ベビ/本編

Last-modified: 2022-04-21 (木) 18:26:25


グロいよ!!この本には暴力的な表現が含まれます。

 
 
 

ピカピカに磨き上げられた床の片隅に、
何色かの色が混ざり合ったような、クレヨンの擦れた跡がついている。
床の上で伸びて擦れた線の上には、クレヨンの油分に弾かれた血液の雫が、
数滴玉になって飛び散っていた。
すぐそこには、白い丸襟のついた黄緑色の涼しげなベビードレスを着たベビしぃが、
顔面から大量の血液を溢れさせて、
波打ったような弱々しいツメの跡を引っ掻くように床につけ、
うつ伏せになって死んでいた。

彼は子供が大好きで、ベビーシッターの資格を取得し、紹介所に案内してもらった家で、
子供のお守りをする仕事をして暮らしていた。
今回彼が依頼を受けたのは、街の郊外にあるしぃの家だった。
海外旅行に3日ほど出かけるので、泊まり込んでベビしぃの世話をして欲しいと言う。
ベビしぃはまだまだ飛行機には乗せられそうも無いし、
久しぶりに友達同士でのんびりしたいので…と言う事でお願いされたのだ。
彼は子供は大好き…とは言うものの、ベビしぃだけは特別で好きになれなかった。
いや、と言うより、「しぃそのもの」が気に食わなかったのだ。
何でもダッコすれば済むと思ってる所とか、
他者に迷惑をかけても平気で笑っていられる所とか、
一言では言い表わせないほどの「嫌悪感」を、
彼はしぃに対して抱いていた。
だから、彼は今まで紹介されたベビしぃの面倒を見ることを断り続けていたのだが、
今回泊まり込んでまでの仕事を引きうけたのは、
紹介所の所長が漏らした「今回は時給を倍にするよ。」の一言だった。
まあ、一言で言うならば、彼は「金に釣られた」のだ。

彼は指定された日時に、母しぃの待つ家を尋ねた。
母しぃはめかし込んで、スーツケースを側において玄関の前で彼の到着を待っていた。
母しぃは彼に家の鍵と、幾分かの買い物代、
そして注意事項を書き込んだメモ帳を彼に渡すと、家を後にした。
スーツケースをガラガラと引きずって駅の方向へ歩いていく母しぃは、
とても浮かれているように見える。

預かった鍵で家の中に入ると、彼は思わず「ゲッ…」と言って口をつぐんだ。
玄関の前の狭い廊下に溢れ出ている、ベビしぃのオモチャ。
足の踏み場も無いほどに、散らばるオモチャをなんとか端によせて、
彼はベビしぃの寝ている部屋へとたどり着いた。
そーっとドアを開けると、ベビしぃはベビーベットの上でスヤスヤと寝息を立てていた。
彼は、ベビしぃが安らかに寝ている姿にちょっとした苛々を覚えたが、
(僕は今仕事をしているんだ。僕はベビーシッターなんだ)と、
自分に言い聞かせて、狭い廊下に散らばっているオモチャを片付け始めた。
「…ったく…。どうしてこうも散らかしたんだか…。」
彼は口の中でブツブツと独り言を漏らしながら、
オモチャ箱の中に丁寧にオモチャを整理していく。
廊下のほうから聞こえてくるオモチャのカチャカチャという音に気付いたのか、
ベットで寝ていたベビしぃが目を覚ました。

「チィィィ… チィィィ…」
彼がベビしぃの所に行くと、ベビしぃはベットの上で辺りを見まわして、
母しぃの姿を探しているのか、ウェットな泣き声を立てていた。
ベビしぃは彼の姿を見つけると、彼に向かってダッコポーズを取りはじめた。
前日に母しぃに彼が来る事を伝えられていたのか、
見ず知らずの彼を見ても何の物怖じもしていない。
(アサ オキタラ ベビチャンヲ ダッコシテクダサイネ)
母しぃから渡されたメモ帳に、赤いペンでそう書かれていた。
彼は思わずベビしぃをぶん殴ってやりたい感情を押さえつつ、
自分の方に向かって訴えかけるような目でダッコポーズを取り続けるベビしぃの体を、
嫌悪感から上手く動かない手でどうにかダッコした。
まっすぐ手を伸ばし、自分の体につけないような格好で。
彼はベビしぃをベットの上から近くのソファーに移動させると、
小さなベビしぃのクローゼットの中から1枚のベビードレスをひっつまんで、
ベビしぃの体に着せていった。
ベビしぃのクローゼットの中は、生意気にもブランド物の洋服で溢れかえっていた。
(生意気な。)
彼は舌打ちを漏らすと、バタンと乱暴にクローゼットを閉めた。

お気に入りのイスに座って、ベビしぃは朝食の時間だ。
小さな茶碗に盛られた砂糖と、普通の感覚なら思わず戻したくなる程甘い卵焼き、
温かなホットミルク。これにも砂糖が加えられていた。
「ベビチャンハ アマイモノガ ダイスキナノ!」
そう言って、母しぃが用意していった朝ご飯だった。
ベビしぃはお気に入りのエプロンをしてもらって、
嬉しそうに足をプラプラさせている。
「ほら、食事だよ。」
彼は、ベビしぃの手にスプーンを手渡した。
「ん?どうしたの?」
ベビしぃは彼から受け取ったスプーンを、彼のほうに突き出した。
「アーン チテ!」
彼はベビしぃの方に向かって口を大きく開ける。
「チガウノ! アーン シュルノ! アーンッテ!」
ベビしぃはトレイの乗ったテーブルをベチベチと叩きながら、
彼に向かって抗議を始めた。
どうやら、ベビしぃは彼に食べさせてもらいたいらしいのだ。
彼はポケットに仕舞い込んでいたメモ帳を確認して、本日二度目の舌打ちを漏らす。
そうしてベビしぃの手からひったくるようにスプーンを取ると、
小さな茶碗に盛られている砂糖を、スプーンにとってベビしぃの口に運んだ。
ベビしぃは食べさせてもらい、ご満悦の表情を浮かべている。

ベビしぃはとにかくどんな事も彼にやってもらわないと気が済まないらしく、
オモチャ箱の中のオモチャが欲しい時も、トイレに行きたい時も、
とにかく彼のシャツの裾を引っ張っては彼にお願いをした。
「アエ トッテ!」
「チーチー シュルカラ キテ!」
「ンマンマ チョウダイ!」
「チャポチャポ シュルノ!」
彼がどんなにベビしぃをたしなめても、ベビしぃは自分の要求が通るまで、
まるで彼を威嚇するかのようにドンドンと床を踏み鳴らし、
彼のシャツの裾をギュッと掴んで彼の目を睨むように訴えた。
「どのオモチャが欲しいか言ってごらん。」
「オシッコは一人でできるでしょ?」
「さっきゴハンを食べたばかりだから、おやつはもう少し我慢だよ。」
「プールはお昼過ぎたら入ろうね。まだお水が冷たいからね。」
彼はベビしぃの頭を撫でて、優しく言い聞かせるのだが、
ベビしぃは自分の要求が通らない事を知るや否や、ギャアギャアと大声で泣き始めた。
まるでこの世の中心は自分だと言わんばかりに、
ベビしぃは自分の要求が通るまで大声で泣いた。
だが、ご近所の迷惑になるのでベビしぃを泣かせてばかりではいられない為、
彼は苛立ちと憎たらしさをかみ殺し、仕方なくベビしぃの要求を叶えてやるのだった。

それに加えて、ベビしぃはかなりのいたずら好きだった。
せっかく彼が片付けた部屋に片っ端からオモチャをひっくり返して散らかしたり、
冷蔵庫の中にあったトマトを床や壁に放り投げて潰してみたり、
廊下の壁にクレヨンでいたずら描きをしてみたり、
いくらきれいにした所で、ベビしぃは家の中をメチャクチャにしてしまうのだった。
「駄目だよ。そんな事しちゃ。」
どんなに彼が優しく言い聞かせても、ベビしぃはいたずらを止めようとはしない。
むしろ、いたずらが見つかると、すまなそうな顔をするどころか、
(えへっ、 見つかっちゃた?)と言わんばかりに
小さな舌をチョコっと出して、おすましの表情を浮かべるのだった。
彼はそれでも、苛々とする感情をどうにか表に出さずに、
ベビしぃの世話をした。
ベビしぃのいたずらしたオモチャを片付けて、
潰れたトマトで汚れた床や壁を水拭きして汚れを落としたり、
壁に描かれたイタズラ描きを必死で落としたり、
「本来ならやらなくても良かったような仕事」まで、彼はこなしていくのだった。

ようやく、母しぃが帰ってくる日になった。
今日の仕事さえこなせば、後は母しぃが帰って来るのを待つだけだ。
この日、彼はベビしぃに白い丸襟のついた黄緑色のサマードレスを着せた。
胸元には緑色の棒リボンが可愛らしく蝶々結びされていて、
リボンと同じ緑色のラインが2本、ドレスの裾の所についていた。
ベビしぃはえらくこの洋服が気に入っているらしく、朝からご機嫌だ。
スカートの裾を翻すように、クルクルと回ってみたり、
その場でピョンピョンとジャンプしたりしている。
「今日はお片付けするから、いたずらしちゃ駄目だよ。」
彼はベビしぃの目をじっと見ながら言い聞かせた。
ベビしぃは「ハァーィ!」と言いながら、片手をあげて見せた。

ベビしぃをベビーサークルの中に入れて、遊ばせている間に、
彼は3日分のベビしぃの物を洗濯したり、
掃除機をかけたり、今日の分の仕事をこなしていった。
ベビしぃは、お気に入りの洋服を着せられているせいか、
随分大人しく、彼の手を煩わせるようなワガママもいたずらもしなかった。
(サイゴノ ヒハ ロウカニ ワックスヲ カケテクダサイネ)
メモ帳に記されていた母しぃからの頼まれ事を終わらせると、
彼はベビしぃに昼食を食べさせて、最後の頼まれ事である買い物に出かけた。
ベビしぃをイスに座らせ、ベビしぃがお誕生日プレゼントで母しぃに買ってもらったという
お気に入りのクレヨンとお絵描き帖を渡し、
「すぐに戻ってくるから、良い子にしててね。」と
頭を撫でて言い聞かせ、彼は買い物に出かけた。

頼まれた買い物を終え、家に帰る道すがら、
彼はようやくこれでおしまいだという晴れやかな気持ちでいっぱいだった。
あと2・3時間もすれば、母しぃが戻ってきて仕事を終わらせられる。
ストレスが溜まりまくるベビしぃの顔をもう見なくても済む。
そう考えると、彼の顔は次第ににやけてくるのだった。

「ただいまー。」
彼はベビしぃの待つ家の玄関を開けた。
ベビしぃは玄関を入ってすぐの廊下にしゃがみ、
何やら楽しそうに歌を歌いながら、手を動かしていた。
帰ってきた彼に気付いていないのか、彼の方に緑のドレスに包まれたお尻を向けて。
彼はベビしぃが何をしているのか気になり、そーっと覗きこんだ。
ベビしぃは手にクレヨンを握って、さっき彼がワックスをかけたばかりの廊下に、
いたずら描きをしていたのだ。
ベビしぃはようやく彼の気配に気付いて立ちあがり、ナッコ、ナッコと言いながら、
両手を伸ばして立ちあがった。
赤、緑、黄色のクレヨンで描いた床の上のらくがきを誉めて欲しいのか、
しきりに彼に向かってダッコをしろと言わんばかりに両手を伸ばしている。
ベビしぃの顔と手には、らくがきの最中についたと思われるクレヨンの色がついていた。
彼は怒りに震える手で荷物を玄関先に置くと、
さっきからナッコ、ナッコと連呼しているベビしぃを抱き上げた。
ベビしぃは、彼の目を見詰め、
(ねえ、しぃ、お絵描き上手でしょ?誉めて。)と言わんばかりの満足そうな顔で、
嬉しそうに「ハニャ」と言った。
彼はその瞬間、この3日間今まで押し殺してきた気持ちが爆発するような感情を覚えた。
彼が今まで、ベビしぃにどんなワガママを言われようが、
どんないたずらをされようが我慢してベビしぃの世話をしてきたのは、
ベビしぃが紹介所から紹介された、大事なお客様だったからだ。
だけどもう、彼にはこのベビしぃの事をそんなふうに考える余裕は残っていなかった。
せっかく頑張ってワックスをかけて綺麗にした廊下。
「良い子にしててね。」と言い聞かせていたのに。
もうこれで、ここでの全ての仕事が終わって、もうすぐ帰れると思っていたのに…。

「…っざけるなっ!」
彼は抱き上げたベビしぃの体をうつ伏せにすると、
ベビしぃ後頭部を鷲掴みにして、グイグイと床の上に押しつけた。
ベビしぃの体はぐぅっと力が入り、シッポは針金のようにグイっと上に向いている。
「どうして最後まで邪魔してくれるんだよ!この糞虫っ!」
ベビしぃの小さな鼻の突起が、ワックスで磨かれた床の上で何度も擦れて、
ギュゥゥッ、ギュゥゥッという音を立てた。
うつ伏せにされたベビしぃは苦しいのか、喉の奥から唸るような声をさせて呻いている。
「俺が今からしつけてやる!ラクガキを消せこの馬鹿猫っ!」
彼はベビしぃの後頭部を鷲掴みにしている手に力を込めて、何度も何度も床に擦りつけた。
ベビしぃは手のツメを必死に立て、動かされまいとしているのだが、
大人の力に叶うはずも無く、ツメを立てた状態で何度も何度も床の上に擦りつけられ、
波打ったようなツメの跡をつけた。

彼が我に返ると、ベビしぃは顔から大量の血液を溢れさせて死んでいた。
腕にはクレヨンを擦りつけた跡がついている。
床の上で擦れたクレヨンのらくがきは、線を描くように伸びて薄くなっていた。
彼はポケットから携帯電話を取り出して、あるところに電話をかけた。
「叔父さん。ベビしぃ殺しちゃったんだけどさ。」
警察で働いている自分の叔父への電話だった。
叔父は今からそっちに行くからと言って、電話を切った。
数分後、彼が玄関の前で待っていると、スーツを着た彼の叔父がやって来た。
「ベビしぃか?」
「うん。どうすればいい?」
彼は家の中に叔父を招き入れると、鍵を閉めた。
玄関を入ってすぐの廊下で、ベビしぃがうつ伏せになって死んでいる。
叔父は、暫くベビしぃの死体を見ると、「強盗が入った事にするか。」と言って、
彼の背中をポンと叩いた。

数時間後。母しぃが呑気に鼻歌を歌いながら、スーツケースをガラガラと引いて返ってきた。
「ベビチャンノ オミヤゲモ イーッパイ! ダイスキナ ブランド モノモ タクサンカッタシ!」
自分の家の前に数台のパトカーが止まって、野次馬が集まってきているのが見えた。
「…アレ?ナンダロウ?」
母しぃは何事かと走って、境界線ロープを潜り抜け家の中に入った。
「……ハニャァァッ!」
母しぃが見たのは、うつ伏せで血を流して死んでいるベビしぃの姿だった。
「ベビチャァンッ! ベビチャァァンッ!」
母しぃは警察官の静止を振り払い、うつ伏せで倒れているベビしぃの体を抱き上げた。
ベビしぃの顔は鼻が擦れてそこから骨が見え、痛みを堪えるようにギュウっと目を瞑っていた。
大きく開いた口からは、血にまみれた小さな舌がデロンと零れ落ちている。
「シィィィィィィィーーーッ!!」
母しぃはベビしぃの体を放り投げた。
ベビしぃの死体は、綺麗に磨かれた廊下の壁にドンと叩きつけられ、ボタリと落ちた。
真っ白な壁には、ベビしぃの血が擦れてこびりついた。
あんなに愛らしかったベビしぃが、
母しぃにとってはもう、ただのグロテスクな死体にしか見えなかった。
「イヤァ キモチワルイッ!」
母しぃは自分の手についたベビしぃの返り血を憎々しく睨みつけた。
「このベビちゃんのオカアサンですね?ベビちゃんは数時間前、
家に押し入ってきた強盗に殺されてしまったんですよ。」
「…エッ…?」
「ベビーシッターの方が、どうにか強盗を取り押さえようとしたんですがね…。
彼は胸を刺されて病院に運ばれました。あぁ、命に別状は無いんですがね。」

次の日。
彼は母しぃから支払われた入院費と、
紹介所から支払われた今回の給料を銀行で確かめた後、叔父に電話をかけた。
「もしもし?…うん。今回はありがとう。え?…あぁ。アイツからも支払われてた。
……で、どうなった?…ハハハ。しぃらしくて良いんじゃないの?…今日?
今日はモナーの所に行くんだ。」
彼はじゃあね。と言うと電話を切った。
母しぃは警察が帰った後、子供を壁に叩きつけたとして
家に乗りこんできた近所の人間によって暴行を加えられ、病院送りになったという。
彼は「ざまあみろ。」と呟いた。
あんなわがままでどうしようもないベビしぃをしつける事もせずに、
好き放題をさせ、自分に迷惑をかけさせていた罰だと彼は思った。
「さぁ、そろそろ行くかな。」
彼は「刺された事になっている腹」を撫でると、軽く伸びをして歩き出した。
そろそろ見えてくる路地を右手に曲がれば今回の依頼者の家だ。
家の前では、小さなモナーがこちらに向かって手を振っているのが見える。
「おおーい!」
彼の顔は、昨日までの殺伐とした顔から、
子供を優しく世話するベビーシッターの顔になっていた。
側に寄って来たモナーを優しく抱き上げて、高い高いをする。
(もう、ベビしぃの世話はゴメンだよ。)
彼は、はしゃぐ小さなモナーを顔を見ながら、誰にとは言う事もなしに呟いた。
「何して遊ぼうか?」
「一緒に飛行機飛ばして欲しいモナー!」
小さなモナーは彼の手を引っ張ると、嬉しそうに駆け出した。

彼は優しいベビーシッター。
今日も子供の世話をする。

 
                          終了

著者:ななしつき