RePlus_閑話休題二幕_後編

Last-modified: 2011-08-02 (火) 13:27:21

閑話休題二幕-後編-
"最早問答は無用である-RePlus If…Ⅱ"

「おはようございます」
「おはよう!シン君!」  
 ティアナの礼儀正しい挨拶に、スバルの気さくな挨拶が続く。
 朝の一コマとしてこれ以上無い程、いつも通りの風景が続く。。
 はやて達の登場によって、砂糖タバスコ入り味噌汁から辛くも難を逃れたシンは、ティアナと
スバルに挨拶も早々に箸を置いた。
「お、二人共来たな。今日はシンを頼むなぁ」
 はやては、笑みを絶やす事無く二人を迎え入れ、普通の味噌汁を飲んでいる。
 本来ならば、はやてが車でシンを試験会場まで送って行くつもりだったのだが、急な用事が出来
てしまい代役をティアナとスバルに頼んだのだ。
「我ながら心配性だ」とはやては、苦笑いを浮かべるが、通り魔や強盗など近頃物騒な事件も多い。
 念には念を。一人より三人の方が何かと安心出来ると言うものだ。
 見知った道だと思うが、まぁ三人も居ればまず道を間違える事は無いだろうと、鷹を括ったはや
てだった。
「そろそろ行って来るよ」
 シンは食卓から立ち上がり、景気付けに牛乳をパックごとラッパ飲みする。
「アスカ、朝からそんなに飲んでは腹を壊すぞ」
「大丈夫だって、これがあるし」
 シンはおもむろに学生服を捲る。
 丁度胸ポケットの位置に色とりどり総計五つもの御守りが並んでいる。
「はは、並ぶと随分壮観やね」
「確かにそうですね」
「まぁそれだけあれば、お腹壊す事はなさそうね」
 その様子を見て苦笑するティアナとスバル。
 自分とスバルが渡しているのだ。
 当然シンの二人の義姉が御守りを贈っていないはずが無かった。
 抜け駆けするつもりは毛頭無かったが、やはり自分達以外の物を見ると「ああ、やっぱり」と苦
笑せざるを得ない。
 クリスマスイブの晩、ティアナはスバルがシンに告白した事を大晦日に打ち明けられた。
 ティアナが動揺したのも一瞬の事で、すぐに真面目な顔になりスバルを見つめ返した。
『なんとなく、聞きたいんだけど…アンタ、アスカの何処が気に入ったのよ?私が言うのも何だけ
ど、あいつ無愛想で無遠慮でデリカシー全く無いわよ』
『えっとね』
 悩む姿も一瞬だけで、スバルは直ぐにティアナを見つめ返す。
『一生懸命なとこ』
 スバルの答えを聞いた瞬間、ティアナは軽い頭痛を覚えた。
 ティアナとスバルの付き合いは長い。知り合った経緯も仲良くなった出来事も、もう定かでは無く
、二人は気が付けば友達になっていた間柄だ。
『本気よね』
『うん』
 ティアナ達の間では、短いやり取りだけで全てが事足りるのだ。
 同じ目線で同じ立場で同じ人を好きになるとは、全くもって出来すぎた結果だ。
 理由まで同じなら尚更だ。
 だが、ティアナはその事を後悔していない。
 一番の親友であり信頼する相棒が、同じ人間を見初めたのだ。
 運命などと陳腐な言葉は使いたく無かったが、きっと三人はこうなる運命だったのだろう。
 ならば、物事の成否や是非等よりも行動あるのみだ。
 あれから、ティアナとスバルはライバルになった。
 二人は、お互いと敵と認め恋に対する障害と認定した。
 だが、二人の関係は漫画やテレビのように陰湿になる事は無く、互いを高め合う好敵手だと互い
に認め合った。
 答えと変化はもう直ぐそこまでに迫っている。
 ティアナの唯一の気掛かりは、本当に役者はこれで出揃っているのかと言う事だった。
「行くかランスター」
 ティアナが気が付くと、いつの間にかシンが目の前に立っている。
「そうね、行きましょうか」
 兎にも角にもティアナとスバルの想いの行方がどうなるのか。
 それは、シン次第であった。
 
「じゃあな、アスカ」
「え、ああ…いってきます」
 シグナムがシンに見送りの挨拶を済ませる。
 シンは普段と変わらぬ様子で、鞄を抱え試験会場へと向かった。
 はやてと自分以外誰も居なくなった玄関でシグナムは浅い溜息を付いた。
「これが最後になるけど、ほんまにええの?」
 はやては、寂しそうにシグナムに告げる。
「いいんです…もう決めた事ですから。あの子が、アスカが・・・シンが傷ついた原因は私にもあるの
ですから」
 まるで鉄の矢が心臓に突き刺さっているかのように、重く苦しげに言葉を放つシグナム。
「シグナムは何も悪く無いやろ。子が親を選べんように、出生なんて誰も選べへんのよ。そんなしょ
もない事背負う必要あらへん」

「ありがとうございます…主はやて。しかし、私が召喚に応じなければ、オーブ、日本両政府はプ
ロジェクトFを強行するでしょう。プロジェクトFの導入が決定されれば、…シンの運命はそこで
決定してしまいます」
 シグナムは寂しそうに視線を伏せ瞑目する。
 胸中に蠢く暗く苦々しい感情。
 シグナム自身オーブとの関係は、決して切れる縁では無いと思っていたが、薄れる事も無い内に
こうも簡単に繋がるとは思っても見なかった。
「シグナム…」
(迷いは無い…未練も断ち切ったはずだ)
 八神はやて。
 罪と罰の意識を抱えたままで、未来に展望が抱けない自分を受け入れてくれた八神家の家長。
 自分よりも年下だったが、全てを包み込み癒してくれる優しさにシグナムは何度救われたか分か
らない。
 手を強く握り締め、何かに耐えるように必死の思いで目を開ける。
「そんな物が発動されれば、今までの努力も、あの子を好いてくれるティアナとスバルの想いの全
てが"人類の夢"の名の下に無駄になります。不出来な義姉ですが、弟の運命が一部の権力者の慰み
者になるだけは絶対に嫌なのです」
 シグナムは、はやてに強くも悲しい炎の灯った瞳を向ける。
「シンはきっと悲しむよ」
「一時的なモノです。私が居なくとも、主はやて、貴女が居るでは無いですか。幸いシン…いえ、
アスカを好いてくれる女の子が身近に二人もいます。あの子達がきっとシンを支えてくれます」
 先刻の苛烈な意志とはうって違った、淡い粉雪のように輝く微笑。
 シグナムの微笑は、はやてが見た中で今まで一番綺麗な笑顔だった。
 それこそ、同性のはやてが嫉妬する程に。
 恐らくこの場でどんな言葉を並べようとも、シグナムの決意は変わらないだろう。
 ダイヤモンドのように美しく強固な意志は、長年一緒に暮らしてきた八神はやてをもってしても
覆す事は不可能だった。
「今なら…引き返せるねんで」
「もう、決めましたから」
「そうかぁ…」
 はやては、深い悲しみを秘めた視線をシグナムに向け、自身も気が付かない内に深い溜息を付い
ていた。
「落ち着いたら連絡します」
 はやての目で見て分かる程の落胆振りに、シグナムは困った顔をしながら僅かばかりの逡巡を見
せた後、玄関のドアに手を伸ばした。
「さよならな、シグナム」
「はい、さようならです…主はやて」
 シグナムは最後にもう一度振り返り、迷いを断ち切るようにドアを閉める。
 玄関に残されたのは、はやて一人だけ。
 耳が痛くなる程の静寂が辺りを包み、この家はこんなにも静かだっただろうかと、はやては静か
に目を閉じた。
 思い返せば全ての始まりは四年前からだ。
 静かにゆっくりと刻だけが流れて行くだけの寂しい家。
 誰も訪れず、止まった刻は停滞を呼び、亡霊のように襲い掛かってくる痛みを伴った過去の残滓
を噛み締め、はやては一人この家で生活して来た。
 何も考えず、何も思わず、このまま一人でひっそりと人生を終えるはずだった。
 しかし、家族と呼べる人たちが、いつの間にか一人増え、二人増え、人数こそ多くは無いが今の
生活は、はやてにとっていつの間にか掛買いの無い物へと代わっていた。
 二十歳を控えた身でありながら、結婚は愚かまともな男女交際すらした事が無いはやてだ。
 血の繋がらぬ弟と妹と前に不安は募るばかりだったが、シン達を交えた生活は、はやてが思うよ
りずっと順調に進んでいった。
 その関係に年齢は関係無く、八神はやてはシンとシグナムに取って確かに母親だった。
 はやて自身、この年齢で母親役など身に合わぬ袈裟だと言うの重々承知している。 
 正直に言えば、はやてはこの生活が気に入っていた。
 大好きだった。取り戻す事が出来ない過去をもう一度取り戻せた気がした。
 しかし、その生活が今終わろうとしている。
 それは、誰が悪い訳でも無く、互いと思いやり、皮肉にも"誰かの為"に何とかしようと言う思い
が招いた結果だ。
 誰もが悩み苦しんでいるのだ。
「あんな、シグナム。黙ってたんやけど、シグナムもプロジェクトFの候補者なんよ」
 ドアが閉まる直前、まるで、それが最後の反抗と言わんばかりにはやては一人呟いていた。

「どうかしたの、アスカ」
「顔色悪いよ?」
「な、なんでもない」
 会場に向かう道ながら、突然シンの胸が疼いた。
 両隣にティアナとスバルを引き連れたシンは、他の受験者達から妙なやっかみを受けてたが、見な
かった事にしようと再び自分の世界に集中しはじめた。
 僅か数ヶ月で随分と面の皮が厚くなったものだと自分でも感心する。

 参考書や単語カード片手に最後の追い込みを見せている者もいる中で、シンは受験とは全く別の
事を考えていた。
 二人の問いに何でも無いと答えたシンだが、大事な物を失くしてしまった四年前の時のように、
心が冬の日本海のように波打ちたっていた。
 見知った通学路も今日ばかりは様相を変え、試験を控えた学生達によって異様な雰囲気を醸し出
している。
 中には参考書や単語カード片手に、最後の追い込みを見せている者もいるが、大半の受験生はこ
れから始まる試験に緊張しているのか眉間に皺を寄せている。
 いつもと何かが違う。
 決して拭う事の出来ない違和感が付き纏い、シンの神経をすり減ら続けている。
「いってらっしゃい…だ」
 怪訝そうな二人を尻目に、シンの顔がどんどん青白く変わっていく。
 "いってらっしゃい"
 シグナムは、この四年間シンに"いってらっしゃい"と一度も欠かす事無く毎朝告げてきた。
 それが今日に限って無かったのだ。
 そればかりでは無い。
『じゃあな、アスカ。頑張れよ』
 良く思い返せば、まるで、今朝のシグナムはシンに別れでも告げるようにているように感じる。
 いや、それは間違いや気のせいでは無く、シグナムはシンに"別れ"を告げたのでは無いだろうか。
 疑惑が確信に変わり始め、暗く冷たい感情がシンの心を犯し始める。
「悪いちょっと待ってくれ」
 不安に突き動かされるように、シンは鞄から携帯電話を取り出しシグナムの番号をコールする。
 数回のコール音の後に電話がかかる。
 思わずホッとしたシンだが、次の瞬間奈落に突き落とされたように愕然とする。
『お客様の使われている番号は現在使われておりません』
 突然目の前が真っ暗になったような錯覚を覚える。
 シンの様子を心配そうに見つめるティアナとスバルの事も何処か別世界のように感じる。
 心臓の動悸が激しい。頭が揺れる。世界が急速に色を失い暗くなって行く。
「くそっ!」
「ちょっと、アスカ何処行くのよ!」
「シン君!」
 シンは二人の制止を振り切り、脇目も振らず八神家へと走り出す。
 自分でも馬鹿な事をしていると分かっている。
 自分の人生を決めるかも知れない大事な日に、一体何をしているのだろう。
 もしかしたら、急に携帯番号を変えただけかも知れない。
 機械音痴のシグナムの事だから、番号を変えた事を伝え忘れただけかも知れない。
 シンは、ここ数日家にずっと居た為にシグナムに電話をかける必要は無かった。
 それが、この事態をややこしくしているだけだ。
 きっと、そうだ。
「そんな、馬鹿な事あるもんか!」
 あり得もしない可能性に縋る事は止めだ。
 気になるならば、確かめてみればいいのだ。
 少し家に帰って、義姉の様子を見るだけだ。そのまま、会場まですっ飛んでいけば、試験開始
時間には十分に間に合うはずだ。
 息が苦しい。
 冬の早朝の空気が喉を冷やし、肺を容赦なく痛めつける。
 ここ最近勉強ばかりして体がなまっていたのも不幸な事だった。
 いつもなら、この程度の全力疾走で息を切らす事は無いと言うのに。
 流れる汗と共に蓄えた知識も消えて行く気がしたが、シンは、そんな事は些細な事とばかりに
更に速度を上げる。
 運動部のスバルは、何とかシンに追い縋っているものの、ティアナの体力は既に限界を迎えよ
うとしていた。
「はぁはぁはぁ」
 次の角を曲がれば八神家はもう目と鼻の先である。
 途中一台のタクシーとすれ違ったが、シンは逸る気持ちを抑えながら全力疾走で駆け抜ける。
 もし、シンに冷静な感情が一欠けらでも残っていれば、俯いたままタクシーに乗るシグナムに
気が付いたかも知れない。
 だが、シンは既に八神家しか見えていなかった。
「義姉さん!」
「シ、シン!」
 勢い良くドアを開けると、鳩が豆鉄砲を食らったような驚愕の表情を浮かべたはやてが居た。
 それはそうだろう。
 シンはつい先刻試験会場に向かい、はやては、つい今し方家族を見送ったばかりなのだ。
「はやて義姉さん!義姉さん、シグナム義姉さんは!」
「そ、それは」
 はやてにしては、珍しく歯切れが悪い。

 シンは、悪寒めいた確信を感じながらシグナムの部屋へと向かう。
「義姉さん!」
 殴りつけるようにドアを開け放ちシグナムの部屋へと駆け込む。 
『どうした、アスカ。血相を変えて』
 ふと、シグナムの声が聞こえた気がした。
 いつもなら、苦笑しながら微笑む義姉がそこに居るはずだ。
 シグナムの部屋は、いつも通り整理整頓され、小さな図書館の容貌を崩していない。
 手入れの行き届いた部屋には、シグナムの数少ない私物がそのまま残されている。
 だが、部屋からは、シグナムの存在だけがばっさりと切り取られたような喪失感が充満している。
 主を失った部屋は、悲しみに耐えるように静かにその場でただ存在しているだけだった。
 シンは、鉄杭を直接心臓に打ち込まれたような痛みと共に堪える事の出来ない喪失感を覚えた。
 唇と喉が渇き、手が小刻みに震える。
 脳裏に家族との別離が浮かび上がり、閃光のように弾けて消える。
 荒い息を付きながら、その場で立ち尽くすシン。
 ふと、シグナムの机の上に一通の便箋とラッピングされた箱が置かれているのが見えた。
「これ…俺の名前」
 本当に外国人かと思わせる程の達筆で便箋には、シン・アスカ様へと書かれている。
 裏を向けるとシグナムと一言書かれていた。
 シンは、便箋を手に取り、震える手付きで中から丁寧に折りたたまれた手紙を取り出す。
 こんな不意打ちのような手を使い、置手紙まで残している。
 認めたく無い現実だが、シグナムがシンの元を去ろうとしているのは明白だった。 
 何故、何でと思う以前に"どうして"と思う方が先だった。
 兎に角手紙を見なければと、四つに折られた手紙を広げた。
『さよなら』
 書かれていた文章は、実にあっけないものだ。
 何枚にも渡り別離の理由が書かれている訳でも無く、自分やはやての事が書かれているわけでも
無い。
 手紙の上とは言え、文章は愚か単語の一つだけでシグナムはシンに別れを告げていた。
 ただ、さよならとだけ書かれていた手紙を前にシンの頭が真っ白になった。
 シンは、何かに衝き動かされるように、シグナムの部屋を飛び出す。
 なんとしても義姉を探さなければならない。このまま行かせてしまうと一生会えない予感がした。
「シン、何処行くつもりや!」
 廊下の奥で、はやてがシンを叱責するように叫び立てる。
「探して来る!」
「アホな事言うんや無い。受験はどうするんや!車回すさかい待っとき。今ならギリギリ会場に…」
「今は受験より義姉さんの方が大事だ!」
「シン!頭冷やしぃ!これが今生の別れちゃうんや!」
 普段滅多に喧嘩する事が無い二人だが、この時ばかりは勝手が違っていた。
 苛立っているはやてとシン。二人共剥き出しの感情のまま言葉を紡いでいる。
「今生って…はやて義姉さん何か知ってるのかよ!」
「それは…」
 これは、明らかにはやての失策だった。
 ここで適当な嘘を付いておけばその場を丸く治める事も可能かも知れ無い。
 しかし、はやてはシンの真っ直ぐな視線に耐える事が出来ないばかりか、シグナムの別離を肯定す
るようにシンから視線を切ってしまった。
「兎に角シンは心配せんでええ。シグナムは直ぐに帰ってくる」
「嘘だ!」
「嘘や無い…いいから待っとき。直ぐに試験会場にいくで」
「嫌だ!絶対に探す!」
 シンは、声を荒立て怒りに燃える瞳ではやてと睨みつける。
「シン!」
「探して来る!」
 シンはただそれだけを告げると、ようやく到着したスバルとすれ違うように玄関から飛び出してい
く。
「は、はやてさん?シン君?」
 訳が分からないと言った表情のスバルは、はやてに縋るような視線を向ける。
「ええから、はよ追いかけて」
「うぇ?シン君をですか?」
「そうや、頼むわスバル」
「わ、分かりました!」
「はぁ…ほんまにうちの聞かん坊は…」
 はやては、額に手を置き今日何度目かの深い溜息を付く。
 鉛のような疲労が一気押し寄せ酷い眩暈を感じる。
 ああ見えてシンは頑固な所がある。
 ブレーキが壊れた機関車のように一度火が付いたら止まる事を知らないのだ。
 燃え上がる火は周りを巻き込み、怒りのままに広がり良くも悪くも全てを無に返してしまう。
 はやては、シンの危なっかしい事この上無い性格に、いつも胃が締め付けられる思いだった。
 だが、同時にはやてはシンに期待していた。
 自分ではシグナムを止める事は出来なかったが、シンならば結果は違っていただろうか。
 勿論シン一人足掻いた所で結果は変わる事は無く状況は絶望的なままだろう。
 プロジェクトFの発動は、最早時間の問題で残された時間は残り少ない。

 しかし、はやての胸には小さな確信があった。
 果たしてシンは、このまま他人が決めた運命を享受する人間だろうか。
「違うわな」
 一見するとぶっきら棒で粗雑な印象を受けるシンだが、シンを良く知る人間から言わせれば、良
く言えば一生懸命で優しい、悪く言えば、壊滅的に不器用で色々と下手糞なだけなのである。
 壊滅的に不器用なうだからこそ、納得出来ない事に真剣に抗おうとする。
「…頑張りや、シン」
 はやては、胸に感じる僅かな痛みに耐えるように静かに義弟にエールを送った。

「ちょっと待ってよシン君」
「待てない!」
 元来た道を陸上部顔負けの速度で戻って行くシン。
 その行動には一片の迷いも見受けられないが、事情を良く飲み込めないスバルにしてみれば、暴
走特急に付き合っているような感触を受ける。
「何がどうなってるの!」
「義姉さんを連れ戻す」
 この場合”義姉さん”とはシグナムの事だろう。
「シグナムさんがどうしたの!」
「居なくなった!だから連れ戻す!」
 言葉は断片的でシンの行動は短絡的過ぎる。
 せめて、状況だけでも知らせてくれないと手の貸すにも無理だ。
「シン君止まってよ!」
「今は一秒でも惜しい」
「でも、シグナムさんが何処行ったか分かるの」
「それは…」
 全力疾走していたシンが徐々に速度を緩め、力なく歩み続けるが、やがて、走る事を止めてしま
う。
「もう、走るの速すぎだよ」
「俺は…どうすれば…いいんだろ…」
 迷い傷つき感情の制御がまるで追いついていない。
 まるで、雨の中傘も差さず凍えそうな幼子のように、シンは深く傷つき目的を見失っていた。
「当然追っかけるのよ!」
「ティア」
「ランスター?」
 二人が振り返るとそこには、汗を掻き息も絶え絶えなティアナが、真新しいスクーターに持たれか
かり荒い息をついていた。
「シャキっとしなさい、アスカ」
「ああ…」
「ティア、それギン姉のスクーター」
「借りてきたのよ」
 しれっと言ってのけるティアナだが、因みにスバルの姉のギンガがバイト代を貯めてようやく購入
した物で、まだ数回しか乗っていない新品同様の代物だ。
当然の事ながら本人の許可は取っていない。
「ランスター…お前」
「事情は…良く分…からないけど、シグナム…さん関係…でしょ」
「凄いティア何で分かったの?」
 こめかみに青筋を浮かべながら、ティアナは必死に言葉を紡ぐ。
「すれ…違った…タク…シーに乗ってたわよ。それ位ちゃんと見ときなさいよ。乗ってたのは空港ま
での直通タクシーのはず…足が必要でしょ」
 無理を言うなと思ったシンだが、ティアナの洞察力に感服すると同時に感謝した。
 正直に言えば、衝動のままに飛び出てきてしまって、これから何処を探せば良いのか途方に暮れて
いたのだ。
「ティアはどうするの?」
 ティアナからヘルメットを受け取り、早速イグニッションキーを回すスバル。
 排気口から白い煙が上がり、静音電動モーターが静かに駆動し始めた。
「馬鹿。免許持ってるのアンタだけなんだから、私は後から這ってでも行くから、アスカ乗せて早く
空港に行きなさい」
 スバルは聞くや否や、スクーターに飛び乗り、シンを後部座席に促す。
「うん!分かったティア!ほら、シン君早く後ろ乗って。ティアの死を無駄にしちゃ駄目だ」
「ごめんランスター、この借りは必ず返すかっ!」
「アスカは早く行く!後、スバルぶっ飛ばす」
 残響音を残しながらシンの姿が遠ざかっていく。
 その様子を見ながらティアナは、ついに体力の限界が来たのか、その場に座り込んでしまう。
 本当はティアナもシンと一緒に行きたかったが、スクーターは運転した事が無いし、何より免許を
持っていない。
「疲れたぁぁ」
 そのまま歩道に仰向けで倒れこむ。
 もう一歩も歩けないと言うか立てそうに無い。
 試験会場から数キロも全力で走り込んできたのだ。 
 運動は苦手では無いが、得意でも無いティアナに取って、ある種体力の塊である二人に着いていけ
ただけでも奇跡だった。 
「…綺麗」
 冬の空は低い。
 手を伸ばせば淡い陽光に照らされた雲に手が届きそうだった。
 ティアナがすれ違ったタクシーの中で見たシグナム。
 俯いて表情こそ見えなかったが、間違い無くシグナムは泣いていた。
「勝ち逃げなんて許さないんだから」
 ティアナは誰に誓う訳でも無く空に手を伸ばした。

「ナカジマ、スピード、スピード!」
「危ないから喋らないで、舌噛んじゃうよ」
 昼前に込み始めた幹線道路を、渋滞で進まない車の脇を這うように爆走する一台のスクーター。
 スクーターとはこんなにもスピードが出るものなのか。
 目に入ってくる景色が猛スピードで遠ざかって行く。
 スバルの腰回した手が自然と力が入り、体に感じる風圧の強さにシンは思わず慄いた。
「間に合うかな」
 シグナムが何時の飛行機に乗るのか、シン達に知る術は無い。
 もしかしたら、もうシンの知らない何処かへ飛び立ってしまったかも知れない。
 シンは、恐ろしい想像を振り切るように頭を振るい、最悪の想像を打ち消すように自信を奮い立たせる。
 スバルの腰に回した手が自然と力が入った。
「間に合うさ!」
「うん!」
 スバルはスクーターの速度更に上げる。
 国道から空港へと繋がる有料道路へ入りひた走ると、扇状に伸びた滑走路が見えてくる。
 小型大型含めた数機の飛行機とニビ色に光る長距離航行用VTOLが見え始めた。 
「何か変だよ、シン君!」
「ああ」
 シンの住む街の近辺にある空港はここ一つしか無い。
 国内国際線問わず離発着出来る為、滑走路にはいつも航空機が山のように待機し動いてるのが普
通なのだ。
 だが、今は滑走路には数機の航空機が待機しているだけで動く気配を見せていない。
 変わりに物々しい雰囲気と妙に苛立った警備員が滑走路に大勢控えている。
「ちょっと待ってくれないかい」
 シン達の乗ったスクーターが検問に止められ、脇の路側帯に停車させられる。
 数人の警備員がシン達を取り囲み、周囲はから物々しい剣呑な雰囲気を感じる。
「悪いんだけどさ、今日は一般車両通行禁止なんだよ。ツーリングならまたの機会にしてくれるか
な」
 空港へと続く有料道路は、途中湾岸道路へと分岐する。
 海の直ぐ傍を走る高速道路は、バイカー達にとって絶好のツーリングコースだった。
 警備員もシン達をその手の類と見たのだろう。
 申し訳なさそうに警備員が詫びを入れが、物腰こそ柔らかだが、警備員からは有無を言わさぬ迫
力がある。
 恐らく強行突破しようものならば、穏やかで無い事態が待っているはずだ。
(クソっ!急いでるってのに)
 シンは、心の中で毒づくが、状況が状況だけに歯噛みする事しか出来ない。
 一刻も早く空港に向かうべきだが、この人数相手に立ち向かうのは無理そうだ。
 シンは携帯でティアナから貰った空港周辺の地図を呼び出す。
 直通の有料道路が閉鎖されているならば、直接滑走路に乗り込むしか道は無い。
 しかし、それには大幅な回り道を余儀なくされる上に、柵と乗り越える際にスクーターを乗り捨て
なければならない上に、よしんば侵入出来たとしても、足が無ければ不審者撃退用の警備ロボット捕
らえられるのが落ちだ。
 失敗は許されない上に、作戦を練る時間すら無い。
 スクーターでは無く、車ならばもっと別の作戦も練れていたのだが、今から車を取って帰る時間は
無い。
 シンは、自分の粗忽加減と猪突猛進な性格を呪った。
「ねぇ…シン君」
「なんだ、ナカジマ」
 シンの耳にいつになく真剣なスバルの声が届く。
「シグナムさんの事好き?」
「お前、突然何言って」
 スバルの急な問いにシンは思わず狼狽し声が上擦ってしまう。
「答えて…大事な事なの」
 助手席に乗るシンに、スバルの表情は見えない。
 だが、真剣な表情でシンに語りかけている事は分かった
(…俺は…義姉さんを…)
 シンは、他人からシグナムが好きなのかと問われれば当然「好きだ」と答えるだろう。
 しかし、それは、あくまでシグナムと家族と義姉をして見た主観に限られる。
 赤の他人、関係者以外の第三者から聞かれれば尚更の事だ。
 しかし、スバルは赤の他人でも無ければ、関係者以外でも無かった。
 シン・アスカを好きだと言ってくれた女の子であり、シンの為に真剣に行動してくれている女の子
なのだ。
 恐らくスバルがシンに問うているのは、シグナムを家族として好きなのか、異性として好きなのか
、只それだけの事だ。
 曖昧に答えて場を濁して良い場面では無い。
(…俺は)
 シンは自問しながら、思考の奥底へと自我を沈めていく。
 シグナムとの出会い、触れ合い、そして、義姉として家族としてこの四年間一緒に過ごして来た。
 笑い合い、時には怒られ怒らし、何度も仲直りして来た。
 それは家族として当然の事で、血が繋がっていない事を差し引いても彼は確かに義姉弟だった。
 しかし、シンがシグナムに向ける感情は、果たして義姉弟や家族に向けて放つ物を同じだっただろ
うか。
 答えは否だ。

 風呂上りをバスタオル一枚で上がって来た時や、中庭に干された下着などからシンは、時折シグ
ナムに強く異性を感じて来た。
 だが、それ以上にシグナムとはやてに義姉としての感情を向けていたのも事実だ。
 シンとシグナムの関係は歪だ。
 シンは、オーブに本当の家族がいる。
 シグナムもアイルランドに本当の家族が居る。
 互いに他所に本当の家族が居る癖に、遠い異国の地で何の因果か家族ごっこに興じている。
 シンはシグナムの家族関係をシグナムの口から語られた事以外何も知らず、義姉がアイルランド
でどうやって暮らして来たか何も知らない。
(そうだ…俺、この四年間以外の義姉さんを何も知らない)
 本人が聞かれるのを嫌がった等言い訳に過ぎない。
 シン自身もこの微温湯のような関係を壊すのが恐ろしくて、シグナムやはやてに必要以上に踏み
込んで行けなかった。
 ここが無くなれば、自分の居場所が無くなるかも知れない。
 過去の事件から植え付けられた強迫観念にも似た妄執と思い込みは、変化を極端に恐れると言った
形で現れ、シン・アスカと言う少年の精神の成熟を大いに妨げていた。
 だが、人はいつまでも子供のままではいられない。
 いつか、必ず大人になり、個人差はあれど"責任"と"義務"の名の元に選択し決断しなければならな
い時が訪れる。
 シンにとって、本当の意味でシグナムと向かい会わなければならない時が来ていた。
 胸に抱く思いが恋慕か親愛なのかシンには分からない。 
 ただ、ティアナやスバルに向ける思いとは別に、シグナムに強く感じる思いがある事をシンは否定
する事はしない。 
 だから、シンは今自分が言える精一杯の答えをスバルに返す。
「今…義姉さんに、居なくなられるのは…嫌だ」
「うん…私も」
 正直に言えば、振り返ったスバルの笑顔にシンは見とれていた。
 全てを振り切り、認め、受け止める。
 慈愛に満ちた笑顔からは、スバルが異性である事を強く意識させられる。
「なら、行こうか」
 シンが答える間も無く、スバルはスクーターのエンジンを全開にする。
「ちょっと君達」
 警備員は、突然塞ぎこんだシンを見て、怪訝な顔をしながら暫く様子を窺っていたが、スバルの口
から漏れた剣呑な響きに思わず顔を青くする。
 現場に急遽導入された警備員の殆どは、空港警備に出向いているとは言え、検問に参加している人
員も本社勤務の優秀なガードマンばかりだ。
 自分のような定年後に年金を貰うまでも嘱託社員では無いのだ。
 この現場の指揮権はオーブ政府にある。
老警備員には、オーブと言えば、アメリカのような大国ですら顎で使う超大国のイメージがあった。
 そんな国相手にこんな自分の孫程の娘が喧嘩を売ろうとしているのだ。
 無理も無い反応だった。
「ごめん、おじさん…ここ通るね」
 ハンドル横の赤いレバーを上げ、安全装置を解除する。
 その途端、スクーターは明らかに改造品と分かる排気音を響かせ、電動セルモーターが怪物のよう
な唸りを上げた。
「さっすが、ギン姉特製品だ」
 スバルは嬉しそうに笑い、その場でスピンターンさせスクーターを一気に発進させた。

『全日航オーブ行き第184便のご搭乗のお客様・・・』
「準備は宜しいですか?」
「ああ…」
 普段なら人でゴッタ替えすはずの空港が嘘のように静まりかえっている。
 今日一日、シグナムをオーブに運ぶ特別便の為にだけにオーブ政府は、空港を借り切っていた。
 黒いサングラスに黒いスーツ。一目で見て堅気では無いと分かる。 
 全身黒一色に塗り固めた強面の男二人組がシグナムを機内へと促した。
 言葉こそ丁寧だが、身に纏った剣呑な空気と言い、慇懃無礼な態度でシグナムに接している。
 僅かに膨らんだ胸元には、銃が収められているのだろう。
 逆らうつもりも無い相手に、威圧するかのようにわざと見せ付けているのだ。
 趣味が悪いにも程がある。
「騎士ゼストが機内でお待ちです…お早く」
「言われずとも分かっている…今更逃げ出したりするものか」
 シグナムは、黒服達を睨みつけながら、苦々しい表情を浮かべ荷物を手に立ち上がった。
 シグナムが乗る機体は、一般的な航空機では無い。
 窓の外を見ると"オーブ企業関係者"しか乗る事の許されない重火器すら備えたオーブ御用達の専用
旅客機"スカイグラスパー"の威容が窺える。

 巡航ミサイルの直撃にすら耐えると評判のPS装甲と言われる特殊装甲を備え、時に空の牢獄と
揶揄される小型旅客機だ。
(これに乗ればもう戻れない)
 一度機内に入ってしまえば、もうこの生活に戻る事は出来ないだろう。
 オーブ政府は本気だ。
 本気でプロジェクトFを成功させようとしている。
 プロジェクトF。
 コードネーム以外シグナムも計画の全貌は知らない。
 知っている事は、計画の中心にはシン・アスカが据えら、彼の存在無しには計画は遂行されない
事だけだ。
 デザインベイビー通称コーディネーター。
 ある特定の目的の為に、受精卵の段階から設計運用されたまさに作られた子供達。
 シンは三番目の成功例だった。
 とある目的の為にコーディネートされたシンだが、用途に見合った性能を発揮出来ず、失敗作の
烙印を押され、子供の居なかった夫妻に引き取られて行ったと聞く。
 シンはその事実を知らない。
 シンは、自分がコーディネーターである事を一生知らず、普通の子供して人生を謳歌するはずだ
った。
 だが、遺伝子の偶然か神の恩恵か悪魔の悪戯か。
 シン・アスカには、他の誰も持ち得ないある一つの才能が秘められていた。
 その詳細はシグナムも知らされていない。
 シンの秘密は、オーブ、日本両国の最高機密として扱われ計画も極秘裏に進められていた。
 だが、シンはその才能故にテロの標的に合い深い傷を負い、その人生すら一部の権力者の思惑に
よって捻じ曲げられようとしている。
 計画が発動すれば、シンに一切の自由は存在しなくなり、夢や希望が本当の意味で夢幻となって
散っていく。
 それだけは義姉としても、一個人としても看過出来るものでは無かった。
「私が…守って見せる」
 例えこの身に流れる血が忌まわしき物だったとしても、祖父に掛け合えば時間位は稼げるはずだ
 シグナムは藁にも縋る思いで、己の業すら利用しようとしていた。
「何を守ると言う」
「騎士…ゼスト…」
 身長は二メートルを超えているのでは無いだろうか。  
 シグナムの前に灰色の黒のロングコートを纏った男が姿を見せた。
 いくら待っても機内に現れないシグナムに業を煮やしたのだろうか。
 ゼストは、幾分か不機嫌な表情を見せながら、鋭い眼光でシグナムを睨みつけていた。
「未練があるようだな」
「…ありません」
 シグナムは、間髪いれずに答えたつもりだった。
 だが、シンの事を思い浮かべると答えるのが一瞬遅れた。 
「嘘だな」
「侮辱しないで頂きたい。この身に流れる剣の騎士の血に従って!」
 その決定的な間から来る迷いと未練をゼストに見抜かれたような気がしてシグナムの頭に血が昇
る。
「では、何故泣いている」
「私は泣いてなど!」
「では、それはなんだと言う」
 ゼストに指摘され始めた気が付いた。
 はっとして手を添えると、頬に伝う暖かい感触は確かに涙だった。
 熱く冷たく自然の摂理に従い、シグナムの白い肌を伝っている。
 何故自分は今更泣いているのだろうか。
 シンを守る為に、今の穏やかで幸せな生活を捨てる覚悟をしたと言うのに。
「私は…何故泣いて…いるのだ」 
「悲しいからだろう」 
 道理である。
 人は嬉しい時も涙を流すが、その大半は悲しいから涙を流すのだ。
 では、何故シグナムは悲しんでいるのだろうか。
 意にそぐわぬ別離である事は自覚している。
 それが自身に心の奥底に封じ込めた寂しさを掘り起こす事も分かっている。
 シグナムは、分かっているからこそ何も残せなかった。
 手紙にさえ、一言言葉を残すのが精一杯だった。
「さよならも…言えなかった…」  
 既知の間柄とは言え、自分でも無意識にひた隠していた"寂しさ"よりにもよって"本家"側の
人間に暴かれてしまった。
 悔しさや後悔よりも、今は別離による悲しみの方が勝ってしまい、一度自覚した涙はもう止まる気
配を見せなかった。
 心はこんなにも冷え切っていると言うのに、瞳から零れ落ちる涙は皮肉にも暖かかった。
 涙は止め処なく溢れ続けシグナム頬を伝い床へと落ちていく。
「私は…あの子にさよならも・・・言えていない」
 例え家族の真似事だったとしても、シンの義姉役を買って出たのが贖罪故の行動だったとして
も、四年も一緒に過ごした弟をどうして邪険に扱えるだろうか。
 今朝も出来事もリラックスさせるなど嘘だ。
 そんな事は名目に過ぎず、シンとは、今日で今生の別れになるかも知れないのだ。

 忘れないで欲しかった。
 せめて、自分が居た事を忘れないで欲しかった。
 例えそれが思い出の中だけになろうともだ。
 何と浅ましい事だろうか。
 シンを好いてくれる二人が現れた事に手放しで喜んでいたはずなのに、いざシンが他人の物に
なろうとすると惜しくなったとでも言うのか。
(分からない)
 シグナムは自分の気持ちが分からない。
 もう直ぐそこに別離が迫っていると言うのに、シグナムはシンを弟として見ていたのか、異性と
して男として見ていたのか、それすらも分からない。
 シグナムの胸に去来するのは、辛い悲しみと寂しさだけ。
 シグナムは、自分の中で弟の存在がこんなにもなっていた事に驚いていた。
 今頃シンは試験の真っ最中だ。
 帰って来て自分が居ない事を知ると、シンは悲しんでくれるだろうか。
 自惚れかも知れないがきっと悲しんでくれるだろう。
 いや、もしかしたら、勝手に居なくなった事に腹を立てて、愛想を付かされてしまうかも知れな
い。
 そう考えると、シグナムの心がまるで鉛を流し込まれたように重くなる。
 熱い鉛が冷えた心に冷却され全身に重く暗く圧し掛かる。
 シグナムの心は、痛みで張り裂けそうだった。
 陳腐な表現だと思い馬鹿にしていたが、いざ自分の身に降りかかってくるとこれ程辛い事は無い。
「時間なのだがな」
「…分かっています」
「では、何故動こうとしない」
 無言のままで俯き離陸時間が迫っていると言うのに、動き出そうとしないシグナムにゼストは呆
れたような視線を向ける。
 シグナムの悲しみに沈んだ瞳も、まるで、誰かを待つように動こうとしない足も、今までの生活
に未練があるのは理解出来る。
 シグナムとゼストは既知の仲だ。
 互いに知らぬ間柄では無い故に、シグナムの気持ちを汲んでやりたい気持ちも当然ある。
 しかし、離陸時間はとうの昔に過ぎているのだ。このまま子供のように駄々を捏ねられたままで
はゼストも困るのも確かだった。
「義姉さん!」
 ゼストはどうしたものかと、顎を杓っていると、見知らぬ大声がロビー中に響き渡った。
 あまりの大声に護衛のが胸元に手を入れギョッとして振り返る。
 反響した声が空港中を駆け巡る中で、どうやってシグナムを説得するかと思案していたゼストは
何事かと声の方へ煩わしそうに振り返った。
「…ア、アスカ」 
 俯いたままのシグナムが目を見開き弾かれたように顔を上げた。
 まるで、信じられない物を見たように唖然とし「何故」と何度も呟いている。
「ほぅ」
 これが件のシン・アスカかと、赤い目を滾らせ自分とシグナムの前に立ち塞がるシンを見てゼス
トは忍び笑いを漏らした。
 ゼストは、シンの事を資料でしか知らない。その資料も四年前の物で、シンの姿は、あどけなさ
を残した子供そのものだった。
 だが、今ゼストの前に居るシンは、アジア人特有の幼さを残してはいるものの、面構えだけは中
々の物である。
 ゼストはシンに対する認識を少しだけ改めた。
 当然良いほうにである。  
 シンは、八神家から走って来たのだろうか。
 冬だと言うのに全身汗まみれだった。
 その後ろをスバルが、息を切らせながら追いついて来る。
「もう限界…ごめんギン姉…ブリッツキャリバー壊れちゃった」
 ハンドル片手に何やら穏やかで無い言葉を言い、その場に倒れ伏せるスバル。
 良く見ればシンも膝から下が完全に笑ってしまっている。
 だが、覚束ない足取りながらも、シンは、明確な意思を持ってシグナムに近づいて来る。
「義姉さん…」
「は、はい」
 シグナムはシンの剣幕に気圧されるように、まるで、少女のような表情を浮かべ答えた。
「…行かないで欲しい」
 震えながら、しかし、はっきりとした発音でシンはシグナムに向けて言葉の弾丸を放つ。
「…?アスカお前何を・・・言って」
「行かないで欲しいって言ったんだよ、義姉さん」
 行かないで欲しい。
 たったそれだけを言う為に、こんな所まで追いかけて来たと言うのか。
「アスカ…お前は何を言っているんだ」
 空港の回りは数こそ多くは無いが、ブルーコスモスの警備網が轢かれているはずだ。
 日本国内と言えばある種の治外法権が彼等には認められいる。
 実弾による発砲行為こそ無いだろうが、電気銃やスタングレネード等による鎮圧行動は確実に仕
掛けて来る。
 そんな危険な部隊相手にを只「行かないで欲しい」と言う為だけに、シンはここまで駆け抜けて
来たと言うのだろうか。

「嫌なんだよもう…大事な人が目の前から居なくなるのは」
 大事な人と言う言葉にシグナムの耳朶が一気に赤くなる。
 シンの弾丸がシグナムの心深くに正確に撃ち込まれた。
 温もり似たむず痒い甘い痛みがシグナムの全身を駆け巡る。
「俺は義姉さんと一緒に居たいんだ・・・だから、今ここに居る」
 シンの何の混じり気も無い素直な気持ちに、シグナムの心が激しく揺れ動く。
 この子はいつもそうだ。
 シグナムは、正直に言えばシンの行動が非常に腹立たしかった。
 シグナムは、何ヶ月も前から悩み続けて、シンの為を思い今の生活を捨てる事を決意したのだ。
 それなのにシンと来たら、シグナムの決死の覚悟等素知らぬ顔で無視し自分の欲望にだけ忠実
に動き続けている。
 危険な場所だと言うのに、無理矢理通り抜け、自分に会いたいが故に危険を犯した。
 無茶と無謀は違うように、ブルーコスモスを相手にする事は無謀の部類に入る。
 もし、スタングレネードや電気銃を食らえばどうなる事か。
 電気銃は出力にもよるが、スタングレネードをその身に浴びれば確実に病院コースである。
「そんな…事を言う為に…」
「そんな事が俺には大切なんだ」
 シンは一歩ずつシグナムへと歩みを寄せる。
 シンが、一歩、一歩と歩み寄る度に、シグナムは、硬く閉ざされた心の鍍金が剥がれ落ちるの
を自覚する。
(来るな…)
 馬鹿な話である。
 本当にシンに近寄って来て欲しくなければ、その身を持って証明すれば良いのだ。
 近づいて来たシンに、冷たい言葉を浴びせ、平手の一発でもお見舞いすれば、シンは自分の事を
諦めてくれるだろ。
(来ないで…欲しい)
 だが、シンは決して歩みを止める事はしない。
 ゆっくりと、だが確実にシグナムとの距離を詰め続ける。
(来るな…)
 シンは、もう手を伸ばせば触れ合える距離まで迫っている。
 これが最後のチャンスだ。
 今ここでシンを拒絶しなければ、自分はズルズルと元の鞘へと治まってしまう。
 本能がそれを望んでいても、シグナムの理性がその結果を許容しない。
(今しかない)
 そうだ、手を振り上げ、シンの頬を叩き、冷たい罵声を浴びせるのだ。
 シグナムによって傷つけられた傷など一時的な物だ。
 傷は、はやてによって癒され、ティアナかスバルによって、あるいは両方に愛される事によって
別の物に代わって行くだろう。
―――四年前と同じように
 その瞬間シグナムの心臓が脈動し、心がバラバラになりそうな程の衝撃を受ける。
 壊れ砕け磨り潰され、望んだはずの未来を想像するだけで、シグナムの精神が悲鳴を上げる。
 出来るはずが無い。
 出来るはずが無かった。
 大人達の身勝手な欲望で傷を負ったシンを、いままたシグナム自身の身勝手な思いで傷つける
など出来るはずが無かった。
 肩まで上げた手が震えている。
 喉を伝い昇って来る言葉が、口腔を揺らし、心を揺らし、シンとの思い出を揺らし続ける。
 朝起きておはようと言う瞬間。
 一緒に食卓を囲む瞬間。
 何でも無い日常の一コマが堪らなく愛おしい。
 ただいま、いってらっしゃいと言い合う瞬間。
 そして、お互いを呼び合う瞬間。
 四年間に過ごした記憶が洪水の如く溢れ出して来る。
「来たよ」
「私は…」
 気が付けば、シンが目の前に立っていた。
 先刻まで不安の色を隠せなかったシンの赤い瞳が、今は静かにシグナムの姿を映していた。
「俺は義姉さんと一緒がいい」
「馬鹿者が…」
 もう自分の気持ちを偽る事は出来そうに無かった。
 シグナムは、自分がこんなにも愚かな人間だと思っても見なかった。
 自分は、的確に物事を判断し常に最善手と言えなくとも、最適手たる行動を行える人間だと思っ
ている。
 血に宿った騎士としての道は捨てたとしても、主、大切な"誰か"の為に"何か"を捨てる事が出来
る人間だと信じていた。
 だが、今の自分はどうだろうか。
 今、自分がオーブに行かなければ、シンの運命が捻じ曲げられてしまう。
 刹那的に感情に身を委ねる事は誰に出来る。
 後先さえ考えなければ、誰にでも素直に生きて行ける。
 しかし、それを非としたからこそ、自分はここに居るのでは無いのか。
 だと言うのに、目の前に居る血の繋がらぬ弟の言葉に抗う事の出来ぬ自分が居る。
 一緒に居たいと言う言葉が堪らなく魅力的に感じる。

「帰ろう…俺達の家に…」
 シンがシグナムに向けて、ゆっくりと手を伸ばす。
 その行動がシグナムに取って王手だった。
 シンの伸ばされた手にシグナムはゆっくりと手を伸ばし、
「その手を取ると…どうなるのか分かっているのか」
 寸での所で、ゼストの冷たく無機質な声がシグナムの手が止まった。
「アンタ…誰だよ」
 シグナムを庇うように、ゼストの前に立つシン。
 その瞳は好戦的な光を含み、何かあればゼストに向かって殴り掛かっていきそうな雰囲気だった。
「ゼスト…とだけ呼べば良い。ファミリーネーム…苗字は嫌いでな」
「ん?…あぁ。なら、ゼスト、アンタ義姉さんの何なんだよ!」
「私にして見れば、シン・アスカ。お前こそ何なのだと聞きたいが…まぁそれを言うのは野暮と言
う物か」
 普段滅多に笑う事の無いゼストが、何か面白い物を見たように笑いを堪えた表情でシグナムを見
つめている。
「シグナム…お前の意思は良く分かった」
「騎士ゼスト!私はまだ何も言って・・・」
「言わずともお前の心は既に結論を出しているのだろう。自分を殺す事でしか意思表示出来なかっ
たお前が後先考えず自分の意見を述べている。これほど身内として喜ばしい事は無いのものだな。
柄にも無く考えが浮かんだようだ。故に今は行くがいいさシグナム。議長とドクターには、私から
話しを通しておいてやろう。プロジェクトFは一考の余地が有りとな」
「騎士ゼスト?貴方は…何を」
「お前は、今はどうか知らんが、元々口より先に手が出るタイプなのだ。難しい事を考える必要は
無い。今は言われた通りにシン・アスカと共に帰るがいいさ」
 シンは、ゼストの言葉が信じられぬのか、威嚇するように瞳を滾らせている。
 ゼストは、まるで何か懐かしい物でも見るように目を細め、無言のまま護衛の黒服二人を伴い搭
乗口へと歩き出そうとして、最後に一度だけシンに振り返った。
「シン・アスカ」
 唖然とするシグナムと他所に、ゼストはシン目掛けて何かを放り投げて寄越す。
「名刺?」
 良く見る紙の名刺では無く、オーブ印の入った金属製の名刺だった。名刺は、硬くも無く柔らか
くも無い金属であるかも疑わしい材質で出来ている。
「何かあればここに連絡して来い。出来る限りの便宜は図ってやる」
「アンタ…一体何なんだよ」
「ゼストだ。今は只それだけの存在だ」
 ゼストは只それだけ言うと踵を返し、今度こ本当にそシン達の前から去っていった。
「な、なんなんだよ一体」
 シンにして見れば、言いたい事だけを言われて勝ち逃げされたようにしか思えない。
 何が一体どうなったのだろうか。
 シグナムも呆気に取られたような表情で、ゼストを無言のまま見送っていた。
 分かった事は、自分は、まだシンの傍に居られると言う事だけだ。
 その事を素直に嬉しいと思うシグナムだが、同時にこれからどうなるのかと言った不安も感じて
いる。
 シンは、罰が悪そうに頭をかき、シグナムへと向き直る。
「はやて義姉さんもランスターもナカジマも待ってるし、兎に角帰ろうか」
「む…」
 何故だろうか。
 シグナムは、シンの口から自分以外の異性の名前が出た事に、どうにもこうにも腹が立ってしま
う。
「そうだな…主はやてやティアナやスバルも待っているしな」
「な、なんだよ急に」
 さっきまで困惑交じりだったとは言え、上機嫌だったシグナムが顔を急に曇らせ、含みのある言
葉を漏らし始める。
「いや、私の弟は、随分おモテになるようだと思ってな」
「俺、別にモテて無いし」
 その言葉にシグナムの血圧が上昇し、瞬間湯沸かし器のように顔を真っ赤に染め上げる。
「お、お前は馬鹿か!お、お前はティアナとスバルに、こ、こ、告白されていたでは無いか。二人
から告白されてモテナイとはどの口が言うのだ!」
「な、なんで知ってるんだよ!」
 寝耳に水とはこの事だろう。
「馬鹿者が!あんなに堂々と告白されておいて、どの口がそれを言うのだ。他人の目を気にしない
も程がるぞ!大体ティアナの件は本当に偶然だったが、スバルの件はお前達二人だけで盛り上がり
過ぎだ」
 烈火の如くシンに対する文句を捲くし立てるシグナム。
 シグナムの言葉に今度はシンが全身を赤くする番だった。
「み、見てたの!」
「し、仕方無かろう…み、見えてしまったのだから」

 確かに考えて見れば、シンが告白された場所は家の中ばかりだ。
 あまり広い家では無いが、三人生活しているのだ、ニアミスの危険性など有って当然だった。
 シンにして見れば不意打ちも良い所だ。
 何故自分ばかり大事な場面を見られねばならないのだろうか。
 それも今から説得すると言うか、自分の気持ちを素直に伝えようと思った義姉相手に、告白の事
が既に知られているなど予想外過ぎる。
 シンの頭が真っ白になり、それと同時全身に羞恥にも似たむず痒さがこみ上げて来る。
 こうなったら、後は野となれ山となれである。
「そ、そうだよ!悪いかよ!」
「な、何を開き直っているんだ痴れ者が!大体返事はしたのか!」
「し、してない。受験終わるまで待って貰ってる」
「な、な、な」
「し、仕方無いだろ!」
「何が仕方無いと言うのだ」
「ランスターやナカジマの事も大事だけど、今義姉さんに居なくなられるのだけは、俺は"絶対"に嫌
なんだよ!」
「ぬっ…あぁ…こ、この馬鹿者が…」
 呆れてモノが言えないとはこう言う事を言うのか。
 二人の美少女から愛の告白を受けて、返事は保留するのは別として、舌の根乾かぬ内に別の女性
に告白紛いとはコレいかに。
 シグナムは、自分の顔が真っ赤に染まっていくのを自覚する。
 動悸が激しく胸が苦しい。
 しかし、それは先刻まで絶望から来るものでは無く、もっと異質でもっと暖かい何かだ。
 シンも同じ気持ちなのだろうか。
(もし、そうなら、私は…嬉しいのだろうか)
 シンは、シグナムと同じく顔を真っ赤に染め、改めて手を差し伸べてくる。
「帰ろう…俺達の家へ」
「ああ…そうだな」
 シグナムは、今度はずっと素直にその手を取る事が出来た。
 張り詰めていた気持ちが緩んだのだろうか、シグナムがシンの手を握った瞬間、シンの頬を涙が
伝い落ちていく。
「な、何故泣くのだ」
「べ、別に泣いて何か…あれ、なんで、こんな」
「男の癖に泣くな」
「泣いて無い」
 強情にも言い張るがシンだが、涙は確かに頬を流れている。
 人間は嬉しくても涙を流す事の出来る生き物だ。
 赤い目がより一層赤くなり、顔をくしゃくしゃに歪めたシンは、何と言うかどうしようも無く保
護欲を掻き立てられる。
 つい先刻まで、シンから逞しいまでの男らしさを感じていたシグナムだが、今のシンからは年齢
にそぐわない脆さと幼さしか感じない。
 触れれば壊れてしまいそうな程脆く、誰かの加護無しでは生きて行けない危うさは四年前から変
わる事は無い。
 まだ、私はこの子に必要とされている。
 今はその事だけで十分だった。
 シグナムは未だ泣き止まぬシンに微笑み、優しく引き寄せた後、頭をゆっくりと撫で始めた。

「プロジェクトFかぁ。男に取ってはこれ程都合の良い計画も無いんやけどなぁ」
 場所は空港近くの河川敷。
 はやては気だるそうに腕を組み、ボンネットに腰掛け電子双眼鏡片手に嘆息する。
「何がですか?」
「ううん…こっちの話」 
 隣に座ったているティアナもぼんやりと空港のロビーを見つめている。
 声こそ聞こえないが、双眼鏡にはシンとシグナムが言い合う姿が映っている。
 罵り合うと言うか、傍から見ているとどう見ても痴話喧嘩をしているようにしか見えず、ティア
ナに取っては非常に目に毒だった。
「ええんかティア?まだ、スバルだけやったら十分勝ち目あったのに、眠った獅子を起こしてもう
たんやで」
「…いいんです。このままじゃ何か騙まし討ちしたみたいで後味悪かったですし。それに、私最初
から負けるつもりもありませんから」
 シンが俯き涙を流す中、シグナムがおっかなびっくりと言った様子でシンの頭を撫で始める。
 傍らのゼストが呆れたような表情を見せ、黒服二人を伴って搭乗口に向かっていく。
「強気やね勝算はあるん?身内の欲目ちゃうけど、シグナムはレベル高いよ。料理も勉強も出来る
し何より美人。ちょっとやそっとじゃ対抗出来へんと思うけど」
 はやては、愚問だなと思いながらも聞かずには居られなかった。
 ティアナにしてもスバルにしても、相手が強大だからと言って臆し竦んでしまうような根性の持
ち主では無い。
「はい、強敵です!」
 はやては、自信満々に太陽のような笑顔を浮かべるティアナを見ながら苦笑する。
(これはちょっと手強いよシグナム)
 敵に塩を送ると言う言葉がある。
 敵対関係にあっても、相手が窮地に立たされている時は助けると言った意味がある。

 戦国時代のライバル関係にあった武将同士のやりとりが語源であるが、今のシンを巡る三人の関
係を見ていると、この言葉がぴったりと当てはまる。
 恋はいつも苛烈で純粋な物だ。
 それと自覚した時から燃え上がり、時には周りを巻き込みながら大爆発を起こす。
その中心に居るのが自分の義弟と言うのがまた愉快では無いか。
「さて…と、これからが大変のような気がするわ」
 一人呟くはやて。
 だが、口調とは裏腹に久方ぶりに実に楽しそうに笑うはやてだった。

 季節は春先。
 早咲きの桜が咲き始め、暖かくなり始めた陽光が目に眩しい。 
校庭には保護者と生徒達で賑わい、もう通う事が無い学び舎に別れを告げる者も多い。
「絶対送辞とか長いってあの校長」
「まぁな」
 シンとヨコミゾは並び合い、卒業証書片手に校庭を横切りながら校門へと向かってた。
 卒業生はこのまま少しだけ長い春休みに突入する事となる。
 実際の年齢よりも若い校長の文句を言う事もこれからは少なくなるだろう。
 たった三年間。されど三年。
 長いようで短い時間の中で、随分と色んな事があった。
 暖かいようなむず痒いような記憶。
 思い出したくも無い壮絶な失敗談も山のようにある。
 当然と言うべきか、シンは大学受験に失敗、もとい不戦敗で苦い春と向かえる事となった。 
 後期日程に的を絞り寝ずの勉強を頑張ったシンだが、季節外れのインフルエンザにかかり、実に
四十度近い熱の中試験に望んだが結果は芳しく無かった。 
「さて、これからどうするよ」
「俺は予備校探し探すかなぁ」
「いや、いや、いや。そう言う意味のこれからじゃ無くて、これから何するかって事だって」
「ああ、そっち」
「クラス会の後はどうする?やっぱいつもの面子で遊ぶか?」
「そうだな。そっちの方が俺も気が楽だな」
 何と言うべきか。 
 シンのクラスでは、高校卒業と言うビックイベントを前にカップル成立が爆発的に増加している。
 殆どのクラスメイトが相方を見つけている現状では、決まった相手を持たないシン達のグループ
は実に肩身が狭かった。
「だな、最後の最後で胸焼けしたくねえしなぁ」
「男連中で静かに三年間と振り返るか」
「オッケイ、その方向性で行こう」
 ヨコミゾは、そうと決まれば話は早いとばかりに、携帯電話を取り出し、校庭に散らばった仲間
達に連絡を取り始める
「あー田中。俺ヨコ。今いけるか?」
 ヨコミゾが電話をかける横でシンは校舎に振り返った。
 三年通った学び舎にも、もう余程の事が無い限り来る事は無いだろう。
 購買のサンドイッチも学生食堂のカレーうどんセットも、冷房しか効かない実験室にも、もう毎
日通う事も無い。
 三年間の殆どの時間を過ごした場所だ。
 もう来る事が無いと思うと少しだけ寂しい気持ちになるのも確かだった。
「アスカ終わったの?」
 制服姿のまま校門で待っていたティアナとスバルがシンに駆け寄って来る。
「ああ、終わった」
 二人共卒業式が終わるまでわざわざ待っていてくれたようだった。
 電話をかけていたヨコミゾが、ティアナの姿を見つけるや否や、文字通り携帯を放り投げて神が
かり的な速度で走ってくる。
「ラ、ランスターさん!」
「は、はい」
 滑り込むように登場し、ヨコミゾの異様な迫力に思わずシンの後ろに隠れるティアナ。
「きょ、今日仲間内でまことしめやか且つ厳かな宴があるのですが、貴女も是非参加の程をいかが
でしょうか。まずは、カラオケなどで気分を盛り上げてですね」
 ヨコミゾは、興奮のあまりどうにも日本語が不自由になっている。
 花束でも持ってれば肩膝立てながら、演劇部顔負けの演技で恭しく差し出していた事だろう。
「ナカジマさんも如何でしょうか」
 シンは、さり気無く二人の前に体を挟み防波堤となる。
(俺、こんなに独占欲強かったかな)
 シンはまだどちらかの彼氏と言う訳では無いのだが、こうする事が自然に思えた。
「カラオケですか?う~ん、スバルはアンタ行きたい?」
「シン君は行くの?」
「まぁ行くけど」
「じゃあ、私も行く」
「なら、私も顔出すわ」
「お前やっぱ敵だわ」
 満面の笑みを浮かべるティアナと尻尾を前後左右に思いっきり振るスバルを前にヨコミゾがシン
に向けて敵意と殺意が程よくブレンドされた視線を向ける。
 シンは引き攣った笑みを浮かべながら、ヨコミゾから逃げるようにその場を後にする。
「後でなヨコミゾ」
「うぃ~っす」

 待ち合わせは夜の六時にいつのも場所だ。
 メンバーを考えても十五分前に着いていれば問題は無いだろう。
 シンは二人を伴い、高校生としては最後になるであろう校門を潜り抜けた。
 特に感慨があったわけでは無いが、寂しさとも悲しさとも言えない感情が胸を通り過ぎた。
 長い人生において、これで全てが終わったわけでは無いが、一区切りついたのは確かだった。
「ねぇアスカ」
「なんだよ?」
 ティアナは、前を歩くスバルに気が付かれないようにシンに小声で話しかける。
「アンタの第二ボタンなんだけど…私にく、くれない?」
「第二ボタン?」
「そう第二ボタン」
「シグナム義姉さんもそうだったけど、ボタンなんて何に使うだよ?それもわざわざ二つ目だけっ
て…なにかあるのか?」
「そ、それは…」
「ん?ちょっと待った」
 この男は今何と言ったのだろう。
 確か、義姉も第二ボタンがどうとか言わなかっただろうか。
 シンの制服を良く見れば、普段は襟元を第一ボタンまでしか開けていないのに、今日に限って第
二ボタンまで開けているでは無いか。
「アンタ、第二ボタンどうしたのよ」
「ああ、朝、義姉さんが欲しいって言うからあげた。不思議だよな。何に使うんだか」
(やられた)
 あっけらかんとしているシンに、ティアナは思わず頭を抱える。
 スバルはこう言う占い事に興味は無いし、体よく手に入れられる思っていたのだが、まさか横か
ら掠め取られる結果になろうとは。
 ティアナはむむと眉間に皺を寄せるが、嘆息しながらシンを覗き見る。
 シンの左腕には見知らぬ真新しい時計が光って見えた。
「まぁ…今回は譲ろうか…」
 空港の一連の騒ぎの後、シンがシグナムの手を引き八神家に帰って来たのはもう夕方を過ぎた頃
だったか。
 手を握り会う二人を見て、空港で二人が何を話しあったのか定かでは無いが、前より二人の距離
が縮まったのは錯覚では無いだろう。
 本来なら警察沙汰になって可笑しく無いのだが、シン達にお咎めは無かった。
 はやてが、携帯であちらこちらに連絡を取っていた事と関係あるのだろうか。
「ふぅ…」
 ティアナは軽い溜息と共に隣に歩くシンを見つめる。
(全くコイツは!人の気も知らないで、のほほんと歩いて)
 卒業して安心したのか、緩みきった頬を思い切り抓り上げてやろうかと思うティアナだった。
 だが、これで良かったのかも知れない。
 逸早く行動を起こしたティアナだが、実の所覚悟らしい覚悟が出来ていなかったのでは無いだろ
うか。
 好きだと言う気持ちが先行しすぎて気がして、どうにも落ち着かないのも事実だ。
 何の事は無く、変化を恐れていたのは、シンだけではティアナ自身もそうだったと言う事だ。
 告白の件もシンは受験に失敗した為と空港の一件で有耶無耶になってしまった。
 結局シンを中心としたティアナ達の関係に劇的な変化は無く、今暫く微温湯のような生活が続い
て行くのだろう。
 試合は九回裏では終わらず延長戦の模様を見せている。
「義姉さん!」
 シンの声でふと我に帰るティアナ。
 丘の上では、スーツ姿のシグナムとはやてが手を振ってシンを呼んでいる。
 シンはそれを見ると嬉しそうに、二人の下へと駆け寄り、スバルも釣られてシンの後ろを駆けて
行く。
 シンは卒業証書の入った筒を二人に渡し、スバルは何故かシンの代わりに誇らしそうに胸を張っ
ていた。
(まぁ…いいか)
 シンが決断しなければ、この甘い蜜のような関係に戻る事は永久に無かっただろう。
 ティアナ・ランスターはシン・アスカに恋しているが、まだ愛しているとは言い難い。 
それはきっと、シグナムにもスバルにも言える事で、恋しているが故に相手を思い、愛している
が故に相手を思う。
自分はまだ少しだけシンに恋していたい。
そう思うティアナだった。
「どうしたランスター!」
 丘の上でシンが呼んでいる。
 はやてが呟いたプロジェクトFとは何か。
 何故シグナムはシンの前から姿を消そうとしたのか。
 シンとオーブの関係は一体何なのか。
 頭痛の種はまだ山ほど残っている。
 だが、今はこの温もりに浸っていたい。
 永久に続くことは決してないだろうが、続ける事が出来るならば、まだ続けていたかった。
 シン達には、決して避ける事が出来ない運命の分岐点が必ず訪れる。
 予知では無く確固たる確信を持って断言できる。
 今の関係は嵐の前の静けさに過ぎない。
 その時自分はどのような選択をするのだろうか。

 運命は未だ不確かなままティアナの前で漂っている。
「何でも無いわよ!」
 ティアナは精一杯の大声で答え、やがて、訪れるであろう未来に希望とほんの少し不安を覚えな
がらシンの元へと駆け寄って行った。

 閑話休題二幕
 ""最早問答は無用である-RePlus If…Ⅱ"
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