カボチャの日本史/古典籍に見るカボチャ

Last-modified: 2022-06-17 (金) 22:41:38

大和本草

我が国の記録にカボチャが登場するのは、17世紀末に本草学者の貝原益軒が執筆した百科事典「大和本草」である。「大和本草」は薬効のある植物や動物、鉱物のみならず畑地で栽培される野菜や果樹など、様々な有用植物について解説している。ちなみに、大和本草は全16巻で付録として図を収録した2巻があるが、そのいずれにもカボチャを含めた野菜類の図はない。
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(現代語訳)

我が国に渡来したのは慶長あるいは元和の頃であろう。その頃の渡来は西瓜(すいか)より早い。
京都には天和年間に初めて種子が植えられた。(本書のもととなっている)「本草」*1には「陰瓜」といって、日陰でも育つということでこの名があるが、日陰では果実は実らないためこの呼び名は正しくない。
味は非常に良く、果実が扁平なものもあればそうでないものもあり、(果皮の?)色も橙赤色や緑色などがある。
猪の肉と一緒に煮るとなお味が良いが、今は猪の肉が手に入りにくいので、ただ薄く切ったものだけを煮つけても甘い味がしてよい。
品質のあまり良くないものは薄く切ってから灰を塗って日に当てて乾燥させて食べる。
屋根の上に蔓を這わせ、霜の降りないうちに果実を収穫して暖かい場所に保存しておくと、春まで腐らない。
果皮の緑色の品種は品質が最も良いので、これを植えるのがよい。
「南京ボウブラ」というのがあって、これは(果実に)くびれがある。花や葉は南瓜によく似ていて、果実は熟すと黄色や緑色とまちまちで、魚膾(刺身?)に加えて生で食べる。煮て食べると南瓜とはまた異なった風味である。
南瓜と同じように灰を塗って乾燥させれば、その品質は南瓜より優れている。

農業全書

「農業全書」は、17世紀末に農学者の宮崎安貞が出版した、日本最古の農業のテキストである。本種は穀物や野菜のみならず、薬用植物も記載している。出版年代は「大和本草」よりやや遅めで、この頃にはすでにカボチャが有用な野菜の一種にランクアップしていたことを示している。
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原文 (カナ表記を片仮名から平仮名に修正)

南瓜、是南方よりたね來る故、かく云ふなるべし。 甘瓜、西瓜のごとく菓子になる物にはあらず。 猪肉鶏鴨のあつ物、其外魚鳥と合せて煮て食し、料理色々あり。 唐人甚だ賞す。 西國にては賞翫する物なり。
農書に陰地によしとあれど、日あて能き所よし。 取分き海邊汐風の當る南向の肥地砂地に宜し。 鶏家鴨の糞など多く用ひてなる程肥し、草屋の上にはゝせ、又高き岸などに引上げ、 或は棚をかき、冬瓜夕がほのごとくするもよし。 柴など折しきて平地にははするもよし。 根の廻り五三尺の間、いかにもよく肥してつるのゆくさき/"\は芝原猶よし。 土手などある所ならば是又宜し。 或は屋敷の肥地に根を種へ、民の屋の上にはゝせ、又は前に云ふごときの空地屋敷の邊にあらばはゝすべし。 勝れてつる長くはふ物なれば、よき畠には作りがたし。 但やせ地に糞すくなくては盛長せず。 又是もさきを留る事なし。 深き肥へたる砂地に糞にあかせて作りたるには、甚だふとき瓜一本に二三十もなる物なり。

現代語訳

南瓜(なんか)というのは、南方からタネが伝来されたのでそう呼ぶ。 甘瓜(マクワウリ)や西瓜のように、そのまま菓果(果物)としては食べない。 猪、鶏や鴨の羹(スープ)に入れたり、その他魚や鳥鍋にして煮て食べる。 料理の種類は色々ある。 唐(中国)の人は絶賛している。西国(ヨーロッパ)では飾り物にしたりする。
『農政全書』には日陰地がよいと書いてあるが、日当りの所の方がよい。 特に海辺の潮風の当たるような南向きの肥地がよい。 鶏糞やアヒルの糞などを大目に使って施肥して、蔓を草小屋の上に這わせたり、岸の斜面に引上げたり、 または棚を作って、冬瓜や夕顔の蔓のような仕立てにしてもよい。 柴を敷いて蔓を地面に這わせてもよい。 根の廻りの5、3尺辺りまで蔓が太ってきたら、その先々は芝草の原などに這わせるのも特によい。 土手に這わせるもこれまたよい。 または、屋敷の傍の肥地に植えて、屋根の上に這わせる。または前述のような空地屋敷があたりにあればそれらに這わせればよい。 とにかく蔓はとても長く延びるので(蔓が場所を専有するので)、あまり良い畑には作らないほうがよい。 ただ、あまり瘠地では蔓が延びない。南瓜の蔓は先を切らなくてよい。 深土で肥えた砂地に充分な施肥をして育てると、とても太い実が蔓一本で20も30も実る。

本草図譜

本草図譜とは、1829年に旗本にして植物学者の岩崎灌園による植物の図譜である。本書は岩崎が自宅で栽培したものや、ドイツの本草学者のウェインマンの図譜から転用した植物の図を収録した、まさに日本で最初の植物図鑑というべき全96巻からなる書物である。本書は岩崎の生前に最初の5巻が公開され、残りは岩崎の近親者や知人などに配布された。やがて大正時代には全巻が復刻された。以下の図は大正時代に復刻されたものを使った。

ぼうぶら

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現代語訳

我が国に渡来したのは慶長あるいは元和年間のことであろう。西瓜より渡来時期が早い。京都には天和年間に種子が植えられ、それまでは京都にはなかったと「大和本草」にある。春に果実を実らせ(?)、葉は冬瓜に似て五から七の突起があり、裏と表に細かい毛が生える。
蔓の先に五弁の黄色い花を咲かせ、花は黄蜀葵(とろろあおい)に似て花弁が尖り、花の下に小さな果実をならす。成長した果実は花匏(はなふくべ)*2のようであるが果皮は緑色で、薄緑色の斑紋が入り、とても蝦蟇(がまがえる)の表面に似ている。果実は丸くて上がすぼまり壺のようになるものと、長くて越瓜(しろうり)のように緑色になるものがある。田村氏が言うには、肥後の八代でとれるものは丸くて西瓜のような果実をつけるという。こうした三種類をまとめて「かぼちゃ」と呼ぶ。果皮は熟すと緑色から黄色になる。味は淡白で甘くないので薄く切って乾燥させて保存し、おかずにする他、また筑後では砂糖をまぶしてこれにきな粉をかけ、菓子として食べるという。

なんきんぼうぶら

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現代語訳

苗や葉は前述のぼうぶらに同じ。その果実の形は壺に似ていて、上部はすぼまり、下部は丸い。また、扁球形で溝がありでこぼこしている「きくざ」(菊座)というものもある。
果皮は初め緑色だが熟すと黄色になり、果肉は厚くて甘く、味が濃い。これ(「きくざ」)と形状が等しい「あこだうり」という品種は、果実が小さい。

きくざのたうなす・きんとうくわ

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現代語訳

(きくざのたうなすは「なんきんぼうぶら」の項で解説)
形状は南瓜(ぼうぶら)と同じで、葉は丸く、尖らない。果実は越瓜に似て、長く霜に当たって紅色になり、魚膾にするかあるいは煮て食べる。味は蕃南瓜(なんきんぼうぶら)に似ているが、甘みは薄い。

毛利梅園の植物図譜に記載されたるカボチャ類

毛利梅園とは、江戸時代後期の旗本にして生物学者で、前述の「本草図譜」の著者である岩崎灌園とは同世代の学者である。
梅園は植物や動物の精緻な図譜を残しており、「梅園草木花譜」や「草木実譜」が梅園の植物図譜の作品である。

梅園草木花譜

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梅園の描いたカボチャの花はおそらくニホンカボチャのものであろう。日本で栽培されるウリ科植物の中でも最大のカボチャの花をダイナミックにかつ精緻に描いている。
また、梅園は花の図譜に少し説明を加えており、ミニ図鑑としても楽しめるよう工夫がなされている。

草木実譜

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草木実譜は、梅園が果菜類や果物、野草の果実(ヤマノイモのムカゴや何故か海藻も描かれている)の図譜である。
他の江戸時代のカボチャに関する記述にもれず、ニホンカボチャのうち菊座型のものとひょうたん型のものを区別している。ひょうたん型のカボチャの名称が「東埔塞瓜(カボチャ)」と記されており、この記述は「梅園草木花譜」にも見られる。
また、ペポカボチャの系統である「金冬瓜」にについても説明があり、ここでも「金冬瓜」は観賞用とされている。

成形図説

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成形図説は、1804年に薩摩藩主の島津重豪(斉彬や久光の曽祖父)の手掛けたイラスト入りの農業用のテキストである。
島津重豪が、明和安永年間(1764年 - 1781年)藩臣に編纂を命じ、寛政4年(1792年)から本草学者の曽槃(そはん)が参加、同11年(1799年)から白尾国柱が参加し、図譜を描いた。重豪は他にも多くの編纂事業を命じていた。重豪の目的は、本書を藩内で印刷・頒布し、農業や医学を振興させること、および民の必要物を統治者にわきまえさせることにあった。
当初は農書というよりは全100巻からなる百科事典として、鳥類や魚類などの動物や薬草や毒草、果樹などの穀物や野菜類以外の植物や菌類を収録する意図があったが、藩の財政難や曽槃などの編纂のメンバーの病死など様々な要因が絡み、30巻での未刊を余儀なくされた。項目は基本的に和文で書かれており、和漢の古典籍や『東雅』『庶物類纂』などを用いての考証や解説のほか、和名・漢名・オランダ名の対照、そして図譜を多く含んでいる。基本的に図譜は線画のみであるが、大名家や将軍家に献上する際には、図版が彩色された。
本書ではいわゆる普通の菊座型のカボチャを「南瓜 アコダウリ」とし、ひょうたん型の品種を「蕃南瓜 カボチャ」としている。
さらに、本書には「金冬瓜」という果実が橙赤色に熟して大型になる品種の記述も見られる。前述の「本草図譜」では食用にすると記述されたが、本書は「草木実譜」と同じく観賞用としている。

重訂本草綱目啓蒙

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重訂本草綱目啓蒙とは、江戸後期の植物学者・小野蘭山が前述の「本草綱目」を下敷きに、動物や植物、鉱物の和名や日本での利用法などを記したいわば「私家版」の生物解説書である。
本書でもニホンカボチャの品種として菊座型のものとひょうたん型のものを分けて解説しているが、これまで名称の混乱が起きてきたことに触れ、菊座型のものをボウブラと呼び、ひょうたん型のものをカボチャと呼ぶと述べていることは前述の「成形図説」にも共通する。こうした区分は現在も「牧野日本植物図鑑」やなどに見られる。

草木図説

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草木図説 カボチャ2.png草木図説 カボチャ.png

草木図説は、1862年に植物学者の飯沼慾斎(よくさい)が手がけた植物図鑑である。
飯沼は植物を「草部」と「木部」、「禾本(イネ科)・無花部」に分割して植物を収録しようとしたが、結局飯沼の生前に収録できたのは「草部」のみで、「木部」は長く稿本が伝わり1977年になって保育社から初めて刊行され、「禾本・無花部」は世に出ることはなく、愛知県に原稿が散逸しているのみである。
図版は飯沼が手製の顕微鏡を使って観察したものが描かれており、江戸時代の植物図鑑の中ではより精密な図版を収録している。
飯沼はニホンカボチャの菊座型の品種を「ボウブラ」として紹介しているが、それ以外にカボチャ類の記述は見られない。のちに明治から昭和期の植物学者である牧野富太郎が飯沼の子孫とともに「草木図説」に加筆あるいは若干の修正を行い、1907年に再び出版している*3が、そこにニホンカボチャのうちひょうたん型のものにも言及している(上画像を参照)。

画像出典

国立国会図書館,Hathitrust,Googleブックス,昔の写生画大集合

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*1 中国の明代の書物の「本草綱目」?
*2 マルユウガオ?
*3 これ以前にも旧幕臣で農学者の田中芳男が1874年に復刻版を出版している