京極高次

Last-modified: 2010-04-17 (土) 10:49:53

京極 高次(きょうごく たかつぐ  永禄6年(1563年)ー 慶長14年5月3日(1609年6月4日
)は、戦国時代の武将。江戸時代初期の大名。若狭国小浜藩初代藩主。丸亀藩京極家初代。

没落

永禄6年(1563年)、京極高吉と浅井久政の娘で長政の姉(京極マリア)の長男として、浅井氏の居城である近江の小谷城京極丸で生まれ、幼名は小法師と称した。父の高吉は足利義昭に仕えていたが、義昭と織田信長が対立した際に出家し、高次は美濃へ人質として送られ幼少期を過ごす。元亀4年(1573年)7月には宇治の槇島城に篭もる義昭を攻めた信長に従い、近江奥島5,000石を与えられる。

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、高次は妹の竜子が嫁いでいた若狭の武田元明と共に光秀に属し、羽柴秀吉の居城である長浜城を攻めるが、13日の山崎の戦いで光秀は秀吉に討たれ、19日に元明は自害し、高次は初め美濃、そして若狭の武田領へと逃れ、一時は柴田勝家に匿われていたようである(京極家譜)。

大名への道

若狭の旧・武田領に逃れていた高次は、秀吉の側室となった妹・竜子の嘆願などにより許され、秀吉に仕えることとなり、天正12年(1584年)に近江高島郡2,500石を与えられる。翌々年には高島郡5,000石へと加増された。

さらに同年の九州攻めの功により高島郡で大溝1万石を得、大溝城も与えられ、初めて大名となった。天正15年(1587年)、信長の妹である市の娘・初(父は浅井長政)を正室とする。高次と初はいとこ同士であった。

天正18年(1590年)、小田原攻めの功により八幡山城2万8,000石となり、翌年に秀吉が関白に就任すると、従五位下侍従に任ぜられる。文禄4年(1595年)には大津6万石へと加増され左近衛少将に任ぜられ、翌年には従三位参議に任ぜられる。

この頃の高次の出世は自身の功では無く、妹や妻の尻の光(閨閥)に拠ったとされ、高次は陰で蛍大名と囁かれたと伝わる。

大津籠城戦

豊臣秀吉が亡くなった後の慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立が深まっていた。そうした中、会津の上杉景勝を討つべく大坂を発った家康は翌々日の6月18日に大津城へと立ち寄り、高次は家康から上杉征伐の間の事を頼まれ、弟の京極高知と家臣の山田大炊を家康に伴わせる。しかし三成も家康を討つべく諸大名を誘っており、高次は氏家行広と朽木元綱から三成の西軍へ属する事を求められる。これに対して家康の東軍からも再三の書状により大津城の堅守を頼まれる。高次は大津城の守りが弱い事から一旦は西軍へ属する事を決め、大坂へ嫡子の熊麿(京極忠高)を人質として送り、大津城を訪れた三成と酒を酌み交わす。そして関ヶ原への出陣に備えつつ、西軍の動向を東軍に伝える。

9月1日、高次は西軍と共に大津城を発ち、2日には越前の東野へと至るが、ここから海津を経て船で大津城へと戻る。3日、城に兵を集め兵糧を運び込み、籠城し西軍を抑える旨を家康の重臣である井伊直政に伝える。高次の裏切りは西軍の立花宗茂により大坂へと伝えられ、城近くの逢坂関に居た毛利元康(西軍総大将毛利輝元の叔父)軍が大津の町へと攻め寄せた。さらに立花宗茂軍がこれに加わる。7日、西軍の寄せ手は1万5,000とも3万7,000とも4万とも言われる数に増し大砲が打ち込まれる。11日夜、家臣の山田大炊、赤尾伊豆らは寄せ手に夜襲をかけ戦果を得るが、12日に堀は埋められ、13日には総攻撃を受け、高次自身も応戦するが二ヶ所に槍傷を受け、三の丸、続いて二の丸が落ちる。14日、和平の使者が送られるが高次は拒否した。が、北政所の使者孝蔵主を受け、老臣の黒田伊豫の説得もあり、夜になって降伏した。

15日朝には城に近い園城寺で剃髪し、70人程の兵と共に宇治へと去り、その後紀伊の高野山に入った。15日朝には関ヶ原の戦いが始まっており、正午過ぎには西軍が総崩れとなったため、結局高次の篭城により大足止めされた毛利元康および立花宗茂らの大軍勢は関ヶ原に参陣することができなかった。

若狭国主

関ヶ原の戦いの後、徳川家康は高次の功績を高く評価し、高次は井伊直政からの使者を受け早々に高野山を下りる様に伝えられる。始めはこれを断ったが、更に山岡道阿弥を送られ、それに弟の高知も加わった説得を受けて下山し、大坂で家康に会い若狭一国8万5,000石へ加増転封され、慶長5年(1600年)10月に小浜に入り、翌年には近江高島郡の内7,100石が加増される。

小浜では、従来の後瀬山城を廃して日本海と北川と南川に囲まれた雲浜に小浜城を築く。また、後瀬山の麓に残った城跡と武家の屋敷を町屋として街路を整備し、新たな街区を設けるなど、城下町を整備した。

慶長14年(1609年)5月に47歳で亡くなり、長男・忠高が後を継いだ。高野山奥の院には大津城で討死した22名の家臣を供養する石碑が、慶長五年庚子九月十三日の日付と共に残っている。


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