栽培品種の変遷

Last-modified: 2022-06-18 (土) 12:15:59

我が国に最初に渡来したのは東洋種である。植物学上はニホンカボチャと呼称されるが、むろん日本が原産地であるというわけではなく、北アメリカ大陸南部が原産である。
天文年間(室町時代後期)にポルトガル船がキリスト教の布教のため豊後国(大分県)に到着し、領主の大友宗麟にニホンカボチャを献上したのが始まりであるという。これが九州地方のカボチャを指す方言の「ボウブラ」の由来であるという。カボチャのポルトガル語名がaboboraであり、それの転訛したものである。そのカボチャは栽培が長きにわたり続けられ、現在では「宗麟かぼちゃ」の名称で大分県で今もなお栽培されている。なお、福岡県の伝統的品種「三毛門かぼちゃ」はこの「宗麟かぼちゃ」が福岡にもたらされたものであるという。
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宗麟かぼちゃ。
渡来当時は観賞用とされていた。というのも、当時日本に伝わっていた「本草綱目」(明代の学者・李時珍による薬用生物の解説書)にはカボチャが有毒であることが記されていたためであった。本格的に食用としての栽培が始まったのは、元禄以降のことで、その頃には「大和本草」「農業全書」に記載が見られる(カボチャの日本史/古典籍に見るカボチャを参照)。
やがて、徳川幕府の治世が安定期に入ると、ニホンカボチャの地方ごとの品種の作出並びに固定化が進む。
その最もたる例は京都の鹿ヶ谷カボチャである。ある旅の僧が津軽(青森)から菊座カボチャの種子を故郷の京の鹿ヶ谷に持ち帰り、栽培したところ、突然変異体として果実がひょうたん型のものができた。これが鹿ヶ谷カボチャの由来であるという。
ただ、「大和本草」などのような江戸時代初期の記録に、鹿ヶ谷カボチャの特徴とほぼ一致するカボチャが「南京ボウブラ」の名称でいくつかの書物に登場するため、前述の逸話は伝説の一種である可能性がある。鹿ヶ谷カボチャに形状が似るが首が長くなり、特有の紋様が入る鶴首南瓜と思しきカボチャが「本草図譜」に見られることから、江戸時代には様々なニホンカボチャの系統が日本に導入されていたことが伺える。鶴首南瓜は、中国の品種が福岡に導入されたものと推測されている。
江戸東京野菜の一つである内藤カボチャは、信州の高遠藩主である内藤家の下屋敷が現在の新宿御苑のあたりにあり、そこで多く栽培されていたからこの名称がある。同じく江戸東京野菜の淀橋カボチャや角筈カボチャも系統は同じで、現在になり再び種子が発見され細々とではあるが栽培の復活した、江戸東京野菜の雑司ヶ谷カボチャや居留木橋カボチャは縮緬系の大カボチャである。
大阪府の勝間南瓜(こつまなんきん)にしても、一時は明治になって栽培が始まったものとされていたが、江戸時代当時の八百屋の記録に「南京瓜」の名称で見られることから、江戸時代から栽培されていた可能性が高まっている。

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左から、鹿ヶ谷カボチャ、鶴首カボチャ、内藤カボチャ、勝間南瓜(こつまなんきん)
徳川時代後期にはペポカボチャの一種である「金冬瓜」が渡来したとみられ、当時の「本草図譜」「成形図説」などの植物図譜に記載が見られる。
そうして、幕末頃には日本の北方に西洋種(クリカボチャ)が渡来した。この頃の品種は「ハッバード」「デリシャス」といった果実が大型になる品種で、とくに「ハッバード」は果皮が非常に硬く、まさかりを使って割られたことからマサカリカボチャの名称で北海道や東北地方一帯で多く栽培された。
ただ、こうした系統の果実は巨大になりやすいことと、性質が安定しなかったこともあって、市場ではまだニホンカボチャが主流であった。

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左からハッバード、デリシャス
明治初期には果皮がオレンジ色になるペポカボチャの一種が「ポンキン」という名で数種導入されるが、当時日本人の口に合わず、普及はそれほどしなかった。現在は観賞用としてハロウィンの頃になると花屋や八百屋で見かける。
大正期になると中国から金糸瓜が導入され、これは茹でると果肉の繊維が麺のようにほぐれるという性質が人々の興味を引き、、戦前にはだいぶメジャーになった。他にもアメリカから「デリカータ」という、白地に緑色の縦縞が入り、楕円形のウリのような見た目ながら甘みの強い品種(日本には「スイートポテト」という名称で導入)や、模様が「デリカータ」に似ているが菊座型になる「錦甘露」、さらに菊座型であるが果実の先が尖る「ローヤルエーコン」などが導入された。同時期には観賞用のオモチャカボチャもすでに日本で栽培されている。

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左から「ポンキン」、金糸瓜、「デリカータ」、「錦甘露」、「ローヤルエーコン」、オモチャカボチャ
1930年には宮城県の種苗会社である渡辺育種場が「東京南瓜」を作出した。正確な品種名は「芳香青皮栗」であるが、東京都立川市の農家が多く栽培していたことからこの名称で呼ばれる。
「デリシャス」の果皮が緑色になるものと福島県の在来種である「赤皮栗」を交配し、固定種化させたもので、それまでのカボチャよりも小型の果実であることから人気を博した。この頃には同じく「赤皮栗」を品種改良してできた石川県の伝統野菜の一種「打木赤皮甘栗」も作出されている。

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左から「東京南瓜」、「打木赤皮甘栗」
やがて、日本は第二次大戦に突入するが、その頃食糧不足にあえぐ日本人の命をつないできたのはカボチャ類であった。しかし、戦後数十年はカボチャは嫌われものの野菜となった。多くの人が戦時中の辛い記憶を思い出してしまう、という理由であった。
しかし、その状況は東京オリンピックの開催年の1964年に一変する。タキイ種苗がクリカボチャの一代交配種「えびす」を作出する。この頃の栗カボチャの中でも最先端の品種で、耐病性に優れ、果実の見た目も良く、何より安定した肉質と強い甘みが受け、今日まで栽培され続ける大ベストセラー品種となった。その一方で、それまで栽培されていたニホンカボチャの伝統的品種は「農業の効率化」「食卓の西洋化の促進」の名のもとに脇に追いやられ、栽培が著しく激減した。その15年後には「みやこ」が開発され、現在市場で売られているクリカボチャは「えびす」「みやこ」かそれらに品質の近いものが売られている。
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えびす。作出から半世紀たった今も人気を誇る品種だ。
1980年代にはヨーロッパから輸出した「ズッキーニ」が人気を博し、数年後には二本での栽培が始まり、今やすっかりメジャーな品種になった。
平成に入ると、核家族化の世相を反映して「坊ちゃん」「栗坊(2022年春に「栗っプチ」に名称変更)」「ほっこり姫」などいわゆる「ミニカボチャ」が開発された。現在では家庭菜園の野菜の中で人気の野菜の仲間入りを果たしている。
さらに、生食用の「コリンキー」「鈴カボチャ」(以上2つは西洋種)「韓国カボチャ」(東洋種)などが開発され、「カボチャは加熱して食べる野菜」という常識を大きく打ち破っている。

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画像出展

クサマヒサコの野菜ノート、国華園、e地産地消、タキイ種苗公式サイト、福種、Bobby seeds

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