「ヒレ開くぞぉー!」
バラティエの船べりに立つと、シンは一人双眸を閉じた。
潮風が頬をなぎ、波が体をゆだねる船体を揺らすのが、全身の感覚で理解できる。マスト上の見張り台を特等席に、よく昼寝をしているシンにとっては慣れた感覚。だが、目を瞑ればいつもと同じ……とはいかなかった。かもめの鳴き声は船体が上げる駆動音にかき消され、子守唄にはなりえない。鼻腔を突き抜ける潮の香りには、無粋な闖入者が居座り、彼の平穏を破壊する。
それは、濃厚な火薬の臭いと、僅かに残る血の匂い。
流された赤い命のエキスは、彼の仲間であるゾロのものだった。
『背中の傷は、戦士の恥だ……!』
たった今見せ付けられた、重い覚悟。
『世界一の大剣豪になる』というたった一つの夢にかけた男の信念に、シンは改めて衝撃を受けた。傍目から見れば黙祷しているだけに見えるかもしれない。だが、来ているウェイター服の下は鳥肌で埋め尽くされているのだ。
(……これが、信念って奴か。これが、野望を持つって事か)
王下七武海であり、世界最強の剣士を前にしても鈍る事のなかった決意。そして、世界最強の剣士に認められるほどの心力。
この広い海で、たった一つの『何か』を目指す事は、こんなにも重いものなのか。全てをかけて目指す道は、こんなにも険しいものなのか。
ルフィたちに出会ったばかりのシンならば、その光景に憧憬と尊敬の眼差しを向けるだけだっただろう。
しかし、今の彼は違う。
「やってやろうじゃないか」
雄雄しく、雄雄しく。ただひたすらに雄雄しく、彼は誓う。この海に。仲間に。
『武器』を片手にしたシンの瞳に迷いはない。
ざばぁっ!
船の下、海中から『なにか』が迫りあがってくると同時に、駆動音が止まる。バラティエの船底から迫りあがってきたそれは、半円形の大きな『足場』だった。
「ナルホド。だからヒレか」
ばらばらと足場に飛び出していく船員達を尻目に、シンはとんとんと足を踏み鳴らし、敵を見据えた。
シンの正面……バラティエの船体の側面には、崩れ落ちたガレオン船。その残骸が横たわっていて。その上には、殺気を漲らせる海賊の群れ。
『東の海』の覇者、クリーク海賊団。50隻の大艦隊で、『東の海』を制した大海賊団。
……グランドラインに入った早々七武海の一人に出くわし、50隻の大艦隊が全滅。命からがら逃げ出すも、ここまで追いかけられて船ぶった切られたという、中々に不幸な連中、という言い方もある。
「ルフィー!」
「ん?」
早とちりして敵陣に飛び込み、残骸の中のマストにつかまった船長に、シンは大声で呼びかける。
「そっちの恩知らずの相手は任せて良いんだよな!?」
「おう! むしろ手ぇ出すな!」
「成る程……」
元気のいい船長の声に応え、シンは首もとの蝶ネクタイを緩め、吼えた。
「じゃあ、その他大勢は俺に任せろ!」
「ってオイコラウェイター!」
……と。
格好良く決めたところに、隣に立ったコックからいきなり怒鳴られて、格好良さ半減。
余りにいきなりなことに、がくっと体勢を崩し……
「なんだよ!? ようやく見せ場だってのに!」
「見せ場じゃねえだろーが! 戦うんだったら、武器もて武器!」
「持ってるだろーがっ!」
「アホかてめーはっ!」
手にした『武器』をかざすシンに、今度は別のコックが力の限り怒鳴りつけた!
「 モ ッ プ じ ゃ ね え か そ り ゃ あ ! 」
しかもトイレ掃除用である。
「テメーが槍の腕に自信があるのは知ってるが、相手はクリーク海賊団だぞ!? せめてこれを使え!」
「……いやぁ」
差し出されたのは、食事用のそれをそのまま大きくしたような形状の、巨大ナイフ。これに限らず、バラティエの連中が手にしている武器は、全部が全部食事用の道具を巨大化させたものだ。
それだけではない。敵であるクリーク海賊団達の武器も、戦闘用にしか見えない物々しい代物であり、掃除用でしかないシンのモップは力の限り場違いであった。
シンは頬をぽりぽりかいて、
「槍じゃないだろ、それ」
「この期に及んで贅沢抜かしてんじゃねえ!」
「いや、贅沢とか言う以前に。多少の差ならともかくそこまで重心が違うとなぁ」
「モップ振り回すよりマシじゃねえか! そんなもんに殺傷能力なんぞあるかぁっ!」
「オーナーからも何とか言ってやって下さい!」
コック達の上げる悲鳴を聞きつけ、ゼフはシンを睨みつけ、
「おいウェイター」
「はい?」
「テメー、トイレ掃除用のモップ持ち出してんじゃねえ! 店内が汚れるだろ!」
『そーじゃないでしょうが!』
非常事態だというのに、コック一同の突込みがシンクロした。それらを他人事のように聞き流し、シンはおもむろに槍を握りなおし……
「てめー! 俺たちを舐めて」
ど が ぁ っ ! ! ! !
「ぶふぉぁっっ!」
正面で叫ぼうとした海賊の一人を、殴り倒した!
いや、殴り倒したのではなく吹っ飛ばしたというほうが正しいか。殴られた海賊はそのまま吹っ飛んでいき、船の残骸に居座るクリークの真横に『着弾』する。
「は……!?」
「んな……!?」
それを見た両陣営の人間達の反応はほぼ同一といってよかった。クリーク海賊団の戦闘員が、モップで吹っ飛ばされたという事実に、目を丸くしていたのである。
「モップには殺傷能力が無い……そんなのは違う」
「て、てめー! 何しやがった!」
「まさかお前も能力者か!?」
わめくクリーク海賊団を無視し、シンはコックの一人を見て言った。『モップに殺傷能力が無い』と言い放ったコックを。
動揺もそこそこに、シンを覆い包むように展開し、武器を構える海賊たち。彼らを歓迎するかのように、シンの右手でモップが廻る。
ヒュンッヒュンッヒュンッ……
「どんな物体だろうとある程度の『重さ』があるのなら……」
ヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンッ……
廻る。廻る……加速しながら、高速でモップが回転する。
「大道芸でもするつもりかぁっ!」
「全員でやっちまえぇっ!」
その姿を好機と見たのか、一斉に飛び掛る海賊達。
「『 速 さ 』 が 『 重 さ 』 を 『 強 さ 』 に 変 え る 」
ヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュヒュッ!
あわてず騒がず、シンは静かに海賊たちを睨みすえた。
加速を続け、速度をさらに上乗せされたモップは……凶器となって牙を剥く!
「 ヴ ァ ジ ュ ラ ァ ッ ! ! ! ! 」
ドガガドゴガゴガゴガゴゴガァンッ!!!!
『っぎゃぁぁぁぁぁぁっ!!!?』
十分な遠心力で加速したモップが、超高速で海賊たちを打ち据え、叩きのめす。ウォーハンマーのごとく振り回されたモップの先端が、海賊たちの顔を、わき腹を、腰を直撃し、四方八方へと吹き飛ばした!
「グランドラインで名を鳴らしたさる武道家が、こんな事を言った」
呆然とするコック達に対して、海賊たちの着水音をバックミュージックに、ゼフが言葉を紡ぐ。
「拳の威力には計算式が存在する。それすなわち、『体重×速度×握力=破壊力』だ、と。
拳じゃあねぇが、攻撃において速度とは威力に付随する重要な要素。あれほどの速度なら、モップも立派な凶器……そういうこった」
ひゅんっひゅんっひゅんっ
「ま、こんなもんか」
モップの回転を下がり、ようやく目で終える程度の速度になってから、シンはモップを肩に担いだ。血が滴り落ちるそれを見たゼフのコメント。
「ウェイター。事が終わったらそのモップは捨てとけ。汚くてトイレ掃除にも使えやしねえ」
「おーけー。オーナー」
気楽に関係の無い会話をする二人を見てようやく、コック達はゼフの不可解な言動の意味を理解した。なんと言うことはない、彼らのオーナーは最初からシンならばモップでも敵を倒せると、分かっていたのである。
「ひ、ひるむなぁっ!」
「相手はモップだ! 打ち合ってりゃそのうち壊れる!」
「そうだ! あんなモンが戦闘で持つわけがねえ!」
一方のクリーク海賊団はといえば。流石百戦錬磨といったところか、相手の武器がモップである事と、その耐久性に目をつけて、武器破壊を決意した。頑丈さとは武器にとって重要な要素の一つであり、シンが持つモップにはそれが致命的に欠けていた。
そうと決まればと、今度は金棒や斧といった、重量級の武器を手にした連中が前に立ち、身構える。
「打ち合う?」
彼らの雄叫びを聞き、シンは笑った。
本人は気付かなかったが、それは明らかに、今までの彼の笑顔とは趣が異なる笑顔だった。
『決意』をして譲れないものが出来た男の、不適きわまる笑み。
「あのモップぶっ壊せぇぇぇっ!」
「前提からして間違ってるな」
正面にハンマー使い、右前に棍棒使い、左前には斧使い。明らかにパワーファイター然とした男達が同時に飛びかかろうとしたとき、シンは敵を屠るために動いた。
「ぶっころっ」
どごぉっ!!!!
まず最初は、ハンマーを振り上げ突撃しようとした正面の男。
シンはその場を動かずにがら空きになった腹部に向かって、強烈な打突を見舞う。
「お前らは」
左右からは、斧使いと棍棒使いが飛び掛ってくる。
シンはあわてず騒がずモップを横に構え姿勢を低くし、横なぎに振り回された斧を回避し、
どごしゃぁっ!
逆側に立つ棍棒使いの武器が振り下ろされる前に、その顔面を一突き。
そして、モップを引く勢いをそのままに、反対側の斧使いのみぞおちに柄による強烈な一撃を打ち込んだ!
どごっ!
「俺の武器に触れる事さえ出来ないで終わる……!」
「……っ!!?」
文章にすれば長いが……シンの一連の動きは文字通り一瞬で行われた事。余りの速さにクリーク海賊団の戦闘員達は、そのモップの動きを捉えることすら出来なかったのだ。最後の棍棒使いと斧使いを倒したモップの動きにしても、モップがかすんだようにしか見えなかった。
続いて飛び掛るつもりで後ろに控えていた連中も、余りの事にしり込みし、動きが止まっていた。
「す、すげぇ……モップ一本でクリーク海賊団を圧倒してやがる!」
「いいぞー! ウェイター!」
「ま。相性の問題もあるんだろうけど」
コック達の歓声に内心ガッツポーズをとりながら、シンはあくまで表面上はクールに決めて、
「お前ら、揃いも揃ってパワー型だろ? 相性が悪すぎるんだよ」
「貴様ら! モップ一本に何手間取ってやがる!」
部下の余りのふがいなさを見かねたのか怒声を発するクリーク。
(モップ……? 違うさ)
内心で嘯きながら、シンはモップを改めて構えなおす。
(俺が今構えてるのはモップじゃない! ゾロの刀と同じ、ルフィの拳と同じ……引く事を知らない海の戦士の、決意の『槍』だ!)
この広い海のどこかに、ステラとマユがいるかもしれない。失ったと思ったかけがえの無い大切な人たちが、生きていてくれるかもしれない。
(お前らの世界で死んだ奴が、グランドラインに現れる……? 可能性としちゃあ、ゼロじゃあねえな。むしろ、あの海ならそんな事が起きても納得出来ちまう)
先日ゼフに対して放った問い、その答えはシンの中に芽生えかけた想いをより強固なものへと変えた。
シンがこの世界に現れたときに踏みしめた島は、世界で最もカームベルトに近い島だった。ゼフがラスティを拾った場所も、グランドラインだったという。
グランドラインが死者を引き寄せる? ならば……
(俺はあの海で……マユやステラを探し出す! そして!
今 度 こ そ あ の 二 人 を 守 る ん だ ! ! ! ! )
構えたシンの放つ気配に、海賊達は悲鳴を上げて後ずさった。
シンの腹に括られた一本の槍が、今イーストブルーで産声を上げた。