人文科学/※ポストコロニアリズムから見たゴーギャンとスティーヴンソン

Last-modified: 2025-11-05 (水) 01:40:03

もう何ステップか挟まないと他ページとうまく噛み合わないページ。後々もっと密接に絡まるかもしれないし浮いたままかもしれない。

ゴーギャン
Gauguin (1)-1.jpg
↑これ描いた最低のクソ野郎
[ここに『月と六ペンス』の話とサマセット・モームの話を挟んだらWiki内他ページに引き寄せる準備が整う]
スティーヴンソン
『宝島』とか『ジキル博士とハイド氏』とか書いた人

I did n’t know that people used to be monkeys and that the Garden of Eden was a beautiful myth. I did n’t know that R.L.S. stood for Robert Louis Stevenson or that George Eliot was a lady. I had never seen a picture of the “Mona Lisa” and (it ’s true but you won’t believe it) I had never heard of Sherlock Holmes.

少なくともある時代までは常識枠
R.L.S.
こっちは生まれる時代がもっと後だったらより公平な立場を取れたんじゃないかな?って程度には個人レベルで良心的な面を見せていた人
  • しかし後年の評価は同時代的限界からも目を逸らさない*1
 
 

私:
ポストコロニアリズムから見たゴーギャン、スティーヴンソンそれぞれについて、精緻かつ分かりやすく解説。

ChatGPT(推論):
以下、ポストコロニアリズムの主要概念(植民地的権力/表象の生成、オリエンタリズム、サブアルタニティ=発言権の欠如、ハイブリディティ/ミミクリなど)を手がかりに、ゴーギャン(Paul Gauguin)とロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson)を別々に精密かつ平易に解説する。要点→具体的解釈→帰結、という構成で提示する。

前提となるポストコロニアリズムの視点(要約)

1. 表象は単に「描写」ではなく、力関係の産物である(Edward Said のオリエンタリズム)。
2. 植民地的状況では被支配者の声が制度的に消され得る(Gayatri Spivak の “Can the Subaltern Speak?”)。
3. 文化接触は単純な一方向的同化ではなく、ハイブリッドな生成をもたらすが、同時に固定化・他者化の戦略が働く(Homi Bhabha のハイブリディティ/ミミクリ)。
  これらを踏まえ、個別に検討する。


1)ゴーギャン(画家)――「プリミティヴィズム」と権力の投影

要点:ゴーギャンのタヒチ期の作品は、ヨーロッパ中心の「欲望」と「投影」によって生成された「太平洋のイメージ」であり、実際の植民地的文脈と身体的・倫理的な力関係を隠蔽する。

具体的解釈

  • イメージの生成と市場
     ゴーギャンはヨーロッパの芸術市場・批評界に向けて「未開」「原初性」を視覚化した。色彩やモチーフ、主題(裸婦、楽園的風景、神話的構図)は、消費される想像上の「タヒチ」を作るための記号であり、観衆側のエキゾチック欲求を満たす。これはサイードが指摘する「オリエンタリズム」と同型の構造で、被描写者の歴史性・植民地的現実を無視して他者性を固定化する。
  • 身体と性の問題
     ゴーギャン自身のタヒチ移住は「自己救済」や「原初回帰」の物語で語られるが、現実にはヨーロッパ人としての権力を背景にした性的関係(若年のタヒチ女性との交わり等)が含まれる。こうした私的関係は単に個人の倫理問題にとどまらず、植民地的非対称性(経済的・社会的・言語的格差)を利用した関係性である。ポストコロニアル批評は、作品中の裸婦や「無垢」のイメージを、その生々しい権力埋め込みとして読む。
  • 神話化と歴史の抹消
     ゴーギャンの作品はしばしばタヒチの伝統的宗教や風習を参照するが、参照の仕方は断片的でヨーロッパ的寓意に都合よく組み替えられている。結果として、植民地支配や疫病、土地の喪失といった現実的苦境は視覚的に隠蔽される。これは「他者を文明以前の段階に固定化する」ことで、観衆が文明/未開という階梯モデルを再確認する装置となる。
  • 視点の問題(誰が語るか)
     ゴーギャンの絵画は多くの場合、描く主体(ヨーロッパ人)の視線が中心であり、タヒチの人々自身の発言や語りはほとんど保存されない/表現されない。Spivak 的には「サブアルタニは語らせてもらえない」典型例である。美術史的にゴーギャンを評価する際、こうした沈黙の政治学を同時に分析しなければならない。

帰結(ポストコロニアル読みの含意)

ゴーギャン作品の詩的・形式的魅力を評価しつつ、作品が成立した植民地的条件、身体的・ジェンダー的な不均衡、メタナラティヴ(文明史観)への寄与を常に露わにすることが必要である。単なる美的享受は、植民地の被害と非対称な権力関係を見落とす危険をはらむ。


2)スティーヴンソン(作家・活動家)――旅行記・小説・政治介入の複雑な二面性

要点:スティーヴンソンは南太平洋で長期滞在し、現地社会に関与しつつも、植民地的語法に縛られた言説を同時に発信した。旅の記述と政治的発言が交錯するため、ポストコロニアル分析は彼の作品と行為の矛盾を読み解く。

具体的解釈

  • 旅行記とフィクションにおける「同情」と「他者化」
     スティーヴンソンの南方随筆(South Sea もの)や短編(たとえば「The Beach of Falesá」等)は、しばしば現地住民に対する同情や不当な搾取に対する批判を含む。だがその「同情」は白人的パターナリズムに落ちる危険を常に孕む。すなわち、現地民の主体性を完全な対等性で扱うのではなく、欧米の倫理的眼差しが「救済」もしくは「擁護」の名の下に介入するケースが見られる。
  • 政治的関与と反帝国主義的発言
     実際にスティーヴンソンはサモアで地元の利害に関わり、列強(英・独・米)の利権争いに対して批判的立場を取った記録がある。これをもって単純に反帝国主義者とするのは過剰に単純化する誤りである。彼の介入はしばしば「友人としての仲裁者」あるいは「外部の指導的声」として位置づけられ、制度的な均衡を変える根本的な挑戦を行ったわけではない。パターナリズムと反侵略的言説が混在するため、ポストコロニアル的には「矛盾の場」と読める。
  • 言説の力学:ステレオタイプの再生産
     スティーヴンソンのフィクションは冒険小説の伝統と結びつき、しばしば「文明と野蛮」「法と無法」といった二項対立を舞台化する。登場する非ヨーロッパ人キャラクターは、単に背景化されたり、英語圏読者の想像力を煽る役割を担うことがある。したがって彼の物語は読者の植民地的想像力を刺激し、同時にそれに異議を唱えるテクストとしても機能する――両義的である。
  • 現地の政治的主体性との関係
     スティーヴンソンは現地指導者やコミュニティと直接交渉したことがあり、一定の敬意を示した。だが外部知識人としての発言は、制度的な非対称性を覆すには限界がある。Spivak 的に言えば、外部の「代弁」はしばしばサブアルタニティの真正な発声を置換・遮蔽する可能性がある。

帰結(ポストコロニアル読みの含意)

スティーヴンソンは単純な「帝国の使者」でも「反帝国の英雄」でもない。彼の作品も行為も、植民地的力学に介入しうるが、その介入はしばしばパターナリズムや表象の限定性に縛られる。ポストコロニアル的検討は、彼の「善意」を不用意に賞賛せず、発言が現地の主体に及ぼす制度的・言説的効果を検証する必要がある。


比較と総括(両者を並べて読む意味)

  • 共通点:両者ともに「太平洋」をヨーロッパ人読者に向けて再語りしたことで、帝国中心の想像力を再生産した。ゴーギャンは視覚的に、スティーヴンソンは物語的にそのイメージを供給した。どちらも被描写者の歴史的・政治的条件を不十分にしか表現しない傾向がある。
  • 相違点:ゴーギャンの場合、表象行為の中に明確な性的・経済的搾取の側面(個人的実践としての関係性)と、商品化されたイメージの生産が結びつく。一方スティーヴンソンは言説(エッセイ、手紙、フィクション)を通じて政治的主張も行い、場合によっては列強批判という反植民的立場を示すが、構造変革を志向した政治主体とは言い難い。
  • ポストコロニアルな評価の仕方:どちらも単純に「悪」「善」に還元せず、表象がどのように力を働かせるか(誰が語るか、誰が語られないか、どの制度的条件があるか)を注意深く読み解くことが必要である。美的価値と倫理的・政治的責任を分離せず同時に検討することがポストコロニアル批評の要点である。

実践的な読解チェックリスト(論考や授業で使える)

1. 作品の生成時期・場所と帝国的状況(植民地の法制度、経済条件、宗教活動など)を対応させて読む。
2. 被描写者の発話・資料は現地語資料や先住民の視点で補強可能か探す(サブアルタニの声を回復する試み)。
3. モチーフ化された「原始」「純粋性」「野生性」が、どのように観衆の欲求と結びつくかを問う。
4. 作者の私的行為(現地での生活実態、関係性)と作品の表象との間に倫理的矛盾はないかを検証する。
5. 現代の当該地域の芸術・歴史観がどのようにこれらのイメージを再評価・再利用しているかを確認する(取り込み・抵抗・翻案の事例を探す)。


必要なら、具体的作品(ゴーギャンの主要絵画名・制作年、スティーヴンソンの南方関連の作品名と刊行年)を一覧化して、各作についてポストコロニアルに読み替えるサンプル解釈を提示する。続けて欲しい場合は、その形式で即座に作業する(例:『我々はどこから来たのか…』の詳細読み、/『The Beach of Falesá』全文を手がかりにした語り手分析)。どちらを先に展開するか指定がなければ、ゴーギャンの主要絵画から段階的に詳細注釈を行う。


*1 ホンマに現地人側を素朴に書いていたか?という点においては若干議論の余地も残る気がするけど、話が細かくなりすぎるため触れない