
 シンは、考えに没頭していた為シグナムの声が聞こえていなかった。
 シグナムは呆れたような、仕方ないような、本当の意味で出来の悪い弟を見るように嘆息する。
「全く…何をそこまで考える事があるのか。もう数時間後には本番なんだ男なら覚悟を決めるしかあるまい」
「別に試験の事を考えてたわけじゃ無いって」
「そうか…だがな、アスカ。今からそんなに眉間に皺を寄せていては後が持たんぞ。もうちょっとリラックス出来んのか」
「リラックスて言っても」
 シンは、気合、気力とも容量を振り切る充実っぷりなのだ。

 気負っているわけでも無いのに、リラックスしろと言われても、そもそもブレーキが壊れている
状態である今のシンにそんな事が可能だろうかどうか疑わしかった。
 シンは、本当にどうすればいいのか分からないのか、シグナムに向けて困惑の眼差しを向ける。
「全く…」
 どうしてこの子は、一か零、オンかオフの回路しか無いのだろうか。
 気負っているわけでは無いが、いきなり一速からトップギアに上げる運転の仕方があるものか。
 シグナムは深い溜息と共に、どうやってシンから肩の力を抜いてやるか考え始めた。
 肩叩き。
 却下である。別にシンは肩がこっているわけでは無い。
 小粋なジョークで和ませる。
 更に却下である。シグナムは、自慢では無いがその手の事が下手を通りこして壊滅的だ。
 ふと、シグナムにある一つの事柄が浮かぶ。
 暇つぶしにティアナが持ってきていた少女漫画を読んで閃いたシュチュエーションだ。
 血の繋がらない弟と言い、自分の今の現状と言い、今の状態を瓜二つだ。
 シグナムは瞑目し、大きく息を吸い、吐くを繰り返している。
 やがて何かを覚悟したように、シンの肩に手を置く。
「ね、義姉さん」
「黙ってろ!」
 今のシグナムからは、元旦の時のようなシンを慈しむような優しさは感じられず、赤い布を前に
した闘牛のような迫力を感じる。
 目が真剣を通りこして、炯々と輝き危ない事この上無い。
「こ、こっちだって必死なんだ」
 シンは、内心一体何がそんなに必死だと言うのだと叫びたかった。
(こ、殺される…)
 怒気を通り越し、殺気すら孕んだシグナムの眼力にシンは人生の終焉を感じた。
 そして、肩に置かれた手がより一層力を込めた瞬間、シンは思わず目を閉じた。
「う…ぇ…」
 次に感じたのは、痛みでは無く、今まで感じた事の無い感触だった。
 シンの額に暖かく柔らかい何かがあたり、そっと啄ばむように動き、そして、名残惜しそうに離
れて行った。
 時間にして僅か数秒の事だが、シンの体感時間は確実に崩壊した。
「御まじないだ」
 一瞬シンは何が起こったのか分からなかった。
 額に感じた柔らかい感触と、瞳に映り混んだシグナムの顔が綺麗だった。
 シグナムは、はにかんだ笑顔を見せ、シンの肩からそっと手を離した。
「リラックスは…出来たか?」
 キスされた。
 口や頬では無く額と言うのが微妙だが、キスには違い無かった。 
 そう思った時には、既にシグナムは後ろを向き、朝食の準備に戻っていた。
「…う・・・あ…義姉さん」
「なんだ、アスカ」
「これは…」
「馬鹿者…ほら、これは親愛と家族とかスキンシップとか…そう言った類も物だ。勘違いしてどう
する…お、欧米では普通だ普通」
「う…い・・・や…なんでも無いです」
 ここは日本だと文句と言いたくなったが、今のシンはそれ所では無い。
 キスされたところに手を置き、爆発しような心臓を抑え付ける。
 キスは、ティアナやスバルの告白よりも衝撃的且つ直接的で破壊力抜群だった。
 例えそれが親愛の情だ本人が言い張っても関係無い。
 シンにとってキスされたと言う事実だけが一人歩きし、妄想だけが爆発的な進化を遂げた。
 もう、背中と言えど、マトモにシグナムの姿を見ていられない。
 机に突っ伏し「あぁ」とか「うぉ」とか意味不明の言葉を発し悶え続けるシン。
(ふ、不公平だ)
 自分はこんなにもテンパっていると言うのに、何故義姉はあんなにも平然としているのだろうか

 これが年齢の差か大人の余裕なのかと、シンは、尚も平然としながら鍋をかき混ぜるシグナムを
拗ねたような瞳で見つめる。
「おはよう、二人共」
「おはようございます、主はやて!」
 シグナムは、機敏な動作、いや機敏過ぎる動きと大げさ過ぎる挨拶をしながら、台所の上にある
調味料をやたら滅多ら鍋に投入している。
「あんなぁシグナム」
「なんですか主はやて!」
 げんなりとした表情のはやてとは対照的に顔を茹蛸のように赤くしたシグナムが上擦った声のま
ま振り返る。
「顔は赤くしてる理由は大体何か予想付くから聞かへんけど、私、砂糖とかタバスコ入ったお味噌
汁食べるん流石に嫌やねんけど」
「・・・あ…あぁ」
 机に突っ伏したまま、自分の世界に没頭するシンを他所に、シグナムは心底困り果てたと言った
様子で鍋を見つめながらコンロの火を落とした。