SCA-Seed_平和の歌◆217 氏_第06話

Last-modified: 2008-12-07 (日) 19:05:59

 オカルトマニアの主張によると、宇宙人の乗る空飛ぶ円盤、UFOと言う奴は、慣性制
御を完備していて、どんなに不規則な飛び方をしても、中は停止しているかの様に静かな
のだと言う。合理的な話だ。宇宙に住む、半端な宇宙人気取りの造った半端な円盤が備え
ていたのは飛行特性だけだ。

 

「シン!」

 

 散々に振り回され、マッシュポテトになった脳みその中で、誰かの声が潰れた。思い出
すには、少しばかり時間が必要だった。その少しがどのくらいかは分からない。ぐちゃぐ
ちゃに潰れてしまったのは、時間も同じだ。
 意識がようやく四次元の宇宙に戻って来た時、喉を冷たい感触が這い落ちた。

 

「シン!」

 

 無線越しの声だ。それでも、方向と距離を割り出すのは簡単だった。自機にスライムの
粘着で貼り付いた敵機を、どうやったら見失えるだろう。
 ジャスティスは健在だった。ヴォワチュール・リュミエールの光波リングを1ダースは
貰いながら、自転車に蹴り付けられたトラックほどの損傷も見せないMSの存在を、俺の
乏しい常識が拒んだ。そんな相手を、どう倒せばいい?
 計器に目を落とす。エネルギーはどれだけ残っている。今、何が出来る。その時、左に
振れ切ったメーターが、俺に自分の常識を信じても良いのだ、と教えてくれた。
 鼓膜の裏で、心臓が鳴った。アダムスキー・ザクの出鱈目な加速性能。燃費はタンクを
輪切りにして燃料を投棄しているのと変わらない。ヴォワチュール・リュミエールはジャ
スティスを引き裂く前に、その力を失っていた。そして、推進力を失った物体は、二度と
帰って来られないのが宇宙空間だ。

 

 かつて、考えた事がある。フリーダムに手足をもがれたパイロット達は、一体、どんな
風にして、数十時間後、確実に訪れる最期と向かい合ったのだろう――――。
 冗談じゃなかった。本体の燃料はまだ残っている。だが、それを一滴残らず投じた所で、
現有速度を潰すには足りない。このままでは、最悪の想像が、現実の災禍となって、俺を
宇宙の果てへと放り出す事になる。

 

「止せ!シン!手を放すんだ!」

 

 レバーを握り潰そうと無駄な努力を続けていた両手が、その声で現実に帰って来た。正
しく、希望の声だった。目の前には赤色も鮮やかに輝くPS装甲。そうだ。バッテリーも
燃料も、目の前に有る。

 

「俺を説得するんじゃなかったのか?」
「シンっ!」

 

 声に動揺が滲んだ。デスティニーでグフを追い回してやった時だって、こんな声は聞い
ていない。どうやら平和を守る正義の力を以てしても、俺の平和な人生を守るには心許な
いらしい。

 

「シン!放せっ!」
「放すもんかっ!」

 

 放す訳にはいかなかった。幾ら、ヨウランの比較的罪が無い悪戯、ヘルメットの中にト
リモチを仕込まれた時の様な声を上げられたって、絶対に放してやる訳にはいかなかった。
心中の相手としては最悪だが、助かる方法は他に無い。

 

「放せっ!放すんだっ!」
「やなこった!」
「シン!言葉の意味が分からないのかっ!」
「聞けよっ。俺には人生で絶対に我慢ならない事が二つあるっ!プラント式の朝食と、ア
スラン・ザラって奴の言うとおりにする事だっ!」

 

 答えは聞き取れなかった。17.5㎜弾が俺の鼓膜を引き裂き、瞼の裏で立て続けに弾
けた。炸薬の閃光と、着弾の衝撃と、正義のロボットが、モニターの中でグルグル切り替
わった。
 兎に角、計器から目を離さない事だ。前が見えなくなって、しがみ着くくらい出来る。
PSがダウンしたアダムスキー・シルエットでも、CIWSに対する盾としては充分だ。
距離が離れたが最後、歌姫の騎士は束と抱えたビームサーベルの峰打ちで、俺を太陽系の
外へと平和的に放り出すだろう。
 二門の機関砲がアスランの声を五○○節に切り分けた。何を言っているのか全く分から
なかったが、多分、聞き取れた所で同じだった。
 腿には立て続けに膝がめり込んだ。ザクの丸い頭を支える首が、赤い掌の下で悲鳴まじ
りに閃光を吐いていた。口から生まれた男の手足だって、その舌よりも本心に忠実なのは、
当たり前だった。

 

「なにっ……!」

 

 弾着音に声が割り込んだ。機関砲の32ビートは鼓膜に金属の感触を残して消えていた。

 

「弾切れだと……っ!馬鹿な……っ!そんな事がっ!」

 

 トリガーを引きっぱなしじゃ、機関砲弾なんて数秒で打ち止めだ。何を驚いている。数
年ばかり早くパイロットになった男に、常識を教えてやろうと思った時、現役時代の出来
事が脳裏を過ぎった。

 

「フリーダムは核動力機だ。補給や整備を必要としない」

 

 あれ、冗談じゃなかったんだ。
 あの時、俺は笑わなかった。仮にも軍人だ。腹筋は鍛えてある。
 今はどうか。やはり、俺は笑う気になれない。笑っている余裕なんて無い。三○○○発
の砲弾に揺さぶられながらも、瞼でかじりついていた計器。
 レーダーの先に、母船が見えた。
 どうする?下手に減速をすれば間合いが離れる。ザク・インパルスが平和的に手足をも
がれるまで、三秒で足りるだろう。けど、俺達は今、単艦で航行しているんだ。母船に下
手な損傷を与えようものなら、船旅と人生とが一度でお終いになる。
 正義の翼が炎の眩さで宙を蹴った。ジャスティスには未だ充分な燃料が残っていて、我
が身を守らないといけないのはあちらも同じだった。自分が“下”とあっては尚更だろう。

 

「シン!」

 

 耳障りな声が耳障りに滲んだ。衝突の寸前、アクセルを踏み込むドライバーを前にすれ
ば、誰だって狼狽する。だけど、相手以上に衝突を望まない筈の失業者は、油脂まみれの
クロワッサンと同じくらい奴の思い通りにするのが嫌いで、なにより仲間の声が聞こえて
いた。

 

「シン!そのままだっ!コンテナブロックを一つ切り離す!」

 

 二つのバーナー炎が、二機のMSを押し潰した。ジャスティスとザクじゃ推力の桁が違
う。それでも母船との位置関係は、俺達の諍いを許すほど大らかじゃなかった。衝突。
 モニターがバラバラに割れた。どてっ腹に風穴を空けられたコンテナが、腹立ち紛れに
脊髄を断ち割り、コンマ数秒の時間を俺の脳から蹴り飛ばした。宇宙の欠片が好き勝手な
方向に回り、元の方向を取り戻した時、赤い機体が走行クレーンと数本のブームを纏めて
へし折った。
 喉が灼けた。酸っぱい感触を腹の底に押し戻しながら、回る目玉で見覚えの有る装備を
捉えた。この狭い中じゃ、シルエットを排除する事もままならない。奥歯みたいに揺れる
鱗を引き剥がしながら、ザクの右腕がハラキリダイナミックを引き抜く。クズ鉄の山の中
で、赤い機体が一転したのは、その時だ。

 

「シンっ!この馬鹿野郎っ!」

 

 剣光一閃。振り抜く刃と同じ勢いで、腕が飛んだ。どちらの?言うまでも無い。ザクの
電力が許すのは、復列砲刀の一振りこっきり。ジャスティスの脛にサーベルが残されてい
る以上、互いの腕を交換してしまう訳にはいかなかった。赤い装甲が迫る。ビームの刃が、
一つの光点に変わる。空間戦闘におけるMSの視界は、コックピットを中心に設定されて
いる。
 装甲が灼けた。シルエットのPSは落ちてる。ザクの装甲なんて、ビームサーベルの前
じゃブロックチーズと変わらない。セーフティ・シャッターと言う言葉が脳裏を過ぎる。
 瞳孔が赤く溶けた。パイロットスーツが焦げ、産毛が逆立ち、皮膚が焼け付いた。狭い
コックピットがたちまちオーブンに変わる。
 それも光点が掌より小さくなるまでだった。
 反射的に捻った機体を、真っ直ぐに後退させた。加速に勝る相手には自殺行為だが、今
回に限って、心配は無かった。
 炭素鋼が軋んだ。ジャスティスの前には、拉げた隔壁とブームが立ちはだかっていて、
コンテナブロックを押し潰した何かが、その腕を払い落としていた。

 

「ルナか!助かる!」

 

 宇宙の闇が、目に優しかった。飛び出すと当時の一言に、俺は疑問を覚えなかった。つ
い数分前、ルナはベッドで唸っていた。それにしたって、アレックスやアビーが母船のク
レーンを鈍器に変えたと信じるよりも、余程納得がゆこうと言うものだ。
 拉げた外壁から、何かが飛び出した。コンテナをミルフィーユの出来損ないに変えた巨
大クレーンだって、戦艦をも真っ二つにする必殺の兵器、ファトゥム-01の一撃に耐え
られる訳が無い。
 正直に危なかった。もし、リフターのタイミングがあと少しばかり遅れていたら、どう
なっていたか。ザクの右腕は、コンテナに対艦刀を突き立てた正にその瞬間、綺麗に切り
落とされていただろう。
 耳の中で、誰かが息を飲んだ。

 

「シン!討たれたからって、討って、討たれて、それでお前の欲しがっていた平和が本当
に来るのかっ!シンっ!」

 

 今この瞬間、世界の誰よりも平和を望む声が言った。だけど、生憎、失業者の元軍人は、
つい数時間前、平和にさよならを告げたばかりで、なにより背後から迫るリフターに気付
いていた。

 

 歌は止んでいた。九つのビーム砲で内から突いた時、貨物船のコンテナは風船みたいな
物だった。
 尖った耳鳴りが、有り得ない何かを探している俺を詰った。アメリカ人は映画館に車を
持ち込んだ。ニホン人は車に映画館を持ち込んだ。だからと言って、あらゆる文明を超え
たプラント人が、MSにオーディオを持ち込む理由なんて有る訳が無かった。
 頭蓋骨から無謀な脱出を試みた脳みそは、クリームシチューに化けている。世界とまと
もな会話をするには、もう暫く時間が必要だ。

 

「シン、無事か!」

 

 数時間前に出会った男の声に、懐かしさを覚えている自分を発見するのと、前後の記憶
が手を繋いで、するべき事を囁いたのは、ほぼ同時だった。

 

「ああ。多分」
「すまん。ルナマリアを止められなかった」
「でも、助かった」
「そちらの位置は確認出来ていなかったんだ」
「だろうね」

 

 意外だった。鞭打ち患者の無茶が、じゃない。射撃が苦手な元赤服は、その場に居なが
ら、自己弁護も抗議もしないほど大人しい性格じゃない筈だ。
 ゆっくりと減速。計器を確認する。乗機の状態は分かった。自分がどこに居て、どこに
向かっているかを把握するには、もう少し記憶を探って見る必要が有りそうだった。自分
の手足がどこに有るかを確かめようとした時、ジャスティスの残骸が目に止まった。
 手足が無かった。頭が無かった。勿論、俺のじゃないけど、おかしな話には違い無い。
あの状況で、どうして四肢だけが綺麗に無くなる?どうして、コックピットブロック周辺
だけが無傷で残る?全く、辻褄が合いやしない。おまけに、ヴォワチュール・リュミエー
ルで撫でてやっただろう、ガイアやドムまで同じ状態なんだ。全く、どうなっているって
言うんだ?

 
 

「悪運の強い奴らだ……て事でいいのか?」

 

 余計な独白に答えを返さないアレックスの性格に、俺は二つの簡単な事実を思い出した。
レシーバーは母船と繋がりっ放しで、歌うのは桃色の公共電波で平和に目覚めたラジオに
限らない。
 溜息の中に、数分間の記憶が溶けた。
 不思議な話だった。レシーバーから歌声が届いた時、苛立ちが消え、スカっと頭の中が
冴えるのを感じた。こんな事は始めてだ。

 

「サンキュー」
「誰に言っている?」
「さっきの歌さ。カッカきてたからさ。おかげで助かった」
「あ、あのっ……こちらこそ、ありがとうございます。落ち着く声だ、て言ってくれてい
たでしょう。それで咄嗟に」

 

 へまをした子供が、それでも良い所を見付けてくれた大人に対するみたいな声だった。

 

「こちらはいい迷惑だ」
「迷惑?」
「ギルとアビー。ルナもだ。頭痛で唸っている」
 無線機の向こうで、小さな声が項垂れた。この前、言っていたのは、こう言う事なのか?

 

「お前は大丈夫なのか?」
「俺は大丈夫だ。俺はな」
「引っかかる言い方だな」
「じき、判る」
「何がだよ?」
「何故、三人がこうした影響を受けているのか。何故、この依頼人がクライン一派に追わ
れているのか」

 

 それは俺も気になっていた。一応、警察権を持たない筈の軍が出張って来た事に始まり、
キラ・ヤマトまで顔を出し、宇宙戦艦にMS、ついにはインフィニット・ジャスティスと
来た。どうして、一人の人間をそこまでして追い回すのだろう。
 目の片隅を、アカい機体が掠めた。

 

「何も知らないのは、俺も同じか……」
「コニャックとクロワッサンをこよなく憎む男が、耳を貸さなかったからな」
「……」
「そうそう。アプリリウスでは、今夜から雪を降らせるそうだぞ」

 

 コロニーは人工の空間だ。自然の気紛れには悩まされないで済む代わりに、別の問題が
起こる。地球では仕方が無い、で済む気象の変化が、忽ち騒動の種になる。暑い日はむし
ゃくしゃするからと放火が起り、寒ければ暖を取る為にと放火が起こる。朝から晩まで、
気象局の電話が鳴りやむ事は無い。
 コロニーからそんな悪弊を一掃したのは、例によって例の如く、平和の歌姫だ。自由な
女神の気紛れとあっては、それこそ仕方がないで諦めるしか無いじゃないか。

 

「……ま、まあ、その辺りは後でゆっくり聞かせて貰うよ。それより、こいつらはどうす
る?」

 

 眼下に五つの達磨が浮いている。誰の願いも託されていない達磨だ。世の中が何も見え
ていないと言う点で、両目が入っていないのと変わりが無い達磨だ。

 

「人質にはならんだろうな。捕虜を取る余裕も無い」
「なら、トドメを刺しておくか?」

 

 火器管制コンソールに指を走らせ、ハラキリダイナミックから八つの砲口を切り離す。
手元に残されたのは、MMI-669B「ヤッパ」ビームナイフ。「ハジキ」モードを選
択すれば、ビームピストルとしても使える万能兵器だ。ザクの腹はとっくに空っぽだけど、
こいつくらいなら、まだ使える。とは言え、ジャスティスのセーフティ・シャッターを貫
けるかと言うと、心許ない。

 

「待て。シン」

 

 安全保障や治安維持に否定的な平和主義者も、自分の身が危険となれば血相を変える。
だが俺の提案に抗議したのは、俺と一緒に平和と訣別した筈の男だった。

 

「お前の機体には必要な火力が残っていない。我々には時間が残っていない」
「放っとけ、て事か」
「言っただろう。目的地に着けば何とかなる。追っ手はそいつらが最後じゃない」
「……なるほど。分かった」

 

 モニターの片隅を、ジャスティスの残骸が泳いでいる。スラスターは沈黙したままだ。
両手両脚ばかりで無く、逃走の手段まで失った時、自分とお友達以外が付ける階級章を殺
人許可証だとでも信じている様な男が、黙っていられるとも思えなかった。
 ジャスティスにとりつく。

 

「……シン……何をする気だ?」

 

 レシーバーの中で、二つの声が入り交じった。アレックスが訝しむ一方で、眼前の声は
片脚を夢の世界に突っ込み、意識と舌に痺れを残していた。

 

「キラ・ヤマトを見習おうと思ってね」

 

 上半身をリリース。ザクのチェストはフライヤーで、曲がりなりにも単独での飛行能力
を備えている。バーナー炎が夜に溶けて行く。
 俺は始めて、キラ・ヤマトと歌姫の騎士団を理解した。武装を失い、機動力を失ったM
Sは、誰かが回収してやらなければならないに決まっている。

 

「シンっ!お前っ!」

 

 ジャスティスの姿が消える。罵声だけが、耳に残った。

 

 

 昔々のお話だ。
 民主化の進んだ、当時で言う所の西側諸国じゃ、人命の価値が驚くべき勢いで高騰した。
一時期、一人の命が地球より重かったと言うのだから驚かされる。結局、行き過ぎたバブ
ルは弾けちまったけれど、それでも民主国家国民一人あたまの値段が、共産圏に100倍
する状況は変わっていない。
 東側は逆だ。命なんて安い物だ。支配者の気紛れ一つで、いとも容易くドブに投げ棄て
られる。
 西側諸国は小銃に5.56㎜弾を詰め込んだ。標的に即死を許さず、敵軍に護送の人員
を割かせるのが目的だ。
 東側諸国は7.62㎜弾を用意した。確実に相手の戦力を削がねば、自分達が危ない。
 だけど、疑問が残る。
 共産ゲリラやアラブのテロリストが、足手纏いに人員を割くだろうか?
 マスコミと国民の目に怯え、女性隊員がセクハラを訴えれば部隊の機能が丸ごと止まる、
そんな西側の兵隊を一撃で殺してしまうのが、本当に合理的だろうか?

 

 結局、軍隊は人間の集まりだ。自分を基準に物を計る。歌姫の騎士団が近いのはどちら
だろう?そして、元国家元首の息子が、異国の一武官、ゲリラの一パイロットに落ちぶれ
るまでの間、誰の恨みも買わずに済むとも思えない。
 裏切り者を心配している元ZAFT軍人を、意外だとは思わなかった。武装警察に「総
括」を強要されていた退役軍人を解放したのは、確かにあの男だ。誰かが“いい奴”を演
じるのは尋問、洗脳の常套手段だが、多分、そこまでの考えは無かっただろう。
 アスランは悪党じゃない。ただ、銃口と平和を交換出来ると信じてしまう様な、少年の
心を忘れない男に過ぎないんだ。

 

 

 打ちっ放しの金属を剥き出しにした艦橋は、一部の大西洋連邦人が住居代わりにする貸
し倉庫の塩梅だった。それぞれが遮られる事の無い、無数のステーションでは、空の椅子
が所在なさげに左右を見回していた。真ん中の艦長席に座る社長の背中は、今日、店を潰
して夜逃げを算段している店主のそれだった。
 たった五人には広過ぎる艦橋の顔ぶれは、少し変わっていた。

 

「ルナ。もう、大丈夫なのか?」
「ううん」

 

 ぶ厚いカラーと、筋を違えた首が、ルナに振り向く事を許さなかった。

 

「横でも縦でも、あまり変わらないから」

 

 “下”が無いと言うのは、本当に厄介だ。
 アビーは何事も無かった様に、端末と睨み合っていた。社長は隔壁の向こうに居る誰か
と、無言の相談を重ねていた。三人の頭痛の種は、どこにも見当たらなかった。

 

「シャワー。覗いちゃ駄目よ」

 

 小さな親切と、大きな御世話が手を繋いで飛んで来た。

 

「早く変装解きたい、て言ってたからな」
「分かっていたのね」

 

 尖り目の顎が、ツイとそっぽを向いた。外貨が通用しない下町のマーケットで、腐って
いない卵を見付けた口振りには、どこか軽侮の色が混じっていた。一体、なんだって言う
んだろう。

 

「あー……うー……」

 

 何か言ってやろうと思った時、暑さで頭をやられた扇風機みたいな声が、通路を伝って
来た。いや、扇風機ならキャスターなんて、不用意な物は付いてない。当然、何かに蹴躓
く事だって無い。

 

「ひゃっ」

 

 足を取られてひっくり返りそうになる声を、俺は反射的に受け止めた。

 

「気をつけろよ」

 

 その一声は、異次元に吸い込まれて消えた。声だけじゃない。意識がまるごと、過去に
溶けた。
 ZAFT軍人だった頃の話だ。知り合ったパイロットの一人に、出撃前には必ず煙草を
吹かす、と言う奴が居た。験担ぎだ、と言っていた。銘柄は地球の古い煙草「ラッキース
トライク」。
 俺の左腕に訪れた幸運は、ストライクと言うには、や……その、固くなかった。

 

「あっ……す、すみませんっ!……っ」

 

 水瓶座のB型が慌てて身を退き、後頭部から隔壁に激突した時も、俺は何も言えなかっ
た。
「あいたた……。あ、シンさんお疲れさまです」
「あ、ああ……」
「今、シャワー浴びて来たんですけど。本っ当!……シンさんの言う通りでした。後始末
で返って汗かいちゃって。大変でしたよ、もうっ」

 

 その言葉も、半分聞こえなかった。
 なるほど、ピンクブロンドを染めるなら赤毛と言うのも納得だが、それも殆ど目に入ら
なかった。
 顎と目が、まるで重力が有るみたいに落ちた。

 

「あ、この服ですか?借りたんです。換えに用意してあった物だそうですけど、サイズが
ぴったりでしたから」

 

 俺の目線を、18歳の学生は明後日の方向に解釈した。あちこち締め付けてるし、もう
苦しくて――――いつか聞いた言葉が、頭の中で渦を巻き、鼻から抜け落ちて行った。

 

「敵の目を欺かなければならなかったからね。どうやら巧くいった様だ」
「味方を一人だけ欺いても意味が有りません」
「大変結構な御趣味ですね、社長っ」

 

 アレックスの呆れた声も、使用済みのティッシュを抓む様なルナの声も、俺の前を素通
りして行った。

 

「よかった……」

 

 何かを考えるよりも早く、声が漏れた。幾つかの冷たい目線が俺の肌を撫で回していた
けど、今、地上で何が起きているのかなんて、全く興味を持てなかった。

 

「よかった……本当によかった……」

 

 この時ほど、神を身近に感じた事は無かった。
 俺は正常に生んでくれた母さんと、神様に御礼を言おうと思ったけど、生憎、頭上では、
錆の浮いた天井が、むっつりと黙りこくっているだけだった。

 

                                       続