青と白の病人服を着て、額に包帯を巻かれたシンが目を覚ましたのは、暖かい白いベッドの中だった。
「……重力が、あるな」
大きく伸びをする。意識を失う前まで狭いコクピットにいたので気持ちが良い。ベッドと同じく白い天井を見上げていると、ふとある事に気付いて跳ね起きる。点滴の針が入っていなかったのは幸運だった。
「ど、何処だ此処!」
両手を見下ろすも、手錠などは掛かっていない。ベッドにも拘束用のベルトが取り付けられていない。
「ザフトの艦じゃない……」
直ぐ見上げた所で回り続ける監視カメラをひと睨みした後、シンはベッドから降りる。軽い眩暈を堪え、目の前のスライド式のドアへ歩いていこうとした時、それが開いた。
「気分はどうだ? シン=アスカ。24時間寝続けた所を見ると、ベッドが良かったようだな」
その声に聞き覚えのあったシンは警戒心も露に、やってきた長身、黒髪の女性から後ずさりする。
「アマツの、パイロットだよな。サハク家の傭兵か何かか?」
「違うな。予はロンド=ミナ=サハク。サハク家の現当主だ」
「当……! いや、それは良い! 此処は何処だ! 何で俺の名前を知ってるんだよ!」
傷ついた獣のように唸り、矢継ぎ早に質問を浴びせるシンに、ミナは低い笑みで答えた。
「此処は予の武装組織……ミハシラ軍などという俗称をつけられているが……それが保有する中継基地だ。
お前はその医務室で治療を受け、今の今まで眠っていた。そして、軍関係者の間でお前は有名人だ」
「有名人……?」
「フフ、キラ=ヤマトの乗るフリーダムを落としたパイロットだ。有名にもなろう」
そう言われ、直後の事を思い出したシンは苦々しい表情と共に頷いた。
「あったな、そんな事も。……プラントに、帰してくれ。俺にはやる事が残ってるんだ」
「尤も、そのシン=アスカもあっさり死んだが」
「死んだ?」
「見ろ」
不思議そうな顔をする彼の鼻先に、ミナは一枚の紙を突きつけた。それに目を走らせるシンの瞳が大きく見開かれた。己の死亡報告書など、人生でそう何度も見られる物ではない。
「友軍機を奪い脱走し、オクトーベル3付近で起こった戦闘に巻き込まれ……死亡……」
「そうだ。現場からはコクピットが潰れて大破したグフが1機見つかったらしいな」
シンの手から報告書を奪い返し、ミナは懐に収めた。
「お前がプラントで何をするつもりか知らぬが、お前は既にシン=アスカではない。脱走兵シン=アスカは死んだ。今のお前がどう自分を説明しようと、シン=アスカを名乗る何者かにしかなれん。そして、お前の市民IDでは最早キャッシュカードを作れず借金も出来ず、定職にも就けなくなった」
「余計な事を……!」
シンの視線が怒気を孕む。ミナはというと、変わらぬ笑みを浮かべていた。
「俺は覚悟を決めて行った! 罰は受けに行く!」
「そう言っても、罰せられる対象は既に死んだ……」
「アンタが妙な真似をしただけだ! 目的は果たした! もう俺は! 必要ないんだよ!」
その言葉に、シンを見つめる彼女の瞳が冷たい光を帯びる。
「目的を果たした? 果たしてなどいまい、シン。お前が助けたかったのは、あの商船だけか? あの時あの瞬間、あの場所を通っていた者だけを助ける事が、お前の望みだったのか?」
畳み掛けられるように問われ、シンは俯き、先程とは違う感情によって一歩下がる。
彼の脳裏に、瓦礫の中に転がった小さく白い片腕が浮かんだ。
「それは……」
「シン、疲弊したプラントと地球連合では、中立宙域の治安を守る事は出来ぬ。地球もまた同様だ。公海上の治安はこの2年で大きく悪化した。
そしてクラインの娘は、死んだデュランダル議長のデスティニープランを跳ねつけ、自由を望むと宣言した。
痛めつけられ、疲れ切った世界でも、管理社会は必要ないと言った。その意味が解るか?」
焼き尽くされた、ベルリンの街が浮かんだ。
視線を鋭くさせたまま、ミナはシンに詰め寄って、真紅の瞳を見つめる。
「…………」
「強者の力がより増大する事を認め、弱者の力がより減退する事をも認めたのだ、彼女は」
シンの肩が震え、きつく目が閉じられた。悲しいほど軽い、少女の身体を思い出した。
「善悪を問うつもりはない。そもそも善悪などは存在しない……だが、だからこそ強者の責任もより拡大した。
認めたくは無かろうが、お前も強者なのだ。人を傷つけ、殺す術に長けているのだから!」
「俺は、強くなんかない……っ」
シンがミナを振り払って背中を向けようとするも、彼女の手がその腕を掴む。
「お前はこの手で何を為す? 自身の死か、他者の破壊か、それとも……」
「俺は……俺は……!!」
シンは跪き、荒い呼吸を繰り返した。2年間凍て付かせた想いが、思考が飽和して、熱い物が頬を濡らした。
震える息を吐きながら、ベッドに腰掛けたシンはコップの水を飲み干す。目の前に立つミナを見上げ、 たどたどしく話し始めた。
「昔……俺は、家族を助けられなかった。……力が、無かったからだ」
時々しゃくり上げながらも、シンは取り乱していなかった。その時を思い返すように、唇を噛み締める。
「俺は力が欲しくて……俺を世話してくれた人に、プラントへ行かせて貰った。そこで俺はザフトに入隊して、力を……手に、入れた。赤を着て、新型MSのパイロットになった」
医務室に置かれた時計の針が、乾いた音で時を刻む。
「それで、オーブがザフトと敵対した時……俺は戦闘で……自分の世話をしてくれたおじさんを、殺した!」
コップを持つ手が震え、空いた片手でその手首をきつく掴んだ。
「その後も……守りたかった、女の子がいて……守るって約束した子がいて……また、助けられなくて……!」
掠れた声を無理に絞り出して、シンはミナの瞳を見つめる。
「力を持ったって、強くたって、誰も守れなかった! 俺は役立たずだ! 役立たずで……独りなんだ」
血を吐くような叫びと共に、濡れた瞳を閉じる。
「守る為に手に入れた力で、恩人を殺して! その癖に誰も助けられなかった!」
「では、守りたい者は……最早この世界にいない、か」
ミナの静かな問いが、シンの瞳を見開かせる。
「冗談じゃない! 皆を守らせて欲しい! もう誰も、俺の前で死なせたくない! 俺の前でなくたって……!」
再び溢れ出した涙を散し、シンはミナを睨み付けた。
「でも、俺に何が出来た!? 今回だって、アンタが来てくれなかったら!」
「独りでは、何も出来ぬ。お前もそれを分っていたからこそ、ザフトに復隊したのだろう」
淡く微笑んで、ミナはシンの肩に手を置いた。
「戦後、予の所には実に様々な人間が訪れた。プラントか連合に与せよと脅迫する者、権力を簒奪したラクス=クラインやアスハを叩き潰す為に手を貸せと息巻く者、だが、お前ほど大言を吐いた者は居らぬ」
「大言……?」
「守りたい、という大言だ。何かに勝ちたいとか、相手の物を奪ってやりたいとか、そういう小物揃いの中、お前はまたなんと身の程を知らぬ、面白い男だ……実に、気に入った」
涙を滲ませる男に構わず、ミナは声を上げて笑う。呆気に取られて、シンは彼女を見上げていた。
「シン、宙賊は幾らでもいる。先のように襲われる者も後を断たぬ。お前、まだ誰かを守りたいという意思は残っているか?」
「当たり前だ……!」
「ならば予を利用せよ」
「へっ?」
続いた言葉に、間の抜けた声を上げるシン。ついで間の抜けた顔で涙を拭う。
「……アンタを、利用する?」
「どうした? お前は守る為の力を欲し、ザフトに入隊した。そして独りでは何も守れぬと判断して、ザフトに戻った。そして今、ザフトに手を回して死亡報告書まで作った物好きが、自分を利用してよいと言っている。
その力、覚悟、先の戦いで見極めさせて貰った。お前には予を利用するだけの価値がある」
「俺に、宙……海賊を襲う、海賊になれって事かよ」
「今の所この世界において、それがお前の目的を……力無き者を守る事に、最も手早く合致するからな」
ミナの、身も蓋も無くかつ簡潔な物言いに、シンはしばらく沈黙する。そして、おずおずと口を開いた。
「今の俺は……死ぬ覚悟が薄れて、怖気づいただけかもしれない。アンタの信用を食い物にして、楽な生活をしようとしてるだけかもしれない。そういう事を考えた上で……聞いてくれ」
「見くびるな、シン。予は不穏分子の頭目。そのような考慮をしていない筈が無かろう?」
先程と違う、何処か優しげな笑みを湛え、ミナは小首を傾げた。シンは立ち上がって、病人服の袖で乱暴に涙を拭う。背筋を伸ばし、男は海賊の首領の瞳をしっかりと見据えた。
「アンタに俺の力を貸す。だから……俺に、もう一度チャンスをくれ!」
「良かろう。……ようこそ、『ミハシラ軍』へ。歓迎するぞ、シン=アスカ」
ミナが差し出した右手を、シンはしっかりと握り締めた。
「……そうだ、給料どれくらい出るんですか?」
「出来高払いだ」